アワド太守

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アワド太守の旗
アワド太守の紋章

アワド太守(- たいしゅ、英語:Nawab of Awadh)とは、ムガル帝国の北インドアワド地方(現在のガンジス川中流域、現ウッタル・プラデーシュ州東部を指す)の地方長官、つまり太守(ナワーブ)のことである。アウド(Oudh)とも呼ばれるが、これは英語の読みである。首府はファイザーバードラクナウ(ラクノー)。

設置[編集]

アワド地方の位置

「アワド」という名前の由来は、ラーマ神誕生の地「アヨーディヤー」に由来し、古来より数々の王朝がこの肥沃な地を領有した。

13世紀以降、デリー・スルタン朝の支配下でも重要な地域であり、14世紀末から15世紀末にかけては、一時デリーから独立したジャウンプル・スルタン朝が栄えた。

16世紀後半以降、アワドはムガル帝国の一州となり、ベンガルと同じように肥沃な土地を持った重要な州として、帝国の一部を形成した。

アワド地方政権(アワド王国)[編集]

独立[編集]

サーダット・アリー・ハーン1世
ファイザーバードの王城

1707年、ムガル皇帝アウラングゼーブの死後、ムガル帝国では反乱が相次ぎ、その広大な領土は徐々に解体されていき、イラン系貴族であるアワド太守サーダット・アリー・ハーンもまた、帝国に見切りをつけようとしていた。

サーダット・アリー・ハーンは、アウラングゼーブの部下で親衛隊長の一人で、1722年に皇帝ムハンマド・シャーによりアワド太守に任命された人物であり、ムハンマド・シャーもサーダット・アリー・ハーンに「ブルハーン・アルムルク」の称号を与え重用されていた。

だが、1724年、サーダット・アリー・ハーンは遂にムガル帝国に見切りをつけ、アワドで実質的に独立し、事実上この地域は帝国の領土ではなくなった。

辞典などでは、成立したこの国家を、1724年から滅亡した1856年までを一貫して「アワド王国」としているが、正式にムガル帝国から独立したのは1819年で、それまでは帝国の主権を認めて、皇帝の名で硬貨を発行しており(これは1818年まで)、文献によっては王国とは呼ばない場合もあるので、ここではこの国家は「地方政権」として扱う。

同年には、宰相のアーサフ・ジャー(ニザーム・アルムルク)もデカンハイダラーバードで独立し、ニザーム王国を樹立し、ムガル帝国はアワドやハイダラーバードの独立にもなす術がなく、帝国はその解体に歯止めが利かなかった。

初代サーダット・アリー・ハーン1世(在位1724 - 1739)は、首都ファイザーバードや国家の発展に力を入れ、1739年3月19日に死亡した。

アワドの春[編集]

サフダル・ジャング
アフマド・シャー
サフダル・ジャング廟

サーダット・アリー・ハーン1世の死後、後を継いだのは「アワドの名君」として名高い、甥のサフダル・ジャング(在位1739 - 1754)だった。

サフダル・ジャングは清廉の士として有名で、彼は生涯でたった一人の妃しか愛さず、アワドの軍隊は非常に規律が取れており、当時はムガル帝国マラーター同盟マイソール王国カルナータカ地方政権などの諸国の軍隊が、略奪集団と化していたのを見れば、その水準が高度だったことがわかる。

サフダル・ジャングの治世は、マラーターの侵入を食い止め、農業生産も上がりアワドが繁栄した時期でもあり、その治世は「アワドの春」と呼ばれ、19世紀以降にアワドが疲弊したとき、人々はその時代を惜しんだという。

1748年、ムガル帝国は南下するアフガニスタンドゥッラーニー朝に領土を侵略され脅かされ、サフダル・ジャングは皇帝ムハンマド・シャーの要請で、アワド軍をムガル帝国軍の援軍とし、帝国の領土からドゥッラーニー朝アフガン軍を退けた。

また、同年4月、ムハンマド・シャーの死後、後を継いだ皇帝アフマド・シャーによって、サフダル・ジャングはムガル帝国の宰相に任じられた。彼はデリー(現ニューデリー)の領地に邸宅を構え、そこからムガル帝国の宮廷に出仕した。

これにより、サフダル・ジャングはアワドの世襲をムガル帝国に認めさせ、アワド地方の支配とその正当性を確立した。

だが、1750年代、サフダル・ジャングは彼を中心とするイラン系貴族と、軍務大臣ガーズィー・ウッディーン(フィーローズ・ジャング2世)や、後宮監督官ナワーブ・ジャウド・ハーンといったトルコ系貴族との争い巻き込まれた。

