一〇一号作戦

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一〇一号作戦
陸鷲重慶對岸の軍事施設爆碎 (八月十九日)=軍撮影」(『東京朝日新聞』昭和十五年八月二十四日 第一萬九千五百四十號)

戦争日中戦争
年月日1940年昭和15年)5月17日 - 9月5日
場所四川省 重慶
結果:中国奥地各都市の破壊
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 中華民国の旗 中華民国
指導者・指揮官
井上成美 寺倉正三 遠藤三郎 蔣介石 劉峙 周至柔
戦力
海軍航空隊陸軍航空隊 中華民国空軍ソ連空軍志願隊
損害
戦死 89名 行方不明 21名 喪失16機 損害多数

一〇一号作戦(ひゃくいちごうさくせん)とは、1940年昭和15年)5月17日から 9月5日ごろまでの間に実施された作戦である。百一号作戦ともあらわされる。

背景[編集]

1937年(昭和12年)の第二次上海事変の結果、日本軍は中華民国の首都攻略し占領した。これに対して、中国国民党政府は首都機能を南京から漢口に移転した。しかし漢口も陥落したため、さらに内陸である重慶への首都移転を実行した。

大本営は、広大な地上戦線要する中国戦線を拡大することは、日本の国力を超えるものであると判断。また、特に対ソ連関係の変転に対応する戦略態勢の柔軟性を喪失するものと判断した。[1]

立案[編集]

井上成美支那方面艦隊参謀長らが主導して、陸海航空隊を共同運用しての大規模作戦となった。

また、この際陸軍海軍の間で5月13日に一〇一号作戦ニ関スル陸海軍協定が結ばれた。

兵力[編集]

日本軍[編集]

陸軍[編集]

九七式重爆一型甲(キ21-I甲)

第三飛行集団司令部

飛行第60戦隊(九七式重爆撃機36機 補用18機)

独立飛行第16連隊 (司偵9機 補用3機)

飛行第44戦隊(司偵5機 補用2機)

独立飛行第10中隊(九七式戦闘機9機 補用3機)

海軍[編集]

飛行第64戦隊の九七戦乙型(キ27乙)。

第一連合航空隊

鹿屋航空隊(九六式陸上攻撃機など18機 補用15機 陸偵4機)

高雄航空隊(九六式陸上攻撃機など18機 補用15機 陸偵2機)

第二連合航空隊

第13航空隊(九六式陸上攻撃機など27機 補用15機 陸偵4機)

第15航空隊(九六式陸上攻撃機など27機 補用15機 陸偵2機)

第12航空隊(艦上戦闘機27機 補用9機 艦上爆撃機9機 補用3機 艦上攻撃機9機 補用3機)

第14航空隊中支派遣隊(艦戦9機 補用3機)

中国軍[編集]

中華民国空軍[編集]

I-16戦闘機

成都 戦闘機約50機 重爆約30機 軽爆約45機

重慶 戦闘機約30機

宜賓 軽爆約10機

蘭州 戦闘機約20機 重爆数機 軽爆約20機

昆明 戦闘機約20機

(機数は日本軍推定)

ソ連空軍志願隊[編集]

経過[編集]

初期[編集]

陸軍航空隊の発進基地は運城に、海軍航空隊の発進基地は漢口(一部は考感飛行場)とし、初日の爆撃で重慶死者178人、負傷408名を記録した。

また、各国大使館や報道機関への着弾も精密性に欠けることから起きてしまい、最終的に退避地域を指定して退避するように要請することで解決した。

しかし当時の日本軍戦闘機では航続距離が足りず、特に中攻の損害がとりわけ目立っていた。このままでは練度の高い搭乗員がかなりの数削がれ、航空兵力の弱体化が目に見えていたため、大本営は新型戦闘機の開発に躍起になっていた。

零戦の登場以降[編集]

1941年、中国戦線における零式艦上戦闘機一一型 (A6M2a)

1940年(昭和15年)7月15日、第二連合航空隊から横山保大尉と進藤三郎大尉率いる零戦13機が進出した。九六式陸上攻撃機の護衛を主任務として活動したものの、会敵することはほとんどなかった。[2] [3] 9月半ばに、ようやく中