タイの歴史

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タイの歴史(タイのれきし)では、タイ王国歴史を時代ごとに述べる。

古代文明[編集]

ネグリトマニ族英語版は、南タイの先住民でマレー半島に住み、かつてはアンダマン諸語を話していたかもしれないが、現在はモン・クメール語派マニ語英語版: Maniq)を話すことから、新しい言語を受容したと考えられている。[1]

新石器時代青銅器時代と思われるナコーンラーチャシーマー県Ban Non Watタイ語版が2002年から発掘調査されている。

次いで、紀元前1500年頃までにモン族東南アジア少数民族として最初に到達していたとされる。

Si Kottaboon文化[編集]

北部イサーン地方から中央ラオスにかけての地域に文明があったことが知られている。中心部はナコーンパノム紀元前1500年頃にファターム英語版: ผาแต้ม: Pha Taem、現ウボンラーチャターニー県にある国立公園)の壁画が描かれた。この壁画と中国南部の花山壁画英語版との類似性が指摘されており、花山壁画を描いた集団は後に青銅器時代ドンソン文化を担った雒越英語版であると解明されている。ドンソン文化とのSi Kottaboon文化の直接の関係はまだ明らかではない。

紀元前535年頃、ナコーンパノムに仏塔プラタート・パノム英語版が建築された。

古代[編集]

ドヴァーラヴァティー王国[編集]

紀元前300年頃、スパンブリードヴァーラヴァティー王国(スワンナプーム王国)を建国。

紀元前200年頃、アショーカ王の遣わした伝道者によりドヴァーラヴァティー王国では上座部仏教を信仰し始めた。しかし、モン族はそれ以前から海路による仏教との接触があったと主張している。

4世紀頃、ワット・プラパトムチェーディーが建設された。

6世紀から11世紀までドヴァーラヴァティー王国は東南アジアで繁栄した。モン文字英語版などを開発し先住の文明民族として東南アジアに君臨した。古代モン語を話していたことが確実視されているが、モン族の王国であったかどうかは確定していない。クメール人やマレー人も同時期に居住していたと考えられる出土物もあるが結論は出ていない。

ラヴォー王国[編集]

612年から628年にかけてクメール人の真臘王国扶南国を占領した。さらに真臘王イシャーナヴァルマン1世フランス語版611年-635年)に影響を受けた地域がドヴァーラヴァティー王国から独立し、ラヴォー王国英語版ロッブリーに出来た。[2]706年頃、北の陸真臘(現ラオスチャンパーサック県)と南の水真臘に分裂したと中国の記録にも残されている。陸真臘はShambhuvarmanの兄弟Rajendravarman1世フランス語版が支配した。774年頃から水真臘はシャイレーンドラ朝ジャワ王国に侵攻されてその支配下に入っていたが、802年頃にクメール王朝として独立した。

ヒランナコーングンヤーン[編集]

タイ・ユアン族英語版: ไทยวน)とタイ・ユワン族タイ語版: ไทเหนือ)がメコン川北部上流に定住し、638年ヒランナコーングンヤーン英語版(グンヤーン王国とも。現チエンセーン郡)の統治をクメール人(現在のカンボジア人)のラヴォー王国英語版の王Kalavarnaditに命じられ、Vieng Prueksaが王となった。[3]

ハリプンチャイ王国[編集]

661年頃、モン族ドヴァーラヴァティー王国の支配下にあったラヴォー王国英語版の王がジャマデヴィ英語版姫をラムプーンに送って来たことによってハリプンチャイ王国が成立した。

950年頃、クメール王朝スーリヤヴァルマン1世英語版王にラヴォー王国が占領され、1010年から約十年間、ハリプンチャイ王国は援軍を送り、ラヴォー王国を再びモン族勢力下に取り戻すためにクメール王朝と何度も争ったが、マレー半島ナコーンシータンマラートのクメール人の王が船でクメール王朝に援軍を派遣したことによりハリプンチャイ王国軍は撤退した。1023年にもクメール軍がハリプンチャイ王国のラムプーンを攻撃した。

タイ族の南下[編集]

