朝鮮人日本兵
朝鮮人日本兵(ちょうせんじんにほんへい)は、朝鮮の日本統治時代に日本軍の軍務に服した朝鮮人の軍人軍属である。日本軍と一体的に運営されていた満州国軍に属していた朝鮮人も含むことがある。
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[編集] 陸軍士官学校・陸軍幼年学校
日本軍の将校を養成する陸軍士官学校や陸軍幼年学校では、朝鮮人へも門戸を開放していた。また、 満州国軍の朝鮮人軍人も陸軍士官学校に派遣留学されることがあり、朴正熙韓国大統領は満州国軍の士官任官後、同校で教育を受け卒業している[1][2][3][4]。
[編集] 志願兵の募集選抜
[編集] 選抜条件
[編集] 志願者数
| 年度 | 志願者 | 入所者数 | 選抜率 | 志願倍率 |
| 1938年 | 2946人 | 406人 | 16.2% | 7.3倍 |
| 1939年 | 12,348人 | 613人 | 4.9% | 20.2倍 |
| 1940年 | 84,443人 | 3,060人 | 3.6% | 27.6倍 |
| 1941年 | 144,743人 | 3,208人 | 2.2% | 45.1倍 |
| 1942年 | 254,273人 | 4,077人 | 1.6% | 62.4倍 |
| 1943年 | 303,394人 | 6,000人 | 1.9% | 50.6倍 |
[編集] 志願の背景
内務省警保局保安課発効の『特高月報』には、次のような当時の人々の認識や背景が見受けられる。
- 「朝鮮独立の為奮つて陸軍特別志願兵となり、武力を体得して将来の革命蜂起の際に献身すべきなり」[8]
- 「朝鮮人を志願兵にする事は非常に良いことだ。即ち我々は将来志願兵を逆用すれば良い。志願兵は内地人より優秀と聞く。之の優秀なる部隊に呼掛くれば彼等は必ず祖国の為に銃を執つであらう。此の意味に於いて志願兵は忌避すべきではない」[9]
- 「応募者は真に志望するものにあらずして警察より半強制的に勧誘せらるる為止むなく応募するものなり」「応募者は淳朴なる農村青年のみにして有識者は殆ど之に応ぜず、寧ろこれを忌避し居る現状なり」「好条件に釣られ、功利的に走り、除隊後自己の立場を有利に導かんとする輩あり」[10]
[編集] 軍人軍属の内訳
日本の厚生労働省(1990年、1993年返還名簿・当時厚生省[11])の統計によれば、朝鮮人の軍人軍属は24万2,341人であり、そのうち2万2,182人が第二次世界大戦で死亡または不明となり帰国していない。
| 地域 | 分類 |
動員 | 復員 | 不明又 は戦没 |
不明又 は戦没率 |
| 朝鮮[12] | 全体 |
242,341人 | 240,159人 | 22,182人 | 9.2% |
| 軍人 |
116,294人 | 110,116人 | 6,178人 | 5.3% | |
| 軍属 |
126,047人 |
110,043人 |
16,004人 |
12.7% |
|
| 台湾 | 全体 | 207,183人 | 176,879人 | 30,304人 | 14.6% |
| 軍人 | 80,433人 | 78,287人 | 2,146人 | 2.7% |
|
| 軍属 | 126,750人 |
98,590人 | 28,160人 | 22.2% |
|
| 日本本土 | 全体 | 781.4万人 | 551.4万人 | 230万人 | 29.43% |
| 地域 | 有罪 | 死刑 |
| 朝鮮 | 129人 | 14人[14] |
| 台湾 | 173人 | 26人 |
| 日本本土 | 5369人 | 922人 |
[編集] 経緯
[編集] 概要
最初に陸軍に朝鮮人が大量採用されたのは1910年に創設された憲兵補助員制度においてである。憲兵補助員は陸軍一等卒、二等卒に準じる処遇を受ける軍属とされた。1919年に憲兵警察制度が廃止されると憲兵補助員は朝鮮総督府警察の警察官に転官した。1938年に陸軍特別志願兵制度、1943年に海軍特別志願兵制度が導入された。徴兵制度は朝鮮人には終戦直前の徴兵法改正まで適用されず、日本軍に朝鮮人が軍人として入隊するのは志願した場合に限られた。
延世大研究教授の辛珠柏は朝鮮人への徴兵制適用(徴兵検査開始)が、1944年と遅かった理由について、「植民地の軍人に武器を与えて軍事訓練をさせることは、支配者側から見れば相手に最高の信頼感を持って初めてできる。日本語や日本文化をかなり習得していないと都合が悪い」と語っている[15]。
