ルイビル (重巡洋艦)

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USS Louisville
艦歴
発注
起工 1929年7月4日
進水 1930年9月1日
就役 1931年1月15日
退役 1946年6月17日
除籍 1959年3月1日
その後 1959年にスクラップとして処分
性能諸元
排水量 9,050トン
全長 600 ft 3 in (182.9 m)
全幅 66 ft 1 in (20.1 m)
吃水 16 ft 4 in
機関
最大速 32.5 ノット
航続距離
乗員 士官、兵員621名
兵装 8インチ砲9門(三連装3基)、5インチ砲4門、
21インチ魚雷発射管6門
航空機
モットー

ルイビル (USS Louisville, CL/CA-28) は、アメリカ海軍重巡洋艦ノーザンプトン級重巡洋艦の3番艦。艦名はケンタッキー州ルイビルに因み、その名を持つ艦としては3隻目。

艦歴[編集]

ルイビルは1929年7月4日にワシントン州ブレマートンピュージェット・サウンド海軍造船所で起工し、1930年9月1日にジェーン・ブラウン・ケネディによって進水、1931年1月15日に艦長E・J・マーカート大佐の指揮下就役する。当初は CL-28 (軽巡洋艦)であったが、ロンドン海軍軍縮会議の結果1931年7月1日に CA-28 に艦種変更された。

大戦前[編集]

ルイビルの整調巡航は1931年の夏から冬にかけて行われ、ブレマートンからパナマ運河を経由してニューヨークまでを巡航した。ニューヨークから戻ってルイビルは1932年、艦隊演習に参加しその後サンペドロからサンディエゴの海域で砲撃訓練を行う。サンペドロから帰還すると1933年の冬にはハワイ海域で活動し、対空戦闘のための訓練艦任務に従事する。1934年4月、サンディエゴを出航し9ヶ月間の航海で、中央アメリカからカリブ海、東海岸の様々な港でその威容を誇示した。晩秋にカリフォルニア州へ帰還したルイビルはアラスカ州ダッチハーバーに向けて出航し、1935年の春まで砲撃演習及び戦術演習を行い、その後真珠湾で艦隊演習に参加した。

続く2年間、ルイビルは西海岸沿いに作戦活動に従事し、艦隊演習やラテンアメリカの港に対する親善訪問、訓練活動を行った。1938年1月に長期太平洋巡航を開始し、ハワイサモアオーストラリアタヒチを訪問、その後真珠湾に帰還し艦隊演習を行った。シドニーでルイビルの乗組員は、転覆した観光フェリーボートの多くの乗客を救助した。

1939年の冬、ルイビルはカリブ海での艦隊演習に参加する。1940年5月まで同海域で作戦活動に従事したルイビルは西海岸に帰還し、ハワイで艦隊演習を行った後、秋にカリフォルニア州ロングビーチを出航、パナマ運河を通過し東南アメリカに向かう。ブラジルバイーア州でルイビルは南アフリカサイモンズタウンへの巡航を命じられる。中立艦船としてルイビルは星条旗を掲げながらUボートが横行した水域を巡航した。サイモンズタウンでルイビルはイギリス政府がアメリカへ預ける金塊1億4,800万ドル分を受け取る。その後ニューヨークへ向かい、金塊を下ろすと大西洋へ戻った。

第二次世界大戦[編集]

1941 - 1943[編集]

アリューシャン方面のルイビル。1943年4月

1941年12月7日、ルイビルはA・T・スコット (A. T. Scott) およびプレジデント・クーリッジ (SS President Coolidge) を護衛し、タラカン島から真珠湾に向かう途中にあった。ハワイに向かう途中、損害調査のため短期間停泊し、その後カリフォルニアへ向かう。カリフォルニアでルイビルは、空母ヨークタウン (USS Yorktown, CV-5) を基幹とする第17任務部隊英語版フランク・J・フレッチャー中将)に参加し、1942年1月6日にサンディエゴを出航、空母エンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) 基幹の第8任務部隊(ウィリアム・ハルゼー中将)とともに、サモアに向かう。1月22日にサモアで部隊を上陸させると、その帰路の途中に初の実戦参加を行う。ルイビルの最初の実戦参加は、ギルバート諸島及びマーシャル諸島に対する空母艦載機部隊の攻撃支援であった。このマーシャル・ギルバート諸島機動空襲でルイビルは艦載機を一機失っている。

