日本の首都

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この項では日本の首都(にっぽんのしゅと、にほんのしゅと)について記述する。

目次

[編集] 概要

首都」とは中央政府のある所、首府[1]のことであるが、日本で「首都」という語が一般化したのは第二次世界大戦後のことであり、戦前から戦後しばらくまでは帝国全体の中心都市は「帝都」と呼称した。用語面においては「主都」「主邑」(プライメイトシティ)を「首都」と記述する事例も多く[2]、明確な区別はなかった。「首都」という語の定義は、1950年昭和25年)の「首都建設法」の発布以来に同法に謳われる「首都」の意で一般的に普及している。

元来での日本の首都機能を有する「都=みやこ」は有史以来、天皇遷都宣言に基づき、天皇が御座し政治を行う地として遷都が行われてきた。794年12月4日延暦13年11月8日)に桓武天皇によって平安京(現在の京都市中心にあたる)への遷都が行われて以来、遷都に関する宣言は出されておらず、また大日本帝国憲法を始めとした旧法令や日本国憲法を始めとした現行法令のいずれにおいても、「日本の都が何処であるか」という点については謳われていない。なお、山城国大和国摂津国河内国和泉国(京都府の一部、奈良県大阪府兵庫県の一部)は併せて畿内(「畿」はかきね・門の内側。転じて、天子が直隸する帝都から五百里以内の土地を意味する)と呼ばれていた。現在でいう首都圏と同義である。

現在の「首都」は一般的に「首都建設法」(昭和25年法律第219号:廃止)内で謳われている東京都であるとされている。ただし、首都建設法1956年(昭和31年)に廃止されており、現行法規で「首都」についての直接的な表現を用いて定めるものはない[3]

また、「首都圏整備法」(昭和31年法律第83号)では、東京都首都として、東京都の区域及び政令で定めるその周辺地域(首都圏整備法施行令により、埼玉県千葉県神奈川県茨城県栃木県群馬県及び山梨県)を首都圏と定めている。

日本の現行憲法下においては「首都」を制定すべき法的要請はない。また首都を制定する法令もない。歴史的には「みやこ」が常に唯一であったわけでもなく、複都制が採られることがしばしばあった。こんにち、「東京都が唯一の首都」と慣例的にみなされる理由としては、「首都」という語が一般使用されるようになった戦後に発布された現行の日本国憲法において天皇が「象徴」として定義づけられており、その常座される都市として戦前の帝都の地位を引き継いでいる象徴的な「みやこ」とみなせること、国会(立法府)、首相官邸中央省庁(行政府)、最高裁判所(司法府)という三権の最高機関が東京都の千代田区に所在することなど、一国の中心都市とみなせる内政上の外形を備えていることが挙げられる。また国会召集詔書には国会議事堂が所在する「東京に召集する」と書かれており[4]裁判所法第6条では最高裁判所の所在地は東京都と規定されている。

また、国際的にも「東京都が日本の首都」と認識されており、教科書や地図帳にも「日本の首都は東京」としているものが多い。他国の例として、イスラエルは首都をエルサレムと宣言しているが、国連はそれを国際法に違反するとして認めておらず、多くの機関や国家はテルアビブを首都と認識している。日本の場合はこのような国際外交上の諸問題もなく、国連からは東京都が首都とみなされており、各国大使館などの外交部が常設されている。

国内の統計等では23の特別区23区)が「東京」という1都市であるかのように扱われることが多く、一般にも東京都のうち23区を東京都区部、その他の市町村を多摩地域島嶼部(いわゆる東京都下)と区別することもあるが、これは23区が旧東京市に相当することに由来するもので、現在では23区を一体とし自治権を有する行政単位は存在しない。一方、自治体としての東京都が公式に用いている「東京都」の英語の名称は "Tokyo Metropolis" ("metropolis" は首都・首府・大都市[5]、あるいは主要都市・中心市[6])で、都知事は "Governor" (知事)として国際会議に出席するなど、東京都という1つの自治体で都市の扱いになっており、対外的に23区と多摩地域や島嶼部を分離する意味はない。このように、国内的には中枢的な首都機能が集中する23区に限定して首都とすることもあるが、対外的には多摩地域や島嶼部を含めた東京都全域をもって首都とする例が多い。

