古鷹型重巡洋艦

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古鷹型重巡洋艦
Furutaka 1926-04-05 off Nagasaki.jpg
竣工当時の「古鷹(1926年)」
艦級概観
艦種 重巡洋艦
艦名 山の名
前型 金剛型戦艦
(巡洋戦艦として竣工、古鷹型以前最後の一等巡洋艦)
次型 青葉型重巡洋艦
性能諸元(新造時 → 改装後)[1]
排水量 基準:7,950トン → 8,700トン
公試:9,544トン → 10,507トン
全長 185.166m
全幅 16.55m → 16.926m
吃水 5.56m → 5.61m
主缶 艦本式重油専焼水管缶10基&同混焼缶2基
→ 艦本式重油専焼缶10基
主機 古鷹:パーソンズオールギアードタービン4基4軸推進
加古:ブラウン・カーチス式オールギアードタービン4基4軸推進
最大出力 公試:102,000hp → 103,390hp
最大速力 公試:34.6ノット
→ 32.95ノット
航続距離 14ノット/7,000海里
燃料 重油:1,400トン、石炭:400トン
→ 重油:1,858トン
乗員 627名 → 639名
兵装
(竣工時)
50口径20cm単装砲6門
40口径8cm単装高角砲4門
61cm連装魚雷発射管6基12門
八年式魚雷24本
兵装
(改装後)
50口径20.3cm連装砲3基6門
45口径12cm単装高角砲4門
61cm4連装魚雷発射管2基8門
九三式魚雷16本
装甲 舷側76mm(最厚部)
甲板:32~35mm
主砲塔:25mm(前盾・側盾)、19mm(天蓋)
バーベット部:25mm(最厚部)
航空兵装 水上機:1機 → 2機
カタパルト0 → 1基

古鷹型重巡洋艦(ふるたかがたじゅうじゅんようかん)は大日本帝国海軍重巡洋艦の艦級で同型艦は2隻[2]

概要[編集]

第一次世界大戦後、日本海軍は5500トン型軽巡洋艦の建造を行うが、その武装は14cm砲8門(片舷7門)と、アメリカ海軍の15.2cm砲12門を持つ軽巡洋艦オマハ級イギリス海軍では主砲に19.1cm(45口径)速射砲7門を持つホーキンス級大型軽巡洋艦に対して劣る物であった。そのためこれらの艦に対抗するために平賀譲造船官による設計で、常備排水量7,100トン、20cm砲6門の偵察巡洋艦として1922年に建造が決定された。

この小型の船体にそれより上のクラスの武装を装備するという考え方は、同じ平賀造船官が設計した夕張と同様のコンセプトで船体を小型化するために装甲板を構造材の一部として兼用するなど軽量化に努めた。一番艦加古は二等巡洋艦に類別される予定で艦名も川の名が命名されたが、竣工直前にクレーン事故があり、ワシントン会議の影響で建造が一時中断。竣工は2番艦の古鷹が先になった。当初は起工一番艦の「加古型」と呼ばれていたが。後に、竣工の先である古鷹がネームシップとなった。

ロンドン海軍軍縮会議の結果、「5インチを超え8インチ以下の砲備を持つ10,000トン以下の艦」が「カテゴリーA」、通称:重巡洋艦として分類される事となり、本型もそれに該当する事となった。そのため日本海軍でも、本型を一等巡洋艦と分類する事となった。

排水量ではなく備砲の大きさでカテゴリーが決められたのは、排水量の割に大型の砲を搭載する古鷹型や妙高型をターゲットにした足枷という説がある。これにより日本海軍は、他国より小型の艦を重巡洋艦扱いされ、大きなハンディを背負う事になる。ただし、この条項は後に最上型軽巡洋艦の建造に逆利用されることとなった。もっとも英国海軍も、旧式艦であるホーキンス級大型軽巡洋艦を重巡洋艦扱いされるというハンディを背負っている。またこれ以降も、古鷹同様の8インチ主砲6門搭載の条約制限より小型の重巡洋艦を、あえて建造している。

古鷹型の設計を基に、主砲を連装砲3基に変更したものが青葉型であり、「青葉」「衣笠」の2隻も古鷹型に含める場合もある。

特徴[編集]

ワシントン条約で定められた「基準排水量一万トン」は、8インチ砲6門という戦闘に必要な門数を確保する最小排水量として定められた。しかし本型は、以下に述べる数々の新機軸で、その最小とされた排水量以下でそれと同等となる武装を持たせることとなった。

艦形[編集]

竣工当時の本型「加古」。

本級は既存の軽巡洋艦に見られない、細く、鋭い平甲板型船体として設計されていた。先方に強く傾斜した艦首から艦首甲板上に「三年式 20cm(50口径)速射砲」を収めた単装式の主砲塔がピラミッド型に2番砲塔のみ高くして中心線上に3基を配置した。そして艦橋構造は初めて塔型艦橋を採用した。船体中央部には集合煙突型の2本煙突が立ち、これにより艦橋から煙突の距離が開いたために排煙による煤煙問題に良好な結果をもたらした。

