マーシャル・ギルバート諸島機動空襲

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マーシャル・ギルバート機動空襲
SBD-2 CV-6 Feb1942.jpg
空母「エンタープライズ」で発進準備中のSBD艦爆
戦争太平洋戦争 / 大東亜戦争
年月日1942年2月1日
場所マーシャル諸島ギルバート諸島
結果:アメリカ軍の勝利
交戦勢力
日本の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
指揮官
井上成美
清水光美
後藤英次
八代祐吉
ウィリアム・ハルゼー
フランク・J・フレッチャー
戦力
巡洋艦 1, 潜水艦 9
補助艦艇多数
航空機 約60
空母 2, 巡洋艦 5
駆逐艦 12, 給油艦 2
航空機 約150
損害
沈没・擱座
特設艦艇 2, 輸送船 1
損傷
巡洋艦 1, 敷設艦 1
潜水母艦 1, 特設艦艇 3
輸送船 2
撃墜・全損
航空機 18
損傷
巡洋艦 1
撃墜・全損
航空機 14
ギルバート・マーシャル諸島

マーシャル・ギルバート諸島機動空襲(マーシャル・ギルバートしょとうきどうくうしゅう)とは、太平洋戦争初期の1942年2月1日アメリカ海軍空母機動部隊が行った、マーシャル諸島およびギルバート諸島の日本軍に対する航空攻撃である。緒戦で打撃を受けたアメリカ海軍が、使用可能な空母を活用して一撃離脱を仕掛けた。同様の機動空襲の最初の事例であり、太平洋戦争におけるアメリカ海軍の最初の積極的作戦行動であった。

背景[編集]

1941年(昭和16年)12月、開戦劈頭の真珠湾攻撃を受けて、アメリカ太平洋艦隊は主力の戦艦部隊が行動不能の状態となった。太平洋艦隊司令長官のハズバンド・キンメル大将は責任を問われて更迭され、新たにチェスター・ニミッツ大将が着任した。ニミッツ大将は、劣勢な戦力で正面から日本海軍に立ち向かうことは避け、使用可能な空母3隻を中心とした3つの任務部隊により、弱点への一撃離脱を繰り返すゲリラ戦を行うことにした。

アメリカ海軍の最初の攻撃目標に選ばれたのが、フィジー方面への侵攻拠点になる恐れがあるマーシャル諸島とギルバート諸島およびウェーク島であった。ニミッツは1月9日にウィリアム・ハルゼー中将に作戦を発令した。マーシャル諸島のうち中核のロイ=ナムル島(ルオット)とクェゼリン環礁は当初案において攻撃目標外だったが、潜水艦ドルフィン」が1月下旬に行った事前偵察の結果、マーシャル諸島の日本側防備がそれほど厳重ではないと判明したため、攻撃目標に追加された[1]。マーシャル諸島とギルバート諸島方面には、空母「エンタープライズ」を中心とする第8任務部隊(司令官:ウィリアム・ハルゼー中将)と、空母「ヨークタウン」を中心とする第17任務部隊(司令官:フランク・J・フレッチャー少将)が投入されることになり、ハルゼー中将が全体の指揮を執った。同時に、空母「レキシントン」を基幹とする第11任務部隊(司令官:ウィルソン・ブラウン中将)がウェーク島に空襲をかける計画であった。

日本は戦前からマーシャル諸島を委任統治とし、ギルバート諸島も開戦直後に無血占領していた。これらの島は第四艦隊(司令長官:井上成美中将)の担当地区で、守備隊としては第6根拠地隊(司令官:八代祐吉少将)が置かれ、第24航空戦隊(司令官:後藤英次少将)を主力とする基地航空隊が駐留した。第四艦隊の水上戦力は乏しく、旧式機雷敷設艦常磐」と潜水艦2隻、商船改造の特設艦船を展開している程度だった[2]。また、クェゼリン環礁は潜水艦部隊である第六艦隊(司令長官:清水光美中将)が活動拠点にしており、空襲当時、旗艦練習巡洋艦香取」と潜水艦7隻、潜水母艦など支援艦5隻を碇泊させていた[注 1]

