日本の首都

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日本首都(にほんのしゅと、にっぽんのしゅと)は、現時点で事実上東京都である。

また、東京都を中心とした地域を首都圏と呼ぶ。

目次

[編集] 概要

日本で「首都」という語が一般化したのは第二次世界大戦後のことで、1868年明治元年)以来東京は主に帝都と称され、1950年(昭和25年)の首都建設法以降になって「首都」の語が普及した。

日本では現在に至るまで、法令上「首都」の定義・規定がなされず、東京都を首都と直接定める法令はない[1]。しかし、間接的には、法令上も東京都を首都と扱う(首都圏整備法など)。

事実上、東京都が首都とみなされる理由としては、日本国憲法で「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と規定される天皇が常在し、皇居が東京都に所在することや、同じく憲法で「国権の最高機関」と規定される国会首相官邸をはじめとした多くの行政機関最高裁判所などの政治的中枢が東京都(中でも東京都千代田区)に所在することが挙げられる。また、東京都が日本の経済、文化の中心地となっており、国際的にも東京都が日本の首都とみなされている。

なお、国内的には、中枢的な首都機能が集中する特別区東京23区)の区域に限定することもあるが、対外的には東京都を以って首都とする例が多い。 統計では多く23区が「東京」「東京特別区」という1都市のように扱われるが、23区を1都市として扱われるのは、旧東京市に由来するもので、23区を一体とし自治権をもった行政単位は現在は存在しない。 東京都の英称は "Tokyo Metropolis" あるいは "Tokyo Metropolitan prefecture" である。都知事が "Mayor" として国際会議に出席しており、東京都という1つの自治体で都市の扱いになっており、対外的に23区と多摩地域(や島嶼部)を分離する意味はない。

[編集] 多様な首都の認識

日本では歴史上天皇による朝廷の他に、国際的には時に「日本国王」とも称された征夷大将軍による幕府のような武家政権が存在したことや、東京と京都両京制などの面から首都の議論があり、様々な首都論・首都認識がある。

[編集] 辞典による日本の首都

  • 平安遷都など歴代の遷都をそのまま首都の移動とするもの[2]
  • 明治2年に東京城(江戸城)が皇城とされ太政官が東京に移されたことと、明治4年府県の順序で東京が第一とされたことで東京が首都の地位を得たとするもの[3]

[編集] 天皇・都に注目したもの

  • 京都も東京も帝都だが、本来京都は首都であり、東京は施政の便宜上天皇がいる場所だというもの[4]
  • 東西の帝都である東京と京都が並立して首都とするもの[5]
  • 江戸時代の首都は将軍の任命が行なわれた京都であり、幕府があった鎌倉・江戸は首都ではなかったとするもの[6]
  • 首都移転は皇室の座所の移動(御動座)を伴うものだとするもの(1996年の橋本龍太郎内閣総理大臣の国会答弁[7])。

[編集] 首都機能・武家政権に注目したもの

  • 平氏政権による福原京の計画が平安京との複都構想だったとし、また鎌倉幕府の置かれた鎌倉が、京都と首都機能を分担した事実上の複都制であるとするもの[8]
  • 江戸は政府の所在地で首都と意識されていたが、幕末に政治の中心となった京都が首都となり、更にそれが東京に移ったとするもの[9]
  • 江戸時代に江戸は政治・行政の中心と認識され、首都として機能もし、外国人も江戸を首都と認識していたとするもの。1719年の朝鮮通信使申維翰の『海遊録』によれば、都(首都)は初め大和にあり、その後豊臣秀吉大坂に、徳川家康が江戸に移したと認識されていたという[10]

[編集] 法的根拠

2008年(平成20年)現在、日本の首都を直接定める現行法令は存在しない。そこで、旧法、現行法及び慣習法の読み方によって、東京(東京都)を唯一の首都と解さない論者もいる。論争に登場する主要な立法およびその解釈について列記する。

