魚雷艇

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魚雷発射管をカメラへ向けるソ連最後の魚雷艇、206M号計画「シュトールム」型大型魚雷艇

魚雷艇(ぎょらいてい)は、魚雷を主兵装とする高速戦闘艇である。英語の「motor torpedo boat」の直訳から以前は内火水雷艇と呼ばれたこともあった。国によって分類に差異が見られ、水雷艇ミサイル艇と区別されない場合もある。特に、初期の水雷艇・魚雷艇は要目面からも区別がし難い。日本では水雷艇と魚雷艇は前者を水雷艇、後者を内火水雷艇あるいは魚雷艇と称して区別する伝統があるが、英語の影響からごく稀に水雷艇も魚雷艇と呼ばれることもある。また、しばしば英語からの影響で高速魚雷艇と呼ばれることもあるが、この項では高速魚雷艇(MTB)との区別のため一律「魚雷艇」と呼ぶこととする。

定義[編集]

ニューギニア方面で哨戒任務に就くアメリカ海軍のPTボート

魚雷艇は、本来的には「内燃機関を搭載する水雷艇」である。魚雷を主武装とし、これを目標に接近して発射するため、快速と機動力を第一に設計される。そして、高速と機敏さで大型艦からの砲撃を避けることを期待され、ほとんど装甲が施されていない。原則として非常に小型であるが、1950年代以降は汎用性を持たせるため大型化が顕著になっていった。

概要[編集]

水雷時代の幕開け[編集]

様々な歴史資料が、魚雷艇が水雷時代の幕開けを導いた、あるいは機雷や「自走水雷」すなわち魚雷の開発を促したと述べている。水雷が登場した当初、大きな課題となったのはどのようにしてこの新兵器を用いるか、すなわちいかなる艦船にこの兵器を搭載すべきか、という問題であった。

水雷を主兵装とするという点で最初期の魚雷艇と言える最初の舟艇は、18世紀末から19世紀初めにその姿を現した。第二のシリーズは、1878年に歴史上に姿を現した。

前史[編集]

1776年から1778年にかけて行われたアメリカ独立戦争の中で実施された水雷による攻撃が、事実関係が確かな歴史上最初の水雷攻撃であるとされている。1776年9月7日アメリカ海軍タートル潜水艇イギリス海軍3等戦列艦イーグルを撃沈したのがこれに当たる。また、イギリス1803年から1805年にかけて行われたナポレオン戦争において水雷を艦隊戦の切り札とする試みを実施している。[1]

水雷の実用化に対する最初の試みは、曳航式や刺突式の外装水雷となって一応の完成を見た。しかし、この水雷は次のスタイルが確立すると急速に廃れた。すなわち、自走水雷こと魚雷の登場である。これらの水雷兵装の研究は強力な海軍の整備に後れを取っていたアメリカ合衆国において、その遅れを奪回するために盛んに行われた。こうして、魚雷艇登場の基礎が形成されていった。

より厳密に魚雷艇の創始者と言えるのがロシア帝国ステパン・マカロフで、彼は露土戦争中の1878年1月14日チェスマーシノープという2 隻の艦載水雷艇で以ってオスマン帝国仮装巡洋艦を奇襲、魚雷攻撃により撃沈した。チェスマーやシノープは「水雷ランチ」と呼ばれる排水量わずか数 tの小型艇であったが、これこそがのちにいう奇襲艇「魚雷艇」の始まりといえるものであった。

魚雷艇の誕生[編集]

魚雷兵装のための最低限の艇体規模に抑えられた東ドイツ131号計画型魚雷艇
魚雷艇の航海性能は決して良好とは言えなかった(西ドイツのヤグアル級)

最初の水雷艇は、30 tから100 t程度の排水量で12 ktから18 ktの速力を持ち、武装は1 門から2 門程度の180 mm魚雷を搭載していた。火砲装備は軽量のものだけで、艇によってはまったく搭載していなかった。

