セントルイス (軽巡洋艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
USS St. Louis (CL-49).jpg
艦歴
発注
起工 1936年12月10日
進水 1938年4月15日
就役 1939年5月19日
退役 1946年6月20日
その後 1951年にブラジルに売却
除籍 1951年1月22日
性能諸元
排水量 10,000 トン
全長 608 ft 4 in
全幅 61 ft 8 in
吃水 19 ft 10 in
機関
最大速 33ノット
乗員 士官、兵員888名
兵装 6インチ砲15門、5インチ砲8門、1.1インチ砲16門、20mm砲12門、爆雷軌条1基

セントルイス (USS St. Louis, CL-49) は、アメリカ海軍巡洋艦セントルイス級軽巡洋艦の1番艦。艦名はミズーリ州セントルイスに因む。その名を持つ艦としては5隻目。

艦歴[編集]

セントルイスは1936年12月10日にバージニア州ニューポート・ニューズニューポート・ニューズ造船所で起工した。1938年4月15日にナンシー・リー・モリルによって命名、進水し、1939年5月19日に艦長チャールズ・H・モリソン大佐の指揮下就役した。

大戦前[編集]

10月6日に調整を終えたセントルイスは、ノーフォークを母港とし、西インド諸島において中立パトロールを11ヵ月にわたって実施した。1940年9月3日、セントルイスはレンドリース法の結果、イギリス海軍に貸与された駆逐艦と引き換えに獲得した、ニューファンドランド島英領ギアナの海軍および空軍基地の点検を行い、10月27日にノーフォークに戻った。

11月9日、セントルイスはノーフォークを出港して太平洋に向かい、5日後のパナマ運河を通過して12月12日に真珠湾に到着した。セントルイスは1940年冬から1941年にかけて艦隊運動に加わった後、メア・アイランド海軍造船所に回航されオーバーホールに入った。セントルイスは6月20日に真珠湾に戻り、ハワイ水域での活動を再開した。

2ヵ月後、セントルイスは戦闘艦隊の他の巡洋艦と共に西方に向かい、ミッドウェー島ウェーク島およびグアムを経てマニラに到着した。9月下旬に真珠湾に戻った後、9月28日に整備のため真珠湾海軍工廠に入渠した。

第二次世界大戦[編集]

1941年12月7日の真珠湾攻撃当日、セントルイスは東南部の埠頭に係留されていた。7時56分、日本機がセントルイスの上空を通過したのを受け、戦闘配置を令して8時6分までの間に早くも反撃に打って出た。8時20分に雷撃機を撃墜したのに続き、9時までにもう1機を撃墜。9時31分、セントルイスは外洋に向けて急遽出港し、15分の間に6インチ砲が稼動できる状態にした。

セントルイスが湾口に出た際、特殊潜航艇の目標となった。しかし、発射された魚雷はセントルイスから180メートル離れた地点で爆発し、駆逐艦が爆雷攻撃で特殊潜航艇を粉砕した。セントルイスは遅れて出港してきた軽巡洋艦フェニックス (USS Phoenix, CL-46) 、デトロイト (USS Detroit, CL-8) および駆逐艦群とともに、ハワイ南西洋上にいると思われた南雲忠一中将率いる機動部隊の索敵に出撃した[1]。しかし、機動部隊は実際には北方にいたので収穫はなく、セントルイスは12月10日に真珠湾に帰投した[1]

真珠湾攻撃で被害を受けなかったセントルイスは、周囲から「ラッキー・ルー」とのあだ名がつけられた。

1942年[編集]

1942年1月6日、セントルイスは空母ヨークタウン (USS Yorktown, CV-5) 基幹の 第17任務部隊英語版フランク・J・フレッチャー少将)とともにサンフランシスコを出港し、1月20日から24日まで防衛増強のため送り込まれる海兵隊サモアまで輸送。パゴパゴで海兵隊を下ろした後、第17任務部隊は空母エンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) 基幹の第8任務部隊(ウィリアム・ハルゼー中将)と合同し、日本軍の根拠地の一つであるマーシャル諸島に一太刀浴びせようと計画した。この攻撃が成功すると、日本の南方作戦のスピードが幾分か弱まり、アメリカの士気がいくらか上がると予想された[2]。第17任務部隊はブタリタリジャルート環礁ミリ環礁への攻撃に向かい、第8任務部隊は強力な敵が待ち構えていると考えられたクェゼリン環礁マロエラップ環礁に向かった[3]。両任務部隊は2月1日に攻撃し、軽微な損害を受け戦果も芳しくなかったとはいえ、奇襲に成功して2月7日に真珠湾に帰投した(マーシャル・ギルバート諸島機動空襲)。

