サンフランシスコ (重巡洋艦)

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USS San Francisco (CA-38).jpg
艦歴
発注
起工 1931年9月9日
進水 1933年3月9日
就役 1934年2月10日
退役 1946年2月10日
その後 1959年9月9日にスクラップとして売却
除籍 1959年3月1日
性能諸元
排水量 9,950 トン
全長 588 ft 2 in (179.2 m)
全幅 62 ft 9 in (19.1 m)
吃水 19 ft 5 in (5.9 m)
機関 バブコック&ウィルコックス製水管缶8基
ウェスティングハウス製ギヤードタービン4基、4軸推進、107,000hp
最大速 32.7ノット (61 km/h)
乗員 士官、兵員708名
兵装 8インチ砲9門
5インチ砲8門
50口径機銃8門
搭載機

サンフランシスコ (USS San Francisco, CA-38) は、アメリカ海軍重巡洋艦ニューオーリンズ級重巡洋艦の5番艦。艦名はカリフォルニア州サンフランシスコに因む。その名を持つ艦としては2隻目。

艦歴[編集]

サンフランシスコは1931年9月9日にカリフォルニア州ヴァレーホメア・アイランド海軍造船所で起工する。1933年3月9日にバーバラ・M・バイリーによって命名、進水し、1934年2月10日に艦長ロイヤル・E・インガソル英語版大佐(後のアメリカ大西洋艦隊司令長官)の指揮下就役した。

大戦前[編集]

サンフランシスコは、ブリティッシュコロンビア州ワシントン州ハワイ及びメキシコを巡る大掛かりな慣熟航海を行った後、メア・アイランド海軍造船所に戻った。砲身を交換した後、1935年2月に第6巡洋戦隊に加わり、5月にハワイ水域とアラスカ近海で行われた演習第16次フリート・プロブレム英語版に参加し、演習終了後はカリフォルニア南部に戻った。数週間後、サンフランシスコは北西海域への艦隊訓練に参加し、7月にはアラスカに向かった。8月にカリフォルニアに戻った後、サンフランシスコはワシントン州からペルー沿岸にいたる太平洋東部を行動した。

1939年1月、サンフランシスコは小アンティル諸島近海で行われた第20次フリート・プロブレムに参加するため西海岸を去った。3月に入り、サンフランシスコは第7巡洋戦隊(ハズバンド・キンメル少将)の旗艦となり、グアンタナモ湾を振り出しに南アメリカ諸港を訪問する航海を行った。前半は東海岸側の港を訪問し、マゼラン海峡を通過後は西海岸側の港を訪問。6月にパナマ運河を通過して航海は終わった。

第二次世界大戦[編集]

9月1日第二次世界大戦が勃発すると、サンフランシスコはノーフォークを拠点として中立パトロールを行った。サンフランシスコは、サンフアンプエルトリコトリニダード島など西インド諸島を航行する客船や貨物船の護衛を10月14日まで行った。ノーフォークに帰投した後、サンフランシスコは1940年1月まで同地に滞在し、1月11日にグアンタナモ湾に向かった。ここで戦隊旗艦の任をウィチタ (USS Wichita, CA-45) に譲り、サンフランシスコは太平洋に戻った。

2月にパナマ運河を通過した後、サンペドロを経て3月に新しい母港である真珠湾に到着し第6巡洋戦隊に加わった。5月、サンフランシスコはオーバーホールのためピュージェット・サウンド海軍造船所に向かい、3インチ砲4基を装備した。9月29日に真珠湾に戻った後、1941年5月にサンフランシスコは第6巡洋戦隊の旗艦になった。7月にロングビーチに向けて一航海行い、8月27日に真珠湾に戻った。その後、9月に旗艦の任から外れたサンフランシスコは、10月11日から真珠湾の海軍工廠でオーバーホールに入った。工事の完成期日は12月25日に予定されていた。

真珠湾攻撃[編集]

1941年12月7日、サンフランシスコは真珠湾のドック内にいた。オーバーホールと清掃のため、この時点でのサンフランシスコの動力部分は分解されており、また5インチ砲弾と8インチ砲弾は陸上の弾薬庫に納められていた。3インチ砲は撤去中であり、28ミリ機銃は機銃架だけがあって機銃そのものは外されていた。50口径12.7ミリ機銃も点検中で、この時点で即座に使える兵器といえば、たった2基の30口径7.6ミリ機銃だけであり、さらにサンフランシスコの乗組員自体も揃っていなかった。

