栗林忠道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
栗林 忠道
Tadamichi Kuribayashi1.jpg
留守近衛第2師団長陸軍中将)当時の栗林[1]
生誕 1891年7月7日
日本の旗 日本 長野県埴科郡西条村
死没 1945年3月26日(満53歳没)
日本の旗 日本 東京都小笠原諸島硫黄島村硫黄島
所属組織 大日本帝国陸軍の旗 大日本帝国陸軍
軍歴 1914年 - 1945年
最終階級 Japan-army-1938-1945 16-1-.gif 陸軍中将
Japan-army-1938-1945 17-1-.gif 陸軍大将 追叙
テンプレートを表示

栗林 忠道(くりばやし ただみち、1891年明治24年〉7月7日1945年昭和20年〉3月26日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍大将位階勲等従四位勲一等旭日大綬章)。長野県埴科郡西条村(現:長野市松代町)出身。

小笠原兵団長(兼第109師団長)として陸海軍硫黄島守備隊を総指揮(小笠原方面最高指揮官)、硫黄島の戦いにおいて守備隊指揮官として戦死した。

来歴[編集]

戦国時代から続く郷士の家に生まれる。1911年(明治44年)、長野県立長野中学校を卒業(第11期)。在学中は文才に秀で、校友誌には美文が残されている。当初ジャーナリストを志し東亜同文書院を受験し合格していたが、恩師の薦めもあり1912年大正元年)12月1日に陸軍士官学校へ入校。当時のエリート陸軍軍人の主流である幼年学校卒ではない一般中学を経ての入校であった。長野中学の4期後輩に今井武夫少将がいる。

1914年(大正3年)5月28日、陸軍士官学校卒業(第26期、兵科騎兵、席次:125番)、騎兵第15連隊見習士官となり、同年12月25日に陸軍騎兵少尉任官。1918年(大正7年)7月に陸軍騎兵学校を経て中尉1920年(大正9年)12月7日、陸軍大学校へ入校。1923年(大正12年)8月、大尉。同年11月29日に卒業(第35期)、成績優等(次席)により御賜の軍刀を授与されている。同年12月、同姓の栗林義井と結婚。その後、太郎・洋子・たか子の一男二女をもうける。

北米駐在・騎兵畑[編集]

陸軍騎兵大佐時代の栗林

騎兵第15連隊中隊長、騎兵監部員を経て1927年昭和2年)、アメリカ駐在武官大使館附)として駐在、帰国後の1930年(昭和5年)3月に少佐に昇進、4月には陸軍省軍務局課員。1931年(昭和6年)8月、再度北米カナダに駐在武官(公使館附)として駐在した。フランスドイツ志向の多い当時の陸軍内では少数派であった「知米派」であり、国際事情にも明るく対米開戦にも批判的であった。

1933年(昭和8年)8月、中佐、同年12月30日に陸軍省軍務局馬政課高級課員となりさらに1936年(昭和11年)8月1日には騎兵第7連隊長に就任する。1937年(昭和12年)8月2日、大佐に昇進し陸軍省兵務局馬政課長。馬政課長当時の1938年(昭和13年)には軍歌愛馬進軍歌』の選定に携わっている。1940年(昭和15年)3月9日、陸軍少将に昇進し騎兵第2旅団長、同年12月2日、騎兵第1旅団長に就任。

太平洋戦争[編集]

太平洋戦争開戦目前の1941年(昭和16年)9月19日、緒戦の南方作戦においてイギリス香港の攻略を任務とする第23軍参謀長に就任した栗林は作戦立案や指導にあたり、12月8日の開戦後、香港の戦いにおいて陸軍は18日間でイギリス軍を撃破し香港を制圧した。1943年(昭和18年)6月10日、中将。同日、第23軍参謀長から留守近衛第2師団長に就任[2]1944年(昭和19年)4月6日、師団厨房で起きた失火による火災事故の責任をとり師団長を辞し、東部軍司令部附となる[3]

硫黄島の戦い[編集]

硫黄島での戦闘(2月17日)