日本軍は1月12日の伊6潜水艦による敵空母撃沈報告(実際は「サラトガ」撃破)後、アメリカ機動部隊の出現をあまり警戒していなかった。日本軍は南方作戦に力を注いでおり、主戦力の南雲機動部隊ラバウル攻略戦en)などで転戦中だった。基地航空部隊の24航戦も、ラバウル攻略戦のため主力をトラック島に移しており、装備も九六式艦上戦闘機など旧式であった。空襲時の基地航空隊の総兵力は、ロイ=ナムル島(ルオット)とタロア島(マロエラップ)の陸上基地に戦闘機24機・陸攻9機、ほか水上偵察機約15機と飛行艇9機(可動6機)の計60機弱だった[5]

戦闘経過[編集]

アメリカ艦隊の出撃[編集]

ウェーク島行きの第11任務部隊に給油するはずだった給油艦「ナチェス」。

それぞれ空母1隻と巡洋艦・駆逐艦若干から成る第8任務部隊と第17任務部隊は、アメリカ領サモア増援の海兵隊を乗せた輸送船団を護送し、1月23日にトゥトゥイラ島へ上陸させた。そして2つの任務部隊が合同して、1月25日にパゴパゴ港を出港した。28日に分離した2個の任務部隊は、攻撃地点へと向かった[6]

日本側は30日と31日朝、航空哨戒を実施していたが、アメリカ艦隊を発見できなかった[7]。第17任務部隊は1月31日に日本軍哨戒機の接近を確認しているが、発見を免れたという。クェゼリン環礁の第6通信隊は、通信解析の結果からアメリカ機動部隊が作戦行動中であると警告したが、軍令部はこの報告を却下した。第6根拠地隊は、1月31日に警戒態勢を第2配備から第3配備へ緩めた[5]

なお、別行動でウェーク島空襲を目指した第11任務部隊は、1月23日のハワイ出撃直後に補給担当の給油艦「ナチェス」が、ハワイ沖監視任務の日本潜水艦伊72に撃沈されてしまったため、作戦を中止した[6]

第8任務部隊による攻撃[編集]

クェゼリン環礁の空襲[編集]

第8任務部隊は1月31日日没後に艦砲射撃任務の巡洋艦部隊を分離し、30ノットに速度を上げた。2月1日午前1時40分頃から2時過ぎ(アメリカ側時間:午前4時40分-5時過ぎ。以下、原則として日本側時間による)にかけ、空母「エンタープライズ」は、クェゼリン環礁に向け第一次攻撃隊の艦爆37機と艦攻9機(爆弾装備)を発進させた。空は晴れて満月が明るく、しかも無風で絶好の天候だった[8]

2月1日午前4時頃、第一次攻撃隊はクェゼリン環礁への攻撃を開始した。飛行場のあるロイ=ナムル島(ルオット島)上空では、艦爆隊と迎撃に上がってきた日本軍戦闘機10機との間で空中戦が行われ、アメリカ側2機が撃墜された。アメリカ軍は日本機3機の撃墜を報じたが[9]、日本側に被撃墜機は無い[7]。艦爆隊はほかに2機が対空砲火等で未帰還となっている。艦攻隊はクェゼリン本島の艦船や陸上施設、エビジェ島en:Ebeye Island)の水上機基地や係留中の飛行艇に水平爆撃を行った[9]。艦攻隊は環礁内に有力な日本艦船が存在するとの偵察報告を発信し、連絡を受けた艦爆の一部が艦船攻撃に加わった。在泊中の日本軍艦船は小銃まで持ちだして応戦し、潜水艦は港内で潜水して逃れた。清水中将は「香取」を緊急出港させ、午前5時に隷下の潜水艦7隻に反撃のため出航するよう命じた[4]。クェゼリン本島の第6根拠地隊司令部は空襲開始からすぐに爆弾の直撃を受け、八代少将ら多数が戦死した[10]

敵有力艦船所在との報告を受けた「エンタープライズ」では、午前4時半に、艦攻9機(魚雷装備)から成る第二次攻撃隊をクェゼリンに発進させた[11]。第二次攻撃隊は、脱出を開始した日本軍の「軽巡洋艦」など大型艦を狙って命中魚雷多数を報じたが[12]、実際には過早爆発などで命中弾は1発も無かった。第二次攻撃隊は迎撃機に出くわすことなく、午前8時半に母艦に帰還した。

タロア島の空襲および艦砲射撃[編集]

