海軍飛行予科練習生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

海軍飛行予科練習生(かいぐんひこうよかれんしゅうせい)とは、大日本帝国海軍における航空兵養成制度の一つ。志願制。“予科練”(よかれん)と略称で呼ばれることが多い。

歴史[編集]

戦前[編集]

1929年(昭和4年)12月、海軍省令により予科練習生の制度が設けられた。「将来、航空特務士官たるべき素地を与ふるを主眼」とされ、応募資格は高等小学校卒業者で満14歳以上20歳未満で、教育期間は3年(のちに短縮)、その後1年間の飛行戦技教育が行われた。全国からの志願者5807名から79名が合格し、1930年昭和5年)6月、第一期生として横須賀海軍航空隊へ入隊した(後の乙飛)。

1936年(昭和11年)12月、「予科練習生」から「飛行予科練習生」へと改称。1937年(昭和12年)、更なる搭乗員育成の為、旧制中学校4学年1学期修了以上(昭和18年12期生より3学年修了程度と引き下げられた)の学力を有し年齢は満15歳以上20歳未満の志願者から甲種飛行予科練習生(甲飛)制度を設けた。従来の練習生は乙種飛行予科練習生(乙飛)と改められた。甲飛の募集の際、海軍兵学校並みの待遇や進級速度が喧伝され、また甲飛の応募資格が海軍兵学校の応募資格(旧制中学校4学年修了程度)と遜色なかったために、海軍の新設航空士官学校との認識で甲飛に入隊した例も多かった。ところが、兵学校相当の難関試験に合格し、晴れて入隊した練習生に与えられた階級は海兵団で訓練中の新兵らと同じ最下級の四等水兵で、制服も水兵服であった。それらの低待遇に失望した生徒が、母校の中学後輩に「予科練は目指すな」と愚痴をこぼすまで問題になった。

当初は、横須賀海軍航空隊の追浜基地がその教育に用いられたが、手狭なため、1939年(昭和14年)3月、予科練の教育を霞ヶ浦海軍航空隊に移した。翌年同基地内に新設された土浦海軍航空隊に担当が変更された。

1940年(昭和15年)9月、海軍の下士官兵からの隊内選抜の制度として従来から存在した操縦練習生(操練)・偵察練習生(偵練)の制度を、予科練習生の一種として取り込み、丙種飛行予科練習生(丙飛)に変更した。

戦中[編集]

当時の予科練生

1941年(昭和16年)12月、太平洋戦争が始まると、航空機搭乗員の大量育成の為、予科練入隊者は大幅に増員された。甲飛1期生-11期生の採用数は各期200名-1000名程度であったが、12期生4000名、13期生以降は、各期3万人以上の大量採用となる。養成部隊の予科練航空隊は全国に新設され、土浦航空隊の他に岩国海軍航空隊三重海軍航空隊鹿児島海軍航空隊など、最終的には19か所に増えた。

1943年(昭和18年)から戦局の悪化に伴い、乙種予科練志願者の中から選抜し乙種(特)飛行予科練習生(特乙飛)とし短期養成を行った。また、1944年(昭和19年)10月頃に、海軍特別志願兵制度で海軍に入隊していた朝鮮人日本兵台湾人日本兵を対象にした特別丙種飛行予科練習生(特丙飛)が新設され、特丙飛1期が乙飛24期と同じ12月1日に鹿児島空へ配属された[1]

戦前に予科練を卒業した練習生は、太平洋戦争勃発と共に、下士官として航空機搭乗員の中核を占めた。故に戦死率も非常に高く、期によっては約90%が戦死するという結果になっている。また昭和19年に入ると特攻の搭乗員の中核としても、多くが命を落としている。

昭和19年夏以降は飛練教育も停滞し、この時期以降に予科練を修了した者は航空機に乗れないものが多かった。中には、航空機搭乗員になる事を夢見て入隊したものの、人間魚雷回天・水上特攻艇震洋・人間機雷伏竜等の、航空機以外の特攻兵器に回された者もいた。