1944年(昭和19年)5月27日、小笠原方面を守備するため父島要塞守備隊を基幹とする第109師団長となり、6月8日、硫黄島に着任。同年7月1日には大本営直轄部隊として編成された小笠原兵団長も兼任、海軍部隊も指揮下におき小笠原方面最高指揮官となる(硫黄島の戦い#小笠原兵団の編成と編制)。兵団司令部を設備の整った従来の父島から、アメリカ軍上陸後には最前線になると考えられた硫黄島に移し、同島守備の指揮を執る。敵上陸軍の撃退は不可能と考えていた栗林は、堅牢な地下陣地を構築しての長期間の持久戦・遊撃戦(ゲリラ)を計画・着手する。水際陣地構築および同島の千鳥飛行場確保に固執する海軍の強硬な反対を最後まで抑え、またアメリカ軍爆撃機空襲にも耐え、上陸直前までに全長18kmにわたる坑道および地下陣地を建設した。その一方で隷下将兵に対しては陣地撤退・万歳突撃自決を強く戒め、全将兵に配布した『敢闘ノ誓』や『膽兵ノ戦闘心得』に代表されるように、あくまで陣地防御やゲリラ戦をもっての長期抵抗を徹底させた(硫黄島の戦い#防衛戦術)。また、島民はアメリカ軍上陸以前に本土や父島に避難(強制疎開)させた。

1945年(昭和20年)2月16日、アメリカ軍艦艇・航空機は硫黄島に対し猛烈な上陸準備砲爆撃を行い、同月19日9時、海兵隊第1波が上陸を開始(硫黄島の戦い#アメリカ軍の上陸)。上陸準備砲爆撃時に栗林の命令を無視し、応戦砲撃を行った(日本)海軍の海岸砲により擂鉢山火砲陣地が露呈し全滅するなど誤算もあったものの、十分にアメリカ軍上陸部隊を内陸部に引き込んだ日本軍守備隊は10時過ぎに一斉攻撃を開始する。圧倒的な劣勢の中、アメリカ軍の予想を遥かに上回り粘り強く戦闘を続け多大な損害をアメリカに与えるものの、3月7日、栗林は最後の戦訓電報となる「膽参電第三五一号」を大本営陸軍部と陸大時代の兵学教官であった蓮沼蕃陸軍大将に対し打電。さらに組織的戦闘の最末期となった16日16時には、玉砕を意味する訣別電報を大本営に対し打電(硫黄島の戦い#組織的戦闘の終結#訣別の電文)。翌17日、大本営よりその功績を認められ、特旨により大将へ昇進。平時とは異なる戦時昇進ではあるが、53歳という年齢は日本陸海軍中最年少の大将である(栗林の大将任官は訣別電報を受けての進級ではあるものの、死後進級では無い)。同日、最後の総攻撃を企図した栗林は残存部隊に対し以下の指令を送った。

  • 一、戦局ハ最後ノ関頭ニ直面セリ
  • 二、兵団ハ本十七日夜、総攻撃ヲ決行シ敵ヲ撃摧セントス
  • 三、各部隊ハ本夜正子ヲ期シ各方面ノ敵ヲ攻撃、最後ノ一兵トナルモ飽ク迄決死敢闘スベシ 大君{注:3語不明}テ顧ミルヲ許サズ
  • 四、予ハ常ニ諸子ノ先頭ニ在リ

17日当日および以降は総攻撃の機会が訪れなかったため、以来時機を窺っていた栗林は26日、約400名の将兵とともに、自ら指揮を取りアメリカ陸空軍野営地に対し夜襲を敢行し、戦死したと推定されている[4][5]。満53歳没。

戦後[編集]

墓所は長野市松代明徳寺。戦後1967年(昭和42年)、勲一等に叙せられ旭日大綬章を受勲。

死後、日米の戦史研究者などからは高い評価を得ていたが、硫黄島の戦いを除くと参謀長や留守師団長など軍人としては目立ったエピソードも少なく、局地戦で戦死した指揮官ということもあり、日本でも一般的な知名度は高くなかったが、2005年平成17年)に硫黄島における栗林に焦点をあてた梯久美子の著書『散るぞ悲しき』の刊行に続いて、翌2006年(平成18年)、映画硫黄島からの手紙』が公開され、関連書籍の刊行が相次ぐなどして一躍その名が知られるようになった。

栗林は幼少の頃、一時的に養子に出ていたことがあり、養子に出ていた当時の記録は長らくの間不明であったが、近年、生家から少年時代の日記帳や成績表などが発見され、生後まもなく地元の士族・倉田家へ養子に出ていた時期など、これまで知られていなかった少年期の詳細が明らかになった。

評価[編集]

