マラーター同盟

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マラーター同盟
मराठा साम्राज्य
ムガル帝国 1674年 - 1818年 インド帝国
マラーター帝国の国旗
(国旗)
マラーター帝国の位置
黄色がマラータ同盟の版図、1760年代。
公用語 マラーティー語
首都 ラーイガル英語版
後にプネー
チャトラパティ
1674年 - 1680年 シヴァージー
面積
2,800,000km²
人口
1700年ごろ 1億5千万人
変遷
マラーター王国建国 1674年4月21日
マラーター同盟結成・独立 1708年
滅亡 1818年9月21日
通貨 ルピーパイサ

マラーター同盟(マラータどうめい、1708年1818年)は、中部インドデカン高原を中心とした地域に、マラーター王国の宰相(ペーシュワー)を中心に結成されたヒンドゥー教徒のマラーター族の封建諸侯の連合体。18世紀にムガル帝国の衰退に乗じて独立し、一時はインドの覇権を握ったが、18世紀末~19世紀初頭の3次にわたるイギリスとのマラーター戦争英語版で滅亡した。

歴史[編集]

マラーター王国の建国[編集]

シヴァージー

1660年前後よりデカン高原西部にて、シヴァージー(1627~1680)の率いるヒンドゥー教徒のマラーター族がムガル帝国に反乱を起こす。シヴァージーはマラーター王国(1674~1818年)を建国、長期間のゲリラ戦にてムガル帝国皇帝のアウラングゼーブを苦しめた。

1680年シヴァージーが死んで、息子のサンバージー英語版(位1680~1689)が後を継いだが、アウラングゼーブのムガル帝国軍がムスリム5王国英語版ビジャープル王国ゴールコンダ王国を滅ぼしデカンでの戦いを有利に進めていく中で、彼は1689年にムガル帝国との戦いでとらえられて、処刑されてしまった。

サンバージーが殺されてしまい、その弟のラージャラーム英語版(位1689~1700)は南インドに逃げて王国を復興しようとしたが、マイソール王国などとも争わねばならず、ムガル帝国が一時的に南端部を除く全インドを支配し、結果的に王国が復興したのは彼の死後、妻ターラー・バーイー英語版の時代だった。

マラーター同盟の独立と繁栄[編集]

バージー・ラーオ1世

1680年のシヴァージー死後に始まり27年間続いたマラーター独立戦争英語版で、マラーター王国は一時衰退したものの、アウラングゼーブが死ぬと、1708年にマラーター王国を中心として王国の有力諸侯が連合してマラーター同盟を結成し、独立した。1713年バラモンバーラージー・ヴィシュワナート英語版(位1713~1720)が宰相となって同盟を率い、これ以降マラーター王権は無力化し、宰相家が同盟を支配した。

その息子であるバージー・ラーオ1世(位1720~1740)はシヴァージーの再来といわれ、ムガル帝国の分裂と衰退に乗じてデカンからインド中部、北インド全体に勢力を伸ばし、1737年には弱体化したムガル帝国の首都のデリーを攻撃した。

さらに、バーラージー・バージー・ラーオ(位1740~1761)治世にはオリッサ、ベンガルに侵攻し、各地の王国からは貢納を取り立て、ムガル帝国の内政にも関与した。1757年マラータ同盟のインド北西部侵攻英語版パンジャーブを占領。一時はインド全域の覇者になるかと思われた。

マラーター同盟の崩壊[編集]

第3次パーニーパットの戦い

しかし、バーラージー・バージー・ラーオの治世末、1761年1月14日の第3次パーニーパットの戦い英語版で南下してきたアフガン勢力(ドゥッラーニー朝)とムガル帝国のムスリム同盟軍に大敗し、数万の犠牲者を出したことにより衰退に向かう。

バーラージー・バージー・ラーオの死後、宰相府は無力化し、これ以降同盟の有力な諸候であるナーグプルボーンスレー家英語版インドールホールカル家英語版グワーリオールシンディア家英語版バローダガーイクワード家英語版が分立した。

これらの諸侯は互いに争ったが、シンディア家が最も有力で北インドに広大な領土を有し、ムガル帝国の内政にも関与し、1784年その当主のマハーダージー・シンディア英語版はムガル帝国の宰相に任命された。

マラーター戦争と滅亡[編集]

そして、更にインド全域に勢力を伸ばすイギリス東インド会社との3度のマラーター戦争英語版が起こった。

第1次マラーター戦争[編集]

1772年宰相マーダヴ・ラーオ(位1761~1772)の没後、弟ナーラーヤン・ラーオ(位1772~1773)が継いだものの、彼は宰相位を狙う叔父ラグナート・ラーオ英語版(位1773~1774)によって殺された。しかし、1774年宰相府はラグナート・ラーオを廃位して、ナーラーヤン・ラーオの息子マーダヴ・ラーオ・ナーラーヤン英語版(位1774~1795)を宰相としために、不利になったラグナート・ラーオがイギリスに援助を求め、第1次マラーター戦争が起こった。第1次マラーター戦争英語版(1777~1783)はマラーター諸侯が優勢でイギリスが苦戦し、兵を引かざるを得なかった。

第2次マラーター戦争[編集]

第2次マラーター戦争、アッサイェの戦い英語版

13年後、1795年宰相マーダヴ・ラーオ・ナーラーヤンが自殺したため、諸侯間で宰相位をめぐる争いがおこり、ラグナート・ラーオの息子バージー・ラーオ2世英語版(位1795~1818)が宰相となった。しかし、バージー・ラーオ2世と諸侯との関係は極めて悪く、彼は諸侯との争いに敗れイギリスに援助を求め、これが第2次マラーター戦争英語版(1803~1805)の原因となった。第2次マラーター戦争では、マラーター諸侯は連携した行動をとることができず、ガーイクワード家に至っては中立を保つほどであり、イギリスはボーンスレー家、シンディア家、ホールカル家を破り、諸侯の力を削いだ。

第3次マラーター戦争[編集]

第3次マラーター戦争英語版(1817~1818)は、1817年バージー・ラーオ2世がイギリスの押しつけたプーナ条約英語版: Treaty of Poona[1])に対して戦争を起こしたことにはじまり、ボーンスレー家、シンディア家、ホールカル家といったマラーター諸侯も味方したが次々に破れ、1818年バージー・ラーオ2世も降伏した。こうして、バージー・ラーオ2世は廃位されて領土を奪われ、マラーター同盟は滅亡し、デカンはイギリス東インド会社の直接支配下に入り、諸侯の領土は藩王国に編成された。

マラーター滅亡後[編集]

なお19世紀後半には、マラーターはインド・ヒンドゥー教徒の反英民族運動の中心の1つとなり、インド大反乱(シパーヒーの乱・1857年-1859年)でもラクシュミー・バーイーナーナー・サーヒブ英語版などの反乱軍の英雄を輩出した。19世紀末のインド国民会議派の成立もマラーターの出身者が大きく関与している。

マラーター同盟の歴代宰相[編集]

脚注[編集]

  1. ^ プネーで結ばれた条約。条約名は英語読みのプーナ条約である。

参考文献[編集]

小谷汪之 「第5章_マラーターの興隆とムガル帝国の衰退」『南アジア史_2』 小谷汪之、山川出版社、2007年、pp.199-222。

関連項目[編集]