ウィリアム・ハルゼー・ジュニア

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ウィリアム・ハルゼー[注 1]
William Frederick Halsey, Jr.
W Halsey.jpg
渾名 ブル(雄牛、猛牛)、ビル
生誕 1882年10月30日
US flag 38 stars.svg アメリカ合衆国ニュージャージー州エリザベス
死没 1959年8月16日(満76歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ニューヨーク州 ロングアイランド
所属組織 United States Department of the Navy Seal.svgアメリカ海軍
軍歴 1904 - 1946[3]
最終階級 海軍元帥
墓所 アーリントン国立墓地
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ウィリアム・フレデリック・ハルゼー・ジュニア[注 1]William Frederick Halsey, Jr. 発音1882年10月30日 - 1959年8月16日[4]は、アメリカ海軍の軍人。最終階級は元帥太平洋戦争において米第3艦隊司令長官として日本軍と戦った。機動部隊の指揮官の一人で、日本の山口多聞小沢治三郎と比較されることも多い。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

ハルゼーは1882年10月30日アメリカ合衆国ニュージャージー州エリザベスで父ウィリアム・フレデリック・ハルゼー・シニア(以下「ハルゼー一世」と略)と、母アン・ブリュースター・ハルゼーの長男として生まれる。父方の家系は代々船乗りで父はハルゼー誕生当時海軍中尉で最終階級は大佐、母は父の隣家の幼馴染で祖先はピューリタンであった。家族は他に妹デボラがいる。腕白でスポーツ好きの少年時代を送り、特にアメリカンフットボールにのめり込んでいた。

海軍入隊[編集]

1897年1月にアナポリス(アメリカ海軍兵学校)入学に必要な連邦議員の推薦を受けようとウィリアム・マッキンリー大統領にお願いの手紙をしたためたが無視され、医務士官方面から海軍に入るべく1899年に一旦ヴァージニア大学医学部に入学した。しかし、母アンがニュージャージー州司法長官エドガー・グリッグ経由でマッキンリー大統領に出会いアナポリスの推薦を獲得、大学を中退すると1900年7月7日にアナポリスに入学した。1904年2月1日に幾度の落第危機を乗り越え卒業。卒業席次は62人中42番であった。

卒業後少尉候補生となると戦艦「ミズーリ」 (BB-11)乗組みとなり、1905年12月には砲艦「ドン・ファン」に乗組みとなる。1906年2月2日に正式に少尉に任官するとグレート・ホワイト・フリートの一隻である新鋭戦艦「カンザス」(BB-21)乗組みとなり、12月16日に世界巡航に旅立った。南米オセアニアフィリピンを経由して1908年10月18日東京湾に到着、戦艦「三笠」艦上の舞踏会で東郷平八郎元帥と出会うが、日本海海戦は日本の卑怯な奇襲攻撃、舞踏会の日本人はニヤニヤした顔の裏でよからぬ事を企んでいると、この年別のパーティーで東郷と出会っていたチェスター・ニミッツレイモンド・スプルーアンスとは異なる感慨を抱いていた。その後中国インドフランスなどを周り1909年2月22日ハンプトンローズに帰港、昇任試験ののち士官増強政策により中尉を経ずに大尉に昇進、水雷艇「デュポン」艇長となった。

2階級昇進で経済的余裕が出来たことで1909年12月1日にファン・グランディーと結婚。この式はハロルド・スターク大尉(後の海軍作戦部長)が「デュポン」に馬車を手配し、花婿先導はトーマス・C・ハート(後のアジア艦隊司令長官)、ハズバンド・キンメル(後の太平洋艦隊司令長官)らが勤め、教会に向かう街道で部下の士官が結婚行進曲を奏でる茶目っ気溢れる趣向であった。

ハネムーンの後1910年2月に駆逐艦「ラムソン」(DD-18)就役に従事し、その2ヵ月後ノーフォーク海軍工廠で見習い水兵訓練所の指揮を命じられ、1912年8月には駆逐艦「フラッサー」(DD-20)艦長となる。この年フランクリン・ルーズベルト海軍次官のキャンポベロ島別荘への水先案内人として出向く。この時のルーズベルトは一時操艦を行っているが的確な操艦でハルゼーはすっかり尊敬の念を抱くようになり、ルーズベルトもハルゼーの適切な対応に好感を抱いた。

第一次世界大戦[編集]