2011年、当時の石原慎太郎都知事と橋下徹大阪府知事は、東京を「首都」、大阪を「副首都」とする方針で合意をした。橋下は「副首都」について「東京から行政機関を移転するということではなく、副首都を担える行政機構、都市機能を整備していくということ」と説明した[7]

[編集] 多様な首都の認識

日本では歴史上天皇による朝廷の下に、国際的には時に「日本国王」「日本国大君」とも称された征夷大将軍による幕府のような武家政権が存在したことや、東京京都両京制(東西両都)などの面から首都の議論があり、現在も法律上では「どの都市が首都であるか」という明確な定義がなされていないため、「首都は現在の首都圏にある東京である」という意見の他、「現在も京都と東京という2つの首都が並存している」「京都が正式な首都である」等、様々な首都論・首都認識がある。

[編集] 辞典による日本の首都

  • 平安遷都など歴代の遷都をそのまま首都の移動とするもの[8]
  • 1869年明治2年)に東京城(江戸城)が皇城(皇居)とされ太政官が東京に移されたことと、1871年(明治4年)に府県の順序で東京が第一とされたことで、東京が首都の地位を得たとするもの[9]

[編集] 天皇・都に注目したもの

  • 「京都も東京も帝都だが、本来首都は京都であり、東京は施政の便宜上天皇がいる場所だ」というもの[10]
  • 東西の帝都である東京と京都が並立して首都とするもの[11]
  • 江戸時代の首都は将軍の任命が行なわれた京都であり、幕府があった鎌倉江戸は首都ではなかったとするもの[12]
  • 首都移転は皇室の座所の移動(御動座)を伴うものだとするもの(1996年の橋本龍太郎内閣総理大臣国会答弁[13])。
  • 「都」としての原義は、天子の居住する集落であり、且つ、陵墓があることという説もある。(講談社 大字典)

[編集] 首都機能・武家政権に注目したもの

  • 平氏政権による福原京の計画が平安京との複都構想だったとし、また鎌倉幕府の置かれた鎌倉が、京都と首都機能を分担した事実上の複都制であるとするもの[14]
  • 江戸は政府の所在地で首都と意識されていたが、幕末に政治の中心となった京都が首都となり、更にそれが東京に移ったとするもの[15]
  • 江戸時代に江戸は政治・行政の中心と認識され、首都として機能もし、外国人も江戸を首都と認識していたとするもの。1719年享保4年)の朝鮮通信使申維翰の『海遊録』によれば、都(首都)は初め大和にあり、その後豊臣秀吉大坂に、次いで徳川家康が江戸に移したと認識されていたという[16]

[編集] 法的根拠

2011年(平成23年)現在、日本の首都を直接定める現行法令は存在しない。そこで、旧法、現行法及び慣習法の読み方によって、東京(東京都)を唯一の首都と解さない論者もいる。論争に登場する主要な立法及びその解釈について列記する。

