ギリシャ・イタリア戦争

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ギリシャ・イタリア戦争
戦争第二次世界大戦バルカン半島の戦い
年月日1940年10月28日 - 1941年4月6日
場所バルカン半島アルバニアイピロス
結果:枢軸軍の勝利
交戦勢力
イタリア王国の旗 イタリア王国
Flag of Albania (1939-1943).svg アルバニア王国
ギリシャの旗 ギリシャ王国
イギリスの旗 イギリス
指揮官
イタリア王国の旗 セバスティアーノ・ヴィスコンティ・プラスカ
イタリア王国の旗 ウバルド・ソッドゥ
イタリア王国の旗 ウーゴ・カヴァッレーロ
ギリシャの旗 アレクサンドロス・パパゴス
バルカン半島の戦い

ギリシャ・イタリア戦争(ギリシャ・イタリアせんそう)は1940年10月28日から1941年4月6日まで、枢軸国イタリア連合国ギリシアとの間で戦われた第二次世界大戦の戦争を指す。

背景[編集]

バルカン半島の一国家であるアルバニアを併合していたイタリア政府は、親英国であるギリシャを介して連合軍側がアルバニアやイタリア南部へ干渉してくる可能性を危惧していた。当時、北アフリカでも英軍との戦闘が行われており、徒な戦局拡大を避けるべきとの軍の反対を黙殺してベニート・ムッソリーニはギリシャへの遠征を命じた。ムッソリーニはアルバニアに駐屯する10万5000名に加え、本土から新たに召集した部隊6万名を加えた軍勢で攻撃を企てたが、時間の都合から新兵の多くは訓練が不十分なまま戦地に投入されており、錬度の面で問題があった。また同様に短期間で戦力を集める為にアルバニア人部隊も設立されたが、忠誠度は高いと言い難かった。更に戦車戦力の確保の為に、北アフリカに送る手筈だった1000輌の戦車を投じており、これによって北アフリカでの勝利の機会が永久に失われた。

その他にも冬季装備の欠乏や補給ルートの脆弱さ、地形に対する情報の少なさが指摘されていたが、ムッソリーニがこうした意見に耳を傾ける事は無かった。

戦いの経過[編集]

緒戦[編集]

1940年10月28日、セバスティアーノ・ヴィスコンティ・プラスカ将軍率いる7個師団10万名がギリシャへ侵攻を開始、一部の部隊が30kmの地点まで突出するなど幸先の良い成果を上げていたが、パパゴス将軍指揮下のギリシャ軍5個師団は、険しい山岳地帯が殆どを占めるギリシャの土地柄を活用した伏兵や不正規戦闘でイタリア軍部隊を苦しめた。また季節柄、零下にまで冷え込む冬のギリシャは冬季装備を持たないイタリア軍に追い討ちをかけた。次第に深まるギリシャの山々を越えるにはロバか人力しかなく、進軍速度は思うように上がらなかった。北アフリカからの援軍要請を無視してまで送った戦車隊も、山岳地帯では有効な成果を挙げることができなかった。過酷な戦いに耐えかねたアルバニア人兵士の脱走も相次ぎ、中にはパルチザン化して友軍たるイタリア軍兵士に武装解除される者まで現れる始末であった。

戦後のギリシア占領の様子。水色がイタリアによる部分。赤い部分はドイツ。緑はブルガリア。青はイタリアの既存の領土

こうして伊軍が険しい地形やアルバニア軍の士気低下に悩まされる中、ギリシャ軍は3個軍団10万名の増派を完了する。数の差で上回られたイタリア軍は次第に苦戦を強いられるようになり、山岳師団『ユリア』が包囲殲滅の危機に陥り5000名の兵士が戦死・戦傷する一幕もあった。

英軍と独軍の参戦[編集]

戦争を楽観視していたムッソリーニはここで考えを改め、司令官の罷免と軍の増派を決定する。かくしてギリシャ軍とその地形を過小評価していたヴィスコンティ・プラスカ将軍は罷免され、新たにウバルド・ソッドゥ将軍が指揮官に着任。戦力面では本国から6個師団の投入が決定するものの、やはりどの師団も定員割れと装備不足を起こしていた。とはいえ20万人に増派されたイタリア軍は窮地から立ち直り、戦線を立て直して進軍を再開し始める。

しかしイタリア軍が戦力補充を行った直後、6万名からなる派遣軍と軍需物資の数々を積載したイギリス軍の輸送艦隊がギリシャに来援する。再び戦力で上回った連合軍の前にイタリア陸軍はアルバニアとギリシャの国境線まで後退を余儀なくされしまい、ギリシャ戦争の泥沼化の責任を取ってピエトロ・バドリオ元帥が罷免される。代わってウーゴ・カヴァッレーロ将軍が参謀総長に就任した後も戦争継続の意志は変わらず、国境地帯で激しい山岳戦が繰り広げられた。

一方その頃、同じバルカン半島の国であるブルガリアユーゴスラビアが枢軸側に立って参戦、ドイツ軍がブルガリアへの進駐を開始していたが、枢軸側参戦から数日後にユーゴズラビアで親英派のシモヴィッチ将軍によるクーデターが決行され、同国は連合国側に寝返ってしまった。アドルフ・ヒトラーは不安定化したユーゴズラビアへの介入を決断、対ソ戦を延期してユーゴスラビアへ南下する。ムッソリーニはヒトラーの要請に応じて軍部隊をユーゴズラビアへ派遣(これらの伊軍部隊はその後二次大戦終戦までチトーパルチザン討伐に明け暮れる事になる)し、またドイツ軍もギリシャ戦線へ3個軍団を援軍として投入。既に本土から新たに数個師団の増援を得ていたイタリア軍はドイツ軍と共に攻勢に転じ、挟撃されたギリシャ軍は総崩れになる。4月23日、ギリシャ政府はイタリア政府に降伏を申し入れ、これをイタリア側が受領した事で戦争は終結した。

当初はギリシャ軍を侮って7個師団での戦争を開始したイタリア王国軍であったが、最終的には28個師団を投入する結果になった。

関連項目[編集]