顕宗天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

この項目には、一部のコンピュータや一部の閲覧ソフトで表示できない文字が含まれています(詳細)。
顕宗天皇
第23代天皇
在位期間:485年2月1日 - 487年6月2日
在位中の皇居 近飛鳥八釣宮
別名 弘計天皇
来目稚子
袁祁王
袁祁之石巣別命
袁奚天皇
出生 450年
死没 487年6月2日
陵墓 傍丘磐坏丘南陵
皇后 難波小野王
父親 市辺押磐皇子
母親 荑媛
天皇系図 15~26代
天皇系図 15~26代

顕宗天皇(けんぞうてんのう、顯宗天皇、允恭天皇39年(450年) - 顕宗天皇3年4月25日487年6月2日))は、記紀・『播磨国風土記』に伝えられる第23代の天皇(在位:顕宗天皇元年1月1日485年2月1日) - 同3年4月25日(487年6月2日))。弘計天皇(おけのすめらみこと)・来目稚子(くめのわくご)、袁祁王袁祁之石巣別命(おけのいわすわけのみこと、『古事記』)、袁奚天皇(『播磨国風土記』)とも。

目次

[編集] 系譜

市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ、履中天皇の長子)の第3子。
母は葛城蟻臣(ありのおみ)の女・荑媛(はえひめ、荑は草冠+夷)。仁賢天皇は同母兄に当たる。

  • 皇后:難波小野王(なにわのおののみこ、難波王。丘稚子王の女、石木王の女とも)

『日本書紀』に皇子女の記載なし。『古事記』にも「子無かりき」とある。

[編集] 皇居

都は近飛鳥八釣宮(ちかつあすかのやつりのみや。現在の奈良県高市郡明日香村八釣、あるいは大阪府羽曳野市飛鳥の地か)。『古事記』は単に「近飛鳥宮」とする。

[編集] 略歴

安康天皇3年(456年)父が雄略天皇に殺されると、兄の億計王(後の仁賢天皇)と共に逃亡して身を隠した。丹波国与謝郡京都府丹後半島東半)に行き、後に播磨国明石に住む。兄弟共に名を変えて丹波小子(たにわのわらわ)と名乗り、縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に使役され、長い間牛馬の飼育に携わっていた。清寧天皇2年(481年)11月、弘計王自ら新室の宴の席で、歌と唱え言に託して王族の身分を明かした。子がなかった清寧天皇はこれを喜んで迎えを遣わし、翌年(482年)2王を宮中に迎え入れて、4月に兄王を皇太子に、弘計王を皇子とした。

同5年(484年)に清寧が崩御した後、皇太子の億計は身分を明かした大功を理由として弟の弘計に皇位(王位)を譲ろうとするが、弘計はこれを拒否。皇位の相譲が続き、その間は飯豊青皇女が執政した。結果的に兄の説得に折れる形で顕宗天皇元年(485年)正月、弘計が即位する。罪無くして死んだ父を弔い、また父の雪辱を果たすべく雄略への復讐に走ることもあったが、長く辺土で苦労した経験から民衆を愛する政治を執ったと伝えられる。3年(487年)4月、崩御。『古事記』に38歳(ただし治世8年という)、『一代要記』に48歳。なお、即位前に志毘臣(しびのおみ、平群氏)との恋争いのもつれから、これを夜襲して誅殺したという話もある(『古事記』)。

[編集] 実在性について

近年の研究によれば、億計・弘計2王の発見物語は典型的な貴種流離譚であって劇的な要素が強く、そのままには史実として信じ難いことが指摘されている。

兄弟が畿内周辺を彷徨し、聖なる新室宴において唱え言をあげたことや、弘計の別名である「来目稚子」が久米舞を継承する来目部(くめべ)を連想させること、神楽歌における囃し言葉を「おけおけ」ということなどから、物語の伝播者には、歌舞を業として畿内を巡遊する芸能集団の存在が窺われ、物語素材も史実とはかけ離れた芸能的世界の所産であろうという。なぜ、このような物語が旧辞に取り入れられたのかははっきりしないが、越前国(あるいは近江国)出身であった継体天皇の先例として播磨国出身の顕宗・仁賢2天皇を設定することにより、万世一系的な王統譜に断層をもたらしかねない地方出身の王位継承資格者の特異性を払拭する意図があったとも言われている。

ただ億計・弘計の発見物語が史実ではなかったとしても、2天皇の実在性を否定したことにはならず、その原型とされた大王の存在を主張する意見も少なくない。

[編集] 陵墓・霊廟

傍丘磐坏丘南陵(かたおかのいわつきのおかのみなみのみささぎ)に葬られた。同陵は奈良県香芝市北今市にある前方後円墳に比定されている。
また、神戸市西区押部谷町木津には、顕宗・仁賢両帝を祭神とする顕宗仁賢神社がある。最寄り駅は神戸電鉄粟生線木津駅。また、この神社の他に西区内や明石市には所縁を称する神社が数多くある。

[編集] 在位年と西暦との対照表

[編集] 関連項目

先代:
清寧天皇
天皇
第23代: 6世紀前半頃
次代:
仁賢天皇