真珠湾へ帰投後、セントルイスはハワイとカリフォルニア間の輸送船団の護衛を行った。春になり、ニューヘブリディーズ諸島へ往復した後、日本軍の進攻から脱出してアメリカに亡命したコモンウェルス大統領マニュエル・ケソンが乗船した輸送船プレジデント・クーリッジ (SS President Coolidge) を護衛。5月8日にサンフランシスコに到着して、翌日真珠湾に引き返していった。真珠湾に戻ると、セントルイスは日本軍の進攻が予想されたミッドウェー島に海兵隊の飛行機と人員を緊急輸送する部隊に編入され、輸送任務終了後は第8任務部隊に加わってアリューシャン列島方面に移動した。

5月31日、セントルイスはコディアックに到着し、アラスカ半島南部海域での哨戒を7月まで行った後、日本軍の進撃を妨害するため西方に移動した。8月3日、セントルイスはキスカ島への最初の反撃を行うため出撃し、4日後に艦砲射撃を行って11日にコディアックに帰投した。その後もアリューシャン方面での哨戒を続け、アダック島の確保を支援した。10月25日、セントルイスはダッチハーバー経由でサンフランシスコに向かい、メア・アイランド海軍造船所でオーバーホールに入った。

1943年[編集]

12月4日、オーバーホールを終えたセントルイスはニューカレドニア行きの輸送船団を護衛してサンフランシスコを出港した。12月21日、輸送船団はヌメア到着の予定を変更してエスピリトゥサント島に到着。セントルイスはソロモン諸島海域に移動し、1943年1月から「東京急行」を「脱線」させる一環としてニュージョージア島ムンダコロンバンガラ島への砲撃を約5ヵ月間にわたって繰り返し行い、同時に「ザ・スロット」と呼ばれたニュージョージア海峡の哨戒も行った。これらの動きは、日本軍にこの方面への増援部隊の投入を決心させた。

7月4日、セントルイスは第36.1任務群(ヴォールデン・L・エインスワース少将)に加わり[4]、ニュージョージア島上陸部隊を護衛して軽巡洋艦ホノルル (USS Honolulu, CL-48) 、ヘレナ (USS Helena, CL-50) および第21駆逐群とともにクラ湾に向かった。陸上部隊を上陸させた後、第36.1任務群はバイロコの飛行場を砲撃した。しかしこの時、スコールに紛れて第三水雷戦隊(秋山輝男少将)の一隊がコロンバンガラ島への輸送のため接近していた[5]。この一隊は魚雷を発射した後、スコールと闇に紛れて去っていった[5]。魚雷のうち1本が前衛の駆逐艦ストロング (USS Strong, DD-467) に命中し、ストロングは雷撃と陸上部隊の砲撃で沈没[6]。第36.1任務群はストロング乗組員を救助してガダルカナル島沖に引き返したが[5]、南太平洋部隊司令官ウィリアム・ハルゼー大将から別の「東京急行」の出発を知らされクラ湾に急行した[5]

7月6日夜、第36.1任務群はニュージョージア島北方海域を航行中、輸送作戦から帰投中の第三水雷戦隊と遭遇した。この時起こったクラ湾夜戦では、セントルイスはホノルルおよびヘレナとともに駆逐艦新月および、後に続く涼風谷風に対して砲撃を開始。新月に火災を発生させて撃沈し、もう1隻を大破させたと判断した。しかし、新月の火災に気を取られているうちに別の一隊に魚雷を発射され、ヘレナに魚雷が命中して沈没。第36.1任務群は態勢を立て直すため引き返した。

コロンバンガラ島沖海戦(コロンバンガラ海戦)[編集]

コロンバンガラ島沖海戦で艦首を損傷したセントルイス

一週間後、沈没したヘレナに代わってオーストラリア軽巡洋艦リアンダー (HMNZS Leander) を編入した第36.1任務群は前衛に第21駆逐群、後衛に第12駆逐群を従えて[7]、「東京急行」の「脱線」を行うためツラギ島からコロンバンガラ島近海に急行した。真夜中になり、ニュージョージア海峡で第36.1任務群と第二水雷戦隊伊崎俊二少将)が交戦した。最初の交戦で日本側旗艦の軽巡洋艦神通が一方的に撃たれて爆沈し、第36.1任務群もリアンダーが魚雷の命中で戦線を離脱した。続く2回目の交戦、ホノルルはレーダーで探知した目標の識別が出来ず、その間隙を突いて魚雷を発射された。ようやく目標に対して砲撃を行おうとしたその矢先、魚雷はセントルイスとホノルルに向かって突進し、回避する暇もなく命中。セントルイスは艦首下部をもぎ取られ、ホノルルも艦首が魚雷命中により垂れ下がってしまった。駆逐艦グウィン (USS Gwin, DD-433) は、ホノルルの前をうろうろしているうちに魚雷が命中して沈没した。