真珠湾で短期間停泊した後、ルイビルはエリス島近辺のアメリカ軍基地を支援し、かつ海域を偵察した。3月の初めには第119任務部隊に合流し、ビスマルク諸島からソロモン諸島にかけての海域で作戦活動に従事、日本軍の前進に備えた。部隊はサラマウアラエラバウルに向かい、何日もの間、多くの敵目標に対して空襲を行った。

作戦活動後、ルイビルは真珠湾に帰投し、その後、サンフランシスコメア・アイランド海軍造船所で兵装の増強が行われた。5月31日にルイビルはアリューシャン列島に向かい第8任務部隊に参加する。この期間のルイビルの任務は主に船団護衛であったが、日本軍が進出したばかりのキスカ島に対する艦砲射撃も行われた。

11月11日、ルイビルはサンフランシスコを出港し、真珠湾に向かった。数日後、ルイビルは南太平洋方面に向かい、ニューカレドニア行きの輸送船団を護衛して進出した。護衛終了後、ルイビルはエスピリトゥサント島で第67任務部隊と合流し、日本艦隊と戦うためソロモン諸島に向かった。1943年1月29日、ルイビルはガダルカナル島の戦いに関わる7回の海戦の最後であるレンネル島沖海戦を戦い、同方面から日本の勢力が一掃されるまで行動した。

4月に入り、ルイビルは真珠湾を経由して再びアリューシャン戦線に戻り、第16任務部隊に合流。5月11日から30日までのアッツ島の戦いおよび、キスカ島への砲撃に参加した。

1944[編集]

キスカ島撤退作戦で日本軍がこの方面から去った後、ルイビルはしばらくの間、アリューシャン方面で輸送船団の護衛任務についた後、1944年1月に南太平洋に向かい、同方面でジェシー・B・オルデンドルフ少将の旗艦となり、マーシャルの戦いで火力支援部隊を指揮することとなった。1月下旬から作戦に参加し、1月29日にはウォッジェ環礁に対して艦砲射撃を行った。2月1日、ルイビルはクェゼリンの戦いの支援でロイ=ナムル島の飛行場と砲台を艦砲射撃中、僚艦のインディアナポリス (USS Indianapolis, CA-35) からの誤射を受け損傷したが[1]、それでも2月3日の同島の占領に貢献した。2週間後、ルイビルは引き続き火力支援部隊を率いてエニウェトクの戦いに転じ、エニウェトク環礁は2月23日に征服した。

ルイビルはエニウェトクの戦いが終わると第58任務部隊に加わり、4月にトラック諸島サタワン環礁を砲撃した。6月に入るとマリアナ・パラオ諸島の戦いが進められ、ルイビルは沿岸砲撃部隊の主力として行動した。作戦開始後の11日間はテニアン島グアムを砲撃し、その砲撃は絶え間なく行われた。

マリアナの戦いが終わると、ルイビルは9月中旬までは後方に下がった後、ペリリューの戦いの支援でパラオを攻撃した。一連の攻撃により、アメリカ軍はフィリピン奪還の第一歩に向けての最終準備が整った。10月18日、ルイビルは引き続きオルデンドルフの旗艦としてレイテ湾に侵入し、沿岸部の日本軍に対して砲撃を行った。日本海軍連合艦隊を押し立ててレイテ湾を目指し、アメリカ海軍はこれに対抗した。世に言うレイテ沖海戦である。

戦艦ペンシルベニアと、後続のコロラド、ルイビル、ポートランド、軽巡洋艦コロンビア。1945年1月

ルイビルは第7艦隊トーマス・C・キンケイド中将)指揮下の第77部隊の総旗艦として、戦艦6隻、巡洋艦8隻(ルイビルを含む)[2]、駆逐艦26隻[3]を擁し、レイテ湾を警戒していた。第38任務部隊小沢治三郎中将の機動部隊攻撃に全力を傾けたため、オルデンドルフは手持ちの艦艇で日本艦隊の突入を防がなければならなかった[4]。オルデンドルフは魚雷艇隊、駆逐艦群、戦艦と巡洋艦の三段構えで日本艦隊、特に南側を進む西村祥治中将の艦隊を迎え撃つこととした。