  1. 1868年明治元年)、天皇が京都から東京へ行幸するに際して発せられた江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書には、「首都」の語はない。首都を意味する「」を地名に付したことから、この詔書によって、東京を首都に定めたと見るのが有力だが、反論もある。この詔書の趣旨について、東京を京都と並び首都とすること(複都論)を定めたに過ぎないと解する立場[11]がある。
    • 江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書(明治元年7月17日)
    朕今萬機ヲ親裁シ億兆ヲ綏撫ス江戸ハ東國第一ノ大鎭四方輻湊ノ地宜シク親臨以テ其政ヲ視ルヘシ因テ自今江戸ヲ稱シテ東京トセン是朕ノ海内一家東西同視スル所以ナリ衆庶此意ヲ體セヨ
  2. 1923年(大正12年)に発せられた関東大震災直後ノ詔書(大正12年9月12日)では、東京がすでに首都であることを既定のこととして記載された文言が出てくる。
    • 関東大震災直後ノ詔書(大正12年9月12日)
    …抑モ東京ハ帝国ノ首都ニシテ政治経済ノ枢軸トナリ国民文化ノ源泉トナリテ民衆一般ノ瞻仰スル所ナリ一朝不慮ノ災害ニ罹リテ今ヤ其ノ旧形ヲ留メスト雖依然トシテ我国都タル地位ヲ失ハス是ヲ以テ其ノ善後策ハ独リ旧態ヲ回復スルニ止マラス進ンテ将来ノ発展ヲ図リ以テ巷衢ノ面目ヲ新ニセサルヘカラス…
  3. 1943年(昭和18年)に制定された東京都制(昭和18年法律第89号)では、「効率的な首都行政を行うことを目的とする」と、立法段階で説明されている。ただし、地方自治法において、「都」制度が道府県制度と並び規定されているが、都制度の適用があるのは、現在の東京都を区域とする地方自治体に限定されるとは規定されず、また、いわゆる首都の所在地の自治体に適用されるという規定もなく、例えば「大阪都」もあり得るとされている。
  4. 1950年(昭和25年)には、東京都を日本の新しい首都とすることが明確に定められた首都建設法が制定された。ただし、のちに廃止されている。同法は、当時数多く制定された特別都市建設法の一つである。
    • 首都建設法(昭和25年法律第219号)
    第一条 この法律は、東京都を新しく我が平和国家の首都として十分にその政治、経済、文化等についての機能を発揮し得るよう計画し、建設することを目的とする。
  5. のちに、首都建設法は法律の目的を首都圏整備法に受け継がれたため廃止されている。首都圏整備法では、整備の対象を東京から東京周辺の地域を含む首都圏に広げた。
    • 首都圏整備法
    (定義)
    第二条 この法律で「首都圏」とは、東京都の区域及び政令で定めるその周辺の地域を一体とした広域をいう。
    附則
    (首都建設法の廃止)
    4 首都建設法(昭和二十五年法律第二百十九号)は、廃止する。


[編集] 皇居の所在地(=首都とする説)の変遷

歴史上、日本の首都は、天皇の住まいである皇居の所在によって定められた。古墳時代以降は、皇居のための宮殿御所)建設と周辺の市街地整備を一体として行い、首都にふさわしい都市を計画的に建設するようになった。

宮殿や貴族の邸宅であっても、奈良時代までは基本的に掘立柱建築だったため、建物の耐用年数が短かかった。同じ掘立柱建築である伊勢神宮遷宮は20年に1回である。

古代の頻繁な遷都や宮殿の移転・新築は、政治的な思惑の他にも建築物の耐用年数の影響が考えられる。中国風の都市計画を持ち込んだ藤原京平城京平安京などでは、計画的な庶民の居住を促しても、家が掘立柱建築だったために、地下水位の高い低湿地や河川の氾濫原は居住に適さないとして放棄され、いずれも当初の計画とは異なる都市へと変化した。

飛鳥宮(飛鳥時代)以前に、首都に相当する都城は存在しない。 奈良時代に編まれた記紀によれば、歴代大王の宮室が磯城磐余奈良県桜井市)のほか、難波河内地方(大阪府)などに複数営まれたため、各々の宮室を中心に萌芽的な都邑が形成されていたことも考えられる。しかし、その具体的な遺構は未発見である。記紀に見える宮室については、「歴代の皇居」を参照。

なお、飛鳥 - 奈良時代には、首都機能を経済 ・交通の面で補完する第二首都とも言うべき副都(陪都)が設けられていた時期があった(複都制)。例としては、最初にこの制度を採用した天武天皇難波宮を始め、淳仁天皇の「北京」保良宮(滋賀県大津市、761年 - 764年)、称徳天皇の「西京」由義宮(大阪府八尾市769年 - 770年)が知られている。保良宮と由義宮は短命に終わったが、難波宮は長岡京遷都まで副都の地位を保ち続けた。

