ホーエル (DD-533)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
Hoel.jpg
艦歴
発注
起工 1942年6月4日
進水 1942年12月19日
就役 1943年7月29日
退役
除籍
その後 1944年10月25日に戦没(レイテ沖海戦
性能諸元
排水量 2,050トン
全長 376 ft 5 in (114.7 m)
全幅 39 ft 7 in (12.1 m)
吃水 17 ft 9 in (5.4 m)
機関 2軸推進、蒸気タービン方式60,000 shp (45 MW)
最大速 35ノット (65 km/h)
航続距離 6,500海里 (12,000 km)
15ノット(28km/h)時
乗員 273名
兵装 38口径5インチ砲5門
ボフォース 40mm機関砲10門
エリコン 20mm単装機関砲7門
21インチ 5連装魚雷発射管2基
爆雷軌条2軌、爆雷投射機6基

ホーエル (USS Hoel, DD-533) は、アメリカ海軍駆逐艦フレッチャー級駆逐艦の1隻。艦名は南北戦争中のビックスバーグの包囲戦で戦功を挙げたウィリアム・R・ホーエル英語版中佐にちなむ。

艦歴[編集]

1943[編集]

ホーエルはサンフランシスコベスレヘム・スチールで1942年6月4日に起工し、12月19日にホーエル中佐の孫娘であるチャールズ・ブンカー・クレーン・ジュニア夫人によって進水。艦長ウィリアム・ドウ・トーマス中佐の指揮の下1943年7月19日に就役する。

就役後、ホーエルは8月16日にサンフランシスコ湾を出港してサンディエゴに向かったが、その道中で慣熟訓練と7発の爆雷を使って結果が判明していなかった水中音響の聴取テストを実施した。実戦に向けた最終的な改修のため9月17日からメア・アイランド海軍造船所に入り、改修作業終了後の10月26日に第47駆逐部隊に編入されて輸送船団に加わり、サンフランシスコを出港。10月31日に真珠湾に到着後、第47駆逐部隊司令A・O・クック大佐は旗艦をヒーアマン英語版USS Heermann, DD-532)からホーエルに移した。間もなく、ホーエルは第5艦隊レイモンド・スプルーアンス中将)に編入されてリッチモンド・K・ターナー少将が率いる第52任務部隊に属することとなり、ギルバート諸島奪取のガルヴァニック作戦に参加することとなった。作戦に際し、ヘンリー・M・ムリニクス少将率いる第52.3任務群の3隻の護衛空母リスカム・ベイ (USS Liscome Bay, CVE-56) 、コーラル・シー (USS Coral Sea, CVE-57) およびコレヒドール (USS Corregidor, CVE-58) を駆逐艦モリス英語版USS Morris, DD-417)、フランクス英語版USS Franks, DD-554)、ヒューズ英語版USS Hughes, DD-410)および掃海艇リヴェンジ英語版USS Revenge, AM-110)とともに護衛する。

11月10日、第52.3任務群は真珠湾を出撃し、マキン環礁に向かう。11月20日早暁、第52.3任務群は「赤ん坊の刈り込んだ短髪」(baby flattops)と通称された攻撃隊を発進させてマキンを空襲させ、マキンの戦いは始まった。続く3日間、第52.3任務群は艦載機をもってマキンに上陸したラルフ・C・スミス英語版陸軍少将の第27歩兵師団英語版の支援にあたる。海と空からの攻撃でマキンの日本軍拠点は次々と破られていった。しかし、11月24日早朝、日本海軍伊号第一七五潜水艦(伊175)が第52.3任務群に接近し、魚雷を発射してリスカム・ベイに命中させる。逸れた2本目の魚雷はコーラル・シーをかすめ去るのが目撃された。リスカム・ベイは大爆発を起こし、ホーエルはリスカム・ベイから立ち上る300メートルほどの煙を目撃した。リスカム・ベイは炎と赤く焼けただれた部品を吹き上げたあと23分で沈没し、ムリニクス少将やリスカム・ベイ艦長アーヴィング・D・ウィルトジー英語版大佐ら642名が艦と運命を共にした。ホーエルら第52.3任務群の駆逐艦は272名の生存者を救助した。翌11月25日夕刻、第52任務部隊は日本機の空襲を受け、日本機はパラシュート付の照明弾を投下して魚雷を13本発射したが、第52任務部隊は巧みな回避運動で被害を一つも受けなかった(ギルバート諸島沖航空戦)。