アメリカ本国においては、硫黄島の戦いの報道がリアルタイムでなされていたこともあり、この戦闘の状況と栗林の知名度は高い。特に戦後、軍事史研究家やアメリカ軍軍人に対し、「太平洋戦争における日本軍人で優秀な指揮官は誰であるか」と質問した際、「栗林将軍(General Kuribayashi)」と栗林の名前を挙げる人物が多いといわれている。戦闘自体は結果的に敗北に終わったものの、僅か22km²(東京都北区程度の面積)にすぎない硫黄島を、日本軍の3倍以上の兵力および絶対的な制海権制空権を持ち、予備兵力・物量・補給線・装備全てにおいて圧倒的に優勢であったアメリカ軍の攻撃に対し、最後まで将兵の士気を低下させずに、アメリカ軍の予想を上回る1ヶ月半も防衛した指揮は高く評価されている。

従来の島嶼防衛における水際作戦という基本方針を退け、長大かつ堅牢な地下陣地を構築したうえで、不用意な万歳突撃等による玉砕を厳禁し部下に徹底抗戦を指示した。その結果、アメリカ軍の死傷者総数が日本軍守備隊のそれを上回るという成果を上げ、またM4 シャーマン中戦車LVT等を大量に撃破・擱坐させるといった物的損害を与えることにも成功し、のちにアメリカ軍幹部をして「勝者なき戦い」と評価せしめた。

訣別の電文[編集]

 戦局最後ノ関頭ニ直面セリ 敵来攻以来 麾下将兵ノ敢闘ハ真ニ鬼神ヲ哭シムルモノアリ 特ニ想像ヲ越エタル量的優勢ヲ以テスル陸海空ヨリノ攻撃ニ対シ 宛然徒手空拳ヲ以テ 克ク健闘ヲ続ケタルハ 小職自ラ聊(いささ)カ悦ビトスル所ナリ
  然レドモ 飽クナキ敵ノ猛攻ニ相次デ斃レ 為ニ御期待ニ反シ 此ノ要地ヲ敵手ニ委ヌル外ナキニ至リシハ 小職ノ誠ニ恐懼ニ堪ヘザル所ニシテ幾重ニモ御詫申上グ 今ヤ弾丸尽キ水涸レ 全員反撃シ 最後ノ敢闘ヲ行ハントスルニ方(あた)リ 熟々(つらつら)皇恩ヲ思ヒ 粉骨砕身モ亦悔イズ 特ニ本島ヲ奪還セザル限リ 皇土永遠ニ安カラザルニ思ヒ至リ 縦ヒ魂魄トナルモ 誓ツテ皇軍ノ捲土重来ノ魁タランコトヲ期ス 茲(ここ)ニ最後ノ関頭ニ立チ 重ネテ衷情ヲ披瀝スルト共ニ 只管(ひたすら)皇国ノ必勝ト安泰トヲ祈念シツツ 永ヘニ御別レ申シ上グ
  尚父島母島等ニ就テハ 同地麾下将兵 如何ナル敵ノ攻撃ヲモ 断固破摧シ得ルヲ確信スルモ 何卒宜シク申上グ
終リニ左記〔注:原文は縦書き〕駄作御笑覧ニ供ス 何卒玉斧ヲ乞フ

  • 国の為 重き努を 果し得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき[6]
  • 仇討たで 野辺には朽ちじ 吾は又 七度生れて 矛を執らむぞ
  • 醜草(しこぐさ)の 島に蔓る 其の時の 皇国の行手 一途に思ふ


    太字は添削された箇所

新聞に掲載された電文

戦局遂に最後の関頭に直面せり
 十七日夜半を期し小官自ら陣頭に立ち、皇国の必勝と安泰とを祈念しつ、全員壮烈なる総攻撃を敢行す

 敵来攻以来想像に余る物量的優勢を以て陸海空よりする敵の攻撃に対し克く健闘を続けた事は小職の聊か自ら悦びとする所にして部下将兵の勇戦は真に鬼神をも哭かしむるものあり

 然れども執拗なる敵の猛攻に将兵相次いで斃れ為に御期待に反し、この要地を敵手に委ねるのやむなきに至れるは誠に恐懼に堪へず、幾重にも御詫び申し上ぐ
 特に本島を奪還せざる限り皇土永遠に安からざるを思ひ、たとひ魂魄となるも誓つて皇軍の捲土重来の魁たらんことを期す、今や弾尽き水涸れ戦い残れる者全員いよく最後の敢闘を行はんとするに方り熟々皇恩の忝さを思ひ粉骨砕身亦悔ゆる所にあらず
 茲に将兵一同と共に謹んで聖寿の万歳を奉唱しつつ永へ御別れ申上ぐ

 終りに左記駄作、御笑覧に供す。


  • 国の為重きつとめを果たし得で 矢弾尽き果て散るぞ口惜し
  • 仇討たで 野辺には朽ちじ 吾は又 七度生れて 矛を執らむぞ
  • 醜草(しこぐさ)の 島に蔓る 其の時の 皇国の行手 一途に思ふ


