統葉護可汗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

統葉護可汗漢音:とうようこかがん、拼音:Tŏngyèhùkĕhàn、? - 628年)は、西突厥可汗射匱可汗の弟。統葉護可汗(トン・ヤブグ・カガン)というのは称号で、姓は阿史那氏、名は不明。

生涯[編集]

中国史書による記述[編集]

618年619年頃、射匱可汗が亡くなると、弟の統葉護が立って大可汗となる。統葉護可汗は智謀があり、武勇に優れ、遂に北の鉄勒を併合し、西の波斯サーサーン朝)を拒み、南の罽賓(けいひん)と境を接するまでになり、西域に覇を唱えた。西域の諸国王は頡利発(イリテベル:官名)の官位を授かり、統葉護可汗は吐屯(トゥドゥン:官名)1人を派遣して統括させ、その征賦を監督した。旧烏孫の地に拠り、可汗庭(首都)を石国の北の千泉に移した。

武徳2年(619年)2月、聊城で竇建徳宇文化及を攻めて、これを斬り、その首は突厥義成公主のもとへ送られた。7月、統葉護可汗と高昌はともにに遣使を送って朝貢した。

武徳3年(620年)3月、ふたたび統葉護可汗と高昌王の麴伯雅は唐に遣使を送って朝貢し、突厥は條支の巨鳥(巨卵)・獅子の革を貢納した。

武徳5年(622年)春、東突厥が飢餓に遭って弱っていることを聞いた唐は、統葉護可汗と共に東突厥を討った。その年の冬、統葉護可汗は東可汗の頡利可汗と和睦した。

武徳9年(626年)、統葉護可汗は唐に遣使を送って請婚した。高祖はこれを許可し、高平王の李道立を西突厥に派遣して返事を伝えた。すると統葉護可汗は大喜びし、翌年の貞観元年(627年)、また使者の真珠統俟斤を遣わして、万釘宝鈿金帯・馬五千匹を献上した。しかし、東突厥が毎年唐の辺境を侵すので、唐~西突厥間の道が遮断され、結婚は果たされなかった。

時に統葉護可汗は自国が強盛であるのを自負し、支配下の国に恩がなく、部衆は怨みを抱き始め、遂に歌邏禄(カルルク)種の多くがこれに離反した。そうした中、貞観2年(628年)、統葉護可汗は伯父(諸父)の莫賀咄に殺され、可汗位を簒奪されてしまう。太宗は統葉護可汗の死を聞き、甚だこれを追悼した。

[1]

アルメニア史料による記述[編集]

当時、アルメニアen:Marzpanate Armenia期と呼ばれ、東ローマ帝国サーサーン朝の支配下に分断されていた。以下の記録は、共に東ローマ帝国側の歴史家(西洋史)であるセベオス英語版モヴセス・カガンカトヴァツィ英語版による。

アルメニアの歴史家セベオス英語版の伝えるところによれば、サーサーン朝東ローマ帝国と戦争になると619年に30年ぶりに西突厥大ホラサーン(en)のトゥースに攻めこみ第二次ペルソ・テュルク戦争英語版がおこった。初戦で撃退された西突厥軍は援軍を要請し、可汗は30万の援軍を送った。Datoyan王子の守るトゥース要塞を落し、エスファハーンまで進軍して撤退を開始した。バグラトゥニー朝英語版のSmbatは、東ペルシアで兵を集め、撤退途中の西突厥軍の指揮官を殺した。その結果、西突厥軍の統制が失われ、バグラトゥニー軍からさらに大損害を被った。

アルメニアの歴史家モヴセス・カガンカトヴァツィ英語版によれば、ビザンチン・サーサーン戦争英語版への介入戦争である第三次ペルソ・テュルク戦争英語版627年 - 629年)が南コーカサスデルベントを包囲した。次いで東ローマ帝国とハザールの連合軍はトビリシを陥落させた。裏で行なわれていたニネヴェの戦い (627年)英語版が中東の軍事バランスを変えたことによってイスラーム教徒のペルシア征服633年 - 644年)が成功した。この介入戦争が世界史に与えた影響は非常に大きなものである。

[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 旧唐書』本紀第一、列伝第百四十四下、『新唐書』列伝百四十下

参考資料[編集]

  • 旧唐書』(本紀第一、列伝第百四十四下)
  • 新唐書』(列伝百四十下 突厥下)