水雷艇にとって最初の実戦経験期となった1878年から日露戦争終結の1905年の間に得られた経験から、水雷艇は任務を遂行するためには性能が不十分であり、その特性を十分生かすにはさらなる改良が必要であることが明らかになってきた。水雷艇の欠点として挙げられたのが、高い脆弱性と貧弱な魚雷搭載量、航続距離の不足、不十分な航洋性、そして魚雷自体の性能不足であった。こうした欠点を克服するために、いくつかの戦術が考え出された。すなわち、攻撃は集団で行うこと、活動時間帯は夜間が好ましいこと、沿岸部のような視認性の悪い海域や海峡のような航行の不自由な海域で行うこと、このような条件下において魚雷の一斉発射による攻撃を行うこと、そして攻撃ののちは可及的速やかに戦場を離脱すること、である。

一方、水雷艇それ自体の能力を向上させる方向は、次のふたつに集約された。

  1. 艇の規模を拡大し、より強力な武装と長大な航続力を確保する。そして、より大型の魚雷を多数搭載し、多数の火砲を装備する。さらに、部分的に防御のための装甲を用いる。
  2. 速力と機動力を高める。これは、敵の反撃をかわして任務を遂行し得る戦闘能力と防御力の向上に繋がる。このため、艇は極力小型軽量に留め、その規模は最低限のものとする。

この第1の試みは、駆逐艦の開発へ結実した。これ以降、西ヨーロッパ諸国では以前の水雷艇や魚雷艇をひとくくりに「魚雷艇」(Torpedo Boat)と呼ぶようになった。一方、ロシアでは、従来の大小の水雷艇の類を「水雷・魚雷戦闘艦艇」(минно-торпедные боевые корабли)にまとめた。後期の大型水雷艇や水雷巡洋艦は駆逐艦に相当する「艦隊水雷艇」に類別変更された。

第2の試みは、高速・小型の戦闘艇へと発展した。それは最大でも排水量300 tに満たない舟艇で、主兵装は2 門から4 門程度の単装魚雷発射管、補助武装として機関銃機関砲を搭載、速力は30 ktから50 kt、防御装甲の欠如を機動性で補っていた。これが、魚雷艇と呼ばれる高速戦闘艇の発祥となった。

20世紀初期からイギリスとイタリアでこのような艦種の開発が実施された。1906年に沿岸駆逐艦として起工され、後に魚雷艇と類別を変更したクリケットは、イギリス海軍で初めて主機に内燃機関を採用した。蒸気機関から内燃機関への移行は出力と速度の向上に繋がり、機関砲など重火器の搭載を可能にしただけでなく小型化という恩恵ももたらし、高速魚雷艇が確立した。

第一次世界大戦[編集]

魚雷艇による最初の戦果は、第一次世界大戦中の1917年4月7日に挙げられた。この日、イギリス海軍の40 ft級沿岸魚雷艇(CMB)4 隻がドイツ帝国の駆逐艦隊と対決し、敵艦の内1 隻を撃沈した。[2]同年、MASと呼ばれたイタリア海軍の魚雷艇はオーストリア=ハンガリー帝国の戦艦ウィーンを撃沈した。さらに、1918年にはイタリア海軍のMAS-15オーストリア=ハンガリー帝国弩級戦艦セント・イシュトヴァーンを雷撃により撃沈、魚雷艇の有効性は確定的なものとなった。

40ft級の拡大型である55ft級CMBも実戦で大きな戦果を挙げた。イギリス海軍の使用したこの魚雷艇は、1919年6月17日に行われたクロンシュタット大攻勢において停泊中であったソヴィエト・ロシア赤色バルト艦隊防護巡洋艦オレークを撃沈した。その後、8月18日にはスレードナヤ湾において停泊中であった潜水母艦パーミャチ・アゾーヴァを撃沈し、戦艦アンドレイ・ペルヴォズヴァーンヌイに損傷を与えた。[3]この攻撃では、魚雷艇1隻(資料によっては3隻)が駆逐艦ガヴリイールの砲撃により撃沈された。

第二次世界大戦[編集]

ナラガンセット湾を進むアメリカ海軍のPTボート
沈没した伊号第一潜水艦を捜索するアメリカ海軍のPT-65
イギリスの高速魚雷艇(MTB)

ワシントン海軍軍縮条約ロンドン海軍軍縮条約の時代には、条約参加各国では建造の制限された駆逐艦にかわって大型の水雷艇の建造を進め、それと同時に沿岸防護用の艦艇を模索した。そのひとつとして採用されたのが非常に小型の船体に少数の魚雷を搭載した魚雷艇であった。

