プリンストン (CVL-23)
| 艦歴 | |
|---|---|
| 起工 | 1941年6月2日 |
| 進水 | 1942年10月18日 |
| 就役 | 1943年2月25日 |
| その後 | 1944年10月24日沈没(レイテ沖海戦) |
| 性能諸元 | |
| 排水量 | 13,000 トン |
| 全長 | 189.7 m |
| 艦幅 | 21.8 m(水線) |
| 全幅 | 33.3 m |
| 吃水 | 7.9m |
| 最大速 | 31 ノット |
| 乗員 | 士官、兵員1,569名 |
| 兵装 | 40ミリ機関砲22基、20ミリ機銃16基 |
| 搭載機 | 45 |
プリンストン (USS Princeton, CVL-23) は、アメリカ海軍の航空母艦。インディペンデンス級航空母艦の2番艦。その名を持つ艦としては4隻目。1944年にレイテ沖海戦で沈没。
目次 |
[編集] 艦歴
プリンストンはニュージャージー州カムデンのニューヨーク造船所で1941年6月2日にクリーブランド級軽巡洋艦「タラハシー」 (USS Tallahassee, CL-61) として起工する。1942年2月16日に CV-23 に艦種変更、3月31日にプリンストンへ艦名変更する。10月18日にマーガレット・ドッド(ハロルド・ドッドプリンストン大学学長夫人)によって命名、進水し、1943年2月25日にジョージ・R・ヘンダーソン艦長の指揮下フィラデルフィアで就役する。
[編集] 1943年
カリブ海での整調航海の後、プリンストンは1943年7月15日に CVL-23 へ再び艦種変更され、第23航空団を乗艦させたプリンストンは太平洋に向かう。8月9日に真珠湾に到着すると第11任務部隊に配属され、25日にベーカー島攻撃に向かう。ベーカー島攻撃では第11.2任務群の旗艦を務め、9月1日から14日まで島の占領および飛行場建設への航空援護を行う。その間に艦載機が日本軍の二式飛行艇を撃墜し、同機が撮影していた写真を入手した。
ベーカー島での任務を終えるとプリンストンは第15任務部隊と合流し、マキン及びタラワへの攻撃に投入され、その後真珠湾に向かった。10月20日に第38任務部隊(フレデリック・C・シャーマン少将)に加わるため、エスピリトゥサント島へ向けて出航した。折りしも部隊は、差し迫っていたギルバート諸島の戦いに投入される予定で、第5艦隊(レイモンド・スプルーアンス中将)に返す期限が迫っていた[1]。11月1日と2日、プリンストンは同部隊のサラトガ (USS Saratoga, CV-3) と共にブーゲンビル島のエンプレス・オーガスタ湾上陸支援のため、ブカ島およびブーゲンビル島の日本軍飛行場を空襲した。同時に、水上部隊はブカ島およびショートランド諸島を砲撃し、日本軍を振り回した挙句に間隙を突いて上陸に成功し、ブーゲンビル島の戦いが始まった[2]。上陸を妨害しようとした日本艦隊をブーゲンビル島沖海戦で蹴散らした後、偵察機は新手の日本艦隊の接近を報じてきた。プリンストンとサラトガは新手の艦隊をブーゲンビル島に近づけさせないよう、5日と11日にラバウルを空襲し、攻撃を受けた日本艦隊は呆気なく逃げ帰っていった。19日には第50任務部隊と共にナウルの飛行場の無力化を手伝った。その後プリンストンは北東へ向かいマキンとタラワに向かう途中の攻略部隊を援護し、他の空母から破損した飛行機と運用可能機を交換した後に、真珠湾および西海岸へ向かった。
[編集] 1944年
ブレマートンを1944年1月3日に出港したプリンストンは、真珠湾で再び第50任務部隊(その後第58任務部隊に改称)に加わり、1月19日にはクェゼリン環礁およびマジュロに対する上陸作戦支援のためウォッジェ環礁およびタロア島攻撃(1月29日 - 31日)を行う第58.4任務群に配属される。プリンストンの艦載機は次の攻撃目標エニウェトク環礁を撮影し、2月2日および3日に大規模な攻撃を行う。三日にわたってエニウェトクは爆撃と機銃掃射を受け、エンゲビの飛行場は破壊された。7日にプリンストンはクェゼリン環礁へ帰還し、10日から13日および16日から28日までエニウェトク上陸部隊への航空支援を行う。
プリンストンはエニウェトクからマジュロへ後退し、エスピリトゥサントで補給を受ける。3月23日にはカロリン諸島への攻撃を行い、その後パラオ、ウォレアイ環礁、ヤップ島を攻撃した後マジュロで補給を受け、4月13日に配置換えされる。ニューギニアへ向かった後4月21日から29日までホーランディア攻撃に航空支援を行い、その後トラック諸島攻撃(4月29日、30日)、ポナペ攻撃(5月1日)を行うため日付変更線を超えた。
5月11日、プリンストンは真珠湾に帰投し、29日にはマジュロへ向けて出航する。マジュロで第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)に合流し、サイパン攻撃支援のためマリアナ諸島近海に向かう。6月11日から18日までグアム、ロタ島、テニアン島、パガン島およびサイパン島へ艦載機による攻撃を行い、その後日本艦隊を攻撃するためフィリピンからマリアナ諸島へ向かった。マリアナ沖海戦でプリンストンの艦載機は30機を撃墜、また自身の艦載砲で3機を撃墜した。
