芙蓉部隊
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芙蓉部隊(ふようぶたい)とは太平洋戦争末期において夜襲戦法を用い活躍した日本海軍第131航空隊所属の3個飛行隊の通称。隊長(飛行長)は美濃部正少佐(最終階級)。
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[編集] 芙蓉部隊の生みの親、美濃部 正と夜襲戦法の着想
美濃部は1937年海軍兵学校64期を卒業、水上偵察機のパイロットとなる。旧姓太田、1941年11月結婚により姓を“美濃部”に変更する。開戦と同時に太平洋戦域へ赴任。1942年4月のセイロン沖海戦に参加する[1]。1943年11月にはソロモン諸島方面で活動していた938空(水上機装備)の飛行隊長に就任する。この時期に彼は指揮官として水上偵察機を率い夜間索敵や基地襲撃を敢行。この経験により「夜間飛行に慣れたパイロットによる夜間攻撃」というアイデアを得た。
実際に1944年1月に零式水上偵察機1機で敵飛行場を攻撃、成功する。これにより上層部は水上機による夜襲部隊の編成を許可、トラック基地で訓練を始めた。だが同年2月17日のトラック島空襲により機材が失われ、夜襲部隊の編成計画は頓挫した。代替の飛行機を得て戦闘316飛行隊(301空所属)の隊長に就任するも部隊の運用方法の相違から上層部と対立、隊長を解任された。
[編集] 初めての夜襲部隊の編成と消耗
異動先の302空司令の小園安名大佐は美濃部のアイデアを受け入れ夜襲部隊の編成を許可、ようやく夜襲部隊が編成されることとなる。部隊は零戦と夜間戦闘機月光を装備していた。攻撃法はまず部隊を索敵隊と攻撃隊の2つに分け、敵艦隊の発見後更に攻撃隊を銃撃隊、爆撃隊の2つに分けて発進、航空母艦から艦載機が飛び立つ前に攻撃する、というものだった。1944年7月の初出撃こそ悪天候により損害を出すが、フィリピン方面に進出した同年9月には敵機動艦隊を攻撃、至近弾を与えさらに10月にも攻撃を敢行する。ただし既に旧式化していた月光では損害も続出、パイロットも当初の1/3にまでなってしまった。
[編集] 急降下爆撃機彗星と芙蓉部隊
消耗した部隊の再編成のため静岡県藤枝飛行場に引き上げた部隊は、零戦と共に、既に生産中止で数が揃わない夜間戦闘機月光に代わるものとして各地で大量に放置されていた急降下爆撃機彗星一二型を集めて訓練を再開した。彗星一二型は水冷型のアツタ32型エンジンを用いていたため技術力の劣る日本で整備、運用するには手に余る代物であり、エンジンは問題続出、稼働率も悪かった。そのため、空冷型の金星62型エンジンに換装された彗星三三型が量産されると、彗星一二型は第一線の艦上爆撃機部隊の運用から外されることとなった。ただし高速で夜間飛行にも問題は無かったため、そこに美濃部少佐は目をつけ、さっそく自らの部隊で運用を開始した。美濃部少佐は、機体と扱いの難しい水冷型アツタ32型エンジン整備のため徳倉大尉以下の整備担当者を製造元の愛知航空機へ派遣するなど彗星の整備方法を習熟させ、稼動率を彗星80%、零戦90%にまで上昇させた。徳倉大尉らは、廃棄される予定だった彗星の残骸から部品を取り、新しく彗星を作ることもした。結果、満足に一定の機体を揃える事が出来ない日本の中では(ソロモン、マリアナ沖海戦や台湾沖航空戦で大量に飛行機を損失していた)突出した存在になっていた。
また、パイロットの訓練は効率を第一にして実用的なことのみ徹底して教えたため、訓練時間を約1/3にまで短縮することに成功し、武装でも対地・対空用の仮称三式一番二八号爆弾(ロケット弾)や空中で爆発して爆風や破片で周囲に被害を与える三一号光電管爆弾など、特殊爆弾を積極的に採用した。三式一番二八号爆弾(ロケット弾)に至っては、制式採用前の時点で、「暴発の危険性がある」との造兵側の意見にも関わらず、「特攻まで出るこの時期、ある程度の危険は仕方ない」として部隊に導入している程である。