7時55分、日本機がフォード島英語版を爆撃したのを手始めに、真珠湾攻撃が始まった。サンフランシスコの乗組員は、自艦が動けないので他所で反撃する機会を求め、ある者は僚艦ニューオーリンズ (USS New Orleans, CA-32) に行って対空砲火を撃ち上げる手助けをし、またある者は駆逐艦トレーシー (USS Tracy, DD-214) に12.7ミリ機銃と弾薬を持ち込んで射撃した。サンフランシスコは真珠湾攻撃による被害もなく、直ちに実戦に戻れるよう作業が行われた。

12月14日、サンフランシスコは竜骨の整備を他艦の修理を優先するために延期して出渠し、2日後の12月16日に空母サラトガ (USS Saratoga, CV-3) を基幹とする第14任務部隊(フランク・J・フレッチャー少将)に加わって、ウェーク島の戦いを助けるためサラトガに海兵隊戦闘機と要員を乗せて出撃した。しかし、太平洋艦隊司令長官代理ウィリアム・パイ中将と海軍作戦部長ハロルド・スターク大将、合衆国艦隊司令長官アーネスト・キング大将の三者鼎談の結果[1]と12月23日のウェーク島陥落により、ウェーク島の北東約683キロ地点に達していた[2]第14任務部隊は行き先をミッドウェー島に変えて同島に戦闘機を降ろし、12月29日に真珠湾に帰投した。

1942[編集]

1942年1月8日、サンフランシスコは空母エンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) 基幹の第8任務部隊(ウィリアム・ハルゼー中将)に加わり、空母ヨークタウン (USS Yorktown, CV-5) 基幹の第17任務部隊(フレッチャー少将)とともにトゥトゥイラ島への輸送任務についた。1月18日にトゥトゥイラ島に到着後、サンフランシスコはマーシャル諸島およびギルバート諸島の日本軍を攻撃する第8任務部隊および第17任務部隊と別れ、輸送船団の護衛任務を続けた。

2月8日、サンフランシスコはトゥトゥイラ島を出港し、2日後の2月10日に空母レキシントン (USS Lexington, CV-2) 基幹の第11任務部隊ウィルソン・ブラウン中将)に加わり、第6巡洋戦隊に合流した。第11任務部隊はソロモン諸島東北海域からラバウルを攻撃すべく進撃した。しかし、2月20日に第11任務部隊はブーゲンビル島近海で日本の九七式飛行艇に発見され、一式陸上攻撃機17機が飛来してきた。第11任務部隊は2度にわたる攻撃を受けたが、一式陸攻17機のうち13機を撃墜して2機を大破させ[3]攻撃を挫折させた(ニューギニア沖海戦)。しかし、第11任務部隊は高速航行を続けた結果、燃料事情が心細くなり、ラバウル空襲は断念せざるを得なかった[3]

その後の数日間、第11任務部隊は南太平洋で行動し、次いで第17任務部隊とともに日本軍に痛打を浴びせるためニューギニア方面に向かった。その途中の3月7日、サンフランシスコの艦載機1機がなくなっていることが分かり、捜索したもののこの時点では発見できなかった。3月9日から10日にかけての夜、第11任務部隊と第17任務部隊はパプア湾に入った。夜明けとともに艦載機を発進させ、オーエンスタンレー山脈を越えてラエサラモアの日本軍に奇襲を仕掛けた。翌日、ミネアポリス (USS Minneapolis, CA-36) が行方不明になっていたサンフランシスコの艦載機を発見し、サンフランシスコのもとに送り届けられた。3月26日、サンフランシスコは真珠湾に帰投し、約1ヵ月後の4月22日には4093船団を護衛してサンフランシスコに向かった。5月末に真珠湾に戻ったサンフランシスコは第37歩兵師団英語版を輸送する PW2076船団を護衛し、スバを経由してオーストラリアに到着した。サンフランシスコと護衛艦艇はオークランドに寄港した後ハワイに向かい、6月29日の真珠湾に帰投した。しばらくして、サンフランシスコは駆逐艦ラフィー (USS Laffey, DD-459) およびバラード (USS Ballard, DD-267) とともに4120船団を護衛してフィジーに向かい、同地でソロモン諸島に進攻する部隊と合流した。

