タタール

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タタールタタール語: Татарлар, Tatarlar、タタルとも)は、北アジアモンゴル高原から東ヨーロッパリトアニアにかけての幅広い地域にかけて活動したモンゴル系テュルク系ツングース系の様々な民族を指す語として様々な人々によって用いられてきた民族名称である。

タタールと呼ばれる人々の実態は多様であり、その名が用いられる時代と場所によって指し示す民族は異なる。

現在では、ロシア連邦内のヴォルガ川中流にあるタタールスタン共和国に住むヴォルガ・タタール人(カザン・タタール人)、ウクライナ領のクリミア自治共和国に住むクリミア・タタール人ベラルーシリトアニアおよびポーランドに住むリプカ・タタール人などが自称の民族名としてタタールを称する。中国の少数民族のひとつタタール族(塔塔拼音: tătăĕrzú )は、中国領に住むヴォルガ・タタール人のことである。

語源は古テュルク語で「他の人々」を意味した Tatar(タタル)で、伝統的にはもっぱら、中国語では韃靼(ダーダー、拼音: dádá )、アラビア語ではتتر(タタル)、ペルシア語では تاتار (タータール)、ロシア語では Татар(タタール)、西ヨーロッパの諸言語では Tartar(タルタル)と呼ばれてきた。日本では、古くは中国から伝わった韃靼(だったん)を使っていたが、現代ではロシア語風にタタールと呼びかえることが一般的である。

目次

[編集] 概要

タタル(Tatar)という語は、テュルク系遊牧国家である突厥(とっけつ)がモンゴル高原の東北で遊牧していた諸部族を総称して呼んだ他称であり、テュルク語で「他の人々」を意味する。その最古の使用例は突厥文字で記した碑文(突厥碑文)においてであり、「三十姓タタル(オトゥズ・タタル、Otuz Tatar)」や、「九姓タタル(トクズ・タタル、Toquz Tatar)」という集団が登場する。このうちの三十姓タタルは中国史書に記されている室韋(しつい)に比定されている。まもなく中国側もテュルク語のタタルを取り入れ、『新五代史』や『遼史』において「達靼」,「達旦」などと表記したが、これは他称ではなく、彼らの自称であるという。

やがてタタルと自称する人々は時の支配者であるモンゴルに従属してヨーロッパ遠征に従軍したため、モンゴルよりも先にヨーロッパの人々にその名を知られ、モンゴル帝国の遊牧騎馬民族全体が「タルタル(Tartar)」と呼ばれるようになり、その土地名も「モンゴリア(モンゴル高原)」という語が定着するまでは「タルタリー」と呼ばれた。中でもロシア語の「タタール(Татар)」はよく知られているが、ロシアはヨーロッパの中で最も長くモンゴル(タタール人)の支配を受けた国であり、ロシア人にとって「タタールのくびき (татарское иго)」という苦い歴史として認識されている。

モンゴル帝国の崩壊後も東アジアで「タタル」の語は使われ続け、中国側から「韃靼」として記されている。この韃靼はかつての達靼(タタル部)ではなく、北元の後継勢力であるモンゴル人を指しているため、使い方としてはヨーロッパと類似している。

以上のように、「タタル」という呼び名は突厥碑文の「オトゥズ・タタル(三十姓タタル),トクズ・タタル(九姓タタル)」という他称に始まり、そこから派生したタタル部(達靼)が自称するようになるが、同じく派生したモンゴル部が巨大なユーラシア帝国に成長すると、モンゴル人がヨーロッパ,中国から「タルタル、韃靼」と他称された。また、後にロシア領となるジョチ・ウルスのモンゴル人およびテュルク化したモンゴル人は「タタール」と呼ばれたため、その子孫であるテュルク系ムスリムは今もなお「タタール人」と自称している。