第52.3任務群は11月27日にマキン沖を離れ、ホーエルはアベママ島英語版攻略部隊に編入される。翌朝、ホーエルはターナー少将の任務部隊本体に合流し、12月1日にタラワから8キロ離れた沖合に到着し、環礁外で対潜哨戒に従事した。2日後、ホーエルは戦艦テネシー (USS Tennessee, BB-43) と輸送船団を護衛して真珠湾に向かい、12月11日に到着。3日後の12月14日、クック大佐は部隊旗艦をホーエルからマッコード英語版USS McCord, DD-534)に移した。

1944[編集]

来るクェゼリンの戦いに備え、ホーエルは第5水陸両用戦部隊との訓練に励んだ。1944年1月21日、ホーエルはターナー少将の水陸両用部隊の予備部隊である第51.1任務群を護衛して真珠湾を出撃し、1月31日にクェゼリン環礁沖に到達して上陸作戦を支援した。次いで環礁の南側に移って火力支援部隊のレーダーピケット艦となった。クェゼリンの占領が宣言された2月6日にはミラー英語版USS McCord, DD-535)とともに、太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将のロイ=ナムル島方面の視察に同行した。

クェゼリン戦のあとに第51任務部隊と第53任務部隊が合流して第51任務部隊に統一されたあと、ホーエルは第3火力支援部隊、第51.17.3任務隊に属してエニウェトクの戦いに参加する。1944年2月17日の早朝、ホーエルは重巡洋艦ポートランド (USS Portland, CA-33) とともにエニウェトク環礁中のメリレン島(パリー島)とジャプタン島に対して艦砲射撃を行う。また、不時着水した重巡洋艦インディアナポリス (USS Indianapolis, CA-35) 所属の偵察機を救助して、パイロットを送還させた。ホーエルはその艦砲をもってメリレン島の浜辺にあったいくつかの小舟を粉砕し、島内部の日本軍拠点に対して濃厚な制圧砲撃を行う。午後には周辺の2つの島の制圧を行ったあと、待機位置に下がった。2月18日のホーエルは日本軍の移動を妨害且つ監視する行動に終始し、夜には海岸やサンゴ礁を照射して夜闇に乗じた移動の監視を行う。2月19日に上陸作戦が行われ、ホーエルはその支援射撃にあたった。2月21日にはフェルプス英語版 (USS Phelps, DD-360) とともに環礁内に奥深く入り、2月26日にはヘイゼルウッド英語版 (USS Hazelwood, DD-531) も加わって、3隻で上陸部隊の戦闘監督の任に就いた。エニウェトクの占領後の3月4日、ホーエルは攻撃輸送艦カンブリア英語版 (USS Cambria, APA-36) に戦闘監督の役目を譲り、修理のためマジュロに向かって2日後に到着した。

ホーエルは他の2隻の駆逐艦とともに第47駆逐部隊を編成し、南太平洋軍(第3艦隊)ウィリアム・ハルゼー大将)に移ることとなり、3月18日にツラギ島パーヴィス湾に回航される。翌3月19日に第39任務部隊(アーロン・S・メリル少将)に加わってパーヴィス湾を出撃し、3月20日からのエミラウ島の無血占領に参加。3月25日にトラセン英語版 (USS Trathen, DD-530) およびジョンストン英語版 (USS Johnston, DD-557) と合流して、第47駆逐部隊として初めて隊伍を組むこととなった。3月26日、ホーエルはニューハノーバー島ボティアンゲン岬から南東の海域を哨戒中に日本軍の水上倉庫を発見して破壊し、翌日には1.2メートルほどのカヌーを捕獲したが、カヌーには貴重な情報が記載されていた文書が放置されており、これも押収した。夜に入り、潜水艦と思しき物体を探知したため、爆雷を4発投下。その後はエミラウ島行の輸送船団の護衛のため、4月8日にパーヴィス湾に帰投した。