1050年からラムプーンでコレラが6年間流行し続けたため、モン族の一部は下ビルマへ民族移動し、タトゥン王国英語版の首都モッタマハンターワディー(ペグー)へ移住した。その空白地帯へタイ族をはじめとする異民族の進入が増え始めた(ナコーンシータンマラート王国英語版)。雲南から南下してきたタイ族は、13世紀ごろまでは強力なクメール王朝の支配力の下にあった。 1057年にはパガン王朝の初代アノーヤター王がラヴォー王国に侵攻し、王女を連れ去り妻とした。 1076年にナライ王が死去すると、ラヴォー王国は内戦となり、急襲したクメール王朝のスーリヤヴァルマン2世が息子をラヴォー王国の王に据えた。 1130年にかけてハリプンチャイ王国のアーディッタ王は再びラヴォー王国に侵攻した。この戦争ではクメール側が敗走し一時的にラヴォー王国がモン族側の勢力に入った。1150年、後にクメール王朝がラヴォー王国を取り戻した。この後、ラヴォー王国はハリプンチャイ王国の影響を受けクメールから離反する動きを見せ、1155年北宋に使節を送り独立国としての承認を受けた。

12世紀頃、パヤオ王国が成立。 12世紀頃、プレー王国が成立。

シュリーヴィジャヤ王国[編集]

タイ南部はシュリーヴィジャヤ王国の影響下にあった。

スコータイ王国[編集]

1235年にラヴォー王国の後ろ盾となっていた南宋モンゴル帝国が侵攻を開始すると、1238年にタイ民族の指導者シーインタラーティットがラヴォー王国からの独立を宣言した(後にスコータイスコータイ王国を建国)。 [4] モンゴル帝国大理国を侵略した雲南・大理遠征1253年-1254年)では、タイ民族はモンゴル側に協力し、クメール族(ラヴォー王国)の勢力を追い出し退けた。1257年スコータイスコータイ王国を建国した。

スコータイ王朝の三代目ラームカムヘーン大王時代にパヤオ王国ラーンナー王国とが同盟を結び、マレー半島全域からベンガル半島まで掌握した。この時期に、ラヴォー王国は衰退した。

ラーンナー王国[編集]

スコータイ王国と時を同じくして、ヒランナコーングンヤーンの君主マンラーイが、1259年にラヴォー王国から独立してラーンナー王国を建国し、首都をヒランナコーングンヤーン英語版(現チエンセーン郡)から新しく建設したチエンマイに遷都した。タイ北部のチエンマイから中国のシップソーンパンナーが繁栄した。

13世紀頃、カーオ王国が成立。

1281年にはコレラの発生以降進入を続けていたタイ・ユワン族タイ語版ラーンナー王朝の王マンラーイがランプーンを攻撃し、ハリンプチャイ王国は壊滅した。 この後にはモン族の中心はペグーに移ることになった。下ビルマには、モン族がペグー王朝(1287年 - 1539年)を建国した。上ビルマには、タイ系のシャン族が、ピンヤ朝(1312年 - 1364年)とアヴァ王朝(1364年 - 1555年)を開き、強盛になると絶えずペグー王朝を攻撃した。

ラーンナー王国のカムプー王(1334-36年)が、カーオ王国の後援の元、パヤオ王国を併合。パヤオは、ラーンナー王国がカーオ王国やプレー王国へ進出する土台になった。

アユタヤー王朝[編集]

前期[編集]

1350年にラヴォー王国のラーマーティボーディー1世ムアンスパンブリーパグワがアユタヤー王朝を共同して開いた。[5]

アユタヤー王朝の最初の王ラーマーティボーディー1世は、タイの歴史に対して2つの重要な貢献をしている。1つは、上座部仏教を公式の宗教として設立し、推進したこと、すなわち、タイ王国と近隣のアンコールのヒンドゥー教国を区別したこと、2つ目は、ヒンドゥー教由来の法典でありタイの伝統的な慣習となった、ダルマ・シャーストラを編集したこと、である。19世紀後期まで、ダルマシャースートラはタイの法律を成す一部として残った。

