ソルトレイクシティ (重巡洋艦)

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USS Salt Lake City (CA-25).jpg
艦歴
発注
起工 1927年6月9日
進水 1929年1月23日
就役 1929年12月11日
退役 1947年8月29日
除籍 1948年6月18日
その後 1948年に標的艦として海没処分
性能諸元
排水量 10,826 トン
全長 585 ft 6 in (178.46 m)
全幅 65 ft 3 in (19.89 m)
吃水 17 ft 5 in (5.31 m)
機関 ホワイト・フォスター式重油専焼水管缶8基+パーソンズ式ギヤード・タービン4基4軸推進
最大速 32.7ノット(60.6 km)
航続距離 15ノットで10,000カイリ
乗員 士官、兵員612名
兵装 8インチ砲10門、
5インチ砲4門、
3ポンド砲2門、
21インチ魚雷発射管6門
搭載機 4機

ソルトレイクシティ (USS Salt Lake City, CL/CA-25) は、アメリカ海軍重巡洋艦ペンサコーラ級重巡洋艦の2番艦。艦名はユタ州ソルトレイクシティに因んで命名された。本艦はしばしば「スウェイバック・マル Swayback Maru」と呼ばれ、(非公式ではあるが)艦隊のどの艦よりも多くの作戦に参加した艦であった。

艦歴[編集]

ソルトレイクシティは1927年6月9日にニュージャージー州カムデンのアメリカン・ブラウン・ボヴェリ・エレクトリック社(ニューヨーク造船所の子会社)で起工した。1929年1月23日にヘレン・バッジによって命名、進水し、1929年12月11日にフィラデルフィア海軍工廠で艦長F・L・オリヴァー大佐の指揮下就役した。

大戦前[編集]

ソルトレイクシティは1930年1月20日に海上公試のためフィラデルフィアを出港し、メイン州沖に向かった。2月10日からは遠洋航海でグアンタナモ湾クレブラ島ヴァージン諸島リオデジャネイロおよびブラジルバイーア州を訪問した後グアンタナモ湾に戻り、3月31日に第2巡洋艦隊に合流。9月12日までニューイングランド水域で活動した後は第5巡洋艦隊に移った。ソルトレイクシティは、1931年はニューヨークケープコッドチェサピーク湾で活動し、その最中の7月1日、ソルトレイクシティは分類番号が CA-25 になった。

1932年早々、ソルトレイクシティはシカゴ (USS Chicago, CA-29) およびルイビル (USS Louisville, CA-28) とともに西海岸に向かい、3月7日にサンペドロに到着。以後、太平洋艦隊に加わり、1933年1月から2月にかけては真珠湾を訪問した。9月に第4巡洋艦隊に移った後、10月から1934年1月までピュージェット・サウンド海軍造船所オーバーホールに入った。オーバーホールが5月に終わると第4巡洋艦隊に復帰し、5月の海軍週間英語版のためニューヨークに向かい、終了後12月18日にサンペドロに戻った。

1935年は一年中サンディエゴからシアトルまでの西海岸方面で行動。1936年1月には、サンクレメンテ島英語版にて大規模な砲術訓練を行った。4月27日にはバルボアで行われる演習に参加するためサンペドロを出港し、演習終了後6月15日にサンペドロに戻った。1937年4月25日まで再び西海岸方面で行動した後、ハワイに向かった。5月20日、ソルトレイクシティは西海岸に戻った。

1939年1月13日、ソルトレイクシティは2度目の遠洋航海でパナマ運河経由でカリブ海に向かった。以後3ヶ月もの間、ソルトレイクシティはパナマコロンビア、ヴァージン諸島、トリニダード島キューバおよびハイチを訪問し、4月7日にサンペドロに戻った。真珠湾に移動後の10月12日から1940年6月25日までの間には、工作艦ヴェスタル (USS Vestal, AR-4) とともにウェーク島およびグアムを訪問。1941年8月にはオーストラリアクイーンズランド州ブリスベンを訪問した。

第二次世界大戦[編集]

真珠湾攻撃後[編集]