1752年8月、サフダル・ジャングはナワーブ・ジャウド・ハーンを、10月にはガーズィー・ウッディーンを暗殺したが、その息子ガーズィー・ウッディーン(フィーローズ・ジャング3世)などとの争いに敗れ、1753年5月13日に彼は宰相職を辞して、帝都デリーからアワドに引き上げた。

1754年5月、サフダル・ジャングはアフマド・シャーに味方して、シカンダラーバードの戦いに参加したが大敗し、同年10月5日に失意のうちに死亡したのち、デリー(現ニューデリー)の彼の領地に建てられたサフダル・ジャング廟に埋葬された。

現在、ニューデリーにはサフダルジャング通りサフダルジャング病院インド帝国時代に建てられたサフダルジャング空港など、彼の名を冠した建築物が多数ある。

第3次パーニーパットの戦いとブクサールの戦い[編集]

シュジャー・ウッダウラ
シュジャー・ウッダウラとその家族

サフダル・ジャングの死後、息子のシュジャー・ウッダウラ(在位1754 - 1775)がアワド太守を継いだ。

1761年1月第3次パーニーパットの戦いにおいて、マラーター同盟軍とドゥッラーニー朝アフガン軍が対決した時、シュジャー・ウッダウラは毎年のようにマラーターがアワドを襲撃していたことから、アフガン王アフマド・シャー・ドゥッラーニーに味方し、アフガン軍に物資や食糧を提供した。

また、シュジャー・ウッダウラは長期戦に苦しむマラーター同盟軍の補給路を断ち、マラーター同盟軍の物資供給を滞らせ、これが勝負に決定的な影響をもたらし、マラーター同盟軍は第3次パーニーパットの戦いにおける長期戦に耐え切れなくなり敗北した。

同年、シュジャー・ウッダウラはイギリスに敗れ、アワドに逃げてきたムガル帝国の皇帝シャー・アーラム2世を保護し、1762年2月15日、彼はシャー・アーラム2世により帝国の宰相に任じられた。

1763年末、イギリス東インド会社と対立しベンガルを追われアワドに逃げてきた、前ベンガル太守ミール・カーシムも保護し、もとの状態に戻れるよう援助を約束し、ムガル皇帝シャー・アーラム2世、アワド太守シュジャー・ウッダウラ、前ベンガル太守ミール・カーシムの間に三者同盟が結成された。

三者はまずミール・カーシムの為にベンガルを取り戻すことを決定し、1765年10月23日三者連合軍40000はビハールとアワドの境にあるブクサールबक्सर バクサルとも)で、イギリス東インド会社の軍7000と会戦した(ブクサールの戦い英語版)。

しかし、前ベンガル太守軍は給料未払いで兵士に戦意がなく、皇帝軍は内通者があり兵が動かなかったため、実際はアワド太守の軍とイギリス東インド会社軍との戦いであり、戦いは1日で終結し、結果はイギリスの圧勝であった。

その後、イギリスはアワド太守シュジャー・ウッダウラにミール・カーシムを捕えさせ投獄し、翌1765年8月16日、イギリスのベンガル知事ロバート・クライヴは戦後処理として、アラーハーバード条約英語版を締結した。

アワド太守シュジャー・ウッダウラはこの条約において、アラーハーバードなど年額280万ルピーの価値のある土地を会社に割譲させ、ムガル皇帝シャー・アーラム2世に与えた。

また、会社は一連の賠償とは別に、アワドに賠償金500万ルピーを課し、これと同時にアワドの崩壊が始まった。

ロヒラ戦争[編集]

シュジャー・ウッダウラ

1764年の敗戦以降、アワドはしだいにイギリスに従属するようになっていき、1772年にマラーター勢力がアワドの保護していたロヒルカンド地方を侵略し、アワド太守シュジャー・ウッダウラはイギリス東インド会社に援助を求めた。

ロヒルカンドとは、現ウッタル・プラデーシュ州北西部のことで、ムガル帝国の皇帝アウラングゼーブの死後、アフガン系ロヒラ族が支配していたためこう呼ばれ、ロヒラ族はマラーターの侵入の撃退のためにアワドと協定を結び、その撃退の代償として400万ルピーの支払いを約束していた。

こうして、1773年9月7日、アワドとイギリスの間にヴァーラーナシー条約(ベナレス条約)が締結され、アワド領にイギリス東インド会社の軍隊が駐留することとなり、その費用月額21万ルピーはすべてアワド側の負担とされた(このヴァーラーナシー条約はイギリスが藩王国化する際の条約とにたものであり、1773年がアワドの藩王国化した年とする場合もある)。

その後、アワドはイギリスの援助により、マラーター勢力をロヒルカンドから駆逐したが、ロヒラ族は約束された支払いの履行に応じなかったため、1774年にアワドはイギリスの援助のもとロヒルカンドに侵略し、ロヒルカンドのほぼ全域をアワド領に併合した(ロヒラ戦争)。