  1. 江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書
    • 1868年明治元年)、天皇が京都から東京へ行幸するに際して発せられた「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」には、「首都」の語はない。同意ではないが、元来、首都の意味を含有していた「京」を地名に付したことから、この詔書によって、東京を京都と並び首都とすること(複都論)を定めたと解する立場[17]がある。
      • 江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書(明治元年7月17日)
    朕今万機ヲ親裁シ億兆ヲ綏撫ス江戸ハ東国第一ノ大鎭四方輻湊ノ地宜シク親臨以テ其政ヲ視ルヘシ因テ自今江戸ヲ称シテ東京トセン是朕ノ海内一家東西同視スル所以ナリ衆庶此意ヲ体セヨ
  2. 関東大震災直後ノ詔書
    • 1923年(大正12年)に発せられた「関東大震災直後ノ詔書」では、東京が首都であることを既定のこととして記載された文言が出てくる。
      • 関東大震災直後ノ詔書(大正12年9月12日)
    …抑モ東京ハ帝国ノ首都ニシテ政治経済ノ枢軸トナリ国民文化ノ源泉トナリテ民衆一般ノ瞻仰スル所ナリ一朝不慮ノ災害ニ罹リテ今ヤ其ノ旧形ヲ留メスト雖依然トシテ我国都タル地位ヲ失ハス是ヲ以テ其ノ善後策ハ独リ旧態ヲ回復スルニ止マラス進ンテ将来ノ発展ヲ図リ以テ巷衢ノ面目ヲ新ニセサルヘカラス…
  3. 東京都制
    • 1943年(昭和18年)に制定された「東京都制」(昭和18年法律第89号)は、太平洋戦争下における、いわゆる戦時法制の一つであり、その目的は「帝都たる東京に真の国家的性格に適応する体制を整備確立すること」、「帝都に於ける従来の府市併存の弊を解消し、帝都一般行政の、一元的にして強力な遂行を期すること」、「帝都行政の根本的刷新と高度の効率化を図ること」にあったといわれる[18]。この東京都制は、1947年(昭和22年)の地方自治法の施行に伴い廃止された[19]。現在、地方自治法において「都」制度は道府県制度と並び規定されているが、都制度の適用があるのは東京都を区域とする地方自治体に限定されるとは規定されていない。また、いわゆる首都の所在地の自治体に適用されるという規定もなく、例えば大阪府を「大阪都」に改めることもあり得るとされており、実際に大阪府と大阪市を合併させて「大阪都」にしようという動きもある(大阪都構想[20]
  4. 首都建設法
    • 1950年(昭和25年)には、東京都を日本の首都として新しく計画することが明確に定められた「首都建設法」が制定された。同法は、当時数多く制定された特別都市建設法の一つである。
      • 首都建設法(昭和25年法律第219号)
    第一条 この法律は、東京都を新しく我が平和国家の首都として十分にその政治、経済、文化等についての機能を発揮し得るよう計画し、建設することを目的とする。
    第十二条 東京都の区域により行う都市計画事業については、東京都が国の首都であることにかんがみて必要と認めるときは、建設省、運輸省その他その事業の内容である事項を主管する行政官庁がこれを執行することができる。(後略)
  5. 首都圏整備法(現行法)
    • 首都が東京都であることを明記した首都建設法は廃止されたが、その理由は東京都が首都でなくなったからではなく、あくまで同法の目的(首都の建設)が達成され、整備の対象を「首都」から「首都とその周辺地域」に広げるための発展的なものであり、後継法である首都圏整備法とは連続性、一体性を有するものである。そのため、別途に廃止法を制定するのではなく、首都圏整備法の附則により廃止する形を採った。そもそも首都圏とは「首都+圏(その周辺地域)」であるところ、首都圏整備法は「首都」部分を前身法で既に首都と定めた「東京都」と明確に定めることで、その変更に国会の議決を義務付け、「その周辺地域」部分は下位法令(政令)に委任することで、国会の議決なく柔軟に変更できる余地を残す形で、前身法の首都の定義を継承している。
      • 首都圏整備法(昭和31年法律第83号)
    (定義)
    第二条 この法律で「首都圏」とは、東京都の区域及び政令で定めるその周辺の地域を一体とした広域をいう。
    附則
    (首都建設法の廃止)
    4 首都建設法(昭和二十五年法律第二百十九号)は、廃止する。

[編集] 天皇居住地の変遷

歴史上における日本の首都は、天皇の居住地を都として定められた。古墳時代以降は、皇居のための宮殿御所)建設と周辺の市街地整備を一体として行い、首都にふさわしい都市を計画的に建設するようになった。

