ハリール・スルタン
ハリール・スルタン(1384年 - 1411年、在位:1405年 - 1409年)は、ティムール朝の第2代君主。
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生涯 [編集]
権力の簒奪 [編集]
初代君主のティムールの三男ミーラーン・シャーの子。ティムール存命中はアルメニアとグルジアの統治を任されていた。ティムールの北インド(トゥグルク朝)遠征に従い、功績を挙げてフェルガーナ総督に任命された。
1405年にティムールが死去すると、そのカリスマ性と類稀な軍略で支えられていただけで確固たる体制が築かれていなかったティムール朝では、後継者をめぐって争いが起こった。ティムールは生前、嫡孫のピール・ムハンマドを後継者に指名していたが、ティムールの息子の多くはまだ存命しており、ムハンマド自身の権力も弱かったためにピール・ムハンマドはティムールの死後、すぐに殺された。そのため、ハリールは首都のサマルカンドを奪い取り、ティムールの後継者として新たに即位したのである。
傾国の美女 [編集]
ハリールにはシャーディ・ムルクという寵妃がいた。ハリールには彼女の言うことなら何でも聞いてしまうという悪癖があったため、彼女の進言でその縁者やお気に入りを次々と重職に取り立て、祖父時代の未亡人や重臣などに全く配慮をしなかった。しかもサマルカンドで飢饉が発生し、市民の援助も失った。1408年には後ろ盾だった父のミーラーン・シャーが死去するという不幸も重なった。
1409年5月、ハリールは兵力増強のためにアンディジャンに赴き、サマルカンドは留守となった。ヘラート太守を務めていた叔父のシャー・ルフの攻撃にあってサマルカンドは陥落し、シャーディ・ムルクは捕縛された。
ハリールは寵妃が捕らわれたことに動揺し、サマルカンドに急遽帰還した。そして妃の助命を条件にして退位を余儀なくされ、新たに即位したシャー・ルフによってライ(現在のテヘラン)の総督に任じられた。
1411年にライで急死した。28歳没。
宗室 [編集]
父母 [編集]
- 父 ミーラーン・シャー(初代・ティムールの3男)
- 母 ミングリジャク・ハトゥン(側室)
后妃 [編集]
- ジャハーン・スルタン・ビキ
- シャード・マリク・アーガー
- シャーディ・ムルク
- 他に氏名不詳の妃と宮廷の女奴隷の側室など。
子 [編集]
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- ブルグル(息子)
- ムハンマド・バハドゥール(息子)
- ムハンマド・バーキール(息子)
- アリー(息子)
- キチュク・アーガー(娘)
- シリン・ベク・アーガー(娘)
- スルタン・バディ・アル・ムルク(娘)
参考文献 [編集]
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