1941年12月7日、ソルトレイクシティはエリス・M・ザカライアス艦長[1]の指揮下、ウィリアム・ハルゼー中将率いる空母エンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) の第8任務部隊[2]とともにウェーク島からの帰途で、真珠湾の西370キロの地点を航行中だった。真珠湾攻撃の報を受信すると、ソルトレイクシティのいる第8任務部隊は、落伍した日本艦隊を一部でも捕まえられるかも知れないという望みのもとに偵察機を発進させたが、これは無駄骨に終わった。第8任務部隊は8日夕刻、すべてが煙と油に包まれ戦艦が痛々しく放置された真珠湾に帰投した[3]

夜間に給油を終えた後、任務部隊は12月10日から11日にかけて、ハワイ北部へ日本の潜水艦を探すため出撃した。伊70は、その最初のターゲットとしてエンタープライズの急降下爆撃機によって撃沈された。2番目の目標は任務部隊の前方に浮上し、魚雷を避けた後ソルトレイクシティは砲火を開いて応戦し、駆逐艦は頻繁に爆雷攻撃を行った。しかし、この攻撃の成果は分からなかった。任務部隊は12月15日に真珠湾に帰投して給油した。

艦砲射撃を行うソルトレイクシティ。1942年2月

ソルトレイクシティは、ウェーク島を救援する計画が立てられた際に第8任務部隊の参加艦の一隻として加えられた。ウェーク島のアメリカ軍守備隊が降伏した後、1942年に入ると第8任務部隊は矛先をマーシャル諸島に変えて、マーシャル・ギルバート諸島機動空襲を行い、ウォッジェ環礁マロエラップ環礁およびクェゼリン環礁の水上機基地を空襲した。ソルトレイクシティは空襲の間、レイモンド・スプルーアンス少将に率いられてウォッジェ環礁の陸上施設への艦砲射撃を行う一方、襲撃してきた2機の日本の爆撃機を撃墜した。砲撃自体は目標が乏しかったり、出所不明の潜水艦情報に惑わされたりとハプニングが相次いだ[4]。2月後半にはウェーク島、3月には南鳥島への空襲の支援を行った。

4月に入って、ソルトレイクシティは第16任務部隊に入り、ドーリットル空襲の支援を行った。4月25日に真珠湾に帰投すると、第16任務部隊は早急にヨークタウン (USS Yorktown, CV-5) とレキシントン (USS Lexington, CV-2) の任務部隊に合流するよう命令を受けた。任務部隊はあわただしく出撃して急行したものの、5月8日にツラギ島の東830キロの地点に到達したのが精一杯であった。ソルトレイクシティは第16任務部隊とともに5月11日にニューヘブリディーズ諸島方面、12日から16日までエファテ島サンタクルーズ諸島方面をそれぞれ警戒。5月16日に真珠湾に帰投するよう命令を受け、10日後の5月26日に真珠湾に帰投した。間もなく任務部隊は、ミッドウェー島に接近してくるであろう日本艦隊に備え、これを粉砕するための周到な準備を行った。ミッドウェー海戦の前後、ソルトレイクシティはミッドウェー島防衛の後詰として活動した。

1942年8月から10月までは、ソルトレイクシティはガダルカナル島の戦いの全般支援に従事し、8月7日から8日にかけては、ガダルカナル島に艦載機を派遣した空母ワスプ (USS Wasp, CV-7) の護衛を行った。ソルトレイクシティは、ワスプとエンタープライズ、サラトガの各艦載機による戦闘空中哨戒に対して、誘導や着陸目標として支援した。9月15日、ワスプが伊19によって撃沈された際も、ソルトレイクシティはワスプの側にあった。ソルトレイクシティは駆逐艦ラードナー (USS Lardner, DD-487) とともにワスプの乗組員の救助を行った。

サボ島沖海戦(エスペランス岬沖海戦)[編集]