終戦間際は予科練自体の教育も滞り、基地や防空壕の建設などに従事する事により、彼等は自らを土方(どかた)にかけて「どかれん」と呼び自嘲気味にすごした。例えば三重の予科練では、朝鮮半島の人々を予科練教官が指揮して、軍艦を隠すための穴を掘らせるなどの行為が行われた。1945年(昭和20年)6月には一部の部隊を除いて予科練教育は凍結され、各予科練航空隊は解隊した。一部の特攻要員を除く多くの元予科練生は、本土決戦要員として各部隊に転属となった。

教育[編集]

教育は、普通学(12科目)・軍事学(9科目)・体育(10種目)など多岐にわたり、当初の履修期間は2年11か月だった。その後、履修期間は徐々に短くなり、終戦直前には1年8か月で、海軍二等飛行兵から海軍飛行兵長に昇格し終了した(乙飛、1942年以降の階級)。甲飛の履修期間も当初の1年2か月から終戦前には6か月に短縮された。修了後は練習航空隊で飛練教育を受け、その後実戦部隊に配備された。

分類[編集]

十八期の碑(京都市)
  • 甲種飛行予科練習生(甲飛)
    • 1937年(昭和12年)発足。
  • 乙種飛行予科練習生(乙飛)
    • 1930年(昭和5年)発足。
  • 丙種飛行予科練習生(丙飛)
    • 1940年(昭和15年)発足。操縦練習生・偵察練習生の制度に代わるもの。特乙飛制度の新設によって廃止となった。
  • 乙種(特)飛行予科練習生(特乙飛)
    • 1942年(昭和17年)12月発足。
  • 特別丙種飛行予科練習生(特丙飛)
    • 1944年(昭和19年)12月に第1期教育開始。海軍特別志願兵の朝鮮人日本兵・台湾人日本兵対象。実例は1期(朝鮮出身者50人・台湾出身者50人)のみで、鹿児島空で教育開始後、1945年6月に土浦空へ異動して教育中に終戦[1]

甲飛と乙飛の対立[編集]

甲種飛行予科練習生制度の導入以降、両制度を甲・乙と言う優劣を表す名前に変更した為、また昇進速度の違いなどもあり、練習生間での対立が問題となった。予科練航空隊を増設する際、甲飛・乙飛を分離する計画もあったが、戦況の悪化によって後発航空隊による甲乙分離計画は立ち消えとなり、末期まで尾を引いた。

その他[編集]

予科練を表す軍歌として『若鷲の歌』がある。

1942年(昭和17年)11月からは制服を軍楽兵に範を取った「七つ釦」の制服を採用する事になった。制服には7個のボタンが付いており、"7つボタン"と言えば予科練を表す言葉であった。練習生の制服には佩刀の制度はない。服制の詳細については、軍服_(大日本帝国海軍)#飛行練習生等参照。

予科練出身者の顕彰と平和学習のための施設として、土浦海軍航空隊の跡地に「予科練平和記念館」が開館している。

予科練出身の著名人[編集]

映像[編集]

原作・脚色:伏見 晃 監督:佐々木 康
出演:本郷英雄、水島光代、日下部 章、石山隆嗣、飯田蝶子笠智衆
脚本:山崎謙太、山本嘉次郎 監督:山本嘉次郎
出演:伊東薫原節子藤田進英百合子河野秋武
脚本:八住利雄 監督:渡辺邦男
出演:高田稔原節子、小高まさる、英百合子、黒川弥太郎
  • 映像資料『海軍飛行予科練習生-予科練の若き戦士たち-』
製作:株式会社 日本映画新社 平成9年(1997年)製作
販売:日本クラウン株式会社

脚注[編集]

  1. ^ a b 日高(2007年)、256-257頁。

参考文献[編集]

  • 『等身大の予科練 : 戦時下の青春と、戦後』 常陽新聞、2002年 ISBN 9784921088132 (出版案内)
  • 倉田耕一『土門拳が封印した写真 : 鬼才と予科練生の知られざる交流』新人物往来社、2010年 ISBN 9784404038807
  • 日高恒太朗 『不時着―特攻 “死”からの生還者たち』 文藝春秋〈文春文庫〉、2006年ISBN 4-16-771713-1

関連項目[編集]

外部リンク[編集]