古代の頻繁な遷都や宮殿の移転・新築は、政治的な思惑の他にも建築物の耐用年数の影響が考えられる。中国風の都市計画を持ち込んだ藤原京平城京難波京平安京などでは、計画的な庶民の居住を促しても、家が掘立柱建築だったために、地下水位の高い低湿地や河川の氾濫原は居住に適さないとして放棄され、いずれも当初の計画とは異なる都市へと変化した。

飛鳥宮飛鳥時代)以前に都城は存在しない。 奈良時代に編まれた『記紀』によれば、歴代大王の宮室が磯城磐余奈良県桜井市)のほか、難波河内地方(大阪府)などに複数営まれたため、各々の宮室を中心に萌芽的な都邑が形成されていたことも考えられる。しかし、その具体的な遺構は未発見である。記紀に見える宮室については、「歴代の皇居」を参照。

なお、首都機能を経済 ・交通の面で補完する第二首都とも言うべき副都(陪都)が設けられることもある(複都制)。例としては、天武天皇難波京を始め、淳仁天皇の「北京」保良宮(滋賀県大津市、761年 - 764年)、称徳天皇の「西京」由義宮(大阪府八尾市769年 - 770年)が知られている。保良宮と由義宮は短命に終わったが、難波京は長岡京遷都まで副都の地位を保ち続けた。

平安時代末の福原京を首都とみなせるか否かについては近年議論がある[21]。首都否定論の立場からは、『平家物語』などの文学作品に語られる「福原遷都」の実態については、平氏政権が和田(神戸市)方面への遷都を目的として福原に行宮を置いたに過ぎず、それによって平安京が従来の首都機能を失った様子も特に見られないことから、建前はどうあれ、福原は京都の機能を軍事・貿易面で補完する事実上の副都に留まった、とする主張がある[22]。実際、福原への遷都宣言が出されたことはなく、行宮滞在中も行事は京都で行われている上、遷都計画が頓挫した後は、京都を首都とする方針が政権中枢にて決定されている。これに反し、福原には八省院や官衙の整備計画も持ち上がったが、結局実行されなかった(『玉葉治承4年7月16日条・8月4日条・11日条・29日条)。

南北朝時代1336年 - 1392年)は、「正平一統」(1351年 - 1352年)の短期間を除き平安京北朝の都である。ただし、南朝の本拠は全て行宮、すなわち仮の拠点として扱われ、正式な都は平安京と見なしていたと推測される。

日清戦争中の1894年(明治27年)9月15日から1895年(明治28年)5月30日には、広島県広島市に置かれた大本営(→広島大本営)において、明治天皇が直接戦争の指揮にあたった(広島大本営は翌1896年(明治29年)4月1日に解散)。1894年(明治27年)10月の第7回帝国議会は広島市で開催されている。立法・行政・軍の統括が東京から広島に移転していたことになり、この時期は広島が一時的に首都機能を担った。

太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)には、皇居と大本営を長野県松代町(現長野市)に移転させる計画が陸軍により始められたが、敗戦により中止された(松代大本営)。

