ジョセフ・グルー

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ジョセフ・クラーク・グルー
Joseph Clark Grew
生誕 1880年5月27日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストン
死没 1965年5月25日(満84歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
職業 在日本アメリカ合衆国大使
国務長官代理

ジョセフ・クラーク・グルー(Joseph Clark Grew、1880年5月27日 - 1965年5月25日)は、アメリカ合衆国外交官。日米開戦時の在日本アメリカ合衆国大使知日派として知られ、日本の財界に強力なパイプを持ち、日本の本土決戦回避に尽力した。

略歴[編集]

生い立ち[編集]

マサチューセッツ州ボストン生まれ。生家は裕福で、ボストンの名士という家柄であったという。グロートン校を経て、1902年ハーバード大学を卒業、同年外交官試験に合格する。

JPモルガン・チェースの経営者ジョン・ピアポント・モルガンの従兄弟にあたる。

外交官[編集]

その後は国務省に勤務し、その後は1920年に駐デンマーク公使を、1921年には駐スイス公使を務める。また、1922年にはローザンヌ講和会議にアメリカ代表として参加するなど要職を務めた。

1927年には駐トルコ大使としてトルコに赴任し、その後1932年からは駐日大使となり、広田弘毅外務大臣と緊密な関係を築くことで日米関係の悪化を押しとどめるべく努力したが、親中派のフランクリン・ルーズベルト大統領率いるアメリカの日本に対する姿勢は強硬の一途をたどり、「ハル・ノート」が日本政府に突き付けられた結果1941年12月の真珠湾攻撃により日米開戦するに至った。翌年に戦時交換船で帰国した。帰国後は駐日大使時代の経験を『滞日十年』に著し、講演旅行では大変な人気を博した。

「三人委員会」[編集]

グルーは陸軍長官ヘンリー・スティムソンと海軍長官ジェームズ・フォレスタルの2人とともに「三人委員会」のメンバーであった。「三人委員会」は、日本を原子爆弾を使うことなく降伏させようと建議し、それを受けて陸軍次官補ジョン・マクロイ英語版は日本への降伏文書を立案し、ポツダム宣言の第12条に盛り込まれることとなった。ところが、それは日本政府の「天皇制のもとでの間接統治」を許容する可能性を広く残していたため、トルーマン大統領はポツダム会談へ向かう船旅の間、対日強硬派のジェームズ・バーンズ国務長官の影響を受け、宣言内容の変更を余儀なくされた。

グルーは、個人的意見として、友人に、十分に発達した民主主義体制を日本に期待するのはばかげていると述懐していた[1][2]。1945年5月、グルーはトルーマン大統領に対して、天皇制はまさしく封建主義の名残りであり、「長期的な観点にたてば、日本においてわれわれが望みうる最善の道は、立憲君主制の発展である。」と語った[3]。 グルーは天皇が日本人にどれほど重要か理解していたため、原子爆弾を使うことなく日本の降伏に貢献できたと考えており、ドイツが降伏した1945年5月末から、ポツダム宣言に「天皇の地位保障」を盛り込む事を再三トルーマンに進言していたが、結果としては広島長崎への原爆投下を避けることができなかった。「降伏が1945年5月、またはソ連の参戦や原子爆弾使用前の6月か7月に行われたら、世界を救うことができたのだが」と述懐している。

アメリカ対日協会[編集]

終戦後、アメリカ対日協会を設立し、戦後急速に復興し経済大国の座に戻った日本の財界とのパイプを復活させた。原爆投下の記憶が残り、核アレルギーが強く残る戦後の日本に、アメリカの原子力産業を売り込むために国務省や米中央情報局までも動員して、日本の原発受注に成功させている。

国務長官代理[編集]

エドワード・ステティニアス国務長官が、サンフランシスコにおける国際連合設立のための会議で不在であったため、グルーは1945年1月から8月までの大部分の期間、国務長官代理を務めた。グルーはトルーマン政権の高官の中でも、当代随一の日本の専門家であった。

1965年5月25日死去(満84歳没)。

年表[編集]

著書[編集]

評伝[編集]

  • 廣部泉 『グルー 真の日本の友』 ミネルヴァ書房日本評伝選〉、2011年
  • ウォルドー・ハインリックス 『日米外交とグルー』(麻田貞雄訳、原書房、1969年/増補改題版 「グルー大使と日米外交」 グルー基金、2000年)
  • 太田尚樹 『駐日米国大使 ジョセフ・グルーの昭和史』 PHP研究所、2013年
  • 福井雄三 『日米開戦の悲劇 ジョセフ・グルーと軍国日本』 PHP研究所、2012年
  • 船山喜久弥 『白頭鷲と桜の木 日本を愛したジョセフ・グルー大使』 亜紀書房、1996年
  • 中村政則 『象徴天皇制への道 米国大使グルーとその周辺』 岩波書店〈岩波新書〉、1989年

出典[編集]

  1. ^ ハワード・ショーンバーガー、占領1945~1952 戦後日本をつくりあげた8人のアメリカ人、時事通信社、1994年、32ページ
  2. ^ Ian Buruma,イアン・ブルマ,Foreword to the Mariner Books Edition of Ruth Benedict's,ルース・ベネディクト, "The Chrysanthemum and the Sword,2005,page viii
  3. ^ ジョン・ダワー、敗北を抱きしめて、岩波書店、2001年、上巻284ページ
  4. ^ United States Department of State (1961) (英語). Foreign relations of the United States diplomatic papers, The Conferences at Cairo and Tehran, 1943. pp. p.XXXII. http://digicoll.library.wisc.edu/cgi-bin/FRUS/FRUS-idx?type=turn&entity=FRUS.FRUS1943CairoTehran.p0036&id=FRUS.FRUS1943CairoTehran. 

関連項目[編集]

公職
先代:
スタンリー・クール・ホーンベック‎
アメリカ合衆国国務省極東局長
1944年5月 - 1944年12月
次代:
ジョセフ・ウィリアム・バランタイン
先代:
エドワード・ステティニアス
アメリカ合衆国国務次官
1944年12月20日 - 1945年8月15日
次代:
ディーン・アチソン