[編集] モンゴル帝国以前のタタール

[編集] 三十姓タタルと九姓タタル

8世紀の『ホショ・ツァイダム碑文(キョル・テギン碑文)』に、「バイカル湖の東岸方面のクリカン(骨利幹)とシラムレン川のキタン(契丹)の間に、オトゥズ・タタル(三十姓タタル)がいた」と刻まれたように、突厥の時代から室韋は三十姓タタルと呼ばれていたのであるが、一方で『シネ・ウス碑文』などに「トクズ・タタル(九姓タタル)」という集団がセレンゲ川下流近くに居住していたことも記されている。九姓タタルと三十姓タタルとの関係はわかっていないが、九姓タタルが三十姓タタルと同じ起源であるとすれば、これも室韋から分かれた集団であると推測できる。しかしながら、『新五代史』に記されている「達靼(たつたん、タタル)」は「靺鞨の遺種」と記されており、室韋の後身とは記されていない。

860年代に九姓タタルは回鶻(ウイグル)を滅ぼした黠戛斯(キルギス)を撃退し、オルホン川流域に割拠した。13世紀にモンゴルが強大になるまでモンゴル高原の支配部族であったケレイト王家はおそらく九姓タタルの後身である可能性が高い[1]

一方で室韋の旧地に残っていた三十姓タタルは、かつて九姓タタルが住んでいたセレンゲ川上流域や、ケルレン川上流にまで住地を広げ、13世紀に活躍するモンゴルやタタルといった部族の起源となる。

[編集] タタル部

13世紀の東アジア諸国と北方諸民族。

回鶻(ウイグル)滅亡後のモンゴル高原中央部で黠戛斯(キルギス)の遊牧国家が倒れるとタタル諸部族は南下を開始し、モンゴル高原の中部から東部に広く分布するようになった。高原の東南に遊牧していたキタイ(契丹)がを建国するとこれらの遊牧諸部族は遼の支配を受け、ときに遼に反抗しながら部族の興亡を続けるが、この時期に台頭したケレイト部,ジャライル部などと並ぶ有力部族のひとつにタタルを自称とするタタル部があった。隋唐時代に存在した室韋民族の後身で、オルホン碑文に刻まれた「三十姓タタル(Otuz Tatar)」の一派であると考えられている。11世紀のマフムード・カーシュガリーの『テュルク語集成』にも、タタール(Tatār)は、東ローマ帝国(al-Rūm)から中国(al-Ṣīn)の地までに広がるテュルクの一部族としてキプチャクオグズ、キルギス(Qirqiz)などとともに述べられているが、これらとの関係は不詳である。

タタル部は12世紀に遼に取って代わったと結んでモンゴル部のアンバガイ・カンを殺したためモンゴル部の恨みを買い、12世紀末にモンゴル部の部族長となったチンギス・カンが勃興するとモンゴル部によって滅ぼされた。やがてチンギス・カンがモンゴル高原のモンゴル系・テュルク系遊牧諸部族を統合してモンゴル帝国が興ると、かつてのタタル部も勢力は振るわなかったもののモンゴル帝国を構成するモンゴル部族連合に所属する一部族として存続した。

元朝秘史』によれば、タタル部族は13世紀初頭にはアルチチャガンドタウトアルクイと呼ばれる4氏族の名がある。一方、『集史』ではトトクリウトを筆頭に同じくアルチ、チャガンの他にクインテレイトバルクイの計6氏族が数えられている、モンゴル高原でも有数の部族集団であった。

『集史』ではチンギス・カンのオルドの管理を行っていた最有力の大ハトゥンが第一皇后ボルテを含め五名いたことが述べられているが、うち第五皇后イェスルンおよび第三皇后イェスゲンの姉妹はトトクリウト・タタル氏族の首長イェケ・チェレンの娘たちであった。チンギス・カンの養子としてホエルンらに養育されたシギ・クトクやクリ・ノヤンなど、タタル部族は氏族それぞれがチンギス・カン家の各王家で有力な部将や姻族として政権の中枢を担った。

[編集] タタル系諸種族

以下のものはコンスタンティン・ムラジャ・ドーソンの著書『チンギス・カンよりティムール・ベイすなわちタメルランに至るモンゴル族の歴史』[2]に記されているタタル系の諸種族である。