新聞に掲載された原文のまま。下線は新たに加筆された所

逸話[編集]

  • 軍人であると同時に良き家庭人でもあり、北米駐在時代や硫黄島着任以降には、まめに家族に手紙を書き送っている。アメリカから書かれたものは、最初の子どもである長男・太郎が幼かったため、栗林直筆のイラストを入れた絵手紙になっている。硫黄島から次女(「たこちゃん」と呼んでいた)に送った手紙では、軍人らしさが薄く一人の父親としての面が強く出た内容になっている。硫黄島着任直後に送った手紙には次のようなものがある。

「お父さんは、お家に帰って、お母さんとたこちゃんを連れて町を歩いている夢などを時々見ますが、それはなかなか出来ない事です。たこちゃん。お父さんはたこちゃんが大きくなって、お母さんの力になれる人になることばかりを思っています。からだを丈夫にし、勉強もし、お母さんの言いつけをよく守り、お父さんに安心させるようにして下さい。戦地のお父さんより」

  • 妻宛てには、留守宅の心配や生活の注意などが事細かに記され、几帳面で情愛深い人柄が偲ばれる。これらの手紙はのちにまとめられて、アメリカ時代のものは『「玉砕総指揮官」の絵手紙』(小学館文庫、2002年)、硫黄島からのものは『栗林忠道 硫黄島からの手紙』(文藝春秋2006年)として刊行されている。なお、留守宅は東京大空襲で焼失したが、家族は長野県に疎開しており難を免れている。
  • 弟の栗林熊尾が兄の後を追って、長野中学から陸軍士官学校へ進学したいと言い出したとき、栗林は陸軍では陸軍幼年学校出身者が優遇され、中学出身者は陸軍大学校を出ても主流にはなれないからと、幼年学校が存在しない海軍兵学校へ行くように薦めている。熊尾は海軍兵学校受験に失敗し、陸軍士官学校に入校したが(第30期)[7]、卒業後に肺結核で夭折、栗林は弟の死を嘆いた。
  • もともと新聞記者志望ということもあり、文才のある軍人としても知られていた。軍歌『愛馬進軍歌』は自ら選定にあたっている。
  • 自由民主党衆議院議員新藤義孝は、栗林の孫(次女・たか子の子)にあたる。
  • 2012年4月、栗林の墓がある長野市松代町豊栄の明徳寺に、長野の市民団体が中心となり、長野中学出身の栗林忠道陸軍大将と今井武夫陸軍少将の顕彰碑が建立された。

年譜[編集]

  • 1911年3月 - 長野県立長野中学校卒業(第11期)
  • 1914年 - 陸軍士官学校卒業(第26期)、見習士官
    • 12月 - 陸軍騎兵少尉任官
  • 1918年
    • 7月 - 陸軍騎兵学校乙種学生卒業、陸軍騎兵中尉
  • 1923年
    • 8月 - 陸軍騎兵大尉
    • 11月 - 陸軍大学校卒業(第35期)御賜の軍刀授与
    • 12月 - 騎兵第15連隊中隊長
  • 1925年
    • 5月 - 騎兵監部員
  • 1927年 - 武官補佐官としてワシントンD.C.に駐在。軍事研究のためハーバード大学に学ぶ
  • 1930年
    • 3月 - 陸軍騎兵少佐
    • 4月 - 陸軍省軍務局課員
  • 1931年
    • 8月 - カナダ公使館付武官
  • 1933年
    • 8月 - 陸軍騎兵中佐
    • 12月 - 陸軍省軍務局馬政課高級課員
  • 1936年
    • 8月 - 騎兵第7連隊長
  • 1937年
  • 8月 - 陸軍騎兵大佐、陸軍省兵務局馬政課長
  • 1938年 - 軍歌『愛馬進軍歌』の選定に携わる
  • 1940年
    • 3月 - 陸軍少将、騎兵第2旅団長
    • 12月 - 騎兵第1旅団長
  • 1941年
    • 12月 - 第23軍参謀|参謀長として香港の戦いに従軍
  • 1943年
    • 6月 - 陸軍中将、留守近衛第2師団長
  • 1944年
    • 4月 - 東部軍司令部附
    • 5月27日 - 第109師団長
    • 7月1日 - 小笠原兵団長兼任
  • 1945年
    • 2月16日 - 硫黄島の戦い開戦
      • 19日 - アメリカ軍上陸開始
      • 23日 - 摺鉢山独立拠点、アメリカ軍占領
    • 3月16日 - 大本営に訣別電報打電
      • 17日 - 陸軍大将
      • 26日 - 日本軍守備隊最後の組織的総攻撃の指揮を行い、戦死と推定
  • 1967年
    • 12月23日 - 叙勲一等、授旭日大綬章