1438年マハータンマラーチャー4世が死去し、実質的にアユタヤー王朝がスコータイ王朝を吸収した。

1443年、ラーンナー王国のティローカラート王がプレー王国に侵攻し、プレー王国を併合。

1450年頃、ラーンナー王国のティローカラート王がカーオ王国に侵攻し、カーオ王国を併合。

1456年から1474年アユタヤー・ラーンナー戦争英語版では、スコータイ王朝の王族Yuttittiraの支援を受けたラーンナー王国のティローカラート王が三度に渡って南進し、Yuttittiraはスコータイ王朝の再興を狙っていた。最初の侵攻は、アユタヤー王朝のトライローカナート王に撃退された。2度目の侵攻では、アユタヤー王朝の王都をアユタヤーからピッサヌロークへ遷都させた。3度目の侵攻で、アユタヤーのトライローカナート王に撃退され、ラーンナー王国内部の後継者争いから和平交渉を締結した。

1470年チャンパ王国槃羅茶全黎朝に侵攻したが失敗し、逆に黎朝レ・タイントンチャンパ王国に親征して、槃羅茶全の首をさらした。1480年、勢いに乗ったレ・タイントンはさらにラーンサーン王国に侵攻し、ラオスの国王を殺し、現在のジャール平原に7県の鎮寧府を設置して統治した。レ・タイントンはさらに西進してラーンナー王国へも侵攻したが、逆襲に遭いレ・タイントンは敗走した。

1523年から1525年まで、ラーンナー王国のケーオ王はケントゥン英語版に出兵し敗北。多くの権力者や、兵士らを失った。この人材と人口の減少は国内を大きく疲弊させ、ラーンナー王国衰退の一因を作った。

1540年、タウングー王朝のタビンシュエーティー王がポルトガル人の鉄砲隊700人の傭兵を雇用し、軍事力を高めた。これがラーンナー王国とアユタヤー王朝の運命を左右することになった。

1546年ラーンサーン王国からセーターティラートを招いてラーンナー王国の国王に据えた。

1548年第一次緬泰戦争英語版では、タウングー王朝バインナウン王がアユタヤー王朝に侵攻し、チャクラパット王が危機に陥ったがシースリヨータイ王妃が身を挺して命を助けた。

1558年に東方への領土拡大をねらったタウングー王朝バインナウン王がラーンナー王国に侵攻し、その属国となりラーンナー王朝は終わりを告げた。これが現在のシャン州となっている。

1563年、第二次緬泰戦争では、タウングー王朝のバインナウン王が再びアユタヤー王朝に侵攻し、チャクラパット王がビルマの属国となることを認めた。

後期[編集]

1574年ナレースワン(サンペット2世)は機が熟したと見て、アユタヤー王朝の独立を宣言する。1581年に隣国タウングー王朝のバインナウンが死去した後、タウングー王朝が混乱状態をきたすと、1594年にナレースワンはタウングー王朝へ侵攻した(緬泰戦争英語版)。この戦いに勝利し、戦略的な要衝のテナセリムを奪い取った。

1606年、ビルマのニャウンギャンミン英語版王の死去を機に、シャン州がタイに寝返ったが、すぐに鎮圧された。

1612年エーカートッサロット王が、イギリス人のアユタヤおよびパタニ王国での商業活動を許可した。

ソンタム王が津田又左右衛門を筆頭とする日本人600人を傭兵として雇い、アユタヤ日本人町は隆盛を極めた。 1630年頃、シーウォーラウォンの命令で山田長政が暗殺され、アユタヤ日本人町は皆殺しにされ焼き払われた。

1661年にモン族がマルタバンで反乱を起こし、1662年にはナーラーイ王がランサーンへ攻め込んだため、1663年にモン族が大挙してビルマを脱出し、アユタヤーへ逃れてナーラーイ王に帰化を求めた。モン族の返還を求めたビルマと戦争になった。 1664年にタイ華僑とオランダ人商人が衝突した。翌年、オランダ東インド会社が武装した船にポルトガルの国旗を掲げバンコク湾を封鎖し独占貿易を要求した。ナーラーイ王はこの要求を受け入れ、国に一大事があった時のために副都ロッブリーを建設した。 1686年チャオプラヤー・コーサーパーンフランスへのシャム大使として派遣英語版され、ルイ14世に謁見した。 1688年シャム革命英語版が勃発。顧問のコンスタンティン・フォールコンが暗殺され、ペートラーチャーが即位した。

