愛知機械工業
| 種類 | 株式会社 | ||||
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| 市場情報 |
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| 本社所在地 | 〒456-8601 名古屋市熱田区川並町2-12 |
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| 設立 | 1949年5月23日 | ||||
| 業種 | 輸送用機器 | ||||
| 代表者 | 代表取締役社長 石崎義一 | ||||
| 資本金 | 85億18百万円 (2008年3月31日現在) |
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| 売上高 | 単体1,098億円、連結1,130億円 (2008年3月期) |
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| 総資産 | 単体943億円、連結971億円 (2008年3月31日現在) |
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| 決算期 | 3月31日 | ||||
| 主要株主 | 日産自動車 41.7% | ||||
| 外部リンク | http://www.aichikikai.co.jp/ |
愛知機械工業株式会社(あいちきかいこうぎょう)は、名古屋市熱田区に本社を置くエンジン・マニュアルトランスミッションなど自動車部品・産業用部品を中心としたメーカー。終戦直後から1960年代まではオート三輪「ヂャイアント」を、1960年代には「コニー」などの軽自動車を製造・販売していた。日産自動車グループであり、東京証券取引所1部、名古屋証券取引所1部上場企業。
目次 |
[編集] 沿革
- 1943年2月 - 愛知時計製造株式会社(現在の愛知時計電機)から航空機部門が分離し、愛知航空機株式会社を設立。
- 1946年3月 - 愛知起業株式会社に社名を変更。
- 1946年12月オート三輪「ヂャイアント」製造販売権を帝国精機産業株式会社より譲り受ける。
- 1947年4月 - ヂャイアントAA1型生産開始。
- 1947年10月 現在の社章が正式に制定。
- 1949年5月 - 愛知起業株式会社解散。第2会社が事業を引き継ぎ、新愛知起業株式会社を設立。
- 1952年12月 - 現在の社名に変更。
- 1959年3月 - 自社ブランド軽自動車「コニー」製造・販売開始。初代AA27型は軽三輪車。
- 1960年9月 - 「ヂャイアント」の製造・販売を終了。
- 1961年5月 - 「コニーグッピー」を製造・販売開始。しかし、わずか1年足らずで生産終了。
- 1962年11月 - 日産自動車と提携開始。
- 1970年2月 - B20型サニートラックを皮切りに日産車の生産を開始。
- 1970年10月 - 「コニー」の製造・販売を終了。
1946年以降、「ヂャイアント」や「コニー」の名で知られるオート三輪・軽商用車メーカーとして知られ、オート三輪には水冷エンジンや丸ハンドル、全天候型キャビンをいち早く採用、軽商用車もミッドシップ(当時はアンダーフロアと呼んだ)レイアウトを採用するなど、先進的な設計で知られた。
1961年には全日本自動車ショウに試作軽乗用車「コニー・360コーチ」を出品し、乗用車市場への進出を試みたり、超小型車「コニー・グッピー」を発売するなど積極策を展開したが、これらが業績には結びつかず、1962年9月決算で1.4億円の営業赤字を計上し無配転落(復配は1975年3月期)、メインバンクの旧・日本興業銀行の仲介で、日産自動車と1962年11月に技術提携、1965年3月には本格的な業務提携に入り、生え抜きの二代目社長であった五明得一郎社長は相談役に退き、日産自動車の購買担当常務であった堀庫治郎が社長就任、日産の持株比率は1966年9月末には15%となり、筆頭株主となった。
