戦闘指揮所

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博物館「ホーネット」で再現されているCIC。

戦闘指揮所(せんとうしきしょ、英語: Combat Information CenterCIC)とは、現代の軍艦における戦闘情報中枢のことである。レーダーソナー通信などや、自艦の状態に関する情報が集約される部署であり、指揮発令もここから行う。航空母艦においてCICに相当する部署は、CDC(Combat Direction Center)と呼ばれる。

その性質上多くの機密情報を扱うため、運用時間中は乗組員であっても立ち入りには制限が加えられる。

概要[編集]

CICには、戦術情報処理装置戦術データ・リンクをはじめとする各種のC4Iシステムが装備されている。これらはオペレータとともにマン・マシン・システムを形成して、戦闘中の情報処理を一括して担う。すなわち、CICは、艦のC4Iシステムとオペレータとを連接するためのマンマシンインタフェースとしての役割を持っており、その設計は、艦のシステム統合にあたって極めて重要である。

当初、CICは、単に、艦の戦闘に関する情報処理を一括して行なうための部屋というに過ぎず、その中での情報処理はほとんど完全な手動であった。その後、航空機性能向上とコンピュータの発達を背景に自動化が試みられ、1950年代初頭よりまずカナダで、ついでイギリスアメリカで開始された。初期は、レーダーなどの画面に表示された目標情報の入力を受けて、これを管理し、射撃指揮装置に移管するという、いわゆる武器管制装置に留まっていた。これらは、あくまでCICの装備品のひとつに過ぎなかった。

その後、より徹底的にCICとコンピュータの統合を推し進め、マン・マシン・システムとして目標の脅威レベルを判定する機能を付加した、いわゆるTEWA(Threat evaluation and weapons assignment)システムが開発された。アメリカにおいては、海軍戦術情報システム (NTDS)武器管制システムWDS: Weapons Direction System)の複合システムとして発展したのち、ターター-D・システムで連接され、イージスシステムにおいて統合された。また、NTDS系列の機種は、フランス日本ドイツなどでも派生型が開発されたほか、イギリスやオランダでは独自に開発しているが、これらは当初よりTEWAシステムとして開発された。

海上自衛隊では、CICの区画をクリーンCと定めている。CICは軍艦において最も重要な部署の一つであり、ここが機能を失うとその艦の戦闘能力は無に等しくなるため、他の部分に比べ堅固な作りとなっている。

海上保安庁巡視船のうち、指揮統制機能を強化している船では、OIC(Operation Information Center)室と呼ばれる区画が設置されている。これはCICの海上保安庁版といえるものであり、会議室として災害対策本部を設置できるほか、GMDSS, JASREPインマルサット衛星通信装置や救難ヘリコプターとの画像伝送装置などの充実した通信装備が設置されている。ただし、巡視船においては、船の指揮機能の中枢は依然として船橋に置かれており、OIC室は、どちらかというと群司令部指揮所(TFCC)に近い機能を担っている。

沿革[編集]

草創期(1940年代 - 1950年代)[編集]

1940年代の空母(CVL-22)のCIC。
1940年代の巡洋艦(CL-65)のCIC。

第二次世界大戦の前までは、軍艦における戦闘指揮は、艦長艦橋に位置し、そこから指揮を執っていた。これは、戦闘指揮に必要なものが無線通信を除き、肉眼で見えることだけで済んだためである。敵艦と自艦との位置関係の把握も視認範囲内が全てであった。