1913年に大西洋駆逐艦戦隊所属の駆逐艦「ジャービス」(DD-38)艦長に就任、この時僚艦「カッシン」(DD-43)艦長はアーネスト・キング少佐だった。1914年8月に第一次世界大戦が勃発するとアメリカ諸港沖合いで中立哨戒に従事していた。1915年にアナポリス訓練部勤務となり1916年には少佐に昇進するが、ドイツのUボートの被害が増大するにつれ駆逐艦のエキスパートとして1917年に呼び戻され、駆逐艦「ダンカン」(DD-46)で1ヶ月の実習ののち戦時特例中佐に昇進し駆逐艦「ベンハム」(DD-49)艦長に就任、船団護衛任務に従事した。1918年5月に駆逐艦「シャウ」(DD-68) 艦長、8月に駆逐艦「ヤーナル」(DD-143) の艦長を歴任した。パリの講和会議に出席するウィルソン大統領の旗艦「ジョージ・ワシントン」の護衛任務に就き、帰りにルーズベルト海軍次官をドーバーからオステンドに輸送している。大戦中の功績により海軍から十字章を授与されている。

1919年に駆逐艦6隻の駆逐隊司令を兼任、1920年6月に父ハルゼー一世が心臓発作で死亡する悲しみもあったが、この年親友となるスプルーアンス少佐が赴任している。1921年春にロングビーチで行われた演習では戦艦4隻に対して6隻の駆逐艦をアメリカンフットボールで培ったフォーメーションを応用して縦横無尽に操り翻弄、模擬魚雷36本中22本を命中させた。しかし、近接発射だったため数本が燃料爆発を起こし戦艦に150万ドルの損害を与え上層部から大目玉を食らっている。

大戦の間[編集]

1921年6月に正式に中佐に昇進するとワシントンの海軍情報局に転出、翌1922年9月にはドイツの海軍駐在武官となる。

1924年7月に駆逐艦「デイル」(DD-290) 艦長、1925年6月には駆逐艦「オズボーン」(DD-295)艦長となる。秋に戦艦「ワイオミング」(BB-37)副長となる為「オズボーン」を離れる事になったが後任の艦長がスプルーアンスだったので、乗組員に真面目な態度に思い違いしないよう注意し、これ以上公正で有能な艦長にはめぐり合えないぞと言い含めておいた。

1926年大佐に昇進、米西戦争の拿捕艦改修の「レイナ・メルセデス」艦長に就任。在任中航海局(人事局)長ジェームズ・リチャードソン少将から航空機の教育課程に興味があるかという手紙を受け取り、このチャンスに飛びついたが視力検査で不合格になった。1930年6月に大西洋艦隊駆逐艦戦隊司令に就任、1932年大日本帝国満州に侵攻を開始すると太平洋方面に移動している。

1933年海軍大学校に入学、9月に卒業すると陸軍大学校へ交換留学生として入学している。1934年の卒業間近の時航空局長キング少将から次のキャリアに空母「サラトガ」 (CV-3)艦長職を提示される。アメリカ海軍では空母・水上機母艦艦長、航空基地司令官は航空士に限るという規定があるのと、自身のキャリアで3万トンもの艦船を指揮したことが無かった為即決ができず、航海局長ウィリアム・リーヒ少将に相談した。自身航空に造詣があったリーヒはぜひこの任務を受けるよう勧めたため受ける事にし、資格については航空オブザーバー課程という上級士官中途教育コースでペンサコラ飛行学校に入学した。しかし、実際飛ぶ経験をしないとパイロットの心理を理解できないと思い、程なくしてパイロットコースに変更している(視力の問題は解決されていなかったが、何らかの不正はした模様)。成績はやはり落ちこぼれであったが、訓練課程の一切の省略なしでウイングマークを獲得し1935年に正式に「サラトガ」艦長となった。以後キャリアは駆逐艦から空母に移行する。

1936年6月6日にペンサコラ海軍航空基地司令官に就任、1938年3月に少将に昇進すると新鋭空母「エンタープライズ」 (CV-6)「ヨークタウン」(CV-5)を基幹とする第2空母戦隊の司令官に就任、1939年のカリブ海で行われた演習では航空戦闘部隊司令官キング中将の部下として参加、空母4隻は空襲のみで巡洋艦群を撃滅している。夏には第1空母戦隊司令官に転任している。