アワドが徐々にイギリスに従属していくなか、1775年1月26日、シュジャー・ウッダウラは死亡した。

ラクナウ遷都と発展[編集]

アーサフ・ウッダウラ
ワズィール・アリー・ハーン

シュジャー・ウッダウラの死後、息子のアーサフ・ウッダウラ(位1775 - 1797)が後を継ぎ、同年にアワドの首都をファイザーバードからラクナウ(ラクノー)に遷都した。

アーサフ・ウッダウラは、アワドの王宮、市街地、ルーミー・ダルワーザーといったトルコ門、シーア派の記念館イマーム・バーラーを建造するなど、新都ラクナウに独自のイスラーム文化を取り入れ、素晴らしい都市となった。

アワドの君主は様々な文化を保護したため、アワドでは独自のイスラーム文化が培われ、働き口が無くなったムガル帝国の画家をよく雇用して、アウラングゼーブの治世に衰退したムガル絵画の復興も行われ、ムガル帝国の様々な絵画が主体となった。

アーサフ・ウッダウラもムガル絵画にとても理解を示し、彼はベンガル総督にいくつかのムガル絵画を献上している。

アワドは衰退したムガル帝国の後を継ぎ、「アワドのムガル時代」といわれるような素晴らしい文化が作り上げられ、ムガル帝国の首都デリーを凌駕する繁栄だった。

また、イギリスから流入しもたらされたヨーロッパ風の絵画も、アワドでは大いに受け入れられ、のちの君主のたちは西洋風の肖像画を描かせている。

1797年9月21日、アーサフ・ウッダウラは死亡し、息子ワズィール・アリー・ハーン(在位1797 - 1798)が後を継いだ。

アワドの藩王国化[編集]

サーダット・アリー・ハーン2世

アーサフ・ウッダウラの死後、ワズィール・アリー・ハーンは公然とイギリスに反抗したが、そのような行為はアワドにさらなる介入を招くだけだった。

イギリスは宮廷内の派閥対立を利用し、翌1798年1月21日にワズィール・アリー・ハーン退位させ、アーサフ・ウッダウラの弟サーダット・アリー・ハーン2世(在位1798 - 1814)が新たな君主となった。

だが、その後もイギリス東インド会社軍への駐留費は増額されてゆき、1801年11月10日、サーダット・アリー・ハーン2世はその駐留費の滞納を理由に、ロヒルカンド地方、カーンプルバラクプルアーザムガルなどの都市を含んだ下ドアーブ地方など、アワドの約半分の領土をイギリスに割譲させられた。

これにより、アワドの中心地から東西の肥沃な土地が割譲され、アワドはかつてない減収に苦しみ、結果的に地方豪族であるタールクダール(ムガル帝国の土地所有者単位のひとつ。アワドではザミーンダールなどの領主は、一括してタールクダールとして扱われた。)への依存を強めた。

こうして、アワドは完全にイギリスに従属する「藩王国」の地位に落とされた(アワド藩王国)。

滅亡[編集]

ガーズィー・ウッディーン・ハイダル
ワージド・アリー・シャー

1818年10月19日、アワドの君主ガーズィー・ウッディーン・ハイダル(在位1814 - 1827)は、「アワド王(Padshah-e Awadh)」を宣し、自らの名で貨幣を鋳造するようになり、1819年10月8日にムガル帝国から正式に独立を宣言して、アワド王国となった(ここからアワドの君主は、「太守」ではなく「王」として扱われ、王を意味する「シャー」を名乗ったが、太守を意味する「ナワーブ」の称号も併用した)。

しかし、当然ながら、イギリスに従属する藩王国であることに変わりはなく、かねてからの莫大な駐留費の支払いから財政窮乏を招いており、イギリスはマイソール戦争マラーター戦争シク戦争など、事あるごとに出費を求めた。

そのうえ、19世紀になると、藩王は贅沢三昧に明け暮れ、農村は荒廃し、それらを管轄するはずのタールクダールも土地をめぐり、中央の命令を無視して武装割拠するなどしたため、王権は衰退した。

1856年初頭、インド総督ダルフージーは、アワド藩王国の藩王の堕落、内政紊乱(いわゆる悪政)、統治能力なしを理由に内政権をすべてイギリスに委譲するように迫ったが、アワド側は拒否したため、彼はアワド藩王国を併合することを決定した。

こうして、同年2月13日、アワド藩王国は正式に英領に併合され、最後の王ワージド・アリー・シャー(在位1847 - 1856)は、カルカッタに強制送還された(ワージド・アリー・シャーはカルカッタへ強制送還されたのち、そこで年金受領者として暮らし、1887年9月1日に死亡した)。

