ヤーダヴァ朝
ヤーダヴァ朝(- ちょう、Yadava dynasty)とは、12世紀末から14世紀初頭にかけてインドのデカン地方、現マハーラーシュトラ州を中心に存在したヒンドゥー王朝(9世紀 - 1317年)。9~12世紀まではセーヴナプラを本拠としていたため、セーヴナ朝(Sevuna dynasty)とも呼ばれる。首都はデーヴァギリ(デーオギリともいう)。
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歴史 [編集]
後期チャールキヤ朝からの独立と繁栄 [編集]
先祖は後期チャールキヤ朝の封臣(諸侯)で、9~12世紀まではセーヴナプラを本拠としていた。12世紀末、ビッラマ5世(在位1173 - 1192)は、後期チャールキヤ朝が王位継承争いで衰退しているのに乗じて、デーヴァギリで独立した。
後期チャールキヤ朝のソーメーシュヴァラ4世によって、カリヤーニの実権を握っていたカラチュリ家が滅ぼされるとと、1185年にソーメーシュヴァラ4世を攻撃して、これをカリヤーニから追放するのに成功した。しかし、ソーメーシュヴァラ4世に止めをさしたホイサラ朝のバッラーラ2世に撃退され、チャールキヤ領の南側は確保できなかった。
シンガナ2世(在位1200 - 1247)のときに全盛で、北方はナルマダー川、南方は、トゥンガバドラー川流域、東方はゴールコンダ付近までとほぼデカン高原一帯を支配した。
ヤーダヴァ朝の君主たちは学芸の保護者であったが、とくにシンガナ2世の孫、マハーデーヴァ(在位1261 - 1270)のときに、有力な大臣ヘーマドリが、自ら経典の注釈を多数著し、また多くの寺院を造らせて、ヘーマドリ様式とまで呼ばれる荘重で外面に彫刻を施さないという特色をもつ建築様式がうまれたことで知られる。
ハルジー朝による属国化と滅亡 [編集]
1296年、ハルジー朝のアワド州長官であったアラー・ウッディーン・ハルジーはヤーダヴァ朝の首都デーヴァギリを攻撃し、ヤーダヴァ王ラーマチャンドラ(在位1271 - 1311)にハルジー朝への貢納を約束させ、多くの戦利品を持ち帰った。
やがて、ラーマチャンドラはしだいに貢納を怠るようになったので、すでにスルタンになっていたアラー・ウッディーンは、1307年にマリク・カーフールを遣わしてヤーダヴァ朝の首都を落とし、ラーマチャンドラを捕虜としてデリーへ連行した。
アラー・ウッディーンと面会したラーマチャンドラが臣従を約束すると、ハルジー朝は「ラーイ・ラーヤーン」の称号を彼に与え、王の象徴でもある金色の天蓋と多額の下賜品を贈って帰国を許した。これは、ヤーダヴァ朝にとって壊滅的な打撃となり、ラーマチャンドラの娘の一人がアラー・ウッディーンにとつぐなど同盟者の形式はとったが、事実上ハルジー朝支配下の属国となった。
1311年、ラーマチャンドラが死ぬと王位継承争いが起こり、シャンカラデーヴァ(在位1311)の短い治世ののち、その弟のハラヴァーラデーヴァ(在位1311 - 1317)が継ぐが、1312年にマリク・カーフールによって王位継承争いが鎮圧されなければならないほどヤーダヴァ朝の力は衰えていた。
1316年、ハルジー朝のアラー・ウッディーンがなくなると、子のクトゥブッディーン・ムバーラク・シャーがデリーのスルタンを継ぎ、1317年にデーヴァギリを攻撃、ヤーダヴァ朝を完全に滅ぼしてその領土を併合した。
そののち、1327年にトゥグルク朝のムハンマド・ビン・トゥグルクは、デーヴァギリを「ダウラターバード」と改称して、デリーから遷都している。
歴代君主 [編集]
※記述なしの君主は、上に記された君主の子であることを示す。
- ビッラマ5世(Bhilama V, 在位1173 - 1192)
- ジャイトギ(Jaitugi, 在位1192 - 1200)
- シンガナ2世(Singhana II, 在位1200 - 1247)
- クリシュナ(Krishna, 在位1247 - 1261)(シンガナ2世の孫)
- マハーデーヴァ(Mahadeva, 在位1261 - 1270)(クリシュナの弟)
- アーマナ(Amana, 在位1271)
- ラーマチャンドラ(Ramachandra, 在位1271 - 1311)(クリシュナの子)
- シャンカラデーヴァ(Shankaradeva, 在位1311)(シンガナ3世(Singhana III)とも)
- ハラパーラデーヴァ(Halapaladeva, 在位1311 - 1317)(シャンカラデーヴァの弟)
参考文献 [編集]
- 『アジア歴史事典』9(ム~ワ) 貝塚茂樹、鈴木駿、宮崎市定他編、平凡社、1962年
- サティーシュ・チャンドラ/小名康之・長島弘(訳)『中世インドの歴史』, 山川出版社, 1999年 ISBN 463467260X
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