マロエラップ環礁タロア島に対しては、第一次攻撃隊として爆装した戦闘機6機が向けられた。攻撃隊は午前3時過ぎに母艦を飛び立ったが、1機は発艦時の事故で失われた。タロア飛行場を爆撃したアメリカ軍機に対し、日本側は上空哨戒機と緊急発進合わせて11機の戦闘機で迎撃、双方が数機ずつの撃墜を報じたが、実際には日本側1機損失だけだった[13][14]。アメリカ側は午前6時にクェゼリン攻撃から帰還した機を再編した第二次攻撃隊(偵察爆撃機9機)、午前7時過ぎには第三次攻撃隊(偵察爆撃機9機)が、タロア飛行場めがけて発艦した。各攻撃隊は飛行場施設や駐機中の軍用機を爆撃し、格納庫2棟と燃料タンク2基炎上など地上施設が大破、地上撃破9機の打撃を与えた[15]。日本側の迎撃戦闘機と空中戦があり、双方とも数機撃墜を報じたが、実際の損失は日米とも無かった[14]

重巡洋艦チェスター」と駆逐艦2隻から成る砲撃部隊(司令官:ショック大佐)が、タロア島への艦砲射撃を担当した。「チェスター」は観測用水上機4機を発進させて砲撃を行ったが、日本機と沿岸砲の抵抗を受けた。タロア基地の日本側航空隊は、陸攻8機と戦闘機13機を爆装させて反撃を行い[14]、爆弾1発を「チェスター」に命中させた。「チェスター」は甲板貫通、8人戦死・11人重傷・23人軽傷の損害を受けた[16]

タロアの陸攻隊は魚雷による第二次攻撃を計画したが、ルオット基地にあった魚雷が調達できず、やむなく7機が水平爆撃により「エンタープライズ」を狙った[14]。戦果は至近弾による軽微な損害で、ほか指揮官機は反転して体当りを試みたが、飛行甲板をかすめて、駐機していた航空機を破損させつつ反対舷の海面に落下した。「エンタープライズ」の防空戦闘機は陸攻1機と、別に飛来した水上機1機を撃墜した[17]

ウォッジェ環礁の空襲および艦砲射撃[編集]

ウォッジェ環礁に艦砲射撃を加える重巡「ソルトレイクシティ」。

ウォッジェ環礁に対しても、午前3時過ぎに爆装戦闘機6機の第一次攻撃隊が出撃し、反復攻撃後に全機帰還した。8時過ぎに第二次攻撃隊の艦攻9機(爆弾装備)と艦爆8機が発進し、残存する飛行場施設や艦船を爆撃した。碇泊中の特設運送船「ぼるどう丸」が沈没、格納庫1棟や燃料タンク2基が全焼、格納庫2棟が半壊した[15]。ウォッジェに日本軍機は無く、迎撃も無かった。

ウォッジェ環礁に対しては、重巡洋艦「ノーザンプトン」と「ソルトレイクシティ」および駆逐艦1隻から成る砲撃部隊(司令官:レイモンド・スプルーアンス少将)が艦砲射撃を実施した。スプルーアンス隊は観測用水上機を発進させ、午前5時からまず艦船、ついで陸上拠点を砲撃した。日本側は、哨戒中の特設駆潜艇「第10昭南丸」の通報で敵艦隊の接近を知った。大田増右衛門大佐の指揮で脆弱な在泊艦艇全力を繰り出して応戦したが、特設砲艦「豊津丸」大破擱座、特設駆潜艇「鹿島丸」と「第10昭南丸」撃沈、「第11昭南丸」中破の壊滅的打撃を受けた[18]沿岸砲の反撃もあったが、至近弾が出始めたところで「ソルトレイクシティ」は射程外に逃れ、スプルーアンス隊に損害はなかった。観測機は午前6時頃の攻撃打ち切りに際して爆撃を行って去り、うち1機は乗員のみ収容して処分された[19]

第17任務部隊による攻撃[編集]

アメリカ軍機が撮影したマキン環礁の航空写真。黒煙を上げているのは炎上中する2機の日本軍九七式大艇

第17任務部隊の空母「ヨークタウン」は、21日午前2時から3時にかけ、ジャルート環礁に対して艦攻11機(爆弾装備)と艦爆17機[20]マキン環礁に対して艦爆9機[21]ミリ環礁に対して艦爆5機の第一次攻撃隊を出撃させた[22]。洋上は雲が立ち込める悪天候で、攻撃隊は編隊を乱しながら飛行した。

