桃山虔一

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桃山虔一
Prince Yi Geon and his wife.jpg
李鍵公と誠子妃の婚礼(1931年)
続柄 義親王李堈第一男子
全名 李勇吉→李鍵→桃山虔一→李虔一→桃山虔一
身位 公→身位喪失
敬称 殿下→身位喪失
出生 1909年10月28日
Flag of Korea 1882.svg 大韓帝国漢城府寺洞宮
死去 1990年12月21日(満81歳没)
日本の旗 日本
配偶者 桃山佳子
  桃山美子
父親 李堈
母親 鄭氏
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桃山 虔一(ももやま けんいち、1909年隆熙3年)10月28日 - 1990年平成2年)12月21日)は、日本の元公族李王家の出身で、元の名は李鍵朝鮮語: 이 건、イ・コン、り けん)。弟に広島の原爆で被爆死した、異母妹に李海瑗がいる。

生涯 [編集]

高宗の五男で純宗の異母弟である義親王李堈の長男として、韓国併合直前の大韓帝国に生まれた。幼少時に渡日し、学習院中等科を経て、1930年昭和5年)に陸軍士官学校を第42期で卒業した。その後騎兵科に進み、1938年(昭和13年)、陸軍大学校を51期で卒業する。

1931年(昭和6年)10月、騎兵少佐時代に、海軍大佐松平胖松平頼聡伯爵の十男)の長女で、伯爵廣橋眞光の養妹誠子(よしこ、戦後に佳子と字を改めた、1912年 - 2006年)と見合い結婚した。

陸軍中佐として終戦を迎えた後は、東京日本人として生きることを決意する。1947年(昭和22年)5月、新憲法発布に伴って平民になり、桃山虔一と名乗った。1950年(昭和25年)、日本国籍を取得して桃山虔一が戸籍名となる。妻・誠子も字を改め桃山佳子となり、2男1女もそれぞれ日本風の名に改名した。

父李堈の散財によりもともと資産が乏しく、終戦時の東京邸には5万円の現金しかなかった上、新憲法発布によって日本政府からの歳費が途絶えたため、宮内省から内密で毎月1万円を贈られていたが、間もなくGHQに知れて送金を停止された。このため、渋谷駅バラック建ての一廓に3坪余のお汁粉屋「桃屋」を開業した。このほか、陸軍大学校でドイツ語の兵学教官を務めた経歴を生かしてドイツ語の翻訳業に転じたものの注文は少なく、その後は農園経営や謄写版のガリ版書き、書籍取次の栗田書店勤務など、転々と職を変えた。

家庭面では、妻・佳子が社交的であったのに対し、寡黙・内向的でもともと性格の不一致があり、戦後、佳子がその性格を生かして飲み屋で働き人気を得ると、夫婦間の齟齬はさらに広がった。また、結婚翌年に生まれた長男は戦中の血液検査から別の男性との子と分かって悩み、1951年5月に離婚した。佳子との間に儲けた2男1女のうち、長男と長女は母方の籍に入った。

次いで秩父地方出身の前田藤吉の長女・美子(よしこ)と再婚した。ただ先妻の誠子と離婚した際に自身が引き取った子女とともに朝鮮籍となり、在日朝鮮人李虔一と名乗っていた。美子との結婚で改めて虔一のみ日本国籍を取得することになったため、美子との結婚は戸籍上は初婚扱いとなるという珍事となった[1]。その後、先妻との間の子女もそれぞれ改めて日本国籍を取得している。

1952年(昭和27年)、美子との間に長男孝哉(現在、開成学園で英語教師、及び教頭を務める)を儲けた。家族で埼玉県与野市内の市営住宅を借りて暮らし、1990年12月21日に死去した。通夜には騎兵出身の三笠宮崇仁親王浦和市まで足を運んで出席した[2]

戦前は自動車愛好家として知られ、英国製スポーティカー・アルヴィス・スピード20やアメリカの超高級車ピアスアローPierce-Arrow)の大型リムジンなど多数を所有していた。これが機縁となって1970年代後半、日本クラシックカークラブ(CCCJ)の会長に推され、死去するまでその任にあった。

子女と李王家の関係 [編集]

虔一は義親王李堈の長男であり、かつて「公」の身分を有していた人物であったことから、2005年に元李王世子で李家当主李玖が子女なく死去したことにより、美子との間に生まれた長男孝哉が全州李氏の嫡流・当主に最も近い立場になった。

しかし孝哉は、美子が死去するまで父の出自については聞かされていなかったといい、李王家についても「自分には関係ない」として韓国などにいる他の李王家末裔らと親戚付き合いはしていないという。

李堈の九男で、庶子として公族譜に入れられなかった李鉀の子である李源が李玖の死後、玖の養子となり李家を継いだが、李堈の次女で庶子の李海瑗が翌2006年に後継者として名乗りをあげ、末裔の間で揉めごととなっている。孝哉はこれらにも一切関わりなく、他の虔一の子女も李王家末裔の集まりなどには参加していない。

脚注 [編集]

  1. ^ 1945年の終戦後、朝鮮人の日本国籍に関しては法制度面で極めて不確定な状態にあり、この時期に離婚、再婚した虔一とその子女の戸籍移動もこの影響を受けたものである。なお1952年サンフランシスコ講和条約発効に伴い朝鮮人は正式に日本国籍を廃棄喪失したが、その時点では虔一は既に日本に帰化していた。
  2. ^ 河原敏明『昭和の皇室をゆるがせた女性たち』講談社2004年