盛厚王

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盛厚王
東久邇宮
Higashikuni-no-miya Morihiro 1943.jpg
1943年、結婚の際
続柄 東久邇宮稔彦王第一男子
身位 皇籍離脱
敬称 殿下→皇籍離脱
出生 1917年5月6日
死去 1969年2月1日(満51歳没)
配偶者 成子内親王
  寺尾佳子
子女 信彦王
文子女王
秀彦
真彦
優子
厚彦
盛彦
父親 東久邇宮稔彦王
母親 聰子内親王
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盛厚王(もりひろおう、1917年5月6日 - 1969年2月1日)は、日本の皇族陸軍軍人東久邇宮稔彦王第一王子で、母は明治天皇第九皇女聰子内親王。弟に師正王粟田彰常侯爵多羅間俊彦がいる。

陸軍での階級陸軍少佐勲等は勲一等。なお、盛厚王自身は「東久邇宮」を継承してはいないが、慣例に従い「東久邇若宮」と呼ばれることもあった[1]

生涯[編集]

学習院陸軍士官学校予科を経て1937年6月陸軍士官学校を卒業、同年8月陸軍砲兵少尉に補任され、野戦重砲第1連隊附を命ぜられ、陸軍将校として勤務する。1939年、同連隊の第1中隊長時代にノモンハン事件に動員され、7月18日に戦場に着任したが、戦況が悪く、宮内省の属官が戦死したことなどもあり、7月27日には8月の定期異動を待たずに戦場離脱に至った[2]1943年10月30日昭和天皇第一皇女の照宮成子内親王と結婚。

その後、陸軍砲工学校陸軍大学校を経て、第36軍情報参謀を任ぜられるが、任務中に終戦を迎えた。

1947年10月14日皇籍を離脱し、東久邇盛厚と称することとなる。皇籍離脱後は、東京大学へ入り直し、民間人として再出発する。北海道炭礦汽船社長室勤務の後帝都高速度交通営団監事等を務めた。また、1959年には日本狆クラブ会長に就任する。成子夫人との間に5子がいるが、1961年7月23日に死別。その後寺尾孝吉の長女:佳子と再婚し、2子がある。

1969年に52歳で死去した。

子女[編集]

照宮成子内親王
寺尾佳子(1927年-2011年)
  • 厚彦(1966年-) - 寺尾家養子
  • 盛彦(1967年-)

年表[編集]

フィリピン派遣中の盛厚王
1916年(大正5年5月6日) 誕生
1936年(昭和11年5月) 貴族院議員(皇族議員)
1937年(昭和12年6月) 陸軍士官学校卒業(49期)
1937年(昭和12年8月) 陸軍砲兵少尉・野戦重砲第1連隊附
1937年(昭和12年8月21日) 勲一等旭日桐花大綬章
1938年(昭和13年3月) 陸軍砲兵中尉
1939年(昭和14年7月) 野戦重砲第1連隊中隊長心得
1939年(昭和14年8月) 阿城重砲連隊中隊長
1939年(昭和14年12月) 陸軍砲工学校普通科入校
1940年(昭和15年7月) 陸軍砲工学校普通科卒業
1940年(昭和15年12月) 陸軍野戦砲兵学校
1941年(昭和16年3月) 陸軍大尉
1942年(昭和17年12月) 陸軍大学校入校
1943年(昭和18年12月) 陸軍少佐
1944年(昭和19年7月) 陸軍大学校卒業(58期)
1944年(昭和19年7月) 第36軍情報参謀
1945年(昭和20年10月) 陸軍省附
1945年(昭和20年12月) 予備役
1946年(昭和21年5月) 免貴族院議員
1947年(昭和22年10月14日) 皇籍離脱
1969年(昭和44年2月1日) 死去

脚注[編集]

  1. ^ 1943年12月22日 読売新聞「多摩陵に御結婚を御奉告 東久邇若宮同妃両殿下」
  2. ^ 『ノモンハンの夏』、半藤一利、文春文庫、2001年、p.312

外部リンク[編集]