小松輝久

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輝久王
小松輝久
小松侯爵(1910~1947)
Komatsu Teruhisa.jpg
身位 臣籍降下
敬称 殿下→臣籍降下
His Imperial Highness
出生 1888年8月12日
日本の旗 日本 東京府東京市
死去 1970年11月5日
配偶者 島津薫子
子女 小松彰久
小松豊久
小松(木戸)舒子
父親 北白川宮能久親王
母親 申橋祥子
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小松 輝久(こまつ てるひさ、1888年明治21年)8月12日 - 1970年昭和45年)11月5日)は、北白川宮家出身の華族日本海軍軍人。最終階級は海軍中将。皇族時代は(北白川宮)輝久王(てるひさおう)という。正三位勲一等侯爵。墓所は東京都文京区にある護国寺

経歴[編集]

北白川宮能久親王第4王子。長兄恒久王は特に竹田宮家を創設し、次兄延久王は夭折し、北白川宮家は三兄成久王が相続した。

21歳で海軍少尉候補生の時に臣籍降下小松侯爵家を創設する。これによって明治36年の小松宮彰仁親王が薨じて以来断絶していた小松宮家の祭祀を承継する。なお、諸王の臣籍降下に際して従来は伯爵を賜っていたが、侯爵を賜った初めての例である。

海軍兵学校の同期生(第37期)としては、井上成美大将や小沢治三郎中将がいる。皇族軍人の席次は首席であるのが通常であるが、入校時122番、卒業時は26番である、これは輝久王(当時)が、特別待遇を受けることを拒否したためであった[1](皇族関係者で唯一入学試験を受け自力で海軍兵学校に合格した)。卒業後は一貫して終戦間際まで帝国海軍の軍務に服する。海上勤務と共に、海軍大学校など教育畑の勤務も多かった。戦後は、旧皇族の中で唯一の戦犯として実刑判決を受けて服役。出所後は平安神宮宮司を務める。

年譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『提督 草鹿任一』(光和堂)
  2. ^ 『官報』第311号、大正2年8月12日。