プーミンタラーチャー王が、イギリス東インド会社との通商を開き、ベトナムと手を結んで独立していたクメール王朝を保護国とした。

1727年5月2日ナーン王国が成立。

アユタヤー王朝は、16世紀ポルトガル人から始まって、西洋といくらか接触をもっていたが、1800年代までは、インド中国、近隣諸国との関係が最も重要であった。

トンブリーからバンコクへ[編集]

トンブリー王朝[編集]

400年間以上の王権の後、緬泰戦争 (1759年-1760年)英語版で、かつてタウングー王朝から奪ったテナセリムの北部を失い、1762年から1769年にかけて清緬戦争が勃発し、1767年緬泰戦争 (1765年-1767年)英語版でアユタヤー王朝は隣国ビルマ軍の侵入により破滅し、首都アユタヤは焼き払われ、国は6つに分割され、テナセリム南部を失った。その後、清緬戦争で清軍が景洪以北へビルマ軍に押し戻されるとともに、ビルマ軍がタイ領から撤退して圧力が弱まったこともあり、華僑タークシン将軍は、新首都トンブリーを拠点とするトンブリー王朝を再統合することに成功し、1769年に王となった。戦後最も強勢になったのはタイだった。

1777年にタークシン王は福建省漳州府海澄県で生まれた華僑出身の呉譲をソンクラー国主に就任させ、以後、ソンクラー国を拠点としてシャム軍がパタニ王国クダ・スルタン国英語版への侵略の動きを見せ始めた。また1770年からカンボジアで始まった王座を巡る争いに介入した。

シャム王国[編集]

しかしその後、精神を病んでいたとされているタークシン王はプラヤー・サンのクーデターで退位させられ、1782年4月2日にカンボジア遠征から戻ったチャックリー将軍に処刑され、チャックリー将軍がチュラローク王ラーマ1世チャクリー王朝の最初の王)として彼を継いだ。同年、ラーマ1世はトンブリーからチャオプラヤー川を渡った河口の平原に新しい首都バンコクを建設し、現在まで続くチャクリー王朝(バンコク王朝)が始まった。ラーマ1世の時代になっても1821年になってタイがクダ・スルタン国を征服し、統治を開始するなど、隣国ビルマ同様の対外膨張政策を推進していた。

1788年から1789年にかけて清越戦争中国語版が勃発し、西山朝の介入を撃退し、黎朝が滅んだ。ベトナムも阮朝が強勢になった。乾隆帝十全武功英語版における清緬戦争と清越戦争の結果、タイとベトナムがインドシナの覇権を巡って争うことになった。一方、タイのラーマ1世の後継者達がアジア地域における西欧列強の力を認識し始めたのは、1826年に隣国ビルマが第一次英緬戦争英語版英国に敗北し、次第にヨーロッパ諸国の植民地主義の脅威に晒されるようになってからである。同年、英国と友好通商条約及びバーニー条約を締結し、1833年アメリカとも外交上の交流を始め、タイは1939年まで(その後、再び1945年1949年の期間)招かれた。

1831年にタイがカンボジアの支配を狙って起こした第一次泰越戦争英語版では、タイはカンボジア北部に侵攻した後、南転してさらにベトナム南部のチャウドクヴィンロンを蹂躙した。ベトナム(阮朝)が反撃に転じると、戦闘になる前にタイは撤退し、ベトナムがカンボジア全土を掌握した。タイとベトナムの戦争で蹂躙され、カンボジアが弱体化すると、Prey Nokorは徐々にベトナム化し、名前もサイゴン(現在のホーチミン市)となった。1841年にタイがカンボジアの支配を狙って再び起こした第二次泰越戦争英語版の結果、泰越両国でカンボジアを共有する平和条約が締結された。この結果、1848年アン・ドゥオン英語版王がカンボジア王に即位したが、ひそかにシンガポールのフランス領事を通じてナポレオン3世に援助を要請したが、事前にタイに情報が漏れ、失敗に終わった。