プリンストンはマリアナ諸島に戻った後、再びパガン、ロタ、グアムを攻撃し、その後エニウェトクで補給を受ける。7月14日、第58任務部隊はグアム、ティニアン攻撃の航空支援を行うためマリアナ諸島に向かい、プリンストンも同行する。8月2日にエニウェトクで補充を受けた後フィリピンに向かう。その途中艦載機によるパラオ攻撃を行い、9月9日、10日にスリガオなど北ミンダナオの飛行場に対する攻撃を行う。11日にはヴィサヤ諸島への攻撃を行う。9月中旬にパラオ攻撃のため後退し、その後ルソン島攻撃のためフィリピンに向かう。続いてウルシー環礁に帰還し、10月上旬にはフィリピン攻略のため南西諸島及び台湾への攻撃を行う。
[編集] 喪失
10月20日、レイテ島上陸が行われる。プリンストンは第38.3任務群(フレデリック・C・シャーマン少将)の一部としてルソン島沖を巡航し、友軍艦艇に対する日本軍の攻撃を防ぐため艦載機での地上攻撃を行う。しかしながら24日、日本軍部隊は第38.3任務群を発見、集中的な攻撃を行う。午前10時の直前に突如一機の艦上爆撃機「彗星」が雲間を抜け急降下、1500フィート上空で500キロ爆弾を投下した。同機は爆弾投下直後撃墜されたものの、爆弾は飛行甲板を突き抜け格納庫とエレベーターを破壊し爆発した。火災が発生し艦橋から船尾に向かって火炎と黒煙が吹き抜けた。救援艦艇が乗員の救助と消火作業および更なる攻撃を防ぐための対空支援を行った。15時24分に弾薬庫の爆弾に引火した物と思われる大きな爆発が起こり、船尾部及び飛行甲板を吹き飛ばした。プリンストンに併走して消火作業を行っていた軽巡洋艦バーミングハム (USS Birmingham, CL-62) も爆発に巻き込まれ大きな損害を受け、多くの死傷者が発生した。プリンストンの被災により、ミッチャー中将の旗艦であるレキシントン (USS Lexington, CV-16) もいた第38.3任務群は立ち往生し、発見された栗田健男中将の中央艦隊攻撃や索敵に支障が出た[3]。
プリンストンを救援する努力は継続されたが、プリンストンが発する火災が夜間攻撃の目標となることを懸念したミッチャー中将の進言により[4]、16時4分に艦の放棄が決定された。残った乗員がボートで救援されると、17時6分に駆逐艦アーウィン (USS Irwin, DD-794)による雷撃が始められた。17時46分、軽巡洋艦リノ (USS Reno, CL-96) がアーウィンと交代し、17時49分に巨大な爆発が発生する。残骸が四散し火炎が1,000から2,000フィートの高さまで上昇した。プリンストンの艦前方部分は消滅し、後部が煙の間から瞬間現れた。プリンストンは17時50分に沈没し、10名の士官と98名の兵員が攻撃及びその後の消火活動で死亡した。しかしながら1,361名が救助された。艦長のジョン・M・ホスキンスは右足と自らの艦を失ったが生存し、後にその名を受け継いだタイコンデロガ級航空母艦プリンストン (USS Princeton, CV-37) の艦長に就任した。
プリンストンを救援した艦艇への損害は甚大なものであった。
- バーミンガム (USS Birmingham, CL-62) - 85名が死亡、300名が負傷。艦前方側面を損傷、5インチ砲二基、40ミリ機関砲二基、20ミリ機銃二基を失う。
- モリソン (USS Morrison, DD-560) - 左舷前方に大きな損傷。
- アーウィン (USS Irwin, DD-794) - 前方5インチ砲、右舷を損傷。
- リノ (USS Reno, CL-96) - 40ミリ機関砲一基を破損。
プリンストンは第二次世界大戦での戦功により9つの従軍星章を受章した。
プリンストン大学礼拝堂には、プリンストンに掲揚されていた軍艦旗が現在も展示されている。
[編集] 脚注
[編集] 参考文献
- 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年
- 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- E・B・ポッター/秋山信雄(訳)『BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』光人社、1991年、ISBN 4-7698-0576-4
[編集] 外部リンク
- Navy photographs of Princeton (CVL-23)
- More about the sinking
- USS Princeton at Nine Sisters Light Carrier Historical Documentary Project
- Eyewitness to Tragedy: Death of USS Princeton at HistoryNet
- この記事はアメリカ合衆国政府の著作物であるDictionary of American Naval Fighting Shipsに由来する文章を含んでいます。
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