8月7日、ガダルカナル島ツラギ島への上陸に端を発するガダルカナル島の戦いが始まった。サンフランシスコは終日にわたってアメリカ軍の上陸を援護した。この後、サンフランシスコは第18任務部隊に入り、ノーマン・スコット少将はサンフランシスコを部隊の旗艦とした。9月3日、サンフランシスコは補給のためヌメアに向かった。補給が終わると9月8日に出撃し、サンフランシスコの第18任務部隊は9月11日に第17任務部隊および空母ホーネット (USS Hornet, CV-8) と合同して洋上給油を行い、9月14日にニューヘブリディーズ諸島を出撃したガダルカナル島への増援部隊を乗せた輸送船団の間接護衛にあたった。第61任務部隊は第17任務部隊を援護するため、第18任務部隊より東に位置した。 9月15日14時50分ごろ、空母ワスプ (USS Wasp, CV-7) に伊19の発射した魚雷が命中して火災が発生した。これを見て、スコット少将は臨時に部隊を指揮した。サンフランシスコとソルトレイクシティ (USS Salt Lake City, CA-25) は15時20分までにワスプの曳航準備に取り掛かったが、ワスプの火勢は衰えず処分されることとなった。周囲の艦艇に乗組員が移乗した後、駆逐艦ランズダウン (USS Lansdowne, DD-486) がワスプに向けて魚雷を発射し処分した。第18任務部隊はエスピリトゥサント島に向かった。2日後の9月17日朝、第18任務部隊のうちサンフランシスコ、ジュノー (USS Juneau, CL-52) および5隻の駆逐艦は第17任務部隊に合流して輸送船団の護衛にあたり、残るの艦艇はワスプの生存者を乗せてヌメアに向かった。

9月23日、部隊の組織が変わり、サンフランシスコはソルトレイクシティ、ミネアポリス、チェスター (USS Chester, CA-27) 、ボイシ (USS Boise, CL-47) 、ヘレナ (USS Helena, CL-50) および第12駆逐艦群を以って第64任務部隊が編成され、司令官にはスコット少将がついた。翌日、部隊はニューヘブリディーズ諸島に向かった。

サボ島沖海戦(エスペランス岬沖海戦)[編集]

10月7日、第64任務部隊は味方部隊の援護および「東京急行」の阻止のため、ニューヘブリディーズを出撃した。10月11日16時15分、部隊はレンネル島近海から北上。この時、サンフランシスコから発進した観測機が「6隻の駆逐艦が、ブーゲンビル島からニュージョージア海峡(スロット)を通ってガダルカナル島を目指している」との報告が入り、部隊はサボ島の南西方向から北向きにスロットに接近していった。23時30分、第64任務部隊はサボ島の北西9.7キロの海域でUターンした。新しいコースを設定してしばらくすると、レーダーは遠方に目標を捉えた。23時45分、サボ島沖海戦が始まった。

第64任務部隊は、接近しつつある五藤存知少将の日本艦隊がライトを点滅させているのを見た。最初は、陸上部隊との合図と思われたが、次第に、任務部隊を味方と勘違いしているように見受けられた。ライトを点滅させ回答を待っている日本艦隊に対し第64任務部隊は丁字戦法を取ったが、当の第64任務部隊の方も通信が上手くいかず隊形が乱れ、味方駆逐艦を敵か味方か量りかねていた。

やがて、日本艦隊が抱いていた疑問に対して、第64任務部隊は日本艦隊の旗艦青葉に対する7分間の一斉射撃で回答した。日本艦隊はあくまで味方撃ちでやられたと信じきっており、30分以上たってからようやく反撃したものの、それは微弱なものだった。青葉は大破し、古鷹は沈没。2度にわたる攻撃で、5隻あった日本艦隊の戦力は3分の1となり、駆逐艦吹雪も沈没した。別の駆逐艦2隻も、ヘンダーソン飛行場からの海兵隊機により沈没した。しかし、第64任務部隊も無傷ではなかった。日本艦隊の残存艦の反撃によりソルトレイクシティは3発被弾し、ボイシは大破したものの辛うじて艦は保った。駆逐艦もファーレンホルト (USS Farenholt, DD-491) が損傷したほか、ダンカン (USS Duncan, DD-485) は被弾により艦体を大きくえぐられ、サボ島沖で沈没した。サンフランシスコには被害がなかった。第64任務部隊は隊形を整え、エスピリトゥサント島に向かった。

10月15日、サンフランシスコはガダルカナル島の戦いに戻った。10月20日、戦艦ワシントン (USS Washington, BB-56) を加えた第64任務部隊は、ワシントンを中心とする一群と、サンフランシスコ、チェスター、ヘレナを中心とする一群に分かれて[4]エスピリトゥサント島を出撃した。その約2時間後の21時19分ごろ[4]、チェスターはサンクリストバル島南東沖で日本の潜水艦伊176の発射した魚雷の内の1本を右舷機関室に受け、11名が戦死し12名が負傷した。チェスターを外れた3本の魚雷はサンフランシスコとヘレナに向かっていったものの、魚雷を見つけた両艦は回避し、魚雷はヘレナの右舷艦尾近く、ヘレナとサンフランシスコの間、そしてサンフランシスコから1,100メートル離れた場所でそれぞれ爆発した。