1945年1月、戦闘804(彗星一二型)、812(彗星一二型)、901(彗星一二型、零戦五二型)の3個飛行隊を統合した独立飛行隊の編成が許可された。この部隊の名称には富士山の別名“芙蓉峰”からとった芙蓉隊(のちに芙蓉部隊)が用いられた。これは部隊の根拠地となった静岡県藤枝基地から富士山がよく見えたことにちなんで美濃部少佐自身が命名したものであるが、第三航空艦隊長官の寺岡謹平中将の揮毫による隊旗まで作られた。この名称はあくまでも愛称であり、非公式なものであったが、戦果を挙げるにつれ後に公式文書にも使われるほどになった。
小艦艇や飛行機場攻撃に於いて、粘り強い通常攻撃を反復した芙蓉部隊であったが、本土に来襲する機動部隊に対して使用する戦法は、「未明に索敵機が空母を発見すると、位置を通報した後、飛行甲板に体当たりして発艦を不能として攻撃力を奪う(夜襲では艦船に対しての通常爆弾による通常攻撃は、まず期待出来ない。それは以前の月光による艦船夜襲で明白であった。)、その後の夜明け時、索敵機の知らせた地点に到着した第二波以降が通常攻撃を反復する」と言うものである。この戦法は特攻を前提としており、実際に美濃部は昭和20年2月17日の出撃で特攻を指示している。ただし、この時に敵は見つからなかった為、特攻攻撃は無かった。
なおこの時期、芙蓉部隊が第二御盾特別攻撃隊の名称で特攻隊になるという噂が流れたが、美濃部は「うちの隊から特攻は出さない。夜間作戦が出来る人間が少ないので、あとがなくなってしまう」と否定している。
[編集] 特攻主体の沖縄戦と芙蓉部隊による夜襲戦法の継続
1945年3月、沖縄戦が開始された。この戦いに於ける日本軍上層部の航空運用方針はただ一つ、「特攻による敵水上部隊への打撃」であった。このことは沖縄戦に先立つ2月に美濃部にも知らされたが彼は反対した。また、この時、美濃部は、自分の部隊が特攻に使われるのみならず、未熟なパイロットを機上作業練習機白菊や九四式水上偵察機といった明らかに第一線級ではない飛行機に乗せ、根拠も無く「行けば大抵命中する」との感情的な意見で特攻を行うような杜撰な計画を聞いた。そのような意見に対し美濃部は、階級差も省みず並みいる人々(この時点で美濃部は成り立ての少佐であり、末席であった)に向かって、「現場の兵士は誰も死を恐れていません。ただ、指揮官には死に場所に相応しい戦果を与える義務があります。練習機で特攻しても十重二十重と待ち受けるグラマンに撃墜され、戦果をあげることが出来ないのは明白です。白菊や練習機による特攻を推進なさるなら、ここにいらっしゃる方々が、それに乗って攻撃してみるといいでしょう。私が零戦一機で全部、撃ち落として見せます!」と言い切った。
そして続けて夜襲戦法による通常攻撃の継続を提案した。彼はそれ以前とその後の行動からも知れるのだが、単に情緒的な見地から特攻に反対したのではなく、夜襲戦法という通常攻撃手段がまだ残されていて、彼の部隊ではそれが可能であり、特攻を否定する事により特攻よりも大きな戦果を出す事が出来ると言う合理的判断から来たものだった。これにより芙蓉部隊は特攻を免除される一部の部隊(三四三空、三◯二空、六三四空など)に加えられる事となった。
3月30日部隊は鹿児島県鹿屋基地へ進出、彼の自信を裏付けるように芙蓉部隊は4月6日の初出撃において輸送船に攻撃を加え仮称三式一番二八号爆弾(ロケット弾)を命中させ、日本側全出撃機の中で唯一戦果を報告した。嘉手納飛行場失陥後は攻撃目標を嘉手納飛行場に切り替え、半月でパイロットの1/3を失うも攻撃を継続し続け、多大な損害を与えた。ここに来てようやく部隊の有効性に気づいた上層部は積極的に部隊を支援、これに応えて部隊は4月末の菊水4号作戦で主力を務め、アメリカ軍飛行場に損害を与えた。
その後も攻撃は継続するが、アメリカ軍が夜襲部隊への対策としてレーダー搭載の夜間戦闘機F6F-5N“ヘルキャット”を配備したため攻撃の継続は困難になり、部隊は5月末に鹿児島県の岩川基地に移動した。
岩川基地は滑走路に昼間のあいだ牛を放牧したり移動式の小屋を設置して牧場に見せかける等の徹底したカモフラージュをしていた為に一度も空襲を受けず、芙蓉部隊は敵機の攻撃による機材の消耗を免れることができた。
因みにこの頃、芙蓉部隊所属の彗星夜戦(一二戊型)は同じ夜間戦闘機であるアメリカ軍のP-61“ブラックウィドー”を斜銃[2]で撃墜するという、変わった戦果を挙げた。
