エスファハーン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| エスファハーン اصفهان Esfahān |
|||
|---|---|---|---|
Shah Mosqueの入り口 |
|||
|
|||
| 愛称 : "Nesfe Jahan (Half of the world)." | |||
| 座標 : | |||
| 行政 | |||
| 国 | |||
| 州 | エスファハーン州 | ||
| 市 | エスファハーン | ||
| 市長 | Morteza Saqaeian Nejad | ||
| 地理 | |||
| 面積 | |||
| 市域 | 279km2 | ||
| 標高 | 1,574m | ||
| 人口 | |||
| 人口 | (2007年現在) | ||
| 市域 | 1,657,901人 | ||
| 人口密度 | 5,942人/km2 | ||
| その他 | |||
| 等時帯 | IRST (UTC+3:30) | ||
| 夏時間 | UTC+4:30 (UTC+4:30) | ||
| 公式ウェブサイト : http://www.isfahan.ir/ | |||
エスファハーン、あるいはイスファハーン( اصفهان , Eşfahān, Isfahan) は、イランの都市。エスファハーン州の州都。テヘランの南約340kmに位置し、人口は2,540,000人(2000年時点)で、イランで3番目に大きい都市である。日本の報道機関ではイスファハンと表記される。
サファヴィー朝の時代に首都に定められ発展した。有名なイマーム・モスクなどがあるイマーム広場は、ユネスコにより世界遺産に登録されている。
目次 |
[編集] 歴史
紀元前からの歴史を有する。ザーヤンデルード川の豊富な水量に支えられた周辺地域の農業生産力と、イラン高原北部とイラク、ペルシア湾岸の港湾都市地域を結ぶ交通の要衝として古代から発展した。664年、正統カリフ・ウマルの治世にアブドゥッラー・ブン・フザイルによって征服されてから、イスラム帝国の支配下に入った。
11世紀前半、ブワイフ朝の君主アラーウッダウラのもとで市壁が築かれ、おおよそこの市壁に沿って街が発展した。11世紀後半よりセルジューク朝のトゥグリル・ベク以来、セルジューク朝本家の根拠地としてその支配下で繁栄する。
1194年にセルジューク朝最後の君主トゥグリル3世がホラズム・シャー朝のテキシュに敗れるとホラズム・シャー朝の支配に下った。モンゴル帝国軍に敗れてインドへ逃亡したジャラールッディーンがイランに帰還した時、兄弟たちやモンゴル軍との戦闘などのためエスファハーンを拠点として各地へ転戦している。
ジャラールッディーンの死後、ほどなくイラン北部に侵攻していたモンゴル軍に1244年に征服され、イルハン朝時代には中部イランの主要地方都市のひとつとなった。14世紀半ばのイルハン朝崩壊前後の混乱時代にヤズドを根拠地とするムザッファル朝の傘下に入り、1386年にはティムールが、1414年にはシャー・ルフによって2度のティムール朝軍の破壊を受けている。モンゴル帝国とティムール帝国の攻撃を受けて一時停滞した。
16世紀末、1597年にサファヴィー朝のアッバース1世によって都に定められると、大規模な市街改造が進められた。「王の広場」を中心として様々な建造物も建設され、当時の繁栄は「エスファハーンは世界の半分」と賞賛された。西洋の商人もこの街を訪れ、その繁栄の記録を残している。18世紀前半にアフガン人によってサファヴィー朝が滅ぼされると、街の人口は減少へと向かった。
[編集] エスファハーンと名づけられた旋律
イラン古典音楽はバヤーテ・エスファハーン(Bayāt-e Esfahān, エスファハーン風、エスファハーン様式のバヤートの意)と名付けられた旋律の一群を持つ。
[編集] 見所
- イマーム広場
- アリ・カプ宮殿
- シャー・ モスク
- ヴァーンク教会(エスファハーン及びイラン国内在住のアルメニア人コミュニティーのためのアルメニア使徒教会の聖堂。1655年完成)
- 金曜モスク
- スィー・オ・セ橋
- ハージュー橋
- チェヘル・ソトゥーン宮殿
- マスジェデ・シェイフ・ロトフォッラー
[編集] 関連項目
- セパハンFC(エスファハーンを本拠地とするサッカークラブ)
[編集] 姉妹都市
[編集] 外部リンク