サンフランシスコはチェスターを護衛し、10月21日夜にエスピリトゥサント島に帰投した後、翌10月22日に再出撃した。10月28日、スコット少将はアトランタ (USS Atlanta, CL-51) に移り、サンフランシスコは10月29日にエスピリトゥサント島に帰投した。10月30日、サンフランシスコはダニエル・J・キャラハン少将の第64.4任務群旗艦となった。この任務群は、間もなく呼称が第65任務部隊に改められた。

第三次ソロモン海戦[編集]

ゴールデンゲートブリッジの下を通過するサンフランシスコ。1942年12月11日

10月31日、第65任務部隊はガダルカナル島への増援部隊を乗せた輸送船団を護衛してエスピリトゥサント島を出撃した。コクンボナ英語版とコリ岬に対して砲撃を行う一方、輸送部隊は11月6日に揚陸を完了。11月8日にエスピリトゥサント島に帰投し、サンフランシスコは新たに第67.4任務群の旗艦となった。2日後の11月10日、サンフランシスコは再びガダルカナル島方面に向けて出撃した。正午前、部隊は日本の水上偵察機に発見された。それでも、部隊は11月12日にルンガ岬に到着し、増援部隊の揚陸を始めた。

昼を少し回った頃、日本の航空部隊が接近しつつあるという警報が発令された。13時18分、艦船は空襲に備えて動き出した。はたして、14時8分に21機の日本機が空襲を仕掛けてきた。14時16分、1機の雷撃機が撃たれつつもサンフランシスコの右舷艦尾方向に向けて魚雷を落とした。魚雷はサンフランシスコに沿って通過していき命中しなかったが、雷撃機そのものがサンフランシスコの艦尾コントロール室に激突した後、海中に転落した。この激突により15名が戦死し、29名が負傷。1名が行方不明となった。サンフランシスコの第二戦闘指揮所は激突で火災が発生したが、夜までには消し止められた。また、20ミリ機銃3基が破壊された。サンフランシスコは負傷者を攻撃輸送艦プレジデント・ジャクソン (USS President Jackson, AP-37) に移送した後、日本艦隊の来襲に備えて輸送船団を退避させ、態勢を整えた後ガダルカナル島沖に戻った。深夜、サンフランシスコと3隻の軽巡洋艦、8隻の駆逐艦はレンゴ水道英語版に入った。

11月13日1時25分、北西方向25,000メートルの距離に日本艦隊を探知し、これを受けてキャラハン少将は迎撃態勢を整え日本艦隊を待ち受けた。1時48分、サンフランシスコは真っ暗闇の中に浮かんだ敵巡洋艦を右舷方向に発見し砲撃した。1時51分、今度は右舷艦首方向3,000メートルの距離に発見した小型の巡洋艦か駆逐艦に対して砲口を向けた。しかし実は前を進んでいたアトランタだった。サンフランシスコは「偶然にも」アトランタを砲撃し、砲弾はアトランタに命中して多大な損害を与えた。この誤射の前後、アトランタは戦艦比叡の第一斉射で艦橋などが激しく撃たれ[5]、敵味方からの砲撃によりスコット少将やアトランタの幹部の多くが戦死してしまった。サンフランシスコは、アトランタに対して8インチ砲を19発命中させた後[6]、遅ればせながら相手が味方である事を認め砲撃中止を命令したが、この命令はどういうわけか味方の全艦艇にも通信され、アメリカ側の砲撃は一瞬止んだ[6]。サンフランシスコの誤射は、アトランタの沈没直前に改めて判明した。アトランタの上部構造物に緑色の染料が付着していたが、サンフランシスコの着色弾は他の艦とは違って緑色の着色弾を使用していた。その後間もなく、至近距離に比叡を発見して砲撃した。

