八原博通

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
八原 博通
Yahara Hiromichi.jpg
八原 博通
生誕 1902年10月2日
鳥取県米子市
死没 1981年5月7日(満78歳没)
所属組織 大日本帝国陸軍の旗 大日本帝国陸軍
軍歴 1923 - 1945
最終階級 陸軍大佐
テンプレートを表示

八原 博通(やはら ひろみち、明治35年(1902年10月2日 - 昭和56年(1981年5月7日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍大佐。米国通で知られ、沖縄戦で高級参謀として活躍した。

生涯[編集]

鳥取県米子市皆生出身。生家は養蚕農家自作農)。父・八原宇三郎は役場吏員

父・宇三郎の生家は村一番の地主ではあったが、次男の父は役場のささやかな給料、それに一町歩近い桑畑から上る養蚕の収入で生活をまかなっていた。水田や果樹園からの収入はごくわずかなもので、子どもがふえるに従い、自家飯米も確保できず、端境期には当時、南京米といった外米などを買わねばならぬといった状態だった。いわば、当時の平均的な貧しい農村の自作農だった。[1]父・宇三郎の兄は長年村長を務めており、当時米子では最高学府であった高橋塾で漢学を学んだインテリで、村の名士といってもよい存在だった[2]。小学校三年のとき、母・ちよのと死別。

米子中学校(現米子東高校、第17期卒、同期生に湯浅禎夫)を経て、1923年7月、陸軍士官学校(第35期)を卒業。同年10月、歩兵少尉に任官。歩兵第63連隊付などを経て、最年少で入学した陸軍大学校(第41期)を1929年11月に優等(5位)で卒業、恩賜の軍刀を拝領した。

1930年12月、陸軍省人事局付勤務となり、人事局課員(補任課)に異動。1933年10月から1935年12月までアメリカ陸軍の隊附として駐在した経験もあり、対戦相手であるアメリカをよく理解していた。この際、米国陸軍の砲兵力重視に大いに感銘を受けている。またアメリカ駐在中は、白人青年たちのもつ献身の精神と米国内での差別問題について所見をのべている。これらの視点からただの秀才ではないという片鱗を窺わせていた。

1935年11月、人事局課員(補任課)となり、陸大教官に転じ、1937年8月、歩兵少佐に昇進し第2軍参謀に就任。同年12月、第5軍参謀となり、陸大教官に異動。1939年8月、歩兵中佐に進級。1940年9月、大本営付仰付となり、タイ・マレー潜入、大本営参謀(作戦課)、タイ大使館付武官補佐官を歴任。

戦中[編集]

太平洋戦争が始まると、第15軍参謀としてビルマ(現ミャンマー)攻略作戦を担当した。積極攻勢を提示し、軍司令官飯田祥二郎としばしば対立した。その後、デング熱を発症し内地へ帰還した。回復後、陸軍大学校教官に発令され、1943年3月、陸軍大佐に昇進。1944年3月20日に沖縄防衛を担う第32軍の高級参謀(作戦担当)となった。当初は水際での積極攻勢を立案していたが、第9師団の台湾抽出後は「戦略持久」方針へ変更し、米軍の襲来に備えた。

1945年6月23日、第32軍は実質上組織的な抵抗を終了した。八原は、牛島司令官と長参謀長の自決を見届けた後、戦訓伝達のため民間人になりすまし脱出をはかるが、7月15日に捕虜となった。このことにより、八原の陸軍内部での評価は最悪なものとなった。1946年1月に復員

戦後[編集]

『沖縄悲遇の作戦 異端の参謀八原博通』によれば戦後は生活に困窮し、故郷において夫婦で行商をしていたという。この時の困窮ぶりを八原の息子が語っている。わずかな生活費を稼ぐのに必死であった。のちに軍の残務整理局に引き抜かれ生活の足しにするもすぐに解散。行商の傍ら農作業をしてなんとか生活している状況であったと伝えられている。

本人は85まで生きると言っていたが、1981年5月7日永眠。妻が朝様子を見に行ったところ、布団の中ですでに息を引き取っていたという。

家族[編集]

参考文献[編集]

演じた人物[編集]

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 稲垣武『沖縄悲遇の作戦 異端の参謀八原博通』20頁
  2. ^ 稲垣武『沖縄悲遇の作戦 異端の参謀八原博通』23頁

関連項目[編集]

外部リンク[編集]