四式重爆撃機

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キ67 四式重爆撃機 「飛龍」

飛行第74戦隊第1中隊[1]の四式重爆撃機一型(キ67-I)

飛行第74戦隊第1中隊[1]の四式重爆撃機一型(キ67-I)

四式重爆撃機(よんしきじゅうばくげきき)は、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍重爆撃機キ番号キ67愛称飛龍(ひりゅう)。呼称・略称は四式重爆ロクナナなど。連合軍コードネームPeggy(ペギー)。開発・製造は三菱重工業

概要[編集]

陸軍が最後に開発し太平洋戦争第二次世界大戦)の実戦に投入した双発重爆撃機であり、日本航空機開発技術の集大成と呼ぶに相応しい傑作機であった。試作1号機は1942年12月27日に飛行している。

設計[編集]

運動性能[編集]

九七式重爆撃機以降の日本陸軍の重爆に対する運用思想から、本機も重爆撃機と名称されていながら爆弾の搭載量が低かった。しかし、本機はそれを補って余りある飛行性能を有していたため、大戦後期の実戦投入にも関わらず際立った活躍を見せる事ができた。特に運動性能は単発機並と評され、爆弾を搭載していない状態であれば曲技飛行もできると言われた。機体も運動性に相当する強度を持っており、重爆撃機にもかかわらず急降下爆撃用の急降下速度計が装備され、600 km/h以上を示しても何ら異常は無かった[1]

航続距離[編集]

本機の長所のひとつとして長大な航続距離が挙げられる。開発にあたって陸軍から当初メーカー側に示された要求では、航続距離に関しては平凡な性能しか求めていなかった。もっとも、一代前の一〇〇式重爆撃機「呑龍」の開発の際に「3,000kmを上回る航続距離」を求めたという説もあり、真偽については不明の点もある。この要求性能に対して、三菱側はそれまでの経験から航続距離の重要性を認識しており、開発に当たって軍の要求を上回る目標を独自に掲げ、完成した本機は航続距離3,800kmとなった。この3,800kmという航続距離は海軍陸上攻撃機に比べれば劣るものの、それまでの陸軍重爆の2,000km前後に対しては格段に向上しており、性能も相まって海軍にも注目されることとなった。なお、こうした本機の設計に際して三菱の設計陣は一式陸上攻撃機の経験を本機に盛り込んでいる。陸軍と海軍の違いはあれども、設計的に見ると四式重爆は一式陸攻の正統な後継機だと言える。

運用[編集]

四式重爆一型(キ67-I)

陸軍機による雷撃[編集]

帝国陸軍から四式戦闘機(キ84、疾風)と共に「大東亜決戦機(大東亜決戦号)」として期待され、重点生産機に指定された。その飛行性能から、1944年(昭和19年)1月には陸軍から三菱に対し、生産中の四式重爆撃機100機に雷撃装備を搭載するよう命令が下り、試作機2機は横須賀海軍航空隊で海軍の指導の下、雷撃試験が行なわれた[1]。結果は良好で、161号機以降は雷撃装備型が標準型式として採用され、本機は陸軍機でありながら雷撃機としての運用が可能となった。

陸軍雷撃部隊の訓練は、豊橋海軍航空隊浜松陸軍飛行学校で実施された。1944年(昭和19年)10月の台湾沖航空戦を皮切りに、フィリピンの戦い九州沖航空戦沖縄戦菊水作戦)などにおいては、海軍指揮下に編成された陸軍雷撃隊(飛行第7戦隊飛行第98戦隊など)が出撃し、四式重爆撃機は、その主力として艦船攻撃に活躍した(大部分は夜間雷撃であった)。なお、海軍では、海軍指揮下の陸軍雷撃隊を「靖国部隊」と呼び、それに所属した雷撃機型の四式重爆撃機「飛龍」のことを、「靖国」という名称で呼んだが、これは、海軍部隊内部における非公式な通称であり正式なものではない。

その高性能から重点生産機種となり、また大量生産を考慮した分割製造方式が採用されていた。生産は大府飛行場の三菱飛行機知多工場、各務原飛行場の川崎重工業岐阜工場などで行なわれたが、日本本土空襲の激化により各地の軍需工場が次々と壊滅し、さらに東南海地震による中京工業地帯の壊滅や工場の疎開などの混乱で製造ははかどらず、終戦までに生産されたのは635機のみであった[1]

派生型[編集]