太平洋戦争[編集]

開戦~ミッドウェー海戦[編集]

1940年6月13日中将に進級し、航空戦闘部隊司令官兼第2空母戦隊司令官となり、合衆国艦隊の全空母の指揮権を持った。1941年にアナポリス同期のキンメルが31人を跳び越して太平洋艦隊司令長官兼合衆国艦隊司令長官になると、よき友人・よき部下として部隊の訓練に従事、9月にはもう一人の親友スプルーアンス少将を配下の第5巡洋艦戦隊司令官に迎える。

11月27日アメリカは、日米交渉を打ち切り一週間以内に何らかの軍事行動に出る、という日本の外交暗号を傍受すると、これに対応すべく第8任務部隊を率いてウェーク島に航空機を輸送する任務に就く。この任務は日本に傍受されると日本を刺激すると判断され11月28日に極秘裏に出港した。万が一日本を刺激した際どこまでやってよいのかキンメルに尋ねた所、「(俺が責任を取るから)常識で判断しろ!」との回答を得て「部下がこれまで受けたうち、もっともすばらしい命令だったと考えている」と満足していた。また、キンメルからは「心配だったら戦艦を連れて行くか?」と気を使われたが、「とんでもない!あんなノロマ逃げなければならない時にジャマになるだけだからいらない」と答えている。12月6日にパールハーバーに到着予定だったが途中部隊が荒天に突入し駆逐艦の1隻に亀裂が発生、到着予定を12月7日正午に変更した。真珠湾攻撃のニュースはホノルル西方150マイルで聞く。キンメルの適切な判断により9時21分に洋上の全艦船の指揮権と、空襲規模と来襲方角から日本軍の空母は6隻で予想避退針路は北西との情報を得ると兵力の合同と索敵を行い、12月8日日没にパールハーバーに帰港した。後にウェーク島の救援に向かおうとしたが陥落の報を聞き12月31日に再び帰港した。

この日キンメルの後任として太平洋艦隊司令長官となったニミッツ大将は積極的な反撃を計画、そのきっかけとしてマーシャル諸島空襲を計画した。2歳年下でアナポリス1期下のこの上官のことをハルゼーは自分と考えの近い人物だと好感を持ち、作戦案に難色を示す諸将を一喝すると自分がこの反撃の指揮を執ると申し出た。第16任務部隊を率いると、マーシャル諸島の日本軍司令官に「貴官の哨戒機がわが部隊を視認しなかったことを貴官に感謝するのは大きな喜びである」というおちょくり電文を爆弾にくくりつけて反撃、次いでウェーク島とマーカス島を爆撃した。1942年4月にはドーリットル空襲の指揮を取ると、その帰路珊瑚海海戦で対峙中のフランク・J・フレッチャー少将を援護すべく南西太平洋に向かう。しかし、日本海軍の暗号を解読した太平洋艦隊司令部から直ちに帰投せよとの厳命を受けると、極秘に燃料ギリギリの速度でパールハーバーに帰港した。

帰港した時半年近い連戦に次ぐ連戦で皮膚病にかかってしまい、ニミッツに後任の司令官にスプルーアンス少将を推薦するとハワイの病院に緊急入院、ベッドの上でミッドウェー海戦勝利の報を聞く。6月14日には米本土バージニア州リッチモンドの病院に移送、ついでに歯槽膿漏も治療してもらうと8月5日に退院している。

南太平洋方面軍司令官[編集]

退院したとき戦争は南太平洋方面ガダルカナル島を巡る戦いで消耗、特に第一次ソロモン海戦第二次ソロモン海戦で局地的には日本海軍が健闘し、南太平洋方面軍司令官ロバート・ゴームレー中将は疲労と消極的指揮が目立つようになっていた。業を煮やしたニミッツは参謀長スプルーアンス少将に各基地の視察を命じ、その時ハルゼーは同行を申し出て許可された。1942年10月18日ヌーメアに到着すると緊急電で南太平洋方面軍司令官(COMSOPAC)就任を伝えられる。「これまでわたしにあたえられたうちでもっとも厄介な任務だ」と、ぼやきはしたが、司令部をゴームレー司令部のあった旧式修理艦「アーゴーン」からヌーメアの陸上基地に移した。就任後間もない10月26日に発生した南太平洋海戦では空母「「ホーネット」(CV-8)を失い可動空母が一時ゼロになる危機に見舞われるが、日本軍の「大和」「武蔵」に匹敵する秘蔵の新鋭戦艦「ワシントン」「サウスダコタ」を惜しげもなく投入すると、旧式艦「比叡」「霧島」を申し訳程度に繰り出す日本軍を第三次ソロモン海戦で押し返した。1942年11月18日大将に昇進している。11月30日ルンガ沖夜戦で巡洋艦に被害が出たが1943年2月1日に日本軍はガダルカナルから全面撤退、日米の攻守の完全逆転に成功した。