2時を過ぎ、サンフランシスコは砲口を霧島に向けたが、当時に、サンフランシスコも霧島と、軽巡洋艦長良および駆逐艦のよい目標となった。霧島、長良および駆逐艦に対しサンフランシスコは5インチ砲を発射したが、霧島も主砲と副砲を撃ち、砲弾はサンフランシスコの左舷側に次々と命中。艦橋に命中した砲弾は全ての高級幹部をなぎ倒したかひどく傷つけたと思われた。わずかに生き残った者も無傷では済まなかったが、数少ない生き残りのブルース・マッカンドレス少佐がサンフランシスコの指揮にあたり、被害対策担当班のハーバート・E・スキャンランド英語版少佐とともにサンフランシスコを浮かす努力をした。スキャンランド少佐はマッカンドレス少佐に操舵室にいるよう頼み、操舵装置とエンジン制御装置を第二戦速にシフトした。間もなくコントロールの自由を失ったが、司令室からの操作により辛うじて回復した。しかし、サンフランシスコは艦内の状態が滅茶苦茶になっていた。やがて日本艦隊は去っていき、サンフランシスコもガダルカナル島の北岸に沿って東に向けて航行した。

サンフランシスコは77名が戦死し、その中にはキャラハン少将以下任務部隊の幕僚、およびカッシン・ヤング艦長以下サンフランシスコの幹部も含まれていた。また、105名が負傷し、7名が行方不明になったがそのうちの3名は後に救助された。サンフランシスコには45発もの命中弾があり、上部構造物に対する被害は大きかったが、喫水線より下には命中弾がなかった。日本艦隊はヘンダーソン飛行場砲撃のため三式弾を多く搭載していたが、三式弾は徹甲弾と比べて貫通力が弱く[7]、命中弾の多さの割には装甲を貫いて穴を開け、致命傷を与えるような損傷がほとんどなかった[7]。これがサンフランシスコには幸いした。火災も艦内の22箇所から発生したが、全て消し止められた。

4時を回り、サンフランシスコは応急修理のためエスピリトゥサント島に針路を定め、ヘレナとジュノーがこれに続いて3隻はシーラーク水道英語版を通過しサンクリストバル島近海を航行しつつあった[8]。10時を過ぎた頃、ジュノーの医療班がサンフランシスコに移って負傷者を治療するためサンフランシスコに近寄っていった。しかし、その1時間後、ジュノーは伊26からの雷撃を受け、魚雷が左舷火薬庫に命中。ジュノーは茶色と白の煙に加え大きな爆発炎に包まれ、文字通り木っ端微塵となった。サンフランシスコにはジュノーの残骸が降りかかり、1名の乗組員が残骸の直撃を受けて両足を骨折した。煙が消え去ったが、もはやそこにジュノーの姿はなかった。サンフランシスコとヘレナは航行しながら生存者を探したが、間もなく捜索を打ち切ってエスピリトゥサント島に急いだ。ジュノーの生存者は8日間も海上を漂って救助を待ったが、サメの襲撃などで数を減らし、10名しか生き残らなかった。

11月14日午後、サンフランシスコはエスピリトゥサント島に帰投。サンフランシスコは13日の戦闘と10月11日から12日のエスペランス岬沖での奮戦ぶりが讃えられ、殊勲部隊章が授けられた。11月18日、サンフランシスコはヌメアに向けて出港。ヌメアに到着後11月23日にアメリカ本土に向けて出港した。12月11日にサンフランシスコに到着し、3日後からメア・アイランド海軍造船所で修理が始まった。

1943 - 1944[編集]

1943年2月26日、戦列に復帰したサンフランシスコは PW2211船団を護衛し、南太平洋に向かった。3月20日にヌメアに到着した後、5日後にエファテ島に向かい、4月中に真珠湾に帰投した。サンフランシスコはアリューシャン方面の戦いに投入されることとなり、北太平洋部隊の第16任務部隊に合流。月末にアラスカに到着すると、サンフランシスコはアダック島を拠点に行動し、5月のアッツ島の戦いおよび7月のキスカ島奪還では護衛に従事した。9月中旬に真珠湾に帰投したサンフランシスコは、9月29日に第14.2.1任務群に加わり、ウェーク島攻撃に向かった。任務群は10月5日にウェーク島近海に到着し、日本軍守備隊の射程圏内を航行した。10月11日、任務群は真珠湾に帰投した。