1930年代後半から1942年にかけて、のちにCICコンセプトにつながる様々な試みが行なわれた。イギリス空軍は、レーダー技術の発達にともない、これを活用するためにフィルター・ルーム・コンセプトを開発した。これは各レーダーサイトが得た目標情報を集中処理して、要撃機に対する管制に活用するものであり、地上要撃管制の原型であるとともに、洋上におけるCICコンセプトの原型でもあった。1940年バトル・オブ・ブリテンにおいて、このコンセプトは極めて大きな効果を上げた。バトル・オブ・ブリテンにおけるRAFはイギリス沿岸部に点在する22箇所のCH高高度レーダー監視所、29箇所のCHL高度レーダー補助監視所及び31箇所の内陸監視所をロンドン近郊アクスブリッジの中央防空指揮所で統括し、各防空管区からの情報を専用電話回線とテレグラムで集計。リアルタイムでドイツ軍攻撃隊の位置を把握して適当な戦闘機中隊に出動命令が下すという手法が取られた。戦闘機中隊は出撃後も逐次無線で誘導を受け、最短で迎撃ポイントに向かうことが可能だった。敵味方の部隊は盤上の駒として把握され、識別のためのIFFの搭載を含めてCICの基礎はここで確立されたと言える。 このことから、大日本帝国海軍による真珠湾攻撃の直後から、アメリカ軍もフィルター・ルーム・コンセプトの導入に着手し、ウィリアム・テイラー海軍少佐とバーキスト陸軍中佐を中心とした委員会が、SCR-270レーダーをセンサーとした地上システムを構築した。[1]またこれに先駆けて、1941年8月には、アメリカ海軍の空母艦上に、フィルター・ルームと同様の防空戦闘指揮所が設置され、これが艦上におけるCICコンセプトの初適用となった。これは、急速に展開していく航空戦闘の様相に対応し、また、レーダー探知など、視認不能な敵情報を適切に把握するため、情報を統合的に集中処理するものであった。[2]

一方、海洋戦にCICコンセプトを適用する試みは、これらとは別個に着手された。1942年の第三次ソロモン海戦およびルンガ沖夜戦において、新型のSG対水上レーダー装備の駆逐艦「フレッチャー」の副長であったJ・ワイリー少佐は、艦橋に隣接した海図室で、レーダーを直接操作して艦長が必要とするレーダー情報を伝えるとともに、内線電話によって砲術長・水雷長と緊密に連絡を取り、艦長の戦闘指揮を極めて効率的に補佐した。これは事実上、アメリカ海軍史上で初めてCICコンセプトが創出された例であり、この功によってワイリー少佐はシルバースターを授与されるとともに、1943年より、駆逐艦にCICコンセプトを適用するためのプロジェクト・チームに参加することとなった。このチームは、C・ラニング中佐の主導下に、ワイリー少佐のほか、G・フィリップ少佐、R・ブックマン少佐が参加していた。このチームは2ヶ月で、駆逐艦にCICを導入するためのハンドブック(C.I.C. Handbook for Destroyers Pacific Fleet)を作成し、これはまもなく全海軍に配布されることとなった[3]

なお、このチームの最先任士官であったラニング中佐は、CICコンセプトの源流がサイエンス・フィクションにあることを認めており、その一例として、E・E・スミスレンズマン・シリーズに登場する巨大な指揮艦であるディレクトリクス号を挙げている。この宇宙船には、特殊な知覚能力を備えたレンズマンたちが戦闘空間を視覚化することで、司令官艦隊指揮を円滑化するための「タンク」とよばれる設備が備えられており、劇中では、これによる指揮統制戦の優位がたびたび強調されていた。[4]

自動化の導入(1950年代 - 1980年代)[編集]

1960年代の空母(CVA-34)のCIC。情報集約には依然としてクリアボードを使用している。
1980年代のフリゲート(FFG-46)のCIC。NTDSに準じて構築されている。

この時点では、CIC内での情報処理は、わずかに計算尺が使われている程度で、ほとんどすべてが手動(紙と人と声)に頼っていた。CICの中央部には、自艦を中心にして目標情報をプロットするためのクリアボード(レーダー画面を巨大化したような、罫線が描かれた、文字通りの“透明黒板”)が配置され、ここに白フェルトペンを使って、レーダー手が怒鳴る敵艦や敵編隊の位置・進行方向・数といった情報などを手で書き込むことで情報を集約していた。また、他艦との情報伝達も、発光信号や手旗信号、原始的な無線機程度であった。1948年に行われたイギリス海軍シミュレーションで、この方式の限界点が明らかになった。このときには、熟練のオペレーターを配したにもかかわらず、同時に処理できる目標はせいぜい12機程度が限界で、20機の目標に対しては、完全に破綻してしまったのである。[2]