第3艦隊司令官[編集]

ガダルカナル島奪取を為しえたアメリカ軍の次の目標はラバウル島の攻略であったがニューギニア以東の南西太平洋はダグラス・マッカーサー将軍の担当で、2月に重爆撃機の借用をマッカーサーに申し入れたがにべもなく断られニミッツに「私は奴(マッカーサー)と、またそのほかの自己宣伝をするくそったれと論争するのは真っ平です」と怒りをぶちまけている。しかし、4月15日ブリズベンで直接会談するとすっかり好印象をもち、のちに「われわれはあたかも永年の親友同志のように感じていた」「当時63歳であった彼は50代のような精悍さであった」と書き残している。またマッカーサーも「会った瞬間からわたしは彼を好きになった」「率直で、忌憚のない意見を述べる精力的な人物」と述べている。

こうして相互信頼を得ると、5月15日第3艦隊と改称された部隊を率いてニュージョージア島を皮切りに南西太平洋を攻撃した。7月にはフランク・ノックス海軍長官らの命令で参謀長マイルズ・E・ブラウニング大佐は解任され、ロバート・B・カーニー大佐が少将に昇進の上赴任している。

この間親友スプルーアンスが第5艦隊を率いて中部太平洋のマーシャル諸島ギルバート諸島の攻略に着手。次の目標にマリアナ諸島攻略を目指す海軍にマッカーサーは統合参謀本部に猛反対を示し、一方でハルゼーに「わたしについてきてくれるなら英米連合の大艦隊の指揮権を与えようと思う。わたしはあのネルソン提督がなりたいと夢見ていた人物以上にきみをしてあげられるんだがね」といって抱き込みを図った。しかし、キング・ニミッツ両提督はハルゼーの南太平洋方面軍司令官の地位を交代させ、第3艦隊司令官として中部太平洋攻略をスプルーアンスと交代で着手する構想を持っておりマッカーサーの意図を阻止した。1944年6月にヌーメアを去る。この時イギリスより大英帝国名誉騎士司令官勲章を授与される。

レイテ沖海戦~終戦[編集]

ハルゼー大将1945年7月10日ワシントン海軍省にて

真珠湾に戻ったときスプルーアンスはマリアナ沖海戦で勝利しマリアナ諸島を陥落させたが、海戦における空母部隊の使用が不適切としてジョン・H・タワーズ中将をボスとする航空閥がスプルーアンス更迭を含む猛烈な抗議を繰り広げていたが、これといったコメントを残していない。

第3艦隊旗艦として空母部隊に随伴可能な速力を持ち、航続距離に優れる艦載機を持つ敵機動部隊に間合いを詰めた際に敵の攻撃から司令部機能を喪失しない防御力を持つ艦艇として新鋭アイオワ級戦艦を要求、これが通りハルゼーの生誕地の名を冠する2番艦「ニュージャージー」(BB-62)が与えられた。駆逐艦3隻を伴い1944年8月24日に真珠湾を出港、26日にサイパン島で艦隊指揮権を引き継ぐと28日に硫黄島9月9日からはパラオ諸島を次々に爆撃、守備が手薄な事を看破すると攻撃を早々に切り上げ9月下旬にフィリピン沖に到着、10月12日台湾沖航空戦で台湾の航空戦力に壊滅的ダメージを与えると、10月17日にはレイテ沖海戦の指揮を取る。ここでハルゼーは小沢治三郎中将の陽動に引っかかり、のちに「Bull's Run(ブルズ・ラン:猛牛の突進)」と揶揄される反転を行う。(詳細はレイテ沖海戦の項を参照)。

