ムザッファル朝

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ムザッファル朝
イルハン朝
インジュー朝
1314年[1]/18年[2] - 1393年 ティムール朝
ムザッファル朝の位置
ムザッファル朝の最大支配領域
首都 ヤズドシーラーズ
スルターン
1314年 - 1358年/59年 ムバーリズッディーン・ムハンマド
1358年/59年 - 1384年 シャー・シュジャー
1384年 - 1387年 ザイヌル・アービディーン
1387年 - 1393年 シャー・マンスール
変遷
ヤズドの支配権の獲得 1318年/19年
シーラーズの占領 1353年
アッバース家カリフの権威を承認 1354年/55年
ティムールへの従属 1387年
滅亡 1393年

ムザッファル朝ペルシア語: مظفریان‎ - モザッファリヤン)は、14世紀イランに存在していたアラブ系国家[3][4]。イラン中央部のヤズドからケルマーンシーラーズに至る地域を支配していた[4]

歴史[編集]

王朝の創始者であるムザッファル家の人間はイスラームの征服の際にホラーサーン地方に移住したアラブ人だったが、モンゴル帝国のホラーサーン征服後にヤズドに移住した[5]。ヤズド移住後のムザッファル家は現地を統治するアタベク政権に仕えていたが、シャラーフッディーン・ムザッファルはイルハン朝アルグンに臣従し[5]、ヤズド近郊のメイボドの代官に任命された[1]

シャラーフッディーンの子であるムバーリズッディーン・ムハンマドは、イルハン朝の宮廷で養育された。ファールス地方を支配するインジュー家のカイ・ホスローとヤズドのアタベク・ハージー・シャーが対立した時、ムバーリズッディーンはカイ・ホスローの要請に応じてハージー・シャーを破る。ヤズドのアタベク政権が消滅した後、1318年[6]19年[7]にムバーリズッディーンはイルハン朝の君主アブー・サイードからヤズドの長官に任じられる。アブー・サイードの死後にイルハン朝が衰退するとムバーリズッディーンはチョバン朝と同盟し[8]1340年にチョバン朝からケルマーンの支配権を与えられる[7]。ムバーリズッディーンはヤズド、ケルマーンの支配権を巡ってインジュー朝のシャイフ・アブー・イスハークと戦い、1350年から1352年までの間に3度にわたるインジュー朝の攻撃を撃退した[9]。ムバーリズッディーンは貨幣からチョバン朝が擁立した傀儡のハン、一時的に宗主権を認めていたインジュー朝の君主の名前を削り、1351年/52年に支配者の名前が入れられていない貨幣を鋳造して自立の意思を表明する[10]

1353年にムバーリズッディーンはインジュー朝の統治下に置かれていたシーラーズを征服する。1354年/55年にムバーリズッディーンはエスファハーンの遠征を実施し、進軍中にファールス地方の山岳地帯を支配するシャバーンカーラ国を滅ぼす。エスファハーン遠征の同時期にムバーリズッディーンはカイロアッバース家バイア(忠誠の誓い)を行い、金曜礼拝で読み上げられるフトバと貨幣にカリフの名前を刻み、スルターンを自称した[11]。ムバーリズッディーンはエスファハーンに逃れたアブー・イスハークを捕殺し、インジュー朝を支配下に組み込んだ。1358年/59年[12]にムバーリズッディーンはキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)の支配下にあるアゼルバイジャンに遠征を行うが、ジャライル朝シャイフ・ウヴァイスが領内に進軍している報告を受けて撤退する。遠征の帰還後、ムバーリズッディーンの長子であるシャー・シュジャーはムバーリズッディーンを廃位し、シャー・シュジャーがムザッファル朝の君主の地位に就いた[13]

即位したシャー・シュジャーはシーラーズを本拠地とし、ケルマーンには兄弟のアルバクフとスルターン・イマードッディーン・アフマドが、エスファハーンにはシャー・マフムードが、ヤズドには甥のシャー・ヤフヤーが割拠していた。シャー・シュジャーは、治世の初期をそれらの親族との抗争に費やさなければならなかった[14]。シャー・シュジャーの弟のシャー・マフムードはムバーリズッディーンの廃位に協力したが、シャー・シュジャーの即位後に兄弟の仲は悪化し、シャー・マフムードはジャライル朝と同盟してシャー・シュジャーと戦った[13]1375年にシャー・マフムードが没するとシャー・シュジャーの状況は好転し、シャー・シュジャーはイラン北西部への進出を計画する[14]。ムザッファル軍はアゼルバイジャン遠征で勝利を収めたが、シーラーズで反乱が起きたために退却を余儀なくされる[14]。また、シャー・シュジャーの長子ザイヌル・アービディーンとジャライル朝の王女との婚姻が予定されていたが、ジャライル朝の攻撃によってスルターニーヤを喪失した[14]。シャー・シュジャーは甥のシャー・マンスールに勝利を収めることができないまま、1384年に没する。シャー・シュジャーの治世にムザッファル朝の支配領域は最大に達し[8]、在位中に東方で勢力を拡大するティムール朝に忠誠を誓った[15]

シャー・シュジャーは生前にザイヌル・アービディーンを後継者に指名していたが王権は不安定な状態に置かれており[16]、シャー・シュジャーの死後にムザッファル朝の領土は王族によって分割された[17]1387年ティムールへの臣従を拒絶したザイヌル・アービディーンは彼からの攻撃に晒される[15]。ティムールの兵士に抵抗したエスファハーンの住民は虐殺され、降伏したシーラーズにはティムールの代官が派遣された[18]。同年にキプチャク・ハン国のトクタミシュがティムールの本拠地であるマーワラーアンナフルに侵入したため、ティムールはイランから撤退する[19]