本機の機体設計や性能が優秀であったゆえに、多くの派生型が開発された。

キ109
機体を軽量化した上で、機首に八八式七糎半野戦高射砲をベースとした75mm対空砲ホ501」を装備した特殊防空戦闘機。
ク-7グライダー曳航機
火砲を搭載可能な大型軍用グライダーク-7を曳航するための改造機。
電子機器搭載型
夜間雷撃の際に水面上空を飛行するため、「タキ-12」電波警戒器や「タキ-13」超低空用電波高度計を装備した機体。
空中探照機
キ109とペアで運用する探知機。胴体に探照灯を搭載。
長距離爆撃改造型
サイパン島B-29基地を爆撃するための長距離爆撃機。翼端を延長し、軽量化のために胴体側面の銃座を廃止。

特別攻撃専用型[編集]

フィリピンの戦いに際し、海軍の特別攻撃隊の戦果に触発された陸軍でも特別攻撃隊の編成が決定された。陸軍では破壊力を高めようと、搭載力の大きな本機を原型とした特別攻撃専用機を開発することにした。

そのひとつがト号機と呼ばれた800Kg爆弾2発を内蔵した機体である。機首・背部銃座の風防を金属製カバーに置き換え、後者にはダミーの機銃として黒く塗った棒を装着、乗員数を2~3名に減らした。また、機首から長く付きだした棒状の着発式信管が装備されたが、これは空力的に悪影響があったという。最初期の陸軍特別攻撃隊の一つ・冨嶽隊に配備され、フィリピンで実戦投入された[2]が、戦果は確認されていない[3]

もうひとつが桜弾機キ167)である。「弾」とは、本機専用の直径1.6m、重さ2.9tの対艦用大型爆弾(モンロー効果を意図した成型炸薬弾)である。あまりに大型なため、そのままでは機体内部に収納しきれず、機体上部が膨らんだ形状に改造されている。爆発威力は「前方3 km、後方300 mが吹き飛ぶ[4]」と称されていたという。大型爆弾搭載のため重量軽減が図られ、防御火器は撤去しており、燃料も片道分に減らした状態で運用されたという。乗員も4人に減らされている。しかし、それでも機体は重すぎて運動性の低下などが著しく、熟練操縦者も減少していることから、本機での特攻攻撃は困難であるとの指摘が陸軍省内部からも生じていた[3]。完成したさくら弾機は飛行第62戦隊に配備され、沖縄戦に実戦投入し1945年(昭和20年)4月17日に初出撃するも行方不明となる[3]。その後、太刀洗飛行場から何度かの特攻作戦に出撃したが、こちらも戦果は確認されていない[4]

新幹線のモデル[編集]

戦後、本機の開発に関った小沢久之丞は名城大学理工学部教授に就任。夢の弾丸列車と呼ばれた新幹線の車体設計・開発に関っている。本機と海軍の爆撃機、銀河のデザインは共に新幹線「0系」の車体設計の際参考にされ、本機で培われた技術は戦後復興に貢献している。

主要諸元[編集]

  • 乗員: 8 名
  • 全幅: 22.5 m
  • 全長: 18.7 m
  • 全高: 5.6 m
  • 主翼面積: 65.0 m²
  • 発動機: ハ104 空冷複列星型18気筒 2,000 hp ×2
  • 全備重量: 13,765 kg
  • 自重: 8,649 kg
  • 最大速度: 537 km/h(6,090m)
  • 巡航速度: 400 km/h
  • 上昇時間: 6,000mまで14分30秒
  • 実用上昇限度: 9,470m
  • 航続距離: 3,800 km
  • 武装: 二式20 mm機関砲 ×1(胴体上部)・一式12.7 mm機関砲 ×4(機首、胴体左右、尾部)
  • 爆装: 50 kg爆弾×15、250 kg爆弾×3、500 kg爆弾×1、800 kg爆弾×1、魚雷×1のいずれか

現存部品[編集]

四式重爆撃機の機体は現存しない。ただし、ルーフアンテナのカバーと爆弾倉の扉が、筑前町立大刀洗平和記念館に展示されている。

参考文献[編集]

  1. ^ a b c d e 木村秀政・田中祥一『日本の名機100選』文春文庫 1997年 ISBN 4-16-810203-3
  2. ^ 高木俊朗「陸軍特別攻撃隊」文藝春秋 (1986)
  3. ^ a b c NHK「戦争証言」プロジェクト 編『証言記録 兵士たちの戦争〈3〉』日本放送出版協会 2009年
  4. ^ a b 『筑前町立大刀洗平和記念館 常設展示案内』筑前町 2009年

関連項目[編集]