後部甲板上には後部マストの背後に後ろ向きの5番・6番主砲塔を背負い式に2基配置された。艦内舷側部には固定式で61cm連装魚雷発射管が片舷3基3門ずつ計12門が指向できた。

近代化改装後の古鷹型の艦容を示したイラスト。

昭和11~15年より近代化改装後が行われ、人力装填だった20cm単装砲塔6基は新型の20.3cm速射砲を開発したと同時に砲塔は機力装填式となった新型連装砲塔3基となり、近代的な外観となった。また、外観上の変化では塔型艦橋が大型化し、前大戦時の代物であった8cm高角砲4基は新型の12cm高角砲4基に換装された。砲塔数の減少に伴い、舷側配置で射界に問題のあった61m固定発射管12門は61cm四連装魚雷発射管に一新され、水上機カタパルトの下の舷側甲板上に片舷1基ずつ計2基が配置された。船体には重量増加のため浮力と安定性向上のためにバルジが追加されて艦幅が増した。

兵装[編集]

主砲[編集]

主砲は新設計の「三年式 20cm(50口径)速射砲」である。その性能は110kgの砲弾を仰角25度で最大射程24,000mまで届かせる性能であった。これを単装式の砲塔に搭載したが、前大戦時と変わらない人力装填形式で砲員に負担を強いる設計であり、戦闘時に砲塔内部に用意した即応弾を撃ち切ると、弾薬庫から人力で100kgを超える砲弾を運ばなければならず、発射速度が激減する欠点があった。砲身の上下は仰角25度・俯角5度で左右の旋回角度は150度であったが、上部構造物に挟まれた4番主砲塔は前方に左右20度の死界があった。

このため、昭和11年からの近代化改装で新型の20.3cm砲に更新した際に後続の「青葉型」で採用された機力装填型の連装砲塔3基に改められた。これにより仰角は40度まで引き上げられて射程は26,700mまで引き上げられた。また、口径が20.3cmとなったために新型の91式徹甲弾が使用できるようになり、攻撃力が増大した。新型砲塔砲身の上下は仰角40度・俯角5度で左右の旋回角度は150度であった。発射速度は毎分3~5発に向上した。

なお、この変更に対し「妙高型から外された20cm砲の内径を3mm削って拡大した」との記述が書籍等で記載されているが。実際には、この主砲のライフリングが施された内筒(通常砲身の内筒は交換出来るようになっている)を8インチ砲用に交換した物である。

備砲、魚雷兵装[編集]

近代化改装後の「加古(1941年)」の艦後部の写真。舷側の12cm(45口径)単装装高角砲とカタパルトを挟むように配置された61cm四連装魚雷発射管が確認できる。

本級の高角砲は「三年式 8cm(40口径)高角砲」を採用している。その性能は5.99kgの砲弾を仰角44度で10,800m、最大仰角75度で7,200mの高度まで到達させることができた。単装砲架は360度旋回できたが実際は上部構造物に射界を制限された。砲架の俯仰は仰角75度・俯角5度で発射速度は毎分13発だった。これを単装砲架で4基4門を搭載した。 昭和11年の近代化改装で高角砲は新型の「十年式 12cm(45口径)高角砲」に更新された。その性能は34kgの砲弾を仰角44度で16,000m、最大仰角75度で10,000mの高度まで到達させることができた。旋回角度は140度で砲架の俯仰は仰角75度・俯角10度で発射速度は毎分34発だった。これを単装砲架で4基4門を搭載した。

他に主砲では手に負えない相手への対抗として61cm連装魚雷発射管6基を艦内配置したが、後にを61cm四連装魚雷発射管を甲板上に計2基装備した。この発射管は新型の93式酸素魚雷を使用でき、有効射程が増大した。

装甲[編集]

竣工当時の本型の船体の断面図。青線が構造材、赤線が装甲板を示す。
近代化改装後の本型の船体の断面図。青線が構造材、赤線が装甲板、黒線が新たに追加されたバルジを示す。

本級の防御様式は「夕張」の物を踏襲したため、装甲板を強度材の一部として活用している。水線部には9度傾斜した厚さ76mmのNCVC均質鋼を、甲板には最大で35mmNCVC均質鋼を貼った。一方で主砲塔の防御は駆逐艦の主砲クラスに耐えるもので前盾と側面部は25mmでしかなく、天蓋も19mmでとても軽巡洋艦クラスの主砲弾に耐えられる防御ではなかった。主砲弾薬庫は船体防御とは別個に、側面に51mmと上面に35mm装甲で防御されていた。

他に水雷防御として舷側装甲の裏に1層の水密区画が設けられ、水線下には燃料タンクと兼用のバルジがあり浮力に配慮したが、設計段階で水線部装甲は4.2mであったはずが建造時の重量増加により実際には常備排水量で2.2mの高さしか出ないという残念な結果となった。このため、近代化改装時に新たにバルジを追加して浮力を増大させて舷側装甲の範囲を増やした。

航空艤装[編集]