このうちアメリカ合衆国のPTボート(Patrol Torpedo boat、哨戒魚雷艇)は30 - 50 t級の船体に単装の魚雷発射管を2または4本搭載したもので、ソロモン諸島ニューギニアフィリピンなどで運用された。後に大統領となるケネディがソロモン諸島で艇長を務め、日本海軍の駆逐艦天霧と衝突し沈没したPT-109もこの種の艦艇である。アメリカでは、終戦の時点で511 隻の魚雷艇を保有していた。

同様の船艇は、イギリスではMTB(Motor Torpedo Boat、高速魚雷艇)、ドイツではSボート(Schnellboot、高速艇)、イタリアではMAS(Motoscafi Anti sommeregibili、直訳では機動駆潜艇)、ソ連では魚雷艇(Торпедный катер)と呼称された。日本でも魚雷艇と呼ばれる小型の特務艇が研究された。

これらの船艇は多数が建造され、第二次世界大戦中、各地で激戦を繰り広げた。イギリス海軍の保有したMTBは1939年の開戦時で18 隻であったものが終戦時には91 隻になっていた。ドイツ海軍の保有したSボートは同様に開戦時にはわずか17 隻であったものが終戦時に117 隻を数えたが、同時に損失も大きくのべ112 隻が失われていた。ソ連の赤色海軍は269 隻の魚雷艇を保有したが、その後戦時中に国内で建造されたのは30 隻に留まり、レンドリース法によりイギリスのMTBやアメリカのPTボート計166 隻の給与を受け沿岸海域の防備に当てた。

魚雷艇の能力は限定的なものに留まり、拡張されたのはただ他の勢力、つまり航空機や他の水上艦艇との協同作戦能力だけであった。これらの戦力の支援により、戦闘における魚雷艇の有効性は安定したものとなった。しかしながら、日米間に繰り広げられたソロモン諸島の戦いで見られたように、魚雷艇が単独で作戦行動に当たらなければならない場合もあった。さらに、魚雷艇本来の奇襲任務に加え、場合によっては偵察哨戒任務、上陸および撤収任務、陽動作戦任務、沿岸海域における輸送船団の護衛任務、機雷敷設任務、沿岸海域における潜水艦との戦闘任務などが課された。

第二次世界大戦中の代表的魚雷艇[編集]

イギリス - 高速魚雷艇(MTB)
ヴォスパー社で建造された。速力37 kt、533 mm単装魚雷発射管2 門、7.62 - 12.7 mm機銃2 -3 梃、爆雷4 発
ドイツ - 高速艇(Sボート)
S-26級高速艇では、排水量115 t、全長34.95 m、速力40 kt、533 mm魚雷発射管2 門、20 mm高角機関砲2 門
ソ連 - G-5級魚雷艇
排水量17 t、全長20 m、速力50 kt以上、533 mm魚雷発射溝2 門、7.62 - 12.7 mm機銃2 梃
アメリカ合衆国 - 哨戒魚雷艇(PTボート)
PT-103級哨戒魚雷艇では、排水量50 t、全長24 m、速力45 kt、533 mm単装魚雷発射管4 門、12.7 mm機銃および40 mm高角砲機関砲

第二次世界大戦後[編集]

魚雷兵装を撤去して哨戒艇として使用されるエジプトの206号計画「シュトールム」型大型魚雷艇
魚雷発射管を搭載していることと艇体の形態からしばしば魚雷艇に分類されるポーランドの918M号計画型駆潜艇

第二次世界大戦後も、簡易な対艦攻撃手段として魚雷艇の建造は続いた。対水上艦艇用の魚雷を主武装とする艦船の建造が終止符を打たれたのは、対艦ミサイルの小型化、長射程化が進んだ1980年代のことである。こうした本格的なミサイルの実用化により従来の魚雷艇設計陣が建造をミサイル艇へ切り替える中、最後まで魚雷艇を製造し続けたのはソ連、ドイツ連邦共和国ドイツ民主共和国ノルウェースウェーデン中華人民共和国イスラエルであった。日本でも海上自衛隊向けに哨戒魚雷艇の開発が研究されたが、結局時代に合わないという判断から大々的な導入は見送られた。