  • ジャライル(札剌亦児)…オノン川付近に住み、10の大きな分派に分かれている。
    • ジャアト
    • タクラウン(トクラウト)
    • クンカサウン(クンカサウト)
    • クムサウト
    • ウヤト
    • ビルカサン(ニルカン)
    • クゲル(クルキン)
    • トランキト
    • ブリ(トリ)
    • シンクウト(シヤンクウト)
  • スニト
    • カイルン(カプタルン)
  • タタル(塔塔児)…ブイル湖付近に住み、6つの部族に分かれている。
    • トトカリウト(トドクリウト)
    • イルチ(アルチ、アンチ)
    • チャガン
    • クイン
    • テラト(テレイト?)
    • ベルクイ(バルクイ、テルクイ)
  • メルキト(滅里乞)…ウドユト、ウドイト(兀都亦愓)とも呼ばれ、4つの部族に分かれている。
    • オホズ(ウワズ、兀洼思)
    • ムダン
    • トダクリン
    • ジウン
  • ケルルウト(クルラウト)
  • オイラト(斡亦剌)…数部に分かれ、イェニセイ河のケム川を構成する8川(ゴク、オン、カラ、セディ、アクライ、アカ、チュルチェ、チャガン)流域に住む。
  • バルグト(タルグト?)
  • クルガチン(ブラガチン)
  • ケルムチン(ケレムチン)
  • ウラスト
  • テレングト
  • ケスティミ
  • ウリヤンギト
  • クルカン
  • サカイト
  • ケレイト(克烈)…5つの部族に分かれる。
    • トンカイト(コンカイト)
    • チルキル(ジュルキン)
    • サキアト(サカイト)
    • トゥマイト(トゥマウト、トベエン?)
    • エリアト(アルバト)
  • ナイマン(乃蛮)…最も人口が多く、広大な領域に住んでいた。
  • オングト(汪古)…中国の長城(タタル語でオングウ)付近に住んでいた。
  • タングート
  • テクリン(ベクリン、メクリン)

[編集] 東ヨーロッパのタタール

ヨーロッパキリスト教世界の中でももっとも東に位置し、恒常的にテュルク系の遊牧民と接触していたルーシ(現在のロシア・ウクライナ<※当時は、北東ルーシのノヴゴロド公国ウラジーミル・スーズダリ大公国や南西ルーシのハールィチ・ヴォルィーニ大公国など10以上のルーシ(諸侯)が分裂・割拠していた>)は1223年にモンゴル帝国の最初の襲撃を受け、1237年にはバトゥ率いる征西軍の侵攻を受けて、ノヴゴロド公国以外は全てモンゴルの支配下に入った。ルーシの人々は、おそらく周囲にいたポロヴェツなどのテュルク系遊牧民が東方のモンゴル系遊牧民たちをタタルと呼んでいたのにならって、彼ら東からやってきた遊牧民たちをタタールと呼んだ。

バトゥの征西で大被害を受けたルーシは、続けてバトゥがヴォルガ川下流に留まって建国したキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)の支配下に入り、モンゴルへの服従と貢納を強制された。モスクワ大公国が1480年に貢納を廃止し、他地域も独立するまで約200年前後にわたって続くことになる、このモンゴル=タタールによる支配のことをロシア史では「タタールの軛(くびき)」(モンゴルのルーシ侵攻#タタールのくびき)と呼ぶ。

キプチャク・ハン国のモンゴル人たちはやがて言語的にはテュルク語化、宗教的にはイスラム教化してゆく。15世紀にはキプチャク・ハン国は再編と解体が進んでクリミア半島クリミア・ハン国、ヴォルガ川中流域にカザン・ハン国、西シベリアシビル・ハン国などが生まれるが、これらの地域ではかつてのモンゴル系支配者と土着のテュルク系などの様々な人々が混交し、現在クリミア・タタール、ヴォルガ・タタール、シベリア・タタールと呼ばれるような民族が形成されていった。タタールの中には、ロシアやルーマニアに移住して、キリスト教を受け入れて現地に同化する者も多く現われており、ユスポフ家カンテミール家など有力な貴族となった家もある。

ロシアは、16世紀頃までに「タタールの軛(くびき)」を脱するが、その後もクリミアやヴォルガ、シベリアなどに広く散らばるテュルク=モンゴル系の人々をタタールと呼んだ。ロシア帝国18世紀までにこれらのタタールはほとんど全てを支配下に置く。