日産自動車としては、当初から軽自動車メーカーの一社ではなく車両やエンジンの生産委託先・協力メーカーの一社として愛知機械工業を活用する方針であり、日産出身社長としては初代の堀庫治郎も、日産の横浜第一工場長から愛知機械入りした後任の小畠三郎も生産技術者であった。そして日産の指導のもと、原価管理などのノウハウが導入され、以前はプリンス自動車同様に総評系であった労働組合も「民主化」の結果、当時の日産自動車社長の川又克二と親密な関係にあった塩路一郎が率いる自動車労連の傘下に入るなど「日産化」が急速に進行した。
創業以来の自動車生産については、1965年のコニー・360ワイド以降は新型車の開発も無く、同業メーカーのホンダ、スズキ、ダイハツなどを中心とした熾烈な新型車開発競争・販売合戦からは完全に脱落してしまい、「利益確保優先」と称して積極的な販売促進策も講じられなかったことから、結果的に「再建の足かせ」とまで評されるようになり、1970年10月には自社ブランドでの自動車生産の撤退を余儀なくされて特別損失40億6800万円を計上し、堀社長は引責辞任した。
なお、愛知機械工業の販売系列であった「日産・コニー店」は、1970年10月に自社ブランドでの自動車生産から撤退と同時に、日産自動車が生産販売する新規車種のチェリーの発売に合わせて、それまでの「日産・コニー店」の社名であった「日産コニー○○販売」から「日産チェリー○○販売」に社名変更されて「日産・チェリー店」に販売系列が変更された。
後に、日産・チェリーが3代目へのフルモデルチェンジを機にパルサーに車名変更された後も、従来通り「日産・チェリー店」の名称で存続され、広告上では「パルサー販売会社」又は「パルサー販売」と称されていたが、昭和60年代前半から平成初期にかけて、大半の「日産・チェリー店」が「日産・プリンス店」に統合されており、現在の日産・レッドステージ系列販売会社の礎のひとつとなる。
自社ブランドでの自動車生産から撤退以降は、日産自動車の小型車のエンジン・トランスミッションの生産を手がけ、更にはバネット、セレナ、ラルゴ、サニートラック、サニーキャブ/チェリーキャブ、パオの完成車開発・生産までをも行ったが、1999年2月、車両事業継続が困難となったため、ユニット専門工場として再スタートを切るべく車両生産からの撤退が発表され、後に日産自動車が発表した経営再建計画「日産リバイバルプラン」に合流する形となり、2001年に港工場が閉鎖(同時に日産自動車村山工場、日産車体京都工場も閉鎖)されて完成車生産から撤退した。
なお、当初は、永徳工場を閉鎖して生産設備を港工場に移設することになっていたが、工場閉鎖のみの場合より費用がかかるために方針を転換して港工場の閉鎖となった。
そして、港工場で生産されていたC24型セレナは2001年1月より日産自動車栃木工場に順次移管された。
現在は、エンジン・トランスミッションの生産専業に徹して完成車生産は行っていないが、他メーカーへも販路を広げている。例を挙げると、三菱・ランサーエボリューションVIIIの6速マニュアルトランスミッションは愛知機械製であり、日産以外の自動車企業との初の取引でもあった。現在では、軽自動車用のCVT(無段変速機)の他、前述の三菱以外にマツダ、フォード・モーター、現代自動車、ルノー、プロトンにもマニュアルトランスミッションを納入している。
2007年12月に発売された日産・GT-R用のGR6型デュアルクラッチトランスミッションも愛知機械製である。
[編集] 生産品目
[編集] エンジン
[編集] トランスミッション
- F30A/F70A/F50A
- MFA60/MFA80
- W60A
- R30A
- MRA70
- GR6
[編集] 事業所
- 本社 - 名古屋市熱田区
- 熱田工場 - 名古屋市熱田区
- エンジンの生産
- 永徳工場 - 名古屋市港区
- マニュアルトランスミッション、CVT加工組立
- 松阪工場 - 三重県松阪市
- シリンダーブロック、シリンダーヘッド、トランスミッションケース等の鋳造製品
- 津工場 - 津市
- シリンダーヘッド加工
- 大江工場 - 名古屋市港区 - 旧・日本車輌製造株式会社大江工場の敷地に建てられた。
- 専用工作機械など
[編集] かつての事業所
[編集] 参考文献
愛知機械工業 編「愛知機械工業50年史」