近代化[編集]

タイが西欧勢力との間に堅固な国交を確立したのは、その後のモンクット王ラーマ4世1851 - 1868年)と彼の息子チュラーロンコーン王ラーマ5世1868 - 1910年)の統治中のことであった。1840年アヘン戦争における大国の清の敗北はタイにとっても大きな衝撃であり、この2人の君主の外交手腕がタイ政府の近代化改革(チャクリー改革)と結び付いたことによって、タイ王国はヨーロッパによる植民地支配から免れた南・東南アジアで唯一の国になった。[6]1852年第二次英緬戦争英語版1885年第三次英緬戦争英語版という2つの戦争の結果、イギリスが東進してタイの北、シャン州まで進出した。1855年にイギリスと通商貿易に関するボーリング条約英語版 (不平等条約) を締結。1856年から1873年にかけて、太平天国の乱に呼応して蜂起したパンゼーの乱によって、隣国ビルマは大きく影響を受けて衰退し、タイにとって脅威ではなくなったが、1865年から1890年にかけてタイもパンゼーの乱の残党のチン・ホー族英語版によるホー戦争英語版の戦場となった。

一方、タイの保護国だったルアンパバーン王国でも、1872年からチン・ホー族の赤旗軍が二度に渡って襲撃し、シップソーンチュタイ英語版地方を占領し、1873年頃にはムアン・タン英語版(現在のディエンビエンフー)など北東部を占領した。同年、"Striped Flags"がPhuanジャール平原を支配下に置いた。1874年にはいったん沈静化したが、1875年より再びシエンクワーンヴィエンチャンなどでチン・ホー族の襲撃が行われ、1875年-1876年頃、黒旗軍黄旗軍シップソーンチュタイ英語版(Sip Son Chu Tai)に侵攻した。これらの襲撃はシャム軍による掃討作戦により一応のおさまりを見せたが、1885年に再度ヴィエンチャンが襲撃に遭い、1887年にはルアンパバーン王国が太平天国の乱の後ベトナムの傭兵としてフランスと戦っていた黒旗軍に襲撃された。この襲撃により当時国王であったウン・カム英語版とその家族は危機に晒されたが、フランス副領事館のオーガスト・パヴィ英語版により救出され、パークライへの逃亡に成功している。長きに渡ったチン・ホー族の反乱と黒旗軍の襲撃は、ルアンパバーン王国の住民に初動が遅れたシャムへの不信感を植え付け、逆に国王を救出したフランスへの信頼感を産み出す契機となった。また、1885年清仏戦争で清からベトナムに対する宗主権をフランスが奪取したことも、ルアンパバーン王国がフランスの保護を受け入れる道を選択することを後押しした。

ルアンパバーン王国のフランスによる保護国化を不服としたタイも1893年仏泰戦争英語版を起こしたが敗戦した結果、ラオスがフランス保護下に置かれることが確定し、仏領インドシナ連邦が完成した。1890年代になると英仏はインドシナから雲南への別々のルートを巡って衝突した、所謂「雲南問題」に直面した。しかし、両国とも昆明へのルート[7]がコスト高であることと、マラリアの問題を解決出来ず、1896年にイギリス・フランス両国はシャムとメーコーン上流域に関する英仏宣言を発表して戦争を回避し、副次的産物として、タイをイギリス・フランス両国の緩衝地帯として残すことが定められた。1909年英泰条約英語版では、現在の泰緬国境線を確定する一方、パッターニー県ヤラー県ナラーティワート県深南部三県サトゥーン県という旧マラヤ領をタイ領とするなど、タイに有利な条約を締結した。その後、フランスとの一連の条約では、ラオス・カンボジアとの東部国境線を確定した。

立憲君主制時代のタイ[編集]

立憲革命[編集]

1910年ラーマ6世(在位:1910年 - 1925年)が王位を継承すると、1912年には絶対君主制に反対する軍部によるen:Palace Revolt of 1912が起こったが失敗に終わったが、後の人民党のメンバーに大きな影響を与えた。