ティムールの撤退後、シャー・マンスールはエスファハーンとシーラーズを奪回し、シャー・ヤフヤーを廃位した[19]1392年にムザッファル朝は再びティムールの攻撃を受ける。シャー・マンスールが中心となってティムールに抗戦したが敗北し、シャー・マンスールは戦死した。ムザッファル家の17人の王族は投降したが、1393年5月にムザッファル家の王族はティムールによって処刑される[16]。ザイヌル・アービディーンと彼の兄弟であるスルターン・シェブリは助命されてサマルカンドに移送され、平穏な余生を送った[16]

文化[編集]

シーラーズに建てられたシャー・シュジャーの墓

ムバーリズッディーン・ムハンマド治下のシーラーズでは厳格な統治が敷かれ、民衆は不満を抱いていた[20]。詩人のハーフェズはムバーリズッディーンの政策を風刺し、彼の元に仕官しようとはしなかった[1]。ムバーリズッディーンの跡を継いだシャー・シュジャーの時代のシーラーズには開放的な空気が流れ、学者は国から保護を受けることができた[21]。シャー・シュジャーから保護を受けた学者の一人に、法学者のサイイド・シャリフ・アル=ジュールジャーニーが挙げられる。ペルシア文学史上に名前を遺したハーフェズはシャー・シュジャーの友人であり、また彼から保護を受けていた[21]。シーラーズに住んだ風刺詩人のウバイド・ザーカーニーはインジュー朝滅亡後にシャー・シュジャーの宮廷に出仕した[22]

ムザッファル朝期のイランでは、建築物の外壁をタイルで装飾する技法の基礎が確立された[23]。数色のタイルを使ったモザイクにより、装飾文字、複雑な幾何学文様や草花をあしらったアラベスクが表現され、1325年に建立されたヤズドの金曜モスク、1350年頃に建立されたケルマーンの金曜モスクの表面はタイルによって彩られている[23]。ムザッファル朝期のタイル装飾は、後の時代のイランの公共建設物の多くに共通する特徴として残った[23]

歴代君主[編集]

脚注[編集]

イランの歴史
イランの歴史
エラム
ジーロフト文化英語版
マンナエ
メディア王国
ペルシア帝国
アケメネス朝
セレウコス朝
アルサケス朝
サーサーン朝
イスラームの征服
ウマイヤ朝
アッバース朝
ターヒル朝
サッファール朝
サーマーン朝
ズィヤール朝
ブワイフ朝 ガズナ朝
セルジューク朝 ゴール朝
ホラズム・シャー朝
イルハン朝
ムザッファル朝 ティムール朝
黒羊朝 白羊朝
サファヴィー朝
アフシャール朝
ザンド朝
ガージャール朝
パフラヴィー朝
イスラーム共和国
  1. ^ a b c 『ハーフィズ詩集』、372頁
  2. ^ 杉山「ムザッファル朝における支配の正統性」『史林』89巻5号、78頁
  3. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』6巻、386頁
  4. ^ a b ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、54頁
  5. ^ a b 杉山「ムザッファル朝における支配の正統性」『史林』89巻5号、77頁
  6. ^ 杉山「ムザッファル朝における支配の正統性」『史林』89巻5号、80頁
  7. ^ a b ドーソン『モンゴル帝国史』6巻、385頁
  8. ^ a b 杉山「ムザッファル朝における支配の正統性」『史林』89巻5号、72頁
  9. ^ 『ハーフィズ詩集』、371-372頁
  10. ^ 杉山「ムザッファル朝における支配の正統性」『史林』89巻5号、82頁
  11. ^ 杉山「ムザッファル朝における支配の正統性」『史林』89巻5号、90頁
  12. ^ 岩武昭男「ムバーリズッディーン・ムハンマドの廃位」『人文論究』47巻3号収録(関西学院大学, 1997年)、85-87頁
  13. ^ a b ドーソン『モンゴル帝国史』6巻、388頁
  14. ^ a b c d ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、58頁
  15. ^ a b ラフマナリエフ「チムールの帝国」『アイハヌム 2008』、68頁
  16. ^ a b c ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、60頁
  17. ^ ドーソン『モンゴル帝国史』6巻、389頁
  18. ^ ラフマナリエフ「チムールの帝国」『アイハヌム 2008』、68-69頁
  19. ^ a b ラフマナリエフ「チムールの帝国」『アイハヌム 2008』、70頁
  20. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、57頁
  21. ^ a b ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、59頁
  22. ^ 黒柳恒男『ペルシア文芸思潮』(世界史研究双書, 近藤出版社, 1977年9月)、212頁
  23. ^ a b c ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、56頁
  24. ^ 『ハーフィズ詩集』、374頁

参考文献[編集]

  • 杉山雅樹「ムザッファル朝における支配の正統性」『史林』89巻5号収録(史学研究会, 2006年)
  • C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』6巻(佐口透訳注, 東洋文庫, 平凡社, 1979年11月)
  • ルスタン・ラフマナリエフ「チムールの帝国」『アイハヌム 2008』収録(加藤九祚訳, 東海大学出版会, 2008年10月)
  • フランシス・ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』(月森左知訳, 小名康之監修, 創元社, 2009年5月)
  • 『ハーフィズ詩集』(黒柳恒男訳, 東洋文庫, 平凡社, 1976年12月)