関連資料[編集]

著書[編集]

  • 『栗林忠道 硫黄島からの手紙』文藝春秋、2006年8月、ISBN 4163683704、文春文庫、2009年8月
  • 『「玉砕総指揮官」の絵手紙』吉田津由子編、小学館、2002年4月、ISBN 4094026762

ノンフィクション[編集]

  • 舩坂弘 『硫黄島――ああ!栗林兵団』 講談社、1968年8月
  • 陸戦史研究普及会編 『陸戦史集15 硫黄島作戦』 原書房、1970年
  • 児島襄 『将軍突撃せり――硫黄島戦記』 文藝春秋、1970年
  • 鳥居民 『小磯内閣の倒壊――3月20日〜4月4日』 草思社、1987年9月、ISBN 4794202865
  • 現代タクティクス研究会 『第二次世界大戦将軍ガイド』 新紀元社、1994年8月、ISBN 4883172341
  • 岡田益吉 『日本陸軍英傑伝――将軍暁に死す』 光人社、1994年8月、ISBN 4769820577、初版1972年刊行
  • R.F.ニューカム 、田中至訳 『硫黄島――太平洋戦争死闘記』 光人社、1996年2月、ISBN 4769821131、原著1965年刊行
  • 橋本衛ほか 『硫黄島決戦』 光人社、2001年8月、ISBN 4769823177
  • 堀江芳孝 『闘魂 硫黄島――小笠原兵団参謀の回想』 光人社、2005年3月、ISBN 4769824491、初版1965年刊行
  • 梯久美子 『散るぞ悲しき――硫黄島総指揮官・栗林忠道』 新潮社、2005年7月、ISBN 4104774014、新潮文庫、2008年8月
  • 田中恒夫ほか 『戦場の名言――指揮官たちの決断』 草思社、2006年6月、ISBN 479421507X
  • 留守晴夫 『常に諸子の先頭に在り――陸軍中將栗林忠道と硫黄島戰』 慧文社、2006年7月、ISBN 4905849489
  • 柘植久慶 『栗林忠道――硫黄島の死闘を指揮した名将』 PHP研究所、2006年12月、ISBN 4569667430
  • 川相昌一 『硫黄島戦記――玉砕の島から生還した一兵士の回想』 光人社、2007年1月、ISBN 4769813287
  • 小室直樹 『硫黄島栗林忠道大将の教訓』 ワック、2007年1月、ISBN 9784898311028
  • 別冊宝島編集部 『栗林忠道硫黄島の戦い』 宝島社文庫、2007年8月
  • 今井貞夫、高橋久志監 『幻の日中和平工作 軍人今井武夫の生涯』 中央公論事業出版、2007年11月、ISBN 9784895142946

脚注[編集]

  1. ^ 本写真(原版)の撮影は陸軍中将当時(1943年1944年頃)であるが、死後に遺影として用いるために襟章の修正が施され3連星の陸軍大将とし、また着色写真化されている。
  2. ^ 「留守(留守部隊)」とは、出征中の「実戦部隊(近衛第2師団)」に対し将兵の補充・教育や補給を担当する「留守近衛第2師団」を意味する(近衛第2師団はスマトラ島方面に作戦展開中)。
  3. ^ 「禁闕守護」「鳳輦供奉」の任を担っている近衛の部隊において、この事故は問題であった。
  4. ^ 栗林の最期については、自身が軍服階級章などを外して総攻撃の指揮を執ったため、(アメリカ軍による総攻撃後の遺体捜索において)遺体が発見されておらず、詳細な死亡時の状況と原因(戦死か自決か)は判明していない。戦闘で行方不明となったとするのが正確な表現であるが、当時の状況から判断して戦死した可能性が高く、関連の書物でも戦死として扱われている。
  5. ^ 情報誌SAPIO』2006年10月25日号で大野芳により、栗林がアメリカ軍に降伏しようとして部下に斬殺されたという異説が唱えられたが、『文藝春秋』2007年2月号において梯久美子による検証がなされ、ほぼ否定されている。
  6. ^ 新聞発表では、「悲しき」の部分を「口惜し」と改竄の上、発表された。
  7. ^ 長野中学からのもう一人の同期生は今井武夫陸軍少将である。

関連項目[編集]