平安時代末の福原京を首都とみなせるか否かについては近年議論がある[12]。首都否定論の立場からは、『平家物語』などの文学作品に語られる「福原遷都」の実態については、平氏政権が和田(神戸市)方面への遷都を目的として福原に行宮を置いたに過ぎず、それによって平安京が従来の首都機能を失った様子も特に見られないことから、建前はどうあれ、福原は京都の機能を軍事・貿易面で補完する事実上の副都に留まった、とする主張がある[13]。実際、福原への遷都宣言が出されたことはなく、行宮滞在中も行事は京都で行われている上、遷都計画が頓挫した後は、京都を首都とする方針が政権中枢にて決定されている。これに反し、福原には八省院や官衙の整備計画も持ち上がったが、結局実行されなかった(『玉葉治承4年7月16日条・8月4日条・11日条・29日条)。

南北朝時代1336年 - 1392年)は、「正平一統」(1351年 - 1352年)の短期間を除き平安京北朝の首都である。ただし、南朝の本拠は全て行宮、すなわち仮の拠点として扱われ、正式な首都は平安京と見なしていたと推測される。

日清戦争中の1894年には、広島県広島市に明治天皇が行幸して、大本営も移った。帝国議会も開催されるなど、一時的に首都機能が移転し、臨時首都の様相を呈した。

都市名(現在の地名) 主な期間 副都、その他
飛鳥宮奈良県明日香村 592年 - 645年 豊浦宮小墾田宮岡本宮板蓋宮
難波宮大阪府大阪市 645年 - 655年 難波長柄豊碕宮
飛鳥宮(奈良県明日香村) 655年 - 667年 川原宮後岡本宮
大津京滋賀県大津市 667年 - 672年 近江宮
飛鳥宮(奈良県明日香村) 672年 - 694年 飛鳥浄御原宮
藤原京(奈良県橿原市 694年 - 710年  
平城京(奈良県奈良市 710年 - 740年  
恭仁京京都府木津川市加茂町 740年 - 744年  
難波京(大阪府大阪市) 744年 - 744年  
紫香楽宮(滋賀県甲賀市信楽 745年1月 - 5月  
平城京(奈良県奈良市) 745年5月 - 784年  
長岡京(京都府向日市長岡京市京都市 784年 - 794年  
平安京(京都府京都市 794年 - 1180年  
福原京兵庫県神戸市 1180年6月 - 1180年11月  
平安京(京都府京都市 1180年 - 1868年  
南朝吉野行宮(奈良県吉野郡吉野町 1336年 - 1348年1373年 賀名生行宮(奈良県五條市賀名生1336年1348年 - 1351年・1352年 - 1354年1373年 - 1392年天野行宮(大阪府河内長野市天野町、金剛寺1354年 - 1359年住吉行宮(大阪府大阪市住吉区1360年 - 1373年など
東京(皇居は東京都千代田区 東京府:1868年5月 -
東京市:1889年5月1日 -
東京都35区:1943年7月1日 -
東京特別区:1947年3月15日 -
 

[編集] 脚注

  1. ^ 第142回国会衆議院特別委員会
  2. ^ 三野与吉監修『人文地理辞典』東京堂、1959年改訂再版。
  3. ^ 永原慶二監修『岩波日本史辞典』岩波書店、1999年。
  4. ^ 喜田貞吉「難波京の沿革を論じて府と県との称呼の別に及ぶ」(1909年)『喜田貞吉著作集5 都城の研究』所収、平凡社、1979年。
  5. ^ 岡部精一『東京奠都の真相』仁友社、1917年。
  6. ^ 磯村英一『東京遷都と地方の危機』東海大学出版会、1988年。
  7. ^ 第136回国会 国会等の移転に関する特別委員会 第5号
  8. ^ 山田邦和「福原京に関する都城史的考察」『長岡京古文化論叢』2所収、三星出版、1992年。
  9. ^ 佐々木克『江戸が東京になった日 明治二年の東京遷都』講談社、2001年。
  10. ^ 大石学『首都江戸の誕生 大江戸はいかにして造られたのか』角川書店、2002年。
  11. ^ 岡部精一著「東京奠都の真相」仁友社、1917年
  12. ^ 歴史資料ネットワーク編 『平家と福原京の時代』 岩田書院、2005年。
  13. ^ 山田邦和 「福原の夢」

[編集] 関連項目