そしてまた、太平洋戦争の末期において日本軍が実施した特別攻撃が、艦隊の対空防御に重大な問題を提起していた。このとき、艦隊の防空システムはおおむね良好に働いたとはいえ、その対処能力は飽和寸前であり、より高速の機体が同様の攻撃をかけてきた場合、システムの破綻は不可避と考えられた。しかもジェット機の登場により、航空機の速度は戦後5年で倍増し、なお急速に増加しつづけていた。「紙と人と声」に頼っているかぎり、これ以上の対応速度の向上は困難であり、情報の処理に自動化を導入する必要性は明らかであった。

まず、「3Tファミリー」の艦対空ミサイルに付随して、その射撃管制を補助する武器管制システム (WDS: Weapons Direction System)が開発された。これは、目標の情報 (三次元的な位置や速度、脅威度など)を記憶・管理し、その射撃を効率化するもので、当時主流だったアナログコンピュータを使用していた。しかし、これはあくまで射撃指揮の効率化をはかるものであり、対応のさらなる迅速化には、CICとの統合をさらにつきつめて、マン・マシン・システムとして再構築する必要があった。

その開発の先駆者はカナダであり、1949年よりDATAR(Digital Automated Tracking and Resolving、数値自動軌跡追尾及び処理)の開発を開始していた。このシステムは、当時登場したばかりのデジタルコンピュータを使用しているだけでなく、データリンクの概念すら含まれており、極めて画期的なものであった。カナダ海軍はこのシステムを2隻の掃海艇に搭載してのテストまで行ったが、放熱が激しいという欠陥を有しており、最終的に過熱が原因の火災事故によってシステムは失われ開発は頓挫した。しかしその成果は、アメリカの海軍戦術情報システム (NTDS)の開発に生かされることになる。

一方、1950年代初頭より、イギリスはレーダー情報の処理・表示システムとしてCDS (Comprehensive Display System)の開発を進めており、1957年には実艦に搭載した。これはアナログ式のコンピュータを利用しており、世界で最も早く実戦配備された戦術情報処理装置である。アメリカもCDSと同様のシステム(EDS: Electronic Data System)を開発し、1953年より実艦への搭載を開始したが、アナログ式であるために信頼性と性能に限界があると考えられ、採用はされなかった。

1954年に開始されたランプライト計画においては、このころ急速に台頭していたデジタルコンピュータによる戦術情報処理装置が開発された。これはNTDSの中核として、1961年より、空母「オリスカニー」およびミサイル駆逐艦2隻において評価試験を実施したうえで、1963年に制式化された。また、イギリスもCDSの後継としてADA (Action Data Automation)を開発したのち、1966年より、これをデジタル化するとともに改良したADAWS(Action Data Automation Weapon System)に発展させた。

統合システム化(1980年代以降)[編集]

一方、アメリカにおいては、ターター-D・システムにおいてNTDSとWDS(武器管制システム)の連接が実現し、その後継となるイージスシステムにおいてこれらの機能は統合され、高度に自動化された。1983年の「タイコンデロガ」の就役を皮切りに、アメリカの水上戦闘艦の主力はイージス艦に移行していった。

一方、イージスシステムを搭載しない水上戦闘艦や、それ以外の空母や強襲揚陸艦が搭載するNTDSの後継機としてACDS(高度戦闘指揮システム)が開発された。これらは、戦闘指揮所に装備されて、個艦戦闘の中枢を担った。特にアーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦にイージスシステムを装備するにあたっては、イージス・ディスプレイ・システムを装備した戦闘指揮所の設計が、システム統合の最重要事項とされたことが知られている。

2000年代の空母(CVN-65)のCDC。大型ディスプレイがクリアボードに取って代わった。
イージス艦CG-49)のCIC。

参考文献[編集]

  1. ^ www.vectorsite.net (2001年3月11日). “Microwave Radar At War (1)” (英語). 2011年9月2日閲覧。
  2. ^ a b 野木恵一「システムとしての艦隊防空」『世界の艦船』第662集、海人社、2006年8月、98-103頁。 
  3. ^ 大熊康之『戦略・ドクトリン統合防衛革命』かや書房、2011年。ISBN 978-4-906124-70-1 
  4. ^ 岡部いさく「軍艦のコンバット・システム」『世界の艦船』第748集、海人社、2011年10月、75-81頁。 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]