パーヴィス湾に帰投後の4月14日、ホーエルは第12巡洋艦部隊(R・W・ヘイラー少将)に編入され、8月14日まで訓練と輸送船団護衛に従事。8月14日に第3水陸両用部隊に名を連ね、パラオ攻撃の準備を行う。8月24日からは護衛空母キトカン・ベイ (USS Kitkun Bay, CVE-71) をエスピリトゥサント島からパーヴィス湾まで護衛し、9月8日からはW・D・サンプル少将の護衛空母部隊とともにパラオ近海に到達し、ペリリューの戦いの支援を行った。支援のさ中、ホーエルは不時着ししたオマニー・ベイ (USS Ommaney Bay, CVE-79) 所属機のクルーを発見して救助し、マーカス・アイランド (USS Marcus Island, CVE-77) に後送した。10月1日には未知の潜水艦を探知して3発の爆雷を投下した。

サマール沖[編集]

パラオ戦のあと、ホーエルはマヌス島ゼーアドラー湾に後退。第77.4任務群(トーマス・L・スプレイグ少将)に編入され、10月12日にゼーアドラー湾を出撃してレイテ島を目指す。第77.4任務群は護衛空母、駆逐艦および護衛駆逐艦で構成されており、「スリー・タフィ」と呼称される3つの任務隊に分かれてレイテ島の戦いの支援を行うこととなっていた。10月18日、「スリー・タフィ」はサマール島沖で支援作戦を開始した。

ホーエルはクリフトン・スプレイグ少将の「タフィ3」第77.4.3任務隊に属し、4隻の護衛空母と他の2隻の駆逐艦、ヒーアマンとジョンストンで構成されていたが、のちにラルフ・A・オフスティ英語版少将から2隻以上の護衛空母と4隻の護衛駆逐艦、デニス英語版 (USS Dennis, DE-405) 、ジョン・C・バトラー英語版 (USS John C. Butler, DE-339) 、レイモンド英語版 (USS Raymond, DE-341) およびサミュエル・B・ロバーツ (USS Samuel B. Roberts, DE-413) が増勢された。

1944年10月25日の朝、「タフィ3」はサマール島の北東海域で行動中であり、「タフィ2」(第77.4.2任務群。フェリックス・スタンプ少将)はレイテ湾近くを、「タフィ1」(第77.4.1任務群。トーマス・L・スプレイグ少将直卒)はレイテ湾口から240キロ南東をそれぞれ行動中であった。クリフトン・スプレイグ少将は、ハルゼー大将の第3艦隊中の第38任務部隊マーク・ミッチャー中将)が北方を守っていると信じていたので、6時45分に栗田健男中将率いる第二遊撃部隊が対空射撃をしながら接近してくるのを発見したとき、大いに狼狽した。「タフィ3」は3分以内に4隻の戦艦、6隻の重巡洋艦、2隻の軽巡洋艦および11隻の駆逐艦からの猛攻にさらされることとなった。

「ジープ空母」と「ブリキ缶」からなる小艦隊が大艦隊から生き残るチャンスは、自らの存亡の前に助太刀が来ることを信じて、とにかく南に逃走することであった。護衛空母は可能な限りの航空機を発進させてレイテ湾をめざし、ホーエル、ヒーアマンとジョンストンは煙幕を張って「赤ん坊の刈り込んだ短髪」を圧倒的な栗田艦隊から覆い隠そうと無我夢中で駆けずり回った。7時6分、折からのスコールも「タフィ3」を守ってくれないと悟ったクリフトン・スプレイグ少将は、駆逐艦に反転して栗田艦隊に立ち向かうよう命じる。ホーエルは即座に、約16.5キロの最も至近距離にいた戦艦金剛との重巡洋艦羽黒に立ち向かっていった。金剛の36センチ砲の射程内を突き進んだホーエルは、距離12.8キロで5インチ砲の発砲を開始し、次いで彼我の距離が8.2キロになった時点で羽黒に対して魚雷を5本発射[1]。魚雷は羽黒の前をかすめ去り、後方を進んでいた金剛は目ざとく魚雷を発見して北方に回避する[2]。魚雷は金剛を「タフィ3」から一時的に遠ざけたものの、ホーエルは間もなく重巡洋艦から猛打を浴び、マーク37射撃指揮装置、機関室、艦橋、レーダー、操舵装置に被弾して人力操舵に切り替え[3]、残りの魚雷を重巡洋艦に対して発射。5.5キロ離れた羽黒のあたりに水柱が立ったのを見て命中したと判断されたものの、羽黒に魚雷が命中した記録はなく、錯覚であった。