1925年ラーマ7世(在位:1925年 - 1935年)が王位を継承すると、1929年に始まった世界恐慌をきっかけにタイの負債が悪化し、再び絶対君主制に反対する運動が起きた。1932年の人民党によるクーデター立憲革命)は、タイの政府を絶対君主制から立憲君主制へと移行させた。プラチャーティポック王(ラーマ7世)は最初この改革を認めたが、その後1935年、10歳の甥アーナンタ・マヒドン王(ラーマ8世)に王位を譲渡した。退位の際、プラチャーティポック王は、「私は人民のみのために、元々私に有ったところの権力を放棄する心の準備は出来ている」と言った。

第二次世界大戦[編集]

プレーク・ピブーンソンクラームが実権を握ったタイは、1939年9月にヨーロッパ第二次世界大戦が勃発した直後に中立宣言を出していたが、しかし1940年に日本軍が仏領インドシナに進駐すると、ピブーンソンクラームはこれをすぐに翻し、1940年9月10日に仏領インドシナと国境紛争を起こした。国境地帯において、タイは旧領回復のために出動し、11月23日にはタイ・フランス領インドシナ紛争でフランス軍との戦闘となった。1941年5月8日に日本の仲介により東京条約を締結し、仏印のチャンパーサック県バタンバン州シェムリアップ州を自国領に併合した。

アジア地域に拠点を欲していた日本はタイへの接近を図った。1940年日泰和親友好条約を締結。その後1941年12月8日イギリスアメリカなどの連合国との間に開戦した日本軍が、イギリスが支配していたマレー半島ビルマへ向かうためタイ南部シンゴラ(ソンクラー)に上陸すると、タイ軍は小規模な戦闘を行った。その後はタイは日本軍の通過を認めた。こうした日本の圧力や、日本軍の緒戦の勝利を背景として、1941年12月21日には日泰攻守同盟条約を締結し、日本の同盟国となった。

イギリス軍も日本軍と同じ頃にマレー半島側から侵攻しており、タイ警察が交戦していた。その後の1942年1月8日にイギリス軍がバンコクを爆撃したのを機に同月25日、ピブーンソンクラームは中立政策を完全に翻しイギリスとアメリカに宣戦布告し、タイは枢軸国となり参戦することになった。

その後1942年4月ごろ、後に首相になるセーニー・プラーモートは、日泰攻守同盟条約をもとに祖国が日本の同盟国になり日本軍を駐留させるのを見て、「自由タイ運動」という抗日運動をアメリカ留学仲間と始めた。これは後にイギリスのタイ人留学グループにまでおよび、イギリスでは自由タイのメンバーはイギリス兵として受け入れられ、特殊訓練が施された。またピブーンソンクラーム内閣の閣僚で、タイ国内にいたルワン・プラディットマヌータム(本名プリーディー・パノムヨン摂政で後の首相)までも参加していた。むろんピブーンソンクラームはこれに気が付いていたが黙認し、一方で日本に対しては「自由タイ」(Free Thai、เสรีไทย)というタイ人の団体の支援などないかのように振る舞っていた。しかし、1944年頃より日本の敗色が濃くなるとプリーディーが「自由タイ」を指揮するなど急速に連合国との関係を強めた。

戦後[編集]

1945年8月に日本が連合国に対して敗北すると、プリーディーは「タイの宣戦布告は無効である」と宣言し、連合国との間の敵対関係を終結させようとした。こうした巧妙な政治手腕により、タイは連合国による敗戦国としての裁きを免れた。日本の敗北以来、米英を支持した自由タイによって、泰米関係は軍事面に置いて非常に親密な関係を保っていた。