第36.1任務群は13日午後にツラギ島に後退。セントルイスは応急修理を受けるためエスピリトゥサント島に向かった。応急修理を受けた後、メア・アイランド海軍造船所に回航されて本格的な修理が行われた。修理完了後、セントルイスは11月中旬にソロモンの戦線に戻り、11月20日から25日までブーゲンビル島の戦いに参加し、上陸部隊を援護した。12月にも砲撃を行った後、1944年1月にはショートランド諸島に対して砲撃。タロキナ岬に上陸する増援部隊の援護を行った後の1月10日、セントルイスはフロリダ諸島に帰投した。

1944年[編集]

2月に入り、セントルイスは北部ソロモン諸島およびビスマルク諸島方面に出動した。2月13日、セントルイスはグリーン島英語版への上陸支援のため、ブカ島ニューアイルランド島セント・ジョージ岬間の海域を哨戒した。翌14日18時55分、セントルイスの任務群は6機の九九式艦上爆撃機の攻撃を受けた。6機の九九式艦爆は1機を失い、任務群の後方を通過した後、東南方から攻撃を仕掛けてきた。3機と2機のグループに分かれたあと、2機のグループはセントルイスに向かってきた。最初の九九式艦爆は3発の爆弾を投じてきたが、すべて外れた。2番目の九九式艦爆も同じく3発の爆弾を投じ、1発がセントルイスの左舷側艦尾に命中した。爆弾は40ミリ機関砲砲架を突き破って乗組員居住区で爆発し、23名が戦死して30名の重軽傷者を出した。火災も発生したが、すぐに消し止められた。観測機は使用不能となり、換気装置と後部機関室も損傷して速力が18ノットまでしか出せなくなった。セントルイスは15日にも別の空襲を受けたが、これは無事切り抜けた。セントルイスはパーヴィス湾英語版で爆弾命中箇所の修理を受けた。

3月に修理完了後、セントルイスは5月までソロモン方面で行動し、6月4日にマーシャル諸島に移動してサイパン攻略の第52任務部隊に加わり、6月10日に出撃した。4日後、セントルイスはサイパン島南方洋上に到着し、翌15日からチャランカロア地域に対して艦砲射撃を臨機応変に行った。16日にはグアム沖に移動し、アサン・ビーチを砲撃。砲撃後の17日、セントルイスはサイパン島北方海域に移り、マリアナ沖海戦に備えた。22日にサイパン島沖に戻った後、補給部隊を2日間護衛してマーシャル諸島に帰投した。

7月14日、セントルイスは再びマリアナ諸島に向かった。翌日、セントルイスは3番プロペラを破損し、シャフトが12メートルにわたって折れてしまった。しかし、セントルイスは損傷をそのままにし、2日後に予定通りグアム沖に到着した。その日の午後に行われた水中爆破を援護し、21日の上陸を助けた。セントルイスは7月29日まで支援任務に就いた後真珠湾に向かった。その後、オーバーホールのためカリフォルニアに回航された。修理が終わったセントルイスは10月中旬にハワイに戻り、月末まで訓練を行った後、ウルシー環礁コッソル水道を経由してレイテ湾に到着した。

神風[編集]

神風攻撃を受けるセントルイス。1944年11月27日

次の10日間、セントルイスはスリガオ海峡を中心に対空哨戒を行った。11月27日の正午前、セントルイスらの部隊は神風特攻隊春日隊および陸軍特攻八紘隊の攻撃を受けた。セントルイスは最初の攻撃を簡単な反撃のみでかわしつつ、味方飛行機の空中援護を求めた。11時30分、新手の神風が3手に別れて攻撃を行い、11時38分に九九式艦爆[8]と認識された神風がセントルイスの左舷側から突入し、艦尾に命中。格納庫で爆発して火災が発生し、この攻撃で7名から10名の20ミリ機銃員が戦死するか負傷した。11時39分には2機目の神風がセントルイスの左舷真横に向かって突入してきたが、セントルイスは全速力でこれを避け、この神風は4番砲塔の上を通り抜け、セントルイスから91メートル離れた海中に墜落した。

11時46分の時点では味方の援護は未だ来ず、11時51分にはさらに2機の神風が燃えながらセントルイスに向かってきた。1機目はセントルイスをかすめて海中に突っ込んだが、2機目は突入に成功してセントルイスの船腹の装甲を6.1メートルにわたって引き裂き、セントルイスの船体に無数の穴を開けた。12時10分にも別の神風の攻撃を受けたが、セントルイスの後方370メートルの地点に撃墜された。10分後、セントルイスはPTボートから雷撃機の接近を警告され、攻撃を回避して1機を撃墜した。12時36分までにはセントルイスへの攻撃は途絶え、30分後には全ての火災は消し止められ、後片付けが始まった。セントルイスは一連の攻撃で15名が戦死し、21名の重傷者と22名の軽傷者を出し、重傷者のうちの1名は後に死亡した。翌28日、セントルイスから負傷者が運び出され、セントルイスはサンペドロ湾 (フィリピン)で仮修理の後11月30日に出港してカリフォルニアに向かい、12月の終わりごろに到着した。