芙蓉部隊は終戦まで、延べ630機を出撃させた。損害は零戦12機、彗星35機、未帰還隊員は76柱であった。
[編集] 終戦降伏と芙蓉部隊の戦後
部隊は戦争最末期まで通常攻撃を継続したが、さすがに米軍による九州上陸が噂されるようになると、「これ以上の通常攻撃は無理」として、部隊に残存する可動機40余機による特攻の演習まで計画されたほどだった(ただし、特攻出撃の際の空中指揮は美濃部自身である)。美濃部は、ヒューマニズムの点から特攻を否定したのでは無く、適切な通常攻撃法を採用できれば、高い士気を維持しつつ、搭乗員を極力生還させることにより実戦での練度を向上させてゆき、そして練度の向上した搭乗員による反復攻撃によって特攻より大きな戦果が可能であるために、合理的見地から特攻を否定したのである。よってこれ以上の通常攻撃ができなくなれば、最大の戦果を上げる手段として特攻を採用し、最後の出撃を敢行する(そして、その際は美濃部自身が指揮官機に乗って先頭になって死地に赴く)ことは美濃部としては合理的選択であった。8月15日、終戦。部隊は、一時は厚木基地の徹底抗戦の表明に呼応するような動きを見せるも次第に落ち着きを取り戻し、美濃部の説得もあり平穏に終戦を受け入れた。なおも徹底抗戦を唱える部下に対し美濃部は、「詔勅が出た以上、私に部隊の指揮を取る資格はない。納得できなければ私を斬ってから出撃せよ。」と言って説得した。
そして、部下たちには部隊の飛行機を用いて復員することを許可したのだった。この飛行機による復員で、美濃部は後に国際法違反の嫌疑を掛けられたが、「全ての武装を撤去した上での復員であった」と釈明し不問となっている。こののち、美濃部は航空自衛隊に入隊し、空自幹部候補生学校長などを勤め上げ空将にまで登りつめた。徳倉は、彗星の整備や再生で得た経験を基に建設会社を興し財を成した。
[編集] 同様戦法の航空部隊
第六三四海軍航空隊が、芙蓉部隊と同時期にフィリピン・沖縄で瑞雲水上偵察機(実質的には水上戦闘爆撃機)による艦船・飛行場への通常夜襲攻撃を行っており、「秘匿基地から発進した水偵搭乗員によるゲリラ的夜襲」という両者の戦法は極めて類似している。また、当時の日本海軍では、航空機による特攻はコンセンサスを得ていたが、それは機動部隊に対する攻撃法としてであり、特攻の目標を輸送船・小艦艇や飛行場とすることに対しては反対意見が大多数であった(輸送船を空母と誤認、小艦艇を戦艦と誤認して体当たりした例は多数ある)。六三四空以外にも、以下に数例をあげる。
(1)桜花装備の第七二一海軍航空隊ですら、桜花を沖縄の飛行場に突っ込ませると言う作戦案については、猛反対で取り下げられた程である。
(2)潜水艦掃討が本来の目的である第九〇一海軍航空隊は戦争末期に夜間の対艦船攻撃(輸送船・小艦艇などが目標)にも従事したが終戦まで特攻を指示されていない。
(3)昭和20年以降、海軍の主力爆撃機・攻撃機隊であった第七六五海軍航空隊は、主戦法であった沖縄の夜間飛行場攻撃、夜間対船団攻撃には特攻隊を出していない(記録に残っている限りでは、対機動部隊攻撃に2度だけ特攻隊を出した)。
[編集] メディアの注目
テレビ愛知では2005年5月、放送ドキュメンタリー『芙蓉部隊、特攻せず ~戦後60年目の証言~』を放送。 同年6月にはテレビ東京でも放送され、世間の関心を引く。劇団グーフィー&メリーゴーランドでは、芙蓉部隊をテーマにした作品『JUDY ~The Great Unknown Squadron~』を定期的に上演しており、静岡新聞、南日本新聞では複数に渡り、同作品の公演記事を掲載。2007年8月にはNHK鹿児島放送局で特集番組が組まれるなど、芙蓉部隊の注目度は高まりつつある。
[編集] 脚注
[編集] 参考文献
- 渡辺洋二『彗星夜襲隊 特攻拒否の異色集団』(光人社NF文庫、2008年新装版) ISBN 978-4-7698-2404-6
- 神坂次郎『特攻 若者たちへの鎮魂歌』(PHP文庫、2006年) ISBN 4-569-66657-4
- 芸文社『マスターモデラーズ』Vol.10 「美濃部正少佐と海軍芙蓉部隊」
- プレジデント社『プレジデント』1992年8月号 保阪正康「反骨の指揮官 「我が部隊特攻せず」」