都市名 現在の地名 在住期間 主な天皇 副都、その他
泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや) 奈良県桜井市 456年 - 480年 雄略天皇
磐余甕栗宮(いわれのみかくりのみや) 奈良県桜井市 480年 - 485年 清寧天皇
近飛鳥八釣宮(ちかつあすかやつりのみや) 奈良県明日香村 485年 - 488年 顕宗天皇
石上広高宮(いそのかみひろたかのみや) 奈良県天理市 488年 - 498年 仁賢天皇
泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや) 奈良県桜井市 498年 - 507年 武烈天皇
樟葉宮(くすば) 大阪府枚方市 507年 - 511年 継体天皇
筒城宮(つつきのみや) 京都府京田辺市 511年 - 518年 継体天皇
弟国宮(おとくにのみや) 京都府長岡京市 518年 - 526年 継体天皇
磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや) 奈良県桜井市 526年 - 532年 継体天皇
勾金橋宮(まがりのかなはし) 奈良県橿原市 532年 - 535年 宣化天皇
檜隈廬入野宮(ひのくまのいおりの) 奈良県桜井市 535年 - 540年 宣化天皇
磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや) 奈良県明日香村 540年 - 572年 欽明天皇 橘の宮(橘寺
百済大井宮 大阪府河内長野市・奈良県広陵町・大阪府富田林市・奈良県桜井市など諸説あり 572年 - 575年 敏達天皇
訳語田幸玉宮(おさたのさきたまのみや) 奈良県桜井市 575年 - 585年 敏達天皇
磐余池辺雙槻宮 奈良県磯城郡 585年 - 587年 用明天皇
倉梯柴垣宮 奈良県磯城郡 587年 - 593年 崇峻天皇
飛鳥豊浦宮 奈良県明日香村 593年 - 603年 推古天皇
飛鳥小墾田宮 奈良県明日香村 603年 - 630年 推古天皇
飛鳥岡本宮 奈良県明日香村 630年 - 636年 舒明天皇
田中宮 奈良県橿原市 636年 - 640年 舒明天皇
百済宮 奈良県広陵町 640年 - 642年 舒明天皇
飛鳥小墾田宮 奈良県明日香村 642年 - 643年 皇極天皇
飛鳥板蓋宮 奈良県明日香村 643年 - 645年 皇極天皇
難波長柄豊碕宮 大阪府大阪市 645年 - 655年 孝徳天皇
飛鳥板蓋宮 奈良県明日香村 655年 - 655年 斉明天皇 難波長柄豊碕宮
飛鳥川原宮 奈良県明日香村 655年 - 656年 斉明天皇 難波長柄豊碕宮
後飛鳥岡本宮 奈良県明日香村 656年 - 661年 斉明天皇 難波長柄豊碕宮
朝倉橘広庭宮 福岡県朝倉市 661年 - 661年 斉明天皇 難波長柄豊碕宮
難波長柄豊碕宮 大阪府大阪市 661年 - 667年 孝徳天皇
近江大津宮 滋賀県大津市 667年 - 672年 天智天皇-弘文天皇 難波長柄豊碕宮
飛鳥浄御原宮 奈良県明日香村 672年 - 694年 天武天皇-持統天皇 難波長柄豊碕宮
藤原京 奈良県橿原市 694年 - 710年 持統天皇-文武天皇-元明天皇
平城京 奈良県奈良市 710年 - 740年 元明天皇 難波京
恭仁宮 京都府木津川市 740年 - 743年 聖武天皇 難波京
紫香楽宮 滋賀県甲賀市 743年 - 744年 聖武天皇 難波京
難波京 大阪府大阪市 744年 - 745年 聖武天皇
平城京 奈良県奈良市 745年5月 - 784年 聖武天皇 難波京、保良宮由義宮
長岡京 京都府向日市、長岡京市、京都市 784年 - 794年 桓武天皇 
平安京 京都府京都市 794年 - 1180年 桓武天皇 
福原京 兵庫県神戸市 1180年6月 - 1180年11月 安徳天皇  平安京
平安京 京都府京都市 1180年 - 1868年 安徳天皇 
南朝吉野行宮 奈良県吉野町 1336年 - 1348年1373年  
(南朝)賀名生行宮 奈良県五條市 1336年・1348年 - 1351年1352年 - 1354年・1373年 - 1392年
(南朝)天野行宮 大阪府河内長野市、金剛寺 1354年 - 1359年
(南朝)住吉行宮 大阪府大阪市 1360年 - 1373年
東京 東京都千代田区 1868年5月 - 明治天皇 京都を首都と解する立場がある(東京奠都は都を東京に遷すものではないとの解釈)[23]