栗田健男中将の「謎の反転」により大勝利を得ると、引き続きフィリピンへの爆撃を続行するが日本軍の神風特攻により空母三隻大破、航空機約90機、戦死者328人の他大損害が発生、12月にジョン・S・マケイン中将の幕僚ジョン・サッチ大佐が考案した「ビッグブルーブランケット」(大規模戦闘機網)で対応した。

12月18日コブラ台風と呼ばれる台風に突入してしまい、駆逐艦3隻沈没、7隻が中小破、航空機186機、死亡者約800人と、レイテ沖海戦以上の被害が生じた。1945年1月25日にフィリピンからウルシー環礁に戻り後休暇の為本土に帰還、3月にはホワイトハウスに招待されルーズベルト大統領からゴールド・スター勲章を受ける。ルーズベルトの好意で勲章を胸に留める役はハルゼーの妻であるファン・ハルゼーが行った。ルーズベルトはこの1ヵ月後に死去している。

4月にパールハーバーに戻るとスプルーアンスが戦艦「大和」を撃沈したというニュースを聞くが沖縄を巡る戦いは停滞していた。末にはグアム島にニミッツを尋ねると30日後に作戦途中でスプルーアンスと交代せよとの命令を受ける。5月18日にオーバーホール中の「ニュージャージー」に替わり姉妹艦「ミズーリ」(BB-63)に将旗を掲げると5月27日に指揮権を交代。この時海軍の損害が戦死者数百人、負傷者数千人、損傷船舶20隻前後に達し、この損害が神風特攻によるものと知った。司令部もマーク・ミッチャー中将などは体重が45kgのガリガリになるまで消耗しており、上陸部隊司令官サイモン・B・バックナー陸軍中将をせっつくと同時に日本本土各地を爆撃した。6月5日に台風にまたもや遭遇、艦船36隻が損傷、航空機142機喪失他損害が発生、皮肉にも13世紀モンゴル帝国に次いで2人目の「神風」(2発の台風)で大きな被害を受けた外国人となった。これには査問委員会が設置され、ジェームズ・フォレスタル海軍長官は一時ハルゼーの更迭・退役を考えたがキング提督の、表向きはハルゼー更迭は日本軍を喜ばせるだけ、真意はハルゼー更迭によって軍部内の海軍の勝利は色褪せて対日戦勝の功績が陸軍とマッカーサーに集中してしまう、という意見を受け無罪となった。

7月にはイギリス海軍サー・バーナード・ローリングス中将の空母部隊29隻が援軍で到着したが、この目的がマレー沖海戦の汚名返上と日本降伏立役者に名乗りを上げるというかなり漁夫の利を狙う政治的な思惑があった為これを苦々しく思い、イギリス艦隊を艦船がほとんどいない大阪港に向かわせ、アメリカ艦隊を日本艦隊本拠地に向かわせた(呉軍港空襲)。広島長崎原爆が投下された後、サンフランシスコのラジオニュースが日本は降伏したがっているという噂を述べたという情報を入手、エニウェトク島帰港を取り消して日本へ引き返し再度爆撃の準備に取り掛かったが、8月15日にニミッツから最高機密で最優先の電報で「空襲作戦を中止せよ」との命令を受領した。しかし、日本人を信用しておらず「うろつきまわるものはすべて調査し、撃墜せよ。ただし執念深くなく、いくらか友好的な方法で」という命令を出している。

戦後~晩年[編集]

8月27日に相模湾錨地に到着。夜に東京の捕虜収容所から脱走したイギリス士官2名を保護、彼らから日本軍の捕虜虐待を聞き、国際赤十字社代表のスイス人医師からそれのほとんどが事実である事が確認されると、病院船「ベネボレンス」他捕虜収容部隊を派遣した。8月30日にニミッツと共に横須賀港に上陸、9月2日の「ミズーリ」号での降伏文書調印式では会場責任者として出席した。この時、日本側代表・重光葵が署名までもたついていたが、これを見苦しい引き延ばし[注 2]と思い「サインしろ、この野郎! サインしろ!」と罵った。また、調印式の最中は「日本全権の顔のど真ん中を泥靴で蹴飛ばしてやりたい衝動を、辛うじて抑えていた」という。式典終了後、米本土に回航される「ミズーリ」に代わり戦艦「サウスダコタ」(BB-57)に将旗を移すと、9月8日にマッカーサーから日本首都の正式占領式に招待を受け参加、9月17日には親友スプルーアンスが東京に到着、イギリス艦隊からパーティーの招待を受け、旗艦「キングジョージ5世」で深酒をした。9月20日に最後の艦隊指揮権交代を済ませると日本を発ち、10月25日サンフランシスコに到着した。