ジャルート環礁への攻撃隊は、午前4時過ぎ、雷雨と強風の中で攻撃を開始した。艦攻は水平爆撃で碇泊中の艦船を狙い、艦爆は艦船・地上施設・駐機中の水上機などに爆撃と機銃掃射を加えた。日本軍はジャルートに戦闘機を置いておらず迎撃できなかったが、損害は特設運送船「関東丸」が小破した程度だった[15]。7時半過ぎに攻撃隊は帰路に就いたが、悪天候により6機を失った。

マキン環礁でも午前4時頃に爆撃が始まり、碇泊中の特設砲艦「長田丸」が中破。機銃掃射で飛行艇2機が破壊された[23]。アメリカ軍は1機が着艦ミスで着水した。ミリ環礁への攻撃隊は、軍事施設を発見できず(飛行場未完成)、代わりに倉庫やタンクを爆撃して帰還した[22]

駆逐艦1隻が日本軍飛行艇から爆撃を受けたが、損害はなかった。空母「ヨークタウン」上空にも飛行艇が飛来し、警戒中の戦闘機により撃墜された。第17任務部隊は、午後にジャルート環礁に対する第二次攻撃を計画していたが、悪天候と夜間着艦となる危険のため断念された。なお、「ルイビル」が対潜哨戒に出した水上機1機が行方不明となった[24]

アメリカ艦隊の撤収[編集]

2つの任務部隊は攻撃を1日だけで終え、それぞれハワイへの帰路に就いた。第8任務部隊は、2月2日に日本潜水艦を発見し、哨戒中の航空機と駆逐艦の共同攻撃により撃沈を報じたが[25]、日本側に該当する喪失艦はない。第17任務部隊は2月6日に真珠湾に帰着した。

日本側は、第6艦隊と第6根拠地隊の潜水艦9隻を出撃させて追撃を試みたが、いずれも敵艦を発見できなかった[26]。トラック島からは空母「赤城」「加賀」「瑞鶴」基幹の南雲機動部隊主力や、24航戦主力を緊急派遣したが、こちらも敵捕捉に至らなかった。なお、現地の防備指揮官だった八代少将の戦死を巡り、軍令承行令がうまく機能せず、2人が指揮権継承を宣言する混乱が発生した[27]

結果[編集]

日本軍は特設駆潜艇2隻と輸送船1隻が撃沈され、特設砲艦2隻と特設駆潜艇1隻が大中破、「香取」「常磐」と潜水母艦「靖国丸」ほか輸送船2隻が小破した[15]。潜水艦伊23も戦闘に支障ない程度の軽微な損害を受けている[28]。航空機は18機が失われた。人的被害は八代少将以下161人が戦死し[15]、第6艦隊司令長官の清水中将も重傷を負った[28]。八代少将は、開戦以来初めての日本軍将官の直接戦闘による死者であった。なお、アメリカ側は、第8任務部隊だけで艦船12隻撃沈・航空機35機破壊など、かなり過大な戦果判定をしていた[29]

アメリカ軍の損害は重巡1隻が小破したほか、「エンタープライズ」が至近弾で軽微な損傷を負った。航空機に関しては「エンタープライズ」航空隊が5機未帰還・33機損傷[29]、「ヨークタウン」航空隊が7機損失のほか、巡洋艦搭載の水上機2機が対潜哨戒などの任務中に失われた。

戦闘の物的戦果は大きなものではなかったが、アメリカ海軍機動部隊にとって貴重な実戦経験となり、また過大な戦果判定で「大勝利」と思われたこともあって、敗戦続きのアメリカ軍の士気を高める貴重な材料となった。日本の戦前からの支配地である南洋群島を攻撃したことは英雄的行為と評価され、ハルゼー中将の名声が高まった[30]