1945年[編集]

1945年3月1日、修理を終えたセントルイスはカリフォルニアを去り、3月中旬にはウルシーに到着して第58任務部隊マーク・ミッチャー中将)に加わった。セントルイスは沖縄戦の前哨として陸上砲撃を行う第54任務部隊に合同し、掃海艇と水中爆破班の援護を行った。セントルイスは3月31日に前進基地の慶良間列島に到着して補給と整備を行い、4月1日の上陸作戦当日には読谷村の一角に対して攻撃を行った。

5日後、セントルイスは硫黄島沖に向かい、掃海艇の作業を支援した後沖縄沖に戻り、火力支援と対空防御の任務を再開した。5月18日、セントルイスはレイテ湾に移動して整備の後、6月中旬に沖縄沖に戻って支援任務を続行した。7月25日、セントルイスは第95任務部隊(フランシス・S・ロウ少将)[9]に加わり、7月28日からの東シナ海での作戦で、中国本土の日本軍施設に対する空母艦載機の攻撃を支援した。セントルイスは8月上旬に中城湾に帰投し、8月15日の終戦も同所で迎えた。

戦後[編集]

戦争終結後も、セントルイスは2ヵ月半にわたって極東水域で行動した。8月下旬、フィリピンにおいて長江警備を担当する第73任務部隊が編成された際、セントルイスは中城湾に停泊中だった。10月に入って上海に移動し、10月中旬に行われた国民革命軍台湾進駐を支援した。

その後、セントルイスは復員兵輸送のマジック・カーペット作戦に参加し、11月9日にサンフランシスコに到着して最初の輸送を終えた。以後、1946年1月中旬まで、太平洋の中部および南西部の島々から復員兵を輸送した。1946年2月上旬、セントルイスは東海岸に移動し、2月25日にフィラデルフィアに到着して不活性化工事を受けた。6月20日に退役したセントルイスはリーグ島英語版に係留され第16予備役艦部隊に編入された。

1950年代に入ってセントルイスはブラジルへ譲渡されることとなり、1951年1月22日限りで除籍された。1月29日、セントルイスはブラジル海軍タマンダーレ (Tamandare, C-12) と改名されて再就役した。タマンダーレは1976年に除籍され、4年後の1980年に売却されて解体のため台湾に曳航される途中の8月24日、南緯38度48分 西経01度24分 / 南緯38.800度 西経1.400度 / -38.800; -1.400喜望峰沖で沈没した。

セントルイスは第二次世界大戦の戦功で11個の従軍星章を受章した。

脚注[編集]

  1. ^ a b 木俣『日本空母戦史』103ページ
  2. ^ ポッター, 77ページ
  3. ^ ポッター, 82ページ
  4. ^ 木俣『日本水雷戦史』318ページ
  5. ^ a b c d 木俣『日本水雷戦史』319ページ
  6. ^ ポッター, 369ページ、木俣『日本水雷戦史』319ページ
  7. ^ 木俣『日本水雷戦史』334ページ
  8. ^ 英文版。春日隊の戦力は爆装零戦3機と彗星2機。八紘隊は一式戦闘機10機(ウォーナー『ドキュメント神風 下』300ページ。直掩機は含まず)
  9. ^ The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II

参考文献[編集]

  • 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年
  • デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー/妹尾作太男(訳)『ドキュメント神風 特攻作戦の全貌 上・下』時事通信社、1982年、ISBN 4-7887-8217-0ISBN 4-7887-8218-9
  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
  • 石橋孝夫「米空母機動部隊の反撃」『写真・太平洋戦争(1)』光人社、1988年、ISBN 4-7698-0413-X
  • E・B・ポッター/秋山信雄(訳)『BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』光人社、1991年、ISBN 4-7698-0576-4
  • 「世界の艦船増刊第36集 アメリカ巡洋艦史」海人社、1993年
  • ジェームズ・J・フェーイー/三方洋子(訳)『太平洋戦争アメリカ水兵日記』NTT出版、1994年、ISBN 4-87188-337-X
  • 佐藤和正「ソロモン作戦II」『写真・太平洋戦争(第6巻)』光人社NF文庫、1995年、ISBN 4-7698-2082-8
  • 「世界の艦船増刊第57集 第2次大戦のアメリカ巡洋艦」海人社、2001年

外部リンク[編集]