帰国すると、歓迎レセプションや祝賀会をサンフランシスコ・ロサンゼルスインディアナポリスセントルイスボストン及び生誕地ニュージャージー州エリザベスで受けた。一通りの歓迎を受けた後、日本を去る前に申請した退役願いが正式に受理され、11月22日カリフォルニア州ロングビーチでハワード・F・キングマン少将に艦隊司令官の座を引き継ぎ退役した。しかしその1週間後、ハリー・S・トルーマン大統領より4人目の海軍元帥に任命される。1946年4月にアメリカ上院により元帥を身分上終生現役待遇とする法案が可決、5月13日にニミッツと共に海軍法務総監の前で恒久的な海軍元帥の宣誓を行った。

「サタデー・イブニング・ポスト」紙に自伝を執筆する一方、各界から「客寄せパンダ」のような扱いを受ける。政界からは1946年夏にトルーマン大統領から南米親善旅行を要請されるとベネズエラ自由勲章、ペルーアジャックーチョ勲章、ブラジル南十字星国家勲章、チリ勲功大十字章の勲章責めを受ける。経済界からはペンシルベニア州のゴムタイヤ会社の名誉役員とニューヨーク州の電信会社の理事長の座を、学会からはバージニア大学発展資金運営委員長の座を受け取っている。

精力的にかつての乗艦「エンタープライズ」の保存委員会の委員長を務めていたが、1957年12月に軽い脳卒中を患いドクターストップがかかり退任した。運動むなしく1958年8月にスクラップが決定されたが、アメリカ海軍はこの替わりに建造中の世界初の原子力空母CVN-65に「エンタープライズ」の名を「ビッグE」のニックネームと共に受け継ぐ事を決定した。

1958年6月6日には空母「インディペンデンス」(CV-62)の進水式に出席。この空母はのちに「ミッドウェイ」(CV-41)に次ぐ2代目の横須賀駐留の空母になった。

1959年8月16日にロングアイランドのカントリークラブで心臓発作により死去、76歳だった。息子ハルゼー3世は質素な葬儀を考えていたが、カーニー提督の進言で国葬となり、アーリントン国立墓地に埋葬された。

リーヒ級ミサイル巡洋艦8番艦(CG-23)アーレイバーク級ミサイル駆逐艦47番艦(DDG-97)は彼に因んで命名された。

エピソード[編集]

短気で記憶されるべきエピソードも多い提督でもある。

  • その勇猛果敢さは「ブル・ハルゼー」(雄牛、猛牛の意)と敬称され、また火の玉小僧との通称もあり、日本連合艦隊との艦隊決戦を望んでいたとも言われる。
  • 前線にも積極的に出て兵士と言葉を交わし部下からの信頼が厚かった。「あのじじいのためならいつでも死ねる」と言った兵士の背後に突然現れ、「おい、若いの。俺はそんなに年じゃないぜ」と軽口で応じた。
  • 第3艦隊旗艦座乗時、ゲダンク・バー(艦内のアイスクリーム製造機)を利用する将兵の列に並んでいた(階級に関係無く行列を作る不文律があった)際、上官優先と言って割り込みをしようとした新人少尉二人を一喝して、元の場所に戻らせた。
  • 怠け者と自認する正反対の性格のスプルーアンスとはニミッツ麾下で双璧をなした。そうした彼の性格を嫌う提督もおり、「小艦隊を指揮する程度の器しかない」という批判も記録されている。
  • KILL JAPS, KILL JAPS, KILL MORE JAPS. You will help to kill the yellow bastards if you do your job well.(ジャップを殺せ、ジャップを殺せ、ジャップをもっと殺せ。任務を首尾よく遂行するならば、黄色いやつらを殺すことができる)
    第二次世界大戦中にハルゼーの指揮するツラギの基地の入口に掲げられた標語(ジョン・F・ケネディの回想による[6])。これは南太平洋方面軍司令官着任時に指揮官と新聞記者を集めて行った演説で、戦いに勝つためには3つのことしかないと前置きしておこなった発言が元になっている[7]
  • WHERE IS RPT WHERE IS TASK FORCE THIRTY FOUR RR THE WORLD WONDERS (第34任務部隊は何処にありや 何処にありや。全世界は知らんと欲す
    比島沖海戦において、小沢艦隊の陽動策に翻弄され担当海域を逸脱した彼の艦隊を呼び戻すために打たれた電文。THE WORLD WONDERS(全世界は知らんと欲す)に激怒して悪態を吐いた。ちなみにこの一節は本来なら無意味なもの(暗号文を打つ際に、意味のある語句だけだと敵に解読されやすいので、あえて無意味な語句をつけ加えて解読困難にする必要がある)だったとされる[8]
  • 日本軍との戦闘に際し「敵を殺せ! 敵をもっと殺せ! 猿肉をもっと作れ!」など度々過激な発言を繰り返したことで知られているが、日本への原爆投下に対しては批判的で「最初の原子爆弾はいわば不必要な実験であった。これを投下するのは誤りだった。あのような兵器を、必要もないのになぜ世界に明らかにするのであろうか?」と述べている。
  • 息子ウィリアム・ハルゼー3世(通称ビル、Bill)も海軍将校の道を目指したが父親同様視力が劣っていたためアナポリスに入学することができず、プリンストン大学に進学した。後に彼は海軍予備士官となった。