次いでサンフランシスコはガルヴァニック作戦に参加し、ブタリタリ沖に到着した後、ベティオ島英語版に対する事前砲撃に参加し、ブタリタリ西方の補給路を確保した。11月26日、サンフランシスコはヨークタウン (USS Yorktown, CV-10) 、レキシントン (USS Lexington, CV-16) 、カウペンス (USS Cowpens, CVL-25) 、5隻の巡洋艦および6隻の駆逐艦からなる第50.1任務群に加わり、クェゼリン方面の日本軍施設への攻撃に向かった。12月4日、艦載機が目標に向かった後、正午前後から日本機の反撃が始まった。12時50分、サンフランシスコは左舷艦首方向から3機の雷撃機の突入を受けたが、そのうちの2機はサンフランシスコに対して機銃掃射を行ったものの対空砲火で撃墜され、残る1機もヨークタウンからの射撃で撃墜された。機銃掃射により1名が戦死し22名が負傷した。日が落ちてから再び日本機の攻撃があり、レキシントンが雷撃されて損傷した。任務群は北に西にと行動し、12月5日1時30分以降はレーダースクリーンから日本機が消えた。翌日、サンフランシスコは真珠湾に向かった。

1944年1月22日、サンフランシスコは第52任務部隊の一艦として再びマーシャル方面に向かった。1月29日、任務部隊はクェゼリンの戦いの支援でマロエラップ環礁の日本軍施設に対する攻撃を行った。攻撃後クェゼリンに向かい、1月31日6時30分に作戦海域に到着したサンフランシスコは、7時30分から環礁内のあらゆる目標に向けて臨機応変に発砲した。8時49分に一旦発砲を中止し、9時に再開。サンフランシスコは環礁内の島々に対して艦砲射撃を行い、それは日没時まで続けられた。2月8日、サンフランシスコはマジュロに向かい、第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)に合流した。

2月12日、サンフランシスコは第58.2任務群の一艦としてマジュロを出撃。4日後、第58任務部隊はトラック島空襲を行った。2月16日から17日にかけての深夜、イントレピッド (USS Intrepid, CV-11) が魚雷の命中により損傷。サンフランシスコは後送されるイントレピッドの護衛に途中まであたった。2月19日にイントレピッドは2隻の駆逐艦とともに真珠湾に回航され、サンフランシスコは他の艦船とともにマジュロに向かった。2月25日、サンフランシスコは第58.2任務群とともに真珠湾に向かった。1ヵ月後の3月20日、第58.2任務群はマジュロに進出し、3月22日にパラオおよびカロリン諸島への攻撃に出撃した。3月30日から4月1日にかけて艦載機がパラオとウォレアイ環礁を攻撃し、サンフランシスコは観測機を救助活動に活用した。4月6日に帰投し、一週間後に任務群はホーランジアの戦いの支援で出撃した。4月21日から28日まで第58.2任務群はホーランディアに対する上陸作戦を支援した後、4月29日にトラック諸島を再度攻撃。サンフランシスコは4月30日に、他の8隻の巡洋艦とともにサタワン環礁への砲撃を行った。砲撃後は第58.2任務群に合流し、マーシャル諸島に向かった。

マジュロに帰投後、クェゼリンに移動したサンフランシスコは、第53.15任務群とともにサイパンの戦いに参加するため、6月10日に出撃した。6月14日から2日間、サンフランシスコはテニアン島に対して砲撃を行い、一時第9巡洋戦隊の指揮下に入って6月16日にグアムを砲撃した。日本艦隊がサイパンに向かいつつあるという報に接し、サンフランシスコはサイパン島沖に戻った。6月17日に補給を行ったサンフランシスコは、2日後のマリアナ沖海戦に参加。10時46分頃から攻撃を受けたものの、日本の艦載機は対空砲火と上空援護の戦闘機により部隊から30キロ以内に立ち入ることすら難しかった。11時46分、サンフランシスコはインディアナポリスとともに対空射撃を行い、正午までには静けさが戻った。6月20日、サンフランシスコは逃げる日本艦隊の追撃に加わったが、翌日までにはサイパン島沖に戻って援護射撃を再開した。7月8日、サンフランシスコは再びグアム沖に現れ、アガットとハガニアに対して砲撃を行った。7月12日にサイパン島沖で補給を行い、7月18日にはグアム沖に戻った。

7月18日から20日にかけてはアガットとファチ岬沖で水中破壊チームの支援を行い、日本軍に陣地を整えさせる暇も与えなかった。7月21日にアガットビーチに陸上部隊を上陸させ、7月24日にはオロテ岬英語版に対して砲撃を行った。7月30日に作戦海域を離れ、エニウェトク環礁と真珠湾を経由しサンフランシスコに向かった。8月16日に到着した後、オーバーホールに入った。