ソロモン諸島の戦いは、10月11日よるから12日にかけて発生したサボ島沖海戦で一つの頂点を迎えた。「東京急行」を阻止すべく、第64任務部隊(ノーマン・スコット少将)はソルトレイクシティ、軽巡洋艦ボイシ (USS Boise, CL-47) とヘレナ (USS Helena, CL-50) および重巡洋艦サンフランシスコ (USS San Francisco, CA-38) を中心とした部隊を急行させたが、この戦力は日本の主力部隊および援護部隊と太刀打ちできるほどの大きな戦力とはみなされていなかった。そこで、第64任務部隊は日本の輸送部隊の撃破に重きを置くこととした。部隊は10月7日にエスピリトゥサント島に集結し、2日後にガダルカナル島近海に到着して警戒しつつ待機した。やがて、陸上偵察機により五藤存知少将率いる日本艦隊が「スロット」と呼ばれるコースを通って接近しつつあることを報告。これを受けて、任務部隊は接近を妨害すべくサボ島沖に移動した。

ソルトレイクシティは観測機を発艦させることとなったが、発射途中で事故が発生し、観測機は飛び立ったものの焼けてすぐに墜落してしまったが、パイロットは近くの島にたどり着いた。任務部隊は、接近しつつある日本艦隊が、ライトを点滅させているのを見た。最初は、陸上部隊との合図と思われたが、次第に、任務部隊を味方と勘違いしているように見受けられた。ライトを点滅させ回答を待っている日本艦隊に対し第64任務部隊は丁字戦法を取り、旗艦青葉に対する7分間の一斉射撃で回答した。日本艦隊は味方撃ちでやられたと信じきっており、30分以上たってからようやく反撃したものの、それは微弱なものだった。青葉は大破し、古鷹は沈没。2度にわたる攻撃で、5隻あった日本艦隊の戦力は3分の1となり、駆逐艦吹雪も沈没した。しかし、残存艦の反撃によりソルトレイクシティは3発被弾し、ボイシは大破したものの辛うじて艦は保った。駆逐艦ダンカン (USS Duncan, DD-485) は被弾により艦体を大きくえぐられ、サボ島沖で沈没した。任務部隊は隊形を整え、エスピリトゥサント島に向かった。損傷したソルトレイクシティは真珠湾に回航され、4ヵ月間修理を行った。

アッツ島沖海戦(コマンドルスキー諸島海戦)[編集]

アッツ島沖海戦でのソルトレイクシティ

1943年3月下旬、修理が終わったソルトレイクシティはアッツ島キスカ島の日本軍守備隊に対して圧力をかけるためアリューシャン方面に向かい、アダック島を中心に行動した。3月26日、ソルトレイクシティ、軽巡洋艦リッチモンド (USS Richmond, CL-9) 、4隻の駆逐艦で構成された第8任務部隊(チャールズ・「ソック」・マクモリス少将)は翌日、何隻かの日本の輸送船と、これを護衛する第五艦隊細萱戊子郎中将)の重巡洋艦那智摩耶、軽巡洋艦多摩阿武隈および4隻の駆逐艦とコマンドルスキー諸島で接触した。

違った情報を受け取っていた第8任務部隊は、逃げる2隻の輸送船を追いかけた。そこに第五艦隊が割って入り込んだため、先制して輸送船を撃沈するという望みは断たれた。第8任務部隊は劣勢だったが、第五艦隊が戦力を二分さえすれば、ソルトレイクシティとリッチモンドで十分太刀打ちできる可能性もあった。

互いの艦隊は18.3キロの距離から砲撃を開始した。続くアメリカ側の動きはあまりよくなかった。ソルトレイクシティは2発被弾し、そのうちの一発は中央部に命中して2名が戦死した。ソルトレイクシティはすぐさま正確な射撃で反撃した。ソルトレイクシティは10回もの操舵を行って敵弾を回避し続けたが、前部コンパートメントに新たに被弾した。味方駆逐艦により煙幕の展開と魚雷発射のさなか、ソルトレイクシティとリッチモンドは一時反転。しかし、ソルトレイクシティは被弾により生じた破口から海水が入り、機関に重油を送る装置にも海水が入ったため、ソルトレイクシティは動力を失って海上をただ漂うに任せる状態になってしまった。幸い、ソルトレイクシティは味方が展開した煙幕に隠され、日本側からソルトレイクシティの苦境を知ることは出来なかった。