栄典[編集]

  • 海軍十字章
  • 海軍殊勲章
  • 陸軍殊勲章
  • ネイビー・ディスティングシュドサービスメダル
  • アーミー・ディスティングシュドサービスメダル
  • 殊勲部隊章
  • メキシカンサービスメダル
  • ワールドウォーⅠビクトリーメダル
  • アメリカンディフェンス・サービスメダル
  • アジアティック-パシフィック・キャンペーンメダル
  • ワールドウォーⅡビクトリーメダル

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ a b Halsey の発音は /ˈhɔːlzi/[1] (一部の英和辞典では /ˈhɔːlsi/ を併記[2])であり、日本語表記はウィリアム・ホールジー・ジュニア(もしくはウィリアム・ホールシー・ジュニア)、フルネームではウィリアム・フレデリック・ホールジー・ジュニアとなるが、慣用として「ハルゼー」、「ハルゼイ」が定着している。本記事では「ハルゼー」とする。
  2. ^ 重光が義足だったことはリサーチ済みだったので水兵の片足にモップをくくりつけてリハーサルさせていた。実際重光らが乗船しようとした折、1分あまりぐずつき「ミズーリ」砲術長ホーレイス・バード中佐が手を貸そうとしても初め拒否した。さらに実際テーブルにつくや松葉杖を落とし、次に脱いでいた帽子と手袋をいじり、ペンを探してポケットをまさぐり、同席していた秘書からテーブルのペンを渡されると、どこに署名するのか迷ってなかなか署名しなかった。E.B.ポッターによると「重光はぼうっとしているようであった」らしい[5]

出典[編集]

  1. ^ definition of Halsey, William Frederick in Oxford dictionary (American English)” (英語). Oxford Dictionaries. オックスフォード大学出版局. 2013年9月16日閲覧。
  2. ^ リーダーズ英和辞典』 編集:松田徳一郎ほか、研究社1999年、第2版。ISBN 4-7674-1413-X電子辞書版による。
  3. ^ He was relieved of active duty in December 1946, and upon his own request transferred to the retired list on 1 March 1947. Fleet Admiral William Frederick Halsey, Jr.'s biography on the Department of the Navy Official Website
  4. ^ William Frederick Bull Halsey, Jr., Admiral, United States Navy”. Arlington National Cemetery. 2012年11月21日閲覧。
  5. ^ E.B.ポッター 『キル・ジャップス!-ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』 秋山信雄訳、光人社、1991年、P561-567。ISBN 4-7698-0576-4
  6. ^ Donovan, Robert, J. PT 109: John F. Kennedy in WWII. 1961. 40 Anniv. ed., International Marine/Ragged Mountain Press, 2001, 13. ISBN 978-0071376433(ロバート・ドノヴァン、波多野裕造訳『PT 109: 太平洋戦争とケネディ中尉』日本外政学会、1963年)
  7. ^ 児島、44p
  8. ^ Willmott, H. P.. “Six, The Great Day of Wrath”. The Battle of Leyte Gulf: The Last Fleet Action. Indiana University Press. pp. 192–197. ISBN 0-253-34528-6, 9780253345288. 

参考文献[編集]

外部リンク[編集]