ロシア治下のタタールのうち、ヴォルガ川中流域のカザン周辺に住むヴォルガ・タタール(カザン・タタールともいう)が経済的・文化的に成長し、ロシア領内のムスリム(イスラム教徒)中で最大の共同体へと発展していった。ロシア・ソビエト連邦ではさまざまな民族に分かれたタタールたちをまとめてタタール民族として扱っていたが、それらのうちでタタールの自治共和国を持つことができたのはヴォルガ・タタール人のみであった。このため、ロシア領を話題とする多くの文脈で、単にタタール人といったときも、狭義にはヴォルガ・タタール人を指していることが多い。

[編集] 西ヨーロッパのタタール

バトゥの征西はポーランドからハンガリーまで達し、ルーシのみならず西ヨーロッパ・カトリック圏にも大きな衝撃を与えているが、西ヨーロッパの人々は、ロシア語のタタールという名をさらにギリシャ語で地獄の住民を意味するタルタロスに重ね合わせ、モンゴル人たちをタルタル人と呼んだ。そしてモンゴル帝国以来、中央ユーラシア、中央アジア、北アジアの諸民族をタルタル人と呼ぶ言い方が長く残ることになる。

例えばモンゴル高原や北アジアは、19世紀まで西ヨーロッパの人々によってタルタリーと呼ばれており、その地の住民であるモンゴル系、テュルク系の遊牧民たちはタルタル人、タルタリー人と呼ばれつづけていた。17世紀に中国でを立てた満州人はツングース系の非遊牧民であるが、彼らもヨーロッパ人にはタルタル人の一種とみなされていた。近代に中央ユーラシアの諸民族に関する知識がヨーロッパの人々に根付くにつれ、タルタルの名は使われなくなっていくが、その名残は現代において払拭されてはいない。例えば、ヴォルガ・タタール人などのタタールの名を関する民族が英語圏で言及されるとき、Tatars ではなく Tartars と綴られることもしばしばである。延いては黄禍論の淵源と見なしうる。

[編集] 東アジアのタタール

モンゴル帝国の諸政権のうち中国とモンゴル高原を支配したは、1368年に北へ逃れて北元となったが、やがて1388年クビライの直系のハーンが殺害されてクビライの王統が断絶し、モンゴル高原東部の諸部族がオイラト部族連合を形成してモンゴル部族連合から分裂した。

こうしてクビライ王統断絶後のモンゴル高原では、モンゴル系の遊牧諸部族がモンゴルとオイラトの2大集団に分かれて対立するが、中国のではこのうちのモンゴルを元以来の呼称である「蒙古」で呼ぶのをやめ、かつてのモンゴル系遊牧民の総称であった「韃靼」と呼ぶことになった。このため明代に記された史料や明朝の正史明史』では、モンゴルは韃靼の名で記録されている。日本では、明代の表記に従って、伝統的に明代モンゴルのことを韃靼、あるいはタタールと呼んだ。この名称の変化から、当時のモンゴル高原の形勢であるモンゴルからのオイラトの分立とモンゴル・オイラトの対立が、モンゴル部族連合がタタールとオイラトへ分裂し、対立したとして誤って理解されることも多い。

モンゴルと自称する集団が韃靼と呼ばれるようになった明代でも、モンゴル高原の東に住む女真(のちの満州人)はモンゴルのことをMongo(モンゴ)と呼びつづけていた。のちに明に代わって満州人が立てたは韃靼の名称を採用せず、モンゴルの漢字表記は「韃靼」から「蒙古」に戻った。

日本では江戸時代頃は北アジアの諸民族を漠然と「韃靼」と呼んでおり、清を立てた満州人のことも韃靼人と呼んで蔑視していた。中国や朝鮮では、女真・満州を含めて北方の諸民族のことを「韃虜」「韃子」などと蔑称することがあった。

なお、現代の中国において少数民族の一つとして認定されているタタール族は、18世紀以降にロシアから移住したタタール人の子孫であり、上述の韃靼とは無関係である。

[編集] 脚注

  1. ^ 宮脇淳子『モンゴルの歴史 遊牧民の誕生からモンゴル国まで』p41
  2. ^ 日本語題は『モンゴル帝国史』

[編集] 参考資料

[編集] 関連項目


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