10月31日、オーバーホールが終わったサンフランシスコは西に向かい、11月21日にウルシー環礁に到着し、第6巡洋戦隊の旗艦となった。12月10日、サンフランシスコは第38.1任務群とともにウルシーを出撃し、フィリピン攻撃に向かった。12月14日から15日にかけて、艦載機はフィリピン各地を空襲し、サンフランシスコの艦載機は対潜哨戒と救助任務にあたった。12月16日、第38任務部隊ジョン・S・マケイン中将)は第30.17任務群と合流して洋上補給を行う予定だったが、コブラ台風に遭遇し給油活動は中止。その後2日間にわたって任務部隊は台風に翻弄された。12月19日、サンフランシスコは台風で沈没した3隻の駆逐艦の生存者捜索にあたった。第38任務部隊は翌12月20日にフィリピンへの攻撃を再開すべく西に向かったが空襲できる状況になく、12月24日にウルシーに帰投した。

1945[編集]

6日後、第38任務部隊は出撃し、1945年1月2日から3日と9日に台湾を、1月5日から7日にはルソン島をそれぞれ攻撃し、日本機は戦闘機によって一掃された。第38任務部隊はバシー海峡を越えて南シナ海に入り、5日間にわたって軽巡洋艦香椎などの艦船やインドシナ半島方面の日本軍施設を叩きのめした。1月15日から16日には香港アモイ汕頭を攻撃し、1月20日にルソン海峡を東航して台湾攻撃に向かった。1月21日に神風の攻撃によりラングレー (SS Langley, CVL-27) およびタイコンデロガ (USS Ticonderoga, CV-14) が損傷を受けたが、翌1月22日には南西諸島を攻撃し、1月26日にウルシーに帰投した。

2月10日、第58任務部隊は硫黄島の戦いの支援のため出撃し、サンフランシスコもこれに従った。2月16日と17日には本州の飛行場を攻撃し、2月18日に小笠原諸島に接近した。サンフランシスコは2月19日の硫黄島上陸支援のため火力支援部隊に編入され、2月23日まで硫黄島へ艦砲射撃を行った。25日に東京を再度攻撃し、次に名古屋を攻撃する予定だったが、天候不良により中止された。2月27日、第58任務部隊はウルシーに向かった。

3月21日、サンフランシスコは第54任務部隊の一艦としてウルシーを出撃し、沖縄島を目指した。3月25日、サンフランシスコは慶良間列島に対する攻撃で、掃海作業と水中爆破班の作業を支援した。翌日には慶良間の島々に対して砲撃を行った。3月27日には空からの反撃が始まったが、サンフランシスコは予定通り4月1日の上陸予定日に備えて沖縄島沖に移動した。サンフランシスコは4月1日以降の5日間の間に陸上のあらゆる施設に対して砲撃を加えた。4月6日、弾薬を使い切ったサンフランシスコは慶良間に戻って補給を行い、その最中に天山の攻撃を受けたがはね付けた。第54任務部隊に戻ったサンフランシスコは九七式艦攻の攻撃も撃退した。4月7日朝には別の空襲を受け、1機の特攻機がサンフランシスコめがけて突入してきたが、撃墜されて右舷艦首から46メートル離れた地点に墜落した。サンフランシスコは第51任務部隊に移動して沖縄の東に向かい、夜になって第54任務部隊に復帰した。4月11日から12日には九九式艦爆の突入を受けたが、この九九式艦爆は火を噴きながら商船をかすめて海中に墜落した。

4月13日から14日にかけては再び第51任務部隊に合流し、島東部で行動した。4月15日、サンフランシスコは慶良間に戻り、夜になるとサーチライトを照射して震洋の侵入を警戒した。日付が変わる直前、2隻の震洋が輸送船を目標に侵入してきたが、サンフランシスコはそのうちの1隻を撃沈する手助けをした。サンフランシスコは那覇沖に戻り、4月17日まで飛行場に対して砲撃を行った。翌日、サンフランシスコは中城湾に向かい、同湾を拠点に島の南部で支援行動を行った。4月21日から24日に那覇方面の飛行場攻撃を行った後、ウルシーに向かった。

5月13日、サンフランシスコは沖縄の戦場に戻り、中城湾から支援行動を行った。与那原方面への第96歩兵師団英語版の上陸支援に始まり、5月27日には第77歩兵師団英語版の上陸支援を、慶良間での補給が終わった後の5月30日には第1海兵師団および第6海兵師団の上陸支援をそれぞれ行った。6月21日、サンフランシスコは沖縄の南東190キロ地点で第32.15任務群と合流し、慶良間に向かった。7月3日、サンフランシスコは日本本土進攻の準備のためフィリピンに下がった。しかし、8月15日に戦争が終わり、進攻準備は取り消され、新たな任務の準備を行った。