損傷したソルトレイクシティを救うべく、駆逐艦は第五艦隊に突撃していった。駆逐艦ベイリー (USS Bailey, DD-492) は魚雷を5本発射したが、逆に2発被弾した。その間にソルトレイクシティは燃料パイプから海水を排除し、再び燃料を送ることができるようになったので、ソルトレイクシティは再び航行を始めた。その時、第五艦隊は弾薬が心細くなってくたびれたという理由で退却していった。日本側は、燃料と弾薬2つの事情でアメリカ側のほうが悪い状態だったと信じていた。アメリカ艦隊は寡兵よく戦って、アッツ島とキスカ島への補給を断念させるという目的を果たした。日本側は以後、アッツ玉砕キスカ島撤退作戦によりこの方面から撤退していった。ソルトレイクシティはアメリカ軍のアッツ島とキスカ島への上陸を支援した後、9月23日にアダック島に帰投。その後、サンフランシスコを経由して10月14日に真珠湾に到着した。

1943 - 1945[編集]

この頃、アメリカ軍の主要攻撃目標はマーシャル諸島となっていた。同時にミクロネシアビスマルク諸島を分断し、この方面の日本の兵力を反攻に振り向けさせないようにしないといけなかった。また、マーシャル方面の作戦を進めるにはギルバート諸島を押さえて安全にする必要があった。そこで「ガルヴァニック作戦」が発動され、ソルトレイクシティはギルバート諸島南方に向けられる第50.3任務群に入った。

真珠湾でのソルトレイクシティ。真ん中はペンサコーラ、右はニューオーリンズ。1943年

ソルトレイクシティは11月8日まで濃厚な砲術訓練を行った後、10月5日と10月6日にウェーク島を、11月11日にラバウルを攻撃した空母エセックス (USS Essex, CV-9) 、バンカー・ヒル (USS Bunker Hill, CV-17) および軽空母インディペンデンス (USS Independence, CVL-22) と合流することとなった。11月13日、ソルトレイクシティはフナフティ島で合流し、ギルバート諸島に向かった。11月19日、ソルトレイクシティはベティオ島に対して艦砲射撃を行い、空母を狙った日本の雷撃機を撃退した。タラワの戦いは11月28日までには完全に終わり、この戦いは太平洋方面での水陸部隊による大規模な上陸作戦と位置づけられ、この時の戦訓が以後の戦いに活用された。

ギルバートの戦いが終わると、ソルトレイクシティは第50.15任務群に入り、来るマーシャルの戦いに備えた。1944年1月29日から2月17日にかけて、ソルトレイクシティはウォッジェ環礁、タロア島を砲撃し、主力部隊がクェゼリン環礁エニウェトク環礁マジュロ環礁を攻略する手助けをした。この主要な日本側の島々のみを攻略する作戦は上手く当たり、結果的に余計な死傷者を出さずに済んだ。3月30日から4月1日にかけては、パラオヤップ島ウルシー環礁およびウォレアイ環礁への攻撃に参加。作戦終了後、ソルトレイクシティは4月6日にマジュロに寄港した後、4月25日に真珠湾に向けて出港し、4月30日に帰投。翌日、メア・アイランド海軍造船所に向けて出港した。ソルトレイクシティは5月7日に到着し、7月1日まではサンフランシスコ湾内で行動した。7月8日、ソルトレイクシティはアダック島に向かい、幌筵島に対する砲撃作戦に参加したが、作戦は天候不順により規模が狭められた。ソルトレイクシティは、作戦終了後8月13日に真珠湾に帰投した。

8月29日、ソルトレイクシティはペンサコーラ (USS Pensacola, CA-24) 、軽空母モンテレー (USS Monterey, CVL-26) とともにウェーク島に向かった。9月3日にウェーク島を攻撃した後、9月24日までエニウェトク環礁で待機。その後、10月6日にサイパン島に入港した。10月9日には南鳥島を砲撃し、サイパン島に戻った。一連の攻撃は、ハルゼー率いる第3艦隊が、アメリカ側の次の目標が小笠原諸島方面等であるかのように装って、日本側の注意を真の目的と違う方向に向けるために行われた[5]。この間、ハルゼーの高速機動部隊は沖縄島台湾を空襲した後、フィリピンに進撃した。