10月25日未明、魚雷艇隊は西村艦隊と接触。次いで駆逐艦群が突撃して戦艦扶桑と駆逐艦朝雲山雲満潮を撃沈した[5]。残るは戦艦山城、重巡洋艦最上、駆逐艦時雨だけになっていた。この時点でオルデンドルフは、第77部隊の弾薬事情が多少心細いことを知り、効果的に弾薬を使うため戦艦・巡洋艦部隊を三分し、軽巡洋艦2隻とオーストラリア海軍重巡洋艦シュロップシャー (HMAS Shropshire) を一段目、ルイビルを含む重巡洋艦3隻と軽巡洋艦2隻を二段目、そして真珠湾から甦った戦艦群を三段目に配置し、丁字戦法を採用して一気の砲撃で決着をつけようとした[2]。やがて、ルイビルのレーダーは14,000メートルの位置に山城を探知し、これを合図として一斉砲撃が始まった[6]。西村艦隊の残存艦は袋叩きにされ、山城は西村とともに海に消え、最上は脱出に成功したが最終的には撃沈された。時雨のみ生還して西村艦隊は全滅。ルイビルは戦艦同士の最後の砲戦[6]に花を添えた形となったが、ルイビルの部隊は混戦の最中に味方の駆逐艦アルバート・W・グラント (USS Albert W. Grant, DD-649) とニューコム (USS Newcomb, DD-586) に命中弾を与えてしまった[7]

レイテ沖海戦後のルイビルは、一時第38任務部隊の指揮下でルソン島攻撃に参加した。

1945[編集]

リンガエン湾で陸軍特別攻撃隊「石腸隊」または「進襲隊」所属の九九式襲撃機の突入を受けたルイビル。1945年1月5日[8]

1945年に入るとルイビルは、ルソン島の戦いに参加し、レイテに続いて火力支援部隊を率いてリンガエン湾に向かう。途中の1月5日から6日にかけて神風特攻隊が部隊に対して次から次へと突入し、ルイビルにも1月5日17時6分ごろに1機が二番砲塔に突入し、別に1機を撃墜した。ルイビルは火災が発生し、爆発によって艦橋に大きなダメージを受け、艦長も火傷を負って艦の指揮が執れなくなった[9]。1月6日17時31分ごろにも1機が突入[10]。しかしながら、ルイビルは大きな損傷を受けたにもかかわらず艦砲射撃を続け、敵機数機を撃墜した。とはいえ、最終的には後送され、その後メア・アイランド海軍造船所で修理を行った。

修理は春までに完了し、ルイビルは再び太平洋に向かい第54任務部隊に加わる。部隊は沖縄戦で地上部隊の援護射撃を行った。6月5日にルイビルは再び特攻攻撃を受け、三式戦闘機4機の突入を受けるが[11]、9日まで艦砲射撃を継続し、その後15日に修理のため真珠湾に向かった。

戦後[編集]

戦争は8月15日に終わり、ルイビルは新たな任務が命じられた。T・G・W・セトル少将が座乗したルイビルは16日にグアムを出航し、大連満州に向かう。大連では連合軍の捕虜収容を行い、その後青島に向かう。青島で日本軍艦艇は青島方面特別根拠地隊司令官金子繁治中将により引き渡され、それらの艦艇を仁川へ送り届けた後、再び中国に向かい煙台での任務に就く。10月半ばに黄海部隊に加わり、その後サンペドロ経由でフィラデルフィアに帰還、1946年6月17日に退役し、大西洋予備役艦隊入りした。続く13年間を同艦隊で保管された後、1959年3月1日に除籍され、9月14日にニューヨークのマーリーン・ブラウズ社に売却された。

ルイビルは第二次世界大戦の戦功で13個の従軍星章を受章した。

脚注[編集]

  1. ^ The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II
  2. ^ a b 木俣『日本戦艦戦史』563、564ページ
  3. ^ 木俣『日本水雷戦史』502ページ
  4. ^ 木俣『日本戦艦戦史』562ページ
  5. ^ 木俣『日本水雷戦史』503、504ページ
  6. ^ a b 木俣『日本戦艦戦史』564ページ
  7. ^ 木俣『日本戦艦戦史』571ページ
  8. ^ ウォーナー『ドキュメント神風 下』305ページ
  9. ^ ウォーナー『ドキュメント神風 上』306ページ
  10. ^ ウォーナー『ドキュメント神風 上』307ページ
  11. ^ ウォーナー『ドキュメント神風 下』352ページ

参考文献[編集]

  • デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー/妹尾作太男(訳)『ドキュメント神風 特攻作戦の全貌 上・下』時事通信社、1982年、ISBN 4-7887-8217-0ISBN 4-7887-8218-9
  • 木俣滋郎『日本戦艦戦史』図書出版社、1983年
  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
  • 「世界の艦船増刊第36集 アメリカ巡洋艦史」海人社、1993年
  • 「世界の艦船増刊第57集 第2次大戦のアメリカ巡洋艦」海人社、2001年

外部リンク[編集]