1946年3月に民主党クアン・アパイウォンが就任から3ヶ月で首相を辞任し、自由タイのプリーディー(任期:1946年3月24日8月23日)が次の首相となった。5月にフランス軍がタイ領を攻撃し、国際社会への復帰を優先せざるを得ないタイは領土の引き渡しに応じ、ナコーン・チャンパーサック県タイ語版ピブーンソンクラーム県英語版プレアタボン県英語版の3県(旧仏印のチャンパーサック県バタンバン州シェムリアップ州)はフランスに返還された。アーナンタ・マヒドン王(ラーマ8世)は1946年6月9日に多少不可解な状況の死に方をしており、公式見解としては銃の手入れ中の暴発事故だという。彼に続いてプーミポン・アドゥンラヤデート(ラーマ9世)が即位し、タイ王国で最も長く王位に就き、タイ国民に非常に人気のある君主となった。

プリーディーは、調査委員会を設置、8月の総選挙後に辞任し、自由タイのタワン・タムロンナーワーサワット英語版1946年8月23日 - 1947年11月8日)が次の首相になった。

軍政期[編集]

1947年11月8日タイ・クーデター英語版でプリーディーが亡命し、自由タイは終焉を迎えた。民主党クアン・アパイウォンが首相に擁立されたが、翌年にはピブーンの返り咲きと呼ばれる軍部の圧力により辞任を余儀なくされ、ピブーンソンクラームによる軍政(1948年 - 1957年)が開始された。

1957年9月16日サリット・タナラットの軍事クーデターを経て、ポット・サーラシン英語版政権が誕生したが短命に終わり、タノーム・キッティカチョーン英語版政権が誕生した。1958年10月20日1959年2月10日の二回のクーデターを経てサリット・タナラット自身による軍政(1959年 - 1963年)が誕生した。サリットは黄金の三角地帯での麻薬栽培を禁止させ、インフラ整備や高い経済成長を実現した。この時期、日本からはトヨタなどの自動車メーカーが進出した。その反面、ラオス内戦への介入、共産主義者や社会秩序を乱す暴力団などへの弾圧では独裁者の姿を現した。1963年にサリットが死去すると、タノーム・キッティカチョーンが再登板し、長期軍事政権(1963年 - 1973年)となった。冷戦期は、ビルマベトナムカンボジアおよびラオスのような近隣諸国の共産革命に脅かされ、タイは共産主義の防波堤として米国の支援を受け、東南アジア条約機構(SEATO)の一翼を担った。ベトナム戦争では米国側に立ち、ラオスおよびベトナムへの派兵を行い、北爆のための空軍基地の開設も許可した。また、タイは米軍の補給・休養のための後方基地でもあったため、バンコクをはじめとしてタイは経済的に発展し、パタヤなどのリゾート開発も進んだ。米軍基地のあったイサーン地方では、基地関連のビジネスで語学力の高い人材が生まれ、海外へ進出するようにもなった。東南アジア諸国連合(ASEAN)の積極的な参加国でもある。

民主化後のタイ[編集]

1973年に民主化が行われセーニー・プラーモートククリット・プラーモートが首相を務めた。セーニー・プラーモートが再登板した時期は、左翼学生と右翼組織とが対峙して国家の危機の時期となった。1976年10月6日に僧となっていたタノーム・キッティカチョーンの帰国が引き金となり学生運動が暴発するとタンマサート大学虐殺事件英語版が起こり、学生運動が弾圧された。ターニン・クライウィチエン英語版がしばらく首相を務めた後、再び軍政期に入る事になった。

軍政期[編集]

ラーマ9世期のタイが立憲君主政体であったのは名目上であり、1992年の選挙までの間、一連の軍政に動かされた。

1977年からクリエンサック・チョマナン英語版による軍政(1977年 - 1980年)が敷かれた。1972年2月のニクソン訪中による米中接近から、ベトナム戦争中だったベトナムはソ連との関係を強化しており、中ソ対立の構図の中で、隣国カンボジアのポル・ポト政権は中国との関係が深まっていた。1978年1月にポル・ポトはベトナム領内の農村に攻撃をしかけ、ベトナムとカンボジアは国交を断交した。この状況下でクリエンサックはタイ北部の共産勢力を中国が排除するなら、タイ領を通過するクメール・ルージュへの武器供与を認めるという密約を行ったとされている。[8] 1979年1月にベトナム軍はプノンペンを攻略し、クメール・ルージュ体制は崩壊(カンボジア・ベトナム戦争)。しかしポル・ポト派はタイ領を避難場所としてベトナム軍を攻撃し続け、ベトナム軍はポル・ポト派をタイ国境近くの山林まで駆逐した。1979年2月には中国人民解放軍がカンボジア侵攻の報復としてベトナムを攻撃した(中越戦争)。しかしベトナム軍に中国人民解放軍は惨敗し、3月には撤収した。