ホーエルは半身不随であり、金剛との距離は約7.3キロ、羽黒など重巡洋艦からの距離は約6.4キロであり、スコールから抜け出して残存の2基の5インチ砲で最後の反撃を試みた[3]。そのうちの1発は第二水雷戦隊早川幹夫少将)の旗艦である軽巡洋艦能代に命中した[4]。しかし、すでに40発以上の命中弾を受けていたホーエルは死に体であり、重巡洋艦からのものと思われる20センチ砲弾が機関室に命中した時点で、ついにその動きを止めた。ホーエルに止めを刺したこの砲弾は戦艦大和の副砲弾という説もある[3]。艦長のレオン・S・キンツバーガー中佐は総員退艦を令し、生き残った乗組員は艦を順次離れていった。8時55分、ホーエルは横転して沈没していった。ホーエルの乗組員のうち、生存者はキンツバーガー艦長以下89名のみであり、残り253名はホーエルとともに沈んでいった。負傷者のうち、15名も後刻落命した[5]。キンツバーガー艦長はホーエルの追悼碑に、次のように記した。「自らの艦が沈みゆくその時まで乗組員は冷静かつ効率的に割り当てられた己の職務をよく遂行し、その結果、非常に優れたチームワークが発揮できることを完全に認識した。」。生還したキンツバーガー艦長は海軍十字章パープルハート章を受章し、少将に昇進して1983年に73歳で亡くなった[6]

ホーエルは第二次世界大戦の戦功で5個の従軍星章と大統領殊勲部隊章英語版、フィリピン政府からフィリピン政府殊勲部隊章英語版を受章した。

脚注[編集]

  1. ^ #木俣戦艦 p.489
  2. ^ #木俣戦艦 pp.489-490
  3. ^ a b c #木俣戦艦 p.490
  4. ^ #木俣水雷 p.521
  5. ^ #木俣戦艦 p.491
  6. ^ PERSONALIA Kintberger, Leon Samuel” (英語). ww2awards.com. ww2awards.com. 2012年12月20日閲覧。

参考文献[編集]

サイト[編集]

  • DD-533 Hoel” (チェコ語). Naval War in Pacific 1941 - 1945. valka.cz. 2012年12月20日閲覧。

印刷物[編集]

  • 木俣滋郎 『日本戦艦戦史』 図書出版社、1983年
  • 木俣滋郎 『日本水雷戦史』 図書出版社、1986年
  • 『世界の艦船増刊第43集 アメリカ駆逐艦史』、海人社、1995年
  • M.J.ホイットレー 『第二次大戦駆逐艦総覧』 岩重多四郎(訳)、大日本絵画、2000年ISBN 4-499-22710-0
  • Cox, Robert Jon (2010). The Battle Off Samar: Taffy III at Leyte Gulf (5th Edition). Agogeebic Press, LLC. ISBN 0-9822390-4-1. 
  • この記事はアメリカ合衆国政府の著作物であるDictionary of American Naval Fighting Shipsに由来する文章を含んでいます。 記事はここで閲覧できます。

外部リンク[編集]

関連項目[編集]


座標: 北緯11度46分 東経126度33分 / 北緯11.767度 東経126.550度 / 11.767; 126.550