本型は、建造当初から航空機を運用することを念頭に置いて建造された艦となった[3]

ただし、当時はまだカタパルトが実用化になっておらず。4番砲塔の上に水上機を搭載、その前に俯角を付けた滑走台を設け、そこから滑り落とす方法をとられたが。滑走台の接続に手間がかかる上、砲撃の際は水上機が破損すると言う問題があった。

機関[編集]

竣工当時の本型のボイラー配置を示した図。F1が1番煙突の範囲、F2が2番煙突の範囲で褐色がボイラーを示す。
本型のタービンの配置を示した図。HPが高圧衝動型タービン、LPが低圧反動型タービン、CTが巡航用タービンで褐色のMGが減速ギアボックスである。

機関にはロ号艦本式水管缶を採用した。これは加熱器を用いる最新型であったが、制作時の技術力により高温高圧の蒸気により蒸気管の劣化が続発してトラブルに悩まされた。これを重油専焼水管缶10基と石炭専焼水管缶2基の混載で計12基を搭載した。ボイラー室は横隔壁により4室に分かれ、更に2番~4番缶室の中央に縦隔壁を設けてな7室としていた。1番煙突は1番・2番ボイラー室すべてと3番ボイラー室の前側2基の計8基を受け持ち、ボイラー4基あたり煙路1つで計2つの煙路を受け持つ集合煙突とされた。2番煙突は3番ボイラー室後側2基と4番ボイラー室の石炭専焼缶すべてを受け持っていた。

推進機関は「古鷹」がパーソンズ式高圧衝動型タービンと低圧反動型タービンを1組で1基としてギアボックスで繋いだオール・ギヤード・タービン4基4軸推進で、「加古」はブラウン・カーチス式オールギヤード・タービン4基4軸推進で構成が異なっていた。最大出力102,000馬力で最大速力35.5ノットを発揮した。機械室はボイラー室の後部に位置し、中央隔壁により左右に2部されていた。この中央隔壁のために機関区に浸水が起きると片側に重量が寄ってしまい、反対側は浮力を残してために浮き上がり、結果として横転しやすい欠点を負った。

昭和11年からの近代化改装で石炭専焼水管缶2基が撤去されてボイラーは重油専焼水管缶8基に統一され、出力は103,390hpと僅かに向上したものの、前述のバルジ追加により抵抗が増して最大速力は32ノット台にまで低下した。

排水量の超過[編集]

これらの新機軸をいくつも盛り込んで建造されたが、完成してみると原設計の7,100トンに排水量が収まらず10%以上も大きくなる事態となった。この問題は設計にミスがあったわけでなく、施工側の造船所関係者が今までにない革新的な設計のため、現場で設計を変更してしまった結果である。

通常、ここまで排水量が上回ると艦の性能に悪影響が出るはずだが、本型は決定的な問題は見あたらず。基礎設計の優秀さを証明することとなった。

青葉型[編集]

元々は英米の軽巡洋艦に対抗するために建造された本型であるが、ワシントン条約の結果この排水量にこだわる必要性を失ってしまった。条約上限最大の艦を各国も建造することが海軍もわかっていたため、20cm砲8門で魚雷発射管8門、13ノットで一万海里の航続距離(妙高原案)の艦を計画すると共に、3.4番艦にはそのテストケースとして、主砲6門ながら単装から連装に、高角砲も門数は同じながら新型の12cmに変更した。航空機用のカタパルトを搭載する事として改良を加えた形で建造をされることとなった。

戦歴[編集]

近代化改装後の「古鷹」。後方の艦は「衣笠」。

1936年(昭和11年)から1937年(昭和12年)にかけて両艦とも近代化改装が行われ、主砲塔が20cm単装から条約制限一杯の20.3cm(8インチ)連装に強化された。また船体へバルジの増設、艦橋の強化、煙突位置の修正などが行われ、本型の後継型である青葉型とほぼ同一の艦容となった。「加古」艦長によれば、本型は居住性が悪い上に乾舷が低く、内火艇の通過に伴う波で舷窓から水が流れ込むため、常に窓を閉めていた。そこで各艦からは「水族館」という渾名をつけられていた[4]

古鷹、加古共に太平洋の各地で活躍したが、1942年(昭和17年)に両艦とも戦没している。

同型艦[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 性能諸元は加古の値。
  2. ^ 略同型艦の青葉型を含めて4隻と扱うこともある。
  3. ^ 当時航空艤装を持った艦としては長良型軽巡洋艦があるが。この艦の搭載機は陸上機であり、水上機の長期運用を念頭に置いた艦は本型が最初である
  4. ^ 高橋雄次『鉄底海峡重巡「加古」艦長回想記』(光人社、1994)14頁

参考文献[編集]

  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第6巻 重巡Ⅱ』(光人社、1989年) ISBN 4-7698-0456-3
  • 「世界の艦船増刊 2010年10月増刊 近代巡洋艦史」(海人社)
  • 「世界の艦船増刊第32集 日本巡洋艦史」(海人社)

関連項目[編集]