プレーム・ティンスーラーノン政権(1980年 - 1988年)は「半分の民主主義」と呼ばれ、ラオスとの国境を除けば比較的平穏で経済成長への道筋をつけた。

1980年6月14日、メコン川を挟んだタイ・ラオスの国境警備隊の間にて銃撃事件が発生したことより、外交努力により解除へ動きつつあった国境封鎖に対して再び歯止めがかかることとなった。加えて1984年にはラオスのサイニャブリー県とタイのウッタラディット県の狭間に位置するラオス領の三つの村をタイ国軍が不法に占拠していると発表し、領土権を巡る国境紛争が勃発した(三村事件)。タイ政府は同年10月14日国軍が撤兵した旨の声明を発表し、三村事件はいったん沈静化した。1987年に再びタイ・ラオス国境付近で両軍が衝突し、戦闘状態に陥ったが、1988年に両国代表団による和平交渉が実施され、停戦協定が結ばれた。

チャートチャーイ・チュンハワン政権(1988年 - 1991年)では、国軍軽視が災いして1991年2月23日スチンダー・クラープラユーンタイ軍事クーデタータイ語版を起こし、チャートチャーイは失脚し、アナン・パンヤーラチュンが推された文民政権が誕生した。

暗黒の5月事件[編集]

1992年におこなわれた総選挙の結果、下院はスチンダーを首相に指名した。スチンダーは首相に就任したが、民主化を望んでいた国民は反発し、バンコクを中心に抗議デモを行った(暗黒の5月事件)。 スチンダーは首相を辞任し、アナンが首相に復帰し文民政権の樹立につながった。1992年の民主選挙以来のタイは、政府が憲法上の手続きを踏んで機能する民主主義国家となった。


タイの政治危機[編集]

タクシン・チナワット首相の不正蓄財疑惑が発端となり、2006年9月19日タイ軍事クーデターが起こり、2006年から2008年まで軍政が敷かれた。

これ以降、タイではクーデターやデモ、暴動が相次ぎ、今日まで政治混乱が続くことになる。

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  1. ^ The Negrito of Thailand-The Mani
  2. ^ Sdok Kok Thom碑文
  3. ^ "หิรัญนครเงินยางเชียงแสน - วิกิพีเดีย." วิกิพีเดีย สารานุกรมเสรี. Web. 16 Jan. 2011. th:หิรัญนครเงินยางเชียงแสน.
  4. ^ 現在のタイ人は、自分たちの国家の設立を13世紀としている。伝承によると、1238年、タイ民族の指導者シーインタラーティットスコータイでクメール(タイの伝説ではラヴォー王国をクメールと呼んでいる)の大君主を倒し、小タイ族のスコータイ王国を設立したという。その王国の衰退の後、1350年にアユタヤー王朝がチャオプラヤー川沿いに成立した。
  5. ^ タイの伝説では、1350年ラーマーティボーディー1世がアユタヤー王朝を開いた。
  6. ^ 以後、タイはイギリスフランスの植民地にはさまれて、両大国の緩衝国となったことも独立の維持に役立ったとタイ人は信じている。この歴史は、1949年5月11日に公式に宣言された現在の国名 Prathet Thai(ประเทศไทย)1939年から1945年の間も非公式に使用されていた)に反映されており、prathet(ประเทศ)は「国家」、thai(ไทย)は「自由な」を意味している。
  7. ^ 英仏両国の検討したルートは、後の援蒋ルート中越戦争の舞台となったことからも戦略上の重要性は明らかである。
  8. ^ タイは公式にこれを否定する声明を発表している。当時、ラオスはタイによる国境封鎖を受けており、カンボジアへの武器搬入経路はタイという見方が一般的である。

関連項目[編集]