特別志願兵制度の施行以前は、朝鮮人が一般の兵卒として陸海軍に入隊することはできず、朝鮮人の日本軍人は洪思翊に代表される、陸軍士官学校を卒業して士官に任官した者、李秉武のように旧大韓帝国軍から朝鮮軍人として日本陸軍に転籍した者に限られていた[要出典]。また、海軍兵学校、海軍機関学校などの海軍の士官養成諸学校は、終始朝鮮人の入校を認めなかった[要出典]。
[編集] 略年表
- 1872年(M6) 徴兵制度はじまる
- 1910年 日韓併合(韓国併合ニ関スル条約(明治43年条約第4号))
- 1917年 7月20日軍事扶助法(軍事救護法施行ニ関スル件(大正6年勅令第205号))
- 1918年 朝鮮軍人及朝鮮軍人遺族扶助令(大正7年勅令第299号)
- 朝鮮軍司令部条例(大正7年軍令陸第4号)
- 1921年 朝鮮軍軍法会議ニ関スル法律(大正10年法律第86号)
- 1938年
- 3月3日 陸軍特別志願兵領施行細則(陸軍政令第11号)
- 4月1日 国家総動員法(昭和13年法律第55号)→国家総動員法及戦時緊急措置法廃止法律(昭和20年法律第44号)抄録
- 4月2日 朝鮮総督府・陸軍病気志願者訓練所規定
- 朝鮮総督府・陸軍兵志願者訓錬所生徒採用規則→ 陸軍兵特別志願
- 5月4日公布(5月5日施行)国家総動員法ヲ朝鮮、台湾及樺太ニ施行スルノ件(昭和13年勅令第316号)
- 1941年 朝鮮総督府傷痍軍人療養所官制(昭和16年勅令第313号)
- 1943年 戦時行政特例法及許可認可等臨時措置法ヲ朝鮮、台湾及樺太ニ施行スルノ件(昭和18年勅令第242号)
- 7月 27日 海軍特別志願兵令(昭和18年勅令第608号),
- 1944年
- 朝鮮 徴兵検査⇒訓練中に終戦を迎える
- 10月28日 軍需会社法ヲ朝鮮及台湾ニ施行スルノ件(昭和19年勅令第605号)←軍需会社法 (昭和18年10月31日法律第108号)
- 1945年 軍事特別措置法ヲ朝鮮及台湾ニ施行スルノ件(昭和20年勅令第256号)
- 軍事特別措置法ヲ朝鮮及台湾ニ施行スルノ件(昭和20年勅令第256号)
- 戦時緊急措置法ヲ朝鮮及台湾ニ施行スルノ件(昭和20年勅令第377号)
- 1946年 朝鮮人、中華民国人、本島人及本籍ヲ北緯三十度以南(口之島ヲ含ム)ノ鹿児島県又ハ沖縄県ニ有スル者登録令(昭和21年厚生、内務、司法省令第1号)
- 1951年(昭和26年)
- 9月8日 対日平和条約調印(於:サンフランシスコ)
- 1965年 日韓基本条約調印(同年12月18日発効)
- 財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定調印(同年12月18日発効)
- 同上協定第2条の実施に伴う大韓民国等の財産権に対する措置に関する法律(法律第144号)公布(同年12月18日発効)
- 1987年 台湾住民である戦没者の遺族等に対する弔慰金等に関する法律(法律第105号)公布・施行
[編集] 補償と諸問題
サンフランシスコ平和条約の発効に伴い、日本国籍を離脱した朝鮮人日本兵(軍属を含む)に対しては、1965年 「日韓基本条約」及び「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」「同上協定第2条の実施に伴う大韓民国等の財産権に対する措置に関する法律」に従い、本来大韓民国がその補償の義務を負うが、様々な歴史的経緯と政治的事情を鑑み、平和条約国籍離脱者等である戦没者遺族等に対する弔慰金等の支給に関する法律(法律第百十四号(平一二・六・七)により以下の内容で弔慰金、見舞金を支給した。なお、在日韓国人旧日本軍軍人軍属等に対する補償の問題については、1965年(昭和40年)の日韓請求権・経済協力協定により、法的には日韓両国間で完全かつ最終的に解決済みとされ全ての訴訟(次節参照)は原告敗訴となっている。
[編集] 弔慰金等の給付内容
| 対象 | 名目 | 金額 | 給付者 |
| 戦没者遺族 | 弔慰金(一時金) | 260万円 | 遺族 |
| 重度戦傷病者 | 弔慰金(一時金) | 260万円 | 遺族 |
| 重度戦傷病者 | 見舞金(一時金) | 260万円 | 本人 |
| 重度戦傷病者 | 重度戦傷病者老後生活設計支援特別給付金 (一時金。見舞金と同時に支給) |
260万円 | 本人 |
重度戦傷病者とは
- 一眼の視力が、視標0.1を2メートル以上では弁別できないもの
- 一耳の聴力を全く失い、他耳が通常の話声を1.5メートル以上では解し得ないもの
- 一側の腎臓を失ったもの
- 一側のおや指を全く失ったもの
