ムザッファル朝
ムザッファル朝(ムザッファルちょう)は、14世紀に現在のイランにあったスンニ派のイスラム王朝。首都はシーラーズ。
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[編集] 歴史
[編集] 創始
1335年、イルハン朝の君主アブー=サイードが死去し、彼に嗣子が無かったためにアリクブケ家の亡命王族の子孫であるアルパ・ケウンが直後に廷臣たちに推されて即位したものの程無く殺害され、フレグ系の嫡流が断絶して同王朝が実質的に滅亡してしまった。このため、国内ではチョバン朝やジャライル朝などのイルハン朝の有力諸侯家がフレグ系の傍流王族を擁立しての対立・紛争が相次ぎ、イラン・イラク地方は群雄割拠の状態になった。このような中でムバーリズッディーン・ムハンマドはジャライル朝などの勢力下で本拠地であったヤズド地方を中心に近隣のケルマーン地方などの長官職(ハーキム)を得るなど徐々に勢力を蓄えていた。やがてジャライル朝が内紛で一時勢力を減退しはじめると、イルハン朝などのモンゴル勢力を権威を見限って自立を試み始めた。ムハンマドは1357年にファールス地方を支配していたインジュー朝を滅ぼしてイランにおける勢力を拡大するなどした。
[編集] 内紛
だが、内治では恐怖政治を行なって民衆の不満を招き、さらに後継者争いも引き起こして結果的に息子のシャー・シュジャーによって廃された。
シャー・シュジャー時代には内紛が起こり、またジャライル朝の英主・シャイフ・ウヴァイス1世の侵攻を受けて王朝は衰退する一方だった。シャー・シュジャーの没後も内紛が続いた。
[編集] 滅亡
1387年にはティムール帝国君主のティムールによる侵攻を受けて王朝は壊滅的打撃を受け、実質的に王朝はティムールの属国と化した。
1392年、王族の残党がティムールに対して蜂起する。しかしティムールの追討を受けてあっさりと鎮圧されて王族は粛清され、1393年にムザッファル朝は終焉を迎えた。
[編集] 文化
イラン中央部を支配したムザッファル朝は建築物の外観を色鮮やかなタイルで覆い尽くす方式への移行が見られる。第2代君主の時代には詩人のハーフィズや学者のサイイド・シャリフ・アル・ジュールジャニーが庇護されて文化的に王朝は全盛期を迎えた。
[編集] 歴代君主
- ムバーリズッディーン・ムハンマド(1336年 - 1359年)
- シャー・シュジャー(1359年 - 1384年) - 先代の息子
- ザイヌル・アービディーン(1384年 - 1387年) - 先代の息子
- シャー・ヤフヤー(1387年 - 1391年) - 先代の従弟
- シャー・マンスール(1391年 - 1393年) - 先代の弟
[編集] 関連文献
- フランシス・ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』(創元社.2009年5月)