[編集] 脚注

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  1. ^ KO字源[1]「首部」
  2. ^ 「金澤市ハ裏日本運輸交通ノ要路ニ當リ…裏日本ニ於ケル首都ナルノミナラス…」金澤市ニ鉄道局設置ニ関スル建議案(官報号外昭和2年3月26日衆議院議事速記録第32号)戦後「五大都市をもつて、その所屬府縣の首都となす」1衆治安及び地方制度委員会8号昭和22年08月07日 「長崎縣の五島列島は九州の西南に位いたしまする離島であります。その首都でありまするところの福江港」1衆国土計画委員会9号昭和22年08月22日「わが高鍋町は由來兒湯郡の首都として、郡の中央に位し」1衆司法委員会56号昭和22年11月14日…以上は国会議事録検索[2]から検索可能。アジ歴検索だと「オムスク方面より新疆省首都迪化に到着したが同省暴動の状況に鑑み…」陸発表情報(甲)第111号陸軍省新聞班(レファレンスコード A03023794300 で検索可能)など
  3. ^ 第142回国会衆議院特別委員会
  4. ^ たとえば「第百六十九通常国会召集の詔書(平成20年1月8日)」[3]。WIKISOURCE「Category:昭和の詔勅」[4]も参照。
  5. ^ 三省堂「大辞林 第二版」[5]
  6. ^ 研究社「新英和中辞典 第6版」ギリシア語 mother city の意(mtr「母」+plis「都市」)[6]
  7. ^ 2011年7月2日 神戸新聞
  8. ^ 三野与吉監修 『人文地理辞典』 東京堂、1959年改訂再版。
  9. ^ 永原慶二監修 『岩波日本史辞典』 岩波書店、1999年。
  10. ^ 喜田貞吉 「難波京の沿革を論じて府と県との称呼の別に及ぶ」(1909年)『喜田貞吉著作集5 都城の研究』所収、平凡社、1979年。
  11. ^ 岡部精一 『東京奠都の真相』 仁友社、1917年。
  12. ^ 磯村英一 『東京遷都と地方の危機』 東海大学出版会、1988年。
  13. ^ 第136回国会 国会等の移転に関する特別委員会 第5号
  14. ^ 山田邦和 「福原京に関する都城史的考察」 『長岡京古文化論叢』2所収、三星出版、1992年。
  15. ^ 佐々木克 『江戸が東京になった日 明治二年の東京遷都』 講談社、2001年。
  16. ^ 大石学 『首都江戸の誕生 大江戸はいかにして造られたのか』 角川書店、2002年。
  17. ^ 岡部精一著 「東京奠都の真相」 仁友社、1917年
  18. ^ 古井喜実「東京都制について(一)」『国家学会雑誌』第57巻第9号21頁
  19. ^ ただし、地方自治法の「昭和22年法律第67号附則第2条」ただし書により、東京都制第189条 - 第191条、第198条はなお効力を有した。しかしその効力も、「昭和39年7月11日法律169号附則第2条」、「昭和49年6月1日法律第71号附則第2条」、「平成10年5月8日法律54号附則第2条」、「平成11年7月16日法律第87号附則第15条」により、更に制限された。
  20. ^ 大阪都? スーパー大阪市? 橋下知事が府・市再編提唱
  21. ^ 歴史資料ネットワーク編 『平家と福原京の時代』 岩田書院、2005年。
  22. ^ 山田邦和 「福原の夢」
  23. ^ 「遷都については、ついに詔もなく一片の法令も発令されなかった。『維新史』(文部省・昭和16年)は「東京奠都」と表現する。過去の遷都の例にならう限り、詔や法的根拠がない以上、遷都とは云えない、という立場である。奠都とは、首都をある地に定める、という意味で、都の移動ではないのである。」『東京「遷都」の政治過程』佐々木克(京都大学人文学報1990.03)[7]PDF-P.21

[編集] 文献情報

  • 「東京「遷都」の政治過程」佐々木克(人文学報1990.03)[8][9]

[編集] 関連項目

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