タイ・フランス領インドシナ紛争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
タイ・フランス領インドシナ紛争
Bangkok Victory Monument.jpg
戦勝を記念してバンコク市内に建てられた戦勝記念塔
戦争:タイ・フランス領インドシナ紛争
年月日1940年11月23日から1941年5月8日
場所:タイ・フランス国境、シャム湾など
結果タイの旗 タイの勝利
交戦勢力
タイの旗 タイ フランスの旗 フランス国
指揮官
タイ王国プレーク・ピブーンソンクラーム フランスフィリップ・ペタン
Flag of Colonial Annam.svgジャン・ドクー
損害
54人戦死
307人負傷
海防戦艦 1大破、
水雷艇 2沈没、1大破、
戦闘機、爆撃機約13機
321人戦死または負傷
178人不明
軽巡洋艦 1小破、
戦闘機、爆撃機約22機

タイ・フランス領インドシナ紛争(タイ・フランスりょうインドシナふんそう)とは、1940年11月23日から1941年5月8日にかけて起きたタイ王国ヴィシー政権下のフランス植民地軍との国境紛争である。

目次

紛争への経緯 [編集]

タイ王国はフランスに対し、以前フランスの軍事的圧力を受けて割譲したフランス領インドシナ(以後仏印)領内のメコン川西岸までの領土(フランス保護領のラオス王国の主権やカンボジア王国バッタンバンシエムリアプ両州)の返還を求めた。

日本の同盟国であるドイツによるフランス本土占領と、親独のヴィシー政権の樹立を受けて日本軍北部仏印進駐を行った為、日本と友好関係にあったタイにとっては、日本軍が南部仏印にまで進駐してしまうと領土要求が難しくなるという懸念が生まれたためである。当時のタイ政府は軍事政権となっており、あくまで強硬な姿勢だった。しかし、フランス政府はこの要求を拒否した。

紛争 [編集]

開戦 [編集]

両国の外交が暗礁に乗り上げた1940年11月23日、タイ空軍が仏印領内を爆撃し両軍の戦端が開かれた。タイは6機のマーティンB-10爆撃機で昼間爆撃を行い、仏印軍の基地施設を破壊したりポテーズ 542など複数の航空機を地上撃破することに成功したが、迎撃に上がったフランス軍のMS406がタイ空軍の爆撃機2機を撃墜した。

これに対して、仏印軍は4機のファルマンファルマン F.221や6機のポテーズ 542など計10機が夜間爆撃を行った。仏印空軍はこれによりタイ空軍の戦闘機・爆撃機に被害を出すことに成功したが、迎撃に上がったタイ軍の戦闘機や高射砲部隊がフランス軍のMS406戦闘機2機とF221爆撃機1機を撃墜した。

陸軍の戦い [編集]

一方陸軍の動きは遅く、動いたのは年が明けてからだった。1941年1月6日、タイ軍は仏印領内のルアンプラバン地方(現ラオス)・バッタンバン地方(現カンボジア)に20個大隊で侵攻開始した。対する仏印軍は10個大隊で、しかも重火器が不足していたためタイ軍に圧倒され敗北を重ね多くの死者、行方不明者を出し撤退するなど、タイ軍が勝利をおさめた。

この敗北を受けて、仏印軍はベトナム兵の戦時動員を行いタイ軍を領内の奥深くに誘引し反転反抗をする戦略を立て、1月16日カンボジアのバッタンバンで仏印軍は反撃を開始した。これに対しタイ軍はヴィッカース 6トン戦車を装備する2個戦車中隊から成る機甲部隊を投入し仏印軍を押し返すが、救援に駆けつけた外人部隊オチキス 25mm対戦車砲2門・シュナイダー75mm榴弾砲1門装備)の攻撃により6トン戦車3台が撃破されタイ軍の攻勢は停滞した。

この反撃をきっかけに仏印軍はタイ軍を一時的に押し戻したものの、物量に勝るタイ軍はフランス軍に対してさらなる攻撃を加え、本国が占領下におかれ兵士の追加もままならないフランス軍は数多くの戦死者や負傷者を出すこととなった。

コーチャン島沖海戦 [編集]

1941年1月にはシャム湾でもタイ海軍とフランス海軍の軽巡洋艦「ラモット・ピケ」を旗艦とする艦隊が交戦し、規模に勝るフランス海軍側が霧の中で奇襲をかけ、タイ海軍側の旗艦であるトンブリ級海防戦艦「トンブリ」を撃沈するなど、フランス艦隊が勝利した。

空戦 [編集]

カンボジア上空では仏印軍の戦闘機MS406タイ空軍カーチスP-36戦闘機による空中戦が行なわれ、P-36戦闘機2機がMS406に撃墜された。だが仏印側もタイ空軍の空襲によりMS406戦闘機2機と爆撃機ファルマンF211、1機を損失するなど大きな損失を被った。

終戦 [編集]

戦闘が拡大を続け終息する気配を見せない中、アジアにおける数少ない独立国かつ友好国のタイや、他の地でも戦闘を行っていた友好国のフランス(フランスは本土やアフリカ連合国軍との戦いを続けていたほか、いくつかの植民地は自由フランス側についた)という、友好国同士が戦い国力が疲弊することを憂慮した日本が、タイとフランスの間の和平を斡旋し始めた。1941年5月8日、両国は日本の仲介により東京条約を調印し終戦となった。

条約はタイ側の領土要求(ラオスのメコン右岸のチャンパサク地方及びカンボジアのバッタンバン・シエムリアプ両州)を仏印側が全面的に受諾する内容だったため、後半では劣勢となっていたタイが勝利したという形となった。なお、タイでは1941年に戦勝記念塔がバンコクに建立されている。

その後 [編集]

1945年8月に第二次世界大戦が終結し、日本の同盟国として枢軸国として戦ったために敗戦国となったタイは、この紛争で取得した領土をフランスに返還せざるを得なかった。しかしその後勃発した第一次インドシナ戦争においてフランスが敗北したため、同地はその後カンボジアラオスの領土となった。

関連項目 [編集]