こうして、11代132年続いたアワドのナワーブ王朝は、その歴史に幕を閉じ、全住民はイギリスの管理下におかれることとなった。

インド大反乱におけるアワド[編集]

ラクナウ攻防戦(インド大反乱)
ハズラト・マハル
ビルジース・カドラ


アワドからはシパーヒー(インド人傭兵、セポイとも)が数多く出ており、アワド藩王国の取りつぶしに対しては、その大半がイギリスに不満を持ち、激怒した(19世紀、インドはイギリスの植民地と化していたが、それでも国家や地域に対するナショナリティまでは失われていなかった)。

事実、アワド出身のシパーヒーはイギリスの北インドの駐屯地に多数おり、イギリスの直轄地であるベンガル管区のシパーヒーの3分の1はアワドの出身者で占められていた。

1857年5月10日、シパーヒーがデリー近郊のメーラトの町で反乱を起こし、翌11日にデリーに入城してムガル帝国の統治復活を宣言し「インド大反乱」が起きると、イギリスによる前年の併合に不満だったアワドのシパーヒーもすぐさま呼応した。

アワドの王家でも、ワージド・アリー・シャーの王妃ハズラト・マハルが息子ビルジース・カドラをアワド王とし、シーア派の貴族やタールクダールを率いて蜂起した。

そのため、アワドの首都ラクナウや旧都ファイザーバードなどは反乱の中心となり、アワドはインド大反乱において最大の激戦地となった。

同年9月、イギリスにデリーが占領され、反乱軍最高指導者であるムガル皇帝バハードゥル・シャー2世をはじめとするその親族などが降伏したのちも、アワドの反乱は依然として続いていた。

しかし、反乱が劣勢となると、アワドの反乱軍の中心だったタールクダール達は、イギリスに懐柔されたり降伏するものもあらわれ、そういった反乱勢力の内部不統一などにより、1858年3月21日にアワドの首都ラクナウも激戦の末陥落し、王妃ハズラト・マハルと息子のビルジース・カドラは捕えられ、ネパールの首都カトマンドゥに送還された。

だが、首都ラクナウ陥落後も、アワド地方では農民などの反乱は続いたが、1858年までに大反乱は一応終息を迎えている。

しかし、20世紀前半の独立闘争の結果、1947年にイギリスの支配を脱したインドでは、かつてのインド大反乱やその英雄が再評価されるようになり、ハズラト・マハルもまた大反乱の英雄の一人として再評価され、1962年にウッダル・プラデーシュ州において、彼女の名前を冠した「ハズラト・マハル公園」が設立された。

歴代君主[編集]

ナーシルッディーン・ハイダル
ムハンマド・アリー・シャー
アムジャド・アリー・シャー
  • サーダット・アリー・ハーン1世(Saadat Ali khan I, 在位1724 - 1739)
  • サフダル・ジャング(Safdar Jang , 在位1739 - 1754)
  • シュジャー・ウッダウラ(Shuja ud-Daula, 在位1754 - 1775)
  • アーサフ・ウッダウラ(Asaf ud-Daula, 位1775 - 1797)
  • ワズィール・アリー・ハーン(Wazir ali Khan, 在位1797 - 1798)
  • サーダット・アリー・ハーン2世(Saadat Ali khan II, 在位1798 - 1814)
  • ガーズィー・ウッディーン・ハイダル(Ghazi-ud-Din Haidar, 在位1814 - 1827)
  • ナーシルッディーン・ハイダル(Nasir-ud-Din Haidar, 在位1827 - 1837)
  • ムハンマド・アリー・シャー(Muhammad Ali Shah, 在位1837 - 1842)
  • アムジャド・アリー・シャー(Amjad Ali Shah, 在位1842 - 1847)
  • ワージド・アリー・シャー(Wajid ali Shah, 在位1847 - 1856)

参考文献[編集]

  • 「新版 世界各国史7 南アジア史」 山川出版社 辛島昇
  • 「世界歴史の旅 北インド」 山川出版社 辛島昇・坂田貞二
  • 「インド史」 法蔵館 P・N・チョプラ
  • 「近代インドの歴史」 山川出版社 ビパン・チャンドラ
  • 「ムガル皇帝歴代誌」創元社 フランシス・ロビンソン
  • 「南アジアの歴史」 有斐閣アニマ 内藤雅雄 中村平治
  • 「ブリタニカ国際百科事典」株式会社ティービーエス・ブリタニカ
  • 「南アジアを知る事典」平凡社
  • 「アジア歴史事典」(全10巻+別巻)平凡社
  • 「世界史事典 三訂版」旺文社

外部リンク[編集]

関連項目[編集]