ミーラーン・シャー

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ミーラーン・シャー1366年 - 1408年)は、ティムール朝の王族。

出自・家系[編集]

ティムール朝の創始者であるティムールの3男。母はティムールが傀儡とした西チャガタイ・ハン国君主のソユルガトミシュの娘のオルンで側室か愛妾とされる。

兄にジャハーンギールウマル・シャイフがおり、弟にシャー・ルフ(第3代君主)がいる。子はハリール・スルタン(第2代君主)とムハンマド・ミルザがおり、アブー・サイード(第7代君主)は孫にあたる。ミーラーンの家系は王朝分裂後はサマルカンド政権を形成し、政権滅亡後に4代孫のバーブルによってムガル帝国に引き継がれた。

生涯[編集]

父との亀裂・反乱[編集]

幼い頃から智勇兼備で知られており、ティムールからの信任も厚かった。そのため1380年には15歳の若さでクルト朝攻略戦争に従軍し、1381年には父の命令で別動隊を与えられてヘラート攻略で功績を立てた。これによりホラーサーンを所領として与えられる。1386年からの3年戦役にも従軍した。

1391年ジョチ・ウルストクタミシュと会戦したクンドゥズチャの戦いにも従軍し、一隊の将として勝利に貢献した。1392年からの5年戦役にも従軍した。

1393年、父の命令で領地がホラーサーンからアゼルバイジャンに変更された。アゼルバイジャンは宿敵であるジョチ・ウルスの最前線であり、実質的には左遷に近かった。これに関してはティムールの正嫡子であったミーラーン・シャーの長兄であるジャハーンギールが1376年に早世したため、ティムールはジャハーンギールの息子のピール・ムハンマドを後継者にしようとしていたが、智勇に優れ年齢的にも申し分の無いミーラーンがいては災いになると考えての処置とされる。またミーラーンがホラーサーンで次第に独自の勢力を築きつつあり、近隣諸国と独自外交を行なうなどしていたことから謀反を警戒したためともされる。

この処置により、ティムールとミーラーンの仲には亀裂が走る。1397年にティムールがピール・ムハンマドを正式に後継者として指名すると、不満を蓄積していたミーラーンはティムールのサマルカンド領への貢納を拒否するなどの反抗に出た。そして1399年には遂にアゼルバイジャンで反乱を起こした。しかし兵力では劣勢であり、ミーラーン自身も父から王朝西部の統治を任されていながら、オスマン朝に圧迫されていた諸侯に対して冷淡な措置をとっていたために呼びかけに応じる諸侯はほとんど無く、反乱はあっけなく鎮圧された。ティムールは我が子を処断するのはためらいがあったのか、太守からの解任で済ませているが、その代わり側近の多くを処断されて事実上は権力を削減される結果となった。

二度目の反乱[編集]

1405年にティムールが死去する。ティムールの生前の取り決めでは嫡孫のピール・ムハンマドが後継者とされていたが、これに不満を抱いていたミーラーンは彼の後継を認めず、彼の部下と通じて遂には謀殺に及んだ。そして後継者には自らの息子であるハリール・スルタンを擁立する。

しかしハリールはサマルカンドで失政を重ね、またミーラーンの弟であるシャー・ルフはハリールの後継を認めずにミーラーンと対立に及ぶ。父に反乱を起こして力を半ば失っていたミーラーンはシャー・ルフに対抗するためにサマルカンドに移ろうとしたが、シャー・ルフに進軍を妨害されて及ばず、その失意から病に倒れて1408年に43歳で死去。

ミーラーンの死でハリールは力を完全に失い、翌年にシャー・ルフによって廃されることになった。