チャンデーラ朝

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カジュラホ、ラクシュマナ寺院
カジュラホ、ヴィシュバナータ寺院
カジュラホのパールシュバナータ寺院のシカラ(塔)


チャンデーラ朝とは、10世紀前半から13世紀末まで北インドマディヤ・プラデーシュの東部、ブンデルカンド地方にあった王朝。この王朝は、「月」から生まれたクシャトリアの家系とする伝承をもつラージプートの王朝であることと、世界遺産にもなっているカジュラホの寺院群を築いたことで世界的に知られる。

チャンデーラ家の台頭と独立[編集]

9世紀初め、ナンヌカという人物がブンデルカンド地方の支配者となり、しばらくプラティハーラ朝の封臣[1]としてデカン地方などから侵入してくる勢力と戦い続けてきたが、チャンデーラ家台頭の契機となったのは、まさしく916年から17年に行われたラーシュトラクータ朝インドラ3世(位915年~927年)の「北伐」であった。この「北伐」によって、プラティハーラ朝の首都カナウジは陥落し、プラティハーラ王マヒーパーラ1世は、ナンヌカの玄孫にあたるハルシャ(位900年~925年)の助けを得てようやく王位を回復するといった状態であった。さらに940年頃、再びラーシュトラクータ朝クリシュナ3世(位939年~966年)がカラチュリ家とも同盟して侵攻してきた。このときプラティハーラ朝は、カーランジャラを失ったが、チャンデーラ家のヤショーヴァルマン (Yasovarman / Lakshavarman、位925年~950年)がカーランジャラを奪還したことによって、自立する契機となった。またヤショーヴァルマンのときに首都カジュラホヴィシュヌ神にささげる宮殿として、ラクシュマナ寺院ドイツ語版を建設したことが知られている[2]10世紀後半のダンガ王 (位950年頃~1008年頃?)のときに碑文にプラティハーラ家を宗主とする記述を刻まなくなり、事実上独立することとなった。

チャンデーラ朝の全盛と衰退[編集]

ダンガ王は、1002年にヴィシュヌバナータ寺院を建設し、後にパールシュバナータ寺院を建設している。ダンガ王の子であるガンダ王(位1002年頃?~1017年頃?)の治世にもカジュラホの西グループにチトラグプタ寺院とデーヴィー・ジャガダンバー寺院が建設された。ヴィディヤーダラ王(位1004年?/1017年?~29年)のとき、パラマーラ朝のボージャ王の攻撃に打ち勝ち、カラチュリ朝の攻撃を退けるなど勢威を示した。また、カジュラホの西グループに11世紀初めに建設されたシヴァ神の住みかとされるカイラス山を模したカンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院は、王の手によるものと推定されている。

1018年には、ガズナ朝マフムードが侵攻してきて、プラティハーラ王ラージャヤパーラが首都カナウジから逃亡する事件があったが、その際にヴィディヤーダラは、封臣のカッチャパガータ家のアルジュナに命じて、敵におびえて逃亡し、王国をムスリムにむざむざ差し出したかどで[3]ラージャパーラを殺させた。しかし、ヴィディヤーダラ自身もマフムードにかなう状態ではなく、1019年の戦いに敗れて領内の略奪をゆるし、1022年に、カーランジャラを包囲されたときには、300頭の象を献上してあっさり降伏し、貢納する代わりに統治権を認めてもらうことで和睦している。

ヴィディヤーダラの来孫で8代後のパラマルディン王のときにゴール朝シハーブッディーン・ムハンマド麾下の将軍アイバクによって、1203年までにカーランジャラとマホーバーが攻撃され、陥落した。1205年にトライローキヤヴァルマンによって全盛期にはとても及ばないもののブンデルガンド地方の小勢力としてある程度の勢力回復がなされ、1309年ハルジー朝アラーウッディーン・ハルジーによって滅ぼされるまで続いた。

脚注[編集]

  1. ^ サーマンタといい、「従属王」(subordinate ruler)とも訳される。有力な王朝の君主の宗主権を認める一方で、自らの領地の統治権を認めてもらい、サーマンタ間も有力な者に限って、「マハーサーマンタ・アデイパティ」の称号が与えられるなど、宗主権をもつ主君との間にこまかく称号によってその地位の上下関係が定められていた。また、主君である有力王朝の君主とサーマンタたちとの関係は、父と子である兄弟たちと位置付けられ、その有力王朝を支えるためにサーマンタは、主君に領地の統治権や保護を受ける代わりに、主君に従って戦闘に参加する義務と貢納の義務があった。(cf. 山崎、小西編2007,p.215~218)
  2. ^ この寺院の建設年代は、945年ごろと考えられている。
  3. ^ この理由については、イスラム教徒の歴史家イブン・アルアシールの著した『完史』に記述されている(山崎、小西編2007,p.210)。

参考文献[編集]