戦後[編集]

8月28日、サンフランシスコはスービック湾を出航し中国沿岸に向かう。黄海渤海で示威活動を行った後、掃海作業を支援し、10月8日には仁川に停泊した。13日から16日まで渤海で別の示威活動を行った後、仁川に帰還した。同地で第6巡洋戦隊司令官のジェラウルド・ライト英語版少将は朝鮮半島における日本海軍の降伏調印委員会の委員長職を務めた。

11月27日にサンフランシスコは帰国の途に就く。サンフランシスコには12月半ばに到着し、1946年1月初めに東海岸に向かい19日に不活性化のためフィラデルフィアに到着した。2月10日に退役し、大西洋予備役艦隊フィラデルフィア・グループで保管される。1959年3月1日に除籍され、9月9日にスクラップとしてニューヨークのユニオン・メタルズ・アンド・アロイ社に売却された。サンフランシスコはフロリダ州パナマシティで1961年に解体された。

ウォー・メモリアル[編集]

サンフランシスコがメア・アイランド海軍造船所で1942年12月に修理を受けたとき、艦橋の広範囲な再建が必要であった。古い艦橋の両翼は取り外され、現在ゴールデン・ゲート・ナショナル・レクリエーション・エリアの「ランズ・エンド」に据え付けられ太平洋を見下ろせる様になっている。それは東京=サンフランシスコ間の大圏航路に位置している。また、艦内時鐘はサンフランシスコのマリーンズ・メモリアル・クラブに展示されている。

受章歴など[編集]

サンフランシスコは第二次世界大戦の戦功で17個の従軍星章を受章した。前述のように、エスペランス岬沖と第三次ソロモン海戦での戦功によりサンフランシスコは殊勲部隊章を受章している。同海戦における働きにより、サンフランシスコ乗組員のスキャンランド少佐、マッカンドレス少佐の他にラインハート・J・ケップラー英語版掌帆兵曹の3名が名誉勲章を受章し、戦死したキャラハン少将にも名誉勲章、真珠湾攻撃での働きですでに名誉勲章を授与されていたカッシン・ヤング艦長には海軍十字章がそれぞれ追贈された。

サンフランシスコ艦上で戦死したキャラハン少将およびカッシン・ヤング艦長の名前は艦艇に命名された。前者は駆逐艦キャラハン (駆逐艦) (USS Callaghan, DD-792) およびミサイル駆逐艦キャラハン (DDG-994) であり、後者は駆逐艦カッシン・ヤング (USS Cassin Young, DD-793) である。このうち、DD-792 は1945年7月29日に神風攻撃により沈没し、神風によって撃沈された最後のアメリカ海軍艦艇となった[9]

脚注[編集]

  1. ^ 『戦史叢書38』203ページ
  2. ^ 石橋、242ページ
  3. ^ a b 阿部, 241ページ
  4. ^ a b ミュージカント, 121ページ
  5. ^ 木俣『日本戦艦戦史』217ページ
  6. ^ a b 木俣『日本戦艦戦史』218ページ
  7. ^ a b 木俣『日本戦艦戦史』222ページ
  8. ^ 木俣『日本潜水艦戦史』352ページ
  9. ^ ウォーナー, 194、356ページ

参考文献[編集]

  • 防衛研究所戦史室編 『戦史叢書38 中部太平洋方面海軍作戦(1)昭和十七年五月まで朝雲新聞社、1970年
  • デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー/妹尾作太男(訳)『ドキュメント神風 特攻作戦の全貌 下』時事通信社、1982年、ISBN 4-7887-8218-9
  • 木俣滋郎『日本戦艦戦史』図書出版社、1983年
  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
  • イヴァン・ミュージカント/中村定(訳)『戦艦ワシントン』光人社、1988年、ISBN 4-7698-0418-0
  • 阿部安雄「米機動部隊ラバウル空襲ならず」『写真・太平洋戦争(1)』光人社、1988年、ISBN 4-7698-0413-X
  • 石橋孝夫「米空母機動部隊の反撃」『写真・太平洋戦争(1)』光人社
  • E・B・ポッター/秋山信雄(訳)『BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』光人社、1991年、ISBN 4-7698-0576-4
  • 「世界の艦船増刊第36集 アメリカ巡洋艦史」海人社、1993年
  • 木俣滋郎『日本潜水艦戦史』図書出版社、1993年、ISBN 4-8099-0178-5
  • 「世界の艦船増刊第57集 第2次大戦のアメリカ巡洋艦」海人社、2001年

外部リンク[編集]