1944年10月15日から26日、ソルトレイクシティはレイテ沖海戦を挟み一貫して第38任務部隊の護衛に専念し、フィリピン方面の日本側の艦船や施設を叩く第38任務部隊の支援を行った。11月8日からは第5巡洋艦隊に入り、1945年1月24日までの間、サイパン島のB-29を攻撃する航空機の根城である小笠原諸島を、B-24とともに海と空の両面から攻撃し続けた。1945年2月の硫黄島の戦いから4月の沖縄戦にかけては砲撃に護衛にと活動し、硫黄島への攻撃が3月13日まで続けられた後、沖縄戦には5月28日まで参加し、その後整備と補給のためレイテ湾に向かった。整備終了後は沖縄に戻り、7月6日からは東シナ海における掃海作戦の支援を行った。8月8日、ソルトレイクシティはサイパン島経由でアリューシャン方面に向かった。アダック島に到着後、8月31日に北日本海域に向かい、大湊方面の日本海軍兵力を制圧した。

戦後[編集]

ソルトレイクシティの最後。1948年5月25日

戦後の多くの軍艦同様ソルトレイクシティは直ちに不活性化が命じられた。当初西海岸に到着後第3艦隊に合流し、10月に不活性化が行われる様命じられた。しかしながら10月29日、太平洋から帰還兵を運ぶマジック・カーペット作戦への参加を命じられた。

11月14日、ソルトレイクシティはクロスロード作戦ビキニ環礁での原爆実験)での標的艦のリストに加えられた。各種装備は取り外され、乗員の数も縮小された上で1946年3月に真珠湾に向かった。

ソルトレイクシティは7月1日に行われたABLE実験(B-29からの投下による空中爆発実験)および7月25日に行われたBAKER実験(上陸用舟艇から吊り下げられた水中爆発実験)に使用された。2度の核爆発に耐えたソルトレイクシティは8月29日に退役し、処分のため保管された。その後1948年5月25日、カリフォルニア州南部沖合130マイル (240 km) の海域で標的艦として海没処分された。ソルトレイクシティは1948年6月18日に除籍された。

ソルトレイクシティは第二次世界大戦の戦功で11個の従軍星章を受章した。また、アリューシャン方面の戦いにおける功績で殊勲部隊章を受章した。

脚注[編集]

  1. ^ ザカリアス(ザカライアス)は日本通の有名な情報将校の一人(谷光, 579ページ)。ソルトレイクシティ艦長(1940年~1942年6月)を経てアメリカ海軍情報部外国部長(谷光, 582、583ページ)。情報部内で目に余る行為が目に付きすぎて左遷された後(谷光, 585、586ページ)、終戦直前に所謂ザカライアス放送によって日本側とコンタクトを取ったことで知られる
  2. ^ ポッター, 27ページ
  3. ^ ポッター, 40、41ページ
  4. ^ ブュエル, 168、169ページ
  5. ^ ポッター, 452ページ

参考文献[編集]

  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
  • 石橋孝夫「米空母機動部隊の反撃」『写真・太平洋戦争(1)』光人社、1988年、ISBN 4-7698-0413-X
  • 木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年
  • E・B・ポッター/秋山信雄(訳)『BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』光人社、1991年、ISBN 4-7698-0576-4
  • 「世界の艦船増刊第36集 アメリカ巡洋艦史」海人社、1993年
  • 谷光太郎「レイトン参謀を中心とする情報将校」『米軍提督と太平洋戦争』学習研究社、2000年、ISBN 4-05-400982-4
  • トーマス・B・ブュエル/小城正訳『提督スプルーアンス』学習研究社、2000年、ISBN 4-05-401144-6
  • 「世界の艦船増刊第57集 第2次大戦のアメリカ巡洋艦」海人社、2001年

外部リンク[編集]