戦後、魚雷艇の主要な任務は主力艦への奇襲攻撃から哨戒任務一般に変わっていった。そのため、交戦相手には小規模の敵戦力や潜水艦が想定されるようになった。一部の魚雷艇は対水上艦用の大型魚雷を搭載せず、ただ対潜用の短魚雷のみを搭載するようになった。このような魚雷艇は小規模な海軍向けに建造される場合が多かった。例えば、ドイツ製のこの種の魚雷艇がトルコに輸出されている。

また、魚雷兵装とミサイル兵装を混載した艇も出現した。代表的なものは、イスラエルのダブル級、中華人民共和国の河谷級、ノルウェーのハウク級、ドイツのアルバトロス級、スウェーデンのノーショーピング級である。

しかしながら、魚雷艇は小型ゆえに燃料や武装・電子装備類の搭載量が限られ、沿岸など主に母港から離れていない海域での運用に限定されていた。そのため、航空機の発展と共に活躍の場は失われていった。魚雷艇の役割はより豊富な対空火器で対応できる駆逐艦で代替され、戦後は駆逐艦だけでなく対艦ミサイルを主武装とするフリゲートミサイル艇の建造へと切り替わっていった。魚雷艇の地位を受け継ぐ艦艇は国によって異なるが、概ねミサイル艇や高速小型の哨戒艇が当てられている。

最後の魚雷艇はソ連やポーランドで1980年代半ばまで生産されたが、これらの魚雷艇はミサイル艇の艇体をもとに設計されており、従来の魚雷艇より大型で沿岸哨戒任務一般に適した使用とされていた。さらに、一部の魚雷艇は肝心の魚雷発射管を降ろし、銃砲を主兵装とする哨戒艇として運用された。ソ連の最後の魚雷艇は水中翼ソナーを有し、高速で移動する潜水艦の探知と追跡を遂行できる哨戒艇としての能力が付与された。しかし、結局のところこのような魚雷艇の汎用化は本来の奇襲艇としての魚雷艇の存在意義がすでに失われていたことを意味しているに他ならなかった。また、水中翼やソナー・レーダー艦対空ミサイルのような高級装備の付与は魚雷艇の価格高騰と維持のための技術的・財政的困難を呼び起こした。また、小型であるため搭載できる装備の容量にも限りがあり、その汎用化の限界も目に見えていた。ソ連では、多様化した魚雷艇の任務は最終的に小型対潜艦国境警備艦、ミサイル艇などの任務に特化した艦艇に代替され、魚雷艇はその使命を終えていった。しかし、魚雷艇で培われた高速艇の技術は後継艦艇の発展に大きな功績を残した。

なお、ソ連の国境警備艦艇やポーランドの警備艇の内、魚雷発射管を装備した小型高速の艦艇についてもメーカー側などで「魚雷艇」と呼んでいることがある。また、西側でもこれらの艦艇を魚雷発射管を積んでいるという点を過大に重視し、「魚雷艇」と分類していることがある。しかし、これらの艦艇の搭載する魚雷発射管は多くの場合400 mm程度の小口径のもので、従来の魚雷艇のような対水上艦用の大型魚雷は運用できず、専ら小型の対潜魚雷の運用のために当てられている。従って、これらの艦艇が「魚雷艇」と呼ばれることがあっても、それは従来のような奇襲艇ではなく、むしろ駆潜艇や哨戒艇のような任務を担っている艦艇である点には注意が必要である。

2000年頃には、世界中で162 隻の魚雷・ミサイル兵装混載艇と47 隻の純粋な魚雷艇が運用されていた。その内訳は、バングラデシュで1隻、ミャンマーで10隻、エジプトで8隻、イスラエルで17隻、ロシア連邦で5隻(国境警備艦艇を除く)、朝鮮民主主義人民共和国で6隻であった。[4]

21世紀の早い段階で魚雷艇はその役目を完全に終え、艦隊から姿を消すことが予想されている。

第二次世界大戦後の魚雷艇

脚注[編集]

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  1. ^ The Trafalgar Campaign: 1803—1805. Robert Gardiner, ed. Chatham Publishing, 1997, pp. 82-84. (英語)
  2. ^ British Motor Torpedo Boats 1939-45. Osprey, 2002-... (英語)
  3. ^ Jane’s War at Sea: 1897—1997. By Bernard Ireland and Eric Grove, Harper Collins, 1997, p. 123. (英語)
  4. ^ Jane's Warship Recognition Guide. 2nd ed., Harper Collins, 1999. (英語)