奇襲を許した日本海軍は、本海戦をきっかけに、アメリカ機動部隊による日本本土空襲を警戒するようになった。そのため、連合艦隊司令部は、南雲機動部隊から第5航空戦隊を抽出し、アメリカ機動部隊の迎撃用として備える措置を採った[31]。しかし、その後に繰り返されたウェーク島空襲(2月14日)やニューギニア沖海戦(2月20日)などの機動空襲、さらに実際に本土が襲われたドーリットル空襲(4月18日)でもアメリカ空母を取り逃がしてしまう。このことが、アメリカ空母の捕捉を目的としたミッドウェー攻略作戦の発案へと繋がり、戦争全体の行く末にも影響することになる。

参加兵力[編集]

アメリカ軍[編集]

第8任務部隊
司令官:ウィリアム・ハルゼー中将
第17任務部隊
司令官:フランク・J・フレッチャー少将

日本軍[編集]

第四艦隊(南洋部隊)
司令長官:井上成美中将
  • 第6根拠地隊(マーシャル方面防備部隊) - 司令官:八代祐吉少将
    • 第6防備隊、第6通信隊、第51警備隊(ジャルート)、第52警備隊(タロア)、第53警備隊(ウォッゼ)
    • 敷設艦「常磐」、特設砲艦6隻、特設駆潜艇12隻、特設掃海艇4隻ほか支援艦船・小艦艇多数[2]
    • 第26潜水隊 - 呂61呂62
    • 第19航空隊 - 水上偵察機12-16機(クェゼリン・ジャルート)、輸送機1機[2][5]
  • 第24航空戦隊 - 司令官:後藤英次少将
第六艦隊(先遣部隊)
司令長官:清水光美中将

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ a b 戦史叢書では支援艦7隻とし、他に「鳴戸」と「第2あまかす丸」の船名が挙がっているが[3]、先遣部隊戦闘詳報では他部隊所属艦となっている[4]。また、「鳴戸」はフィリピン方面におり、同型艦「知床」が第4艦隊指揮下で在泊中。「第2あまかす丸」は所属不明であるが、第6根拠地隊の給水船「第1あまかす丸」が在泊中。

出典[編集]

  1. ^ スタッフォード(2007年)、53頁。
  2. ^ a b c 防衛研修所戦史室(1970年)、382-383頁。
  3. ^ 防衛研修所戦史室(1970年)、407頁。
  4. ^ a b 『先遣部隊戦闘詳報 第三号』、画像31-32枚目。
  5. ^ a b c d e 防衛研修所戦史室(1970年)、368-369頁。
  6. ^ a b 防衛研修所戦史室(1970年)、414頁。
  7. ^ a b 防衛研修所戦史室(1970年)、397頁。
  8. ^ Office of Naval Intelligence (1943), pp.8.
  9. ^ a b Office of Naval Intelligence (1943), p.9.
  10. ^ 防衛研修所戦史室(1970年)、388頁。
  11. ^ Office of Naval Intelligence (1943), p.11.
  12. ^ Office of Naval Intelligence (1943), pp.24-25.
  13. ^ Office of Naval Intelligence (1943), p.12.
  14. ^ a b c d 防衛研修所戦史室(1970年)、398-399頁。
  15. ^ a b c d e 防衛研修所戦史室(1970年)、418-419頁。
  16. ^ Office of Naval Intelligence (1943), p.22.
  17. ^ Office of Naval Intelligence (1943), pp.23-24.
  18. ^ 防衛研修所戦史室(1970年)、391頁。
  19. ^ Office of Naval Intelligence (1943), pp.19-21.
  20. ^ Office of Naval Intelligence (1943), p.27.
  21. ^ Office of Naval Intelligence (1943), p.31.
  22. ^ a b Office of Naval Intelligence (1943), p.32.
  23. ^ 防衛研修所戦史室(1970年)、400頁。
  24. ^ Office of Naval Intelligence (1943), pp.32-33.
  25. ^ スタッフォード(2007年)、72-73頁。
  26. ^ 防衛研修所戦史室(1970年)、409-410頁。
  27. ^ 防衛研修所戦史室(1970年)、395頁。
  28. ^ a b 井浦祥二郎 『潜水艦隊』 朝日ソノラマ〈航空戦史シリーズ〉、1983年、134頁。
  29. ^ a b Office of Naval Intelligence (1943), p.26.
  30. ^ 防衛研修所戦史室(1970年)、421頁。
  31. ^ 防衛研修所戦史室(1970年)、411頁。
  32. ^ a b Office of Naval Intelligence (1943), pp.3-4.

参考文献[編集]

外部リンク[編集]