- 一側のひとさし指から小指までを全く失ったもの
- 一側の足関節が、直角位で強剛したもの
- 一側のすべての足ゆびを全く失ったもの
[編集] 裁判
1991年11月12日 韓国・朝鮮人元BC級戦犯者7人は日本政府・日本軍が負うべき戦争責任を肩代わりさせられたとして日本政府を相手取り提訴した。
- 1996年9月9日 東京地裁で第一審判決 請求を全面棄却
- 1998年7月13日 控訴審判決――原告側請求棄却
- 1998年10月19日 最高裁判所に上告
- 1999年12月20日 最高裁判決言渡――上告棄却・判決確定
[編集] 著名な朝鮮人日本兵
旧日本軍出身の韓国人は、日本統治終了後、大韓民国軍の主力として朝鮮戦争などでも指導的役割を果し、第11代までの韓国陸軍参謀総長は全て旧軍出身者で占められていた。他方、北朝鮮においては、旧軍の将校以上の地位にあった者は対敵協力者としてほとんどが粛清され、ソビエト連邦の士官養成教育を受けた者たちが朝鮮人民軍将校団の主軸となった。
[編集] 将官
[編集] 佐官以下
- 李応俊 - 大佐(韓国軍中将、初代参謀総長)
- 金錫源 - 大佐(金鵄勲章、韓国軍少将)
- 李鍝 - 大佐(広島市への原子爆弾投下により被爆死)
- 安秉範 - 大佐(韓国軍准将、朝鮮戦争で自決)
- 李鍵 - 中佐(李王家、日本に帰化)
- 衛喨 - 満州国軍中佐[16]
- 蔡秉徳 - 少佐(韓国軍少将、参謀総長)
- 白洪錫 - 少佐(韓国軍准将、韓国在郷軍人会初代会長)
- 金貞烈 - 大尉(韓国軍大将、第19代首相)
- 金擎天 - 中尉(抗日パルチザン、ソビエト連邦の大粛清により粛清)
- 池青天 - 中尉(抗日パルチザン、韓国無任所大臣)
- 朴正熙 - 満州国軍中尉(韓国軍少将、韓国大統領)
- 白善燁 - 満州国軍中尉(韓国軍大将、韓国軍連合参謀会議議長)
- 張都暎 - 少尉(韓国軍中将、参謀総長、国家再建最高会議議長)
- 安光鎬 - 少尉(ko)(韓国軍准将、大使、大韓貿易振興公社社長)[1]
- 丁一権 - 階級不詳、憲兵士官、(韓国軍参謀総長、第9代首相)
[編集] 下士官兵
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献及び外部資料
- 近藤釼一編 太平洋戦下の朝鮮及び台湾 朝鮮の治政 友邦協会朝鮮史編纂会 合本版 (1961).
- 篠原正巳著 台中 日本統治時代の記録 台湾区域発展研究院台湾文化研究所 (1996) .
- 高木健一 戦後補償の論理 れんが書房新社 (1994) ISBN 4846201554
- 特高月報 「特高月報」昭和16年2月分-17年1月分 政経出版社 複製版
[編集] 脚注
- ^ “일 육사 졸업 뒤 항일연합군 공격“임정 입장서 박정희는 적군 장교”민족문제연구소 ‘박정희 친일 행적’ 신문 공개” (韓国語). ハンギョレ 2009年12月30日閲覧。
- ^ “朴正熙 満州軍官学校 志願の時 "命捧げて忠誠" 血書は事実”. ハンギョレサランバン (2009年11月6日). 2009年12月30日閲覧。
- ^ “박정희 만주군관학교 지원때 “목숨바쳐 충성” 혈서 사실로 민족문제연구소, 당시 신문 공개” (韓国語). ハンギョレ 2009年12月30日閲覧。
- ^ “日本陸軍士官学校卒業後 抗日連合軍を攻撃”. ハンギョレサランバン (2009年11月5日). 2009年12月30日閲覧。
- ^ 宮田節子「朝鮮における志願兵制度の展開とその意義」
- ^ 1937年11月24日朝鮮軍参謀長加納誠一「朝鮮人志願兵問題ニ関スル回答」
- ^ アジア歴史資料センター Ref. B02031284700
- ^ 1938年11月、内務省警保局保安課「特高月報」
- ^ 1941年9月、内務省警保局保安課『特高月報』
- ^ 1941年12月、内務省警保局保安課『特高月報』
- ^ 第071回国会 社会労働委員会 第16号 昭和四十八年七月三日(火曜日)午前十一時十五分開会 (参議院)議事録 政府委員答弁より作成
- ^ 1990年厚生省
- ^ 中国とソビエト分を除く
- ^ ここでは軍人軍属だけを計上している。その他の定義によれば、23人
- ^ “【あの時代 韓国発 日本統治と私】<7>収奪論 近代化論”. 西日本新聞. (2009年8月14日) 2010年12月10日閲覧。
- ^ “満洲国の邦人武官をも襲撃 身をもって免かる”. 大阪朝日新聞. 神戸大学 (1936年9月19日). 2011年...閲覧。