バハードゥル・シャー2世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索
バハードゥル・シャー2世
即位式の様子を描いた絵

バハードゥル・シャー2世Bahadur Shah II, 1775年10月24日 - 1862年11月7日)は、ムガル帝国の第17代皇帝(在位:1837年 - 1858年)。実父である先帝アクバル・シャー2世の死をうけて即位し、1858年イギリスの裁判にかけられてミャンマーに配流された。ムガル帝国最後の皇帝である。

目次

[編集] 生涯

[編集] イギリスの介入の本格化

1837年、バハードゥル・シャー2世は62歳の高齢で帝位を継承したが、この頃すでにムガル王朝の権力はデリー周辺にしか及ばず、インド内部はそれ以外の各地で地方勢力や欧州列強が入り乱れる沈滞した社会となっていた。特に、1757年のプラッシーの戦いフランスからインド植民の権利を勝ち取ったイギリス東インド会社の勢力は、インド半島全域で大幅に拡大してきていた。そんな情勢の中、イギリス東インド会社は1845年から1849年にかけてシク戦争を起こしてシク教国を滅ぼし、いよいよイギリスがインド全体の支配者になろうとしていた。

[編集] セポイの乱

こうした沈滞した社会の中、東インド会社の抱える傭兵(セポイ)の間では、奇妙な噂が流れた。イギリス軍では新たにエンフィールド銃が導入され、その銃が彼らにも配給されるというのである。

これだけならばどうということもないが、そうはいかなかった。そのエンフィールド銃の薬莢の紙袋には、インドの気候でも最低3年は乾ききらないといわれていた牛と豚の脂が濃厚に塗ってあったのである。当時の弾薬は薬莢を口で噛み切らなければつかえなかったので、もしこのような銃を用いるとしたら、セポイ達は戦闘時に宗教的禁忌を犯すことになる。セポイ達は、牛を神聖な動物とするヒンドゥー教徒と、豚を不浄な動物とするイスラム教徒が多数を占める集団であり、牛や豚の油に塗れた物を口に含むという行為は、到底容認できるものではなかった。

彼らはついに怒って反乱ののろしを上げ、セポイの乱という緊急事態に至った。

蜂起したセポイたちは、1857年にデリー城を占拠して有名無実となっていた82歳の老帝バハードゥル・シャー2世を擁立し、ムガル帝国の統治復活を宣言した。ただし、バハードゥル・シャー2世自身は最初からムガル帝国の再建を企図していたではなく、反乱軍にはあまり協力的では無かった。セポイの蜂起は、一時はその勢力はインドの3分の2を巻き込む大きなものとなったが、セポイたちには統一目標も軍隊組織も無かったため、軍事組織のたて直しを行ったイギリス東インド会社によって反乱はほどなく鎮圧された。また、デリーの攻防戦の最中、バハードゥル・シャー2世はデリーを脱出しイギリスに降伏している。

1858年、反乱を鎮圧したイギリスは、バハードゥル・シャー2世を退位させ、裁判にかけて有罪としミャンマーへ流刑に処し、かくしてムガル帝国は滅亡した。なお、白髭をたくわえ、流謫地へ送られる83歳の廃帝の姿が白黒写真にて残されている。それから4年後の1862年、バハードゥル・シャー2世は流謫地ヤンゴンで死去した。

一方、イギリスはムガル帝国を滅亡させると東インド会社を解散させ、ヴィクトリア女王の直接統治によるインド帝国の成立を宣言し、1877年には正式にインド帝国が成立した。このような経緯から、インド国民という概念を誕生させたのは、皮肉にもイギリスの統治であったと解する説もみられる。

[編集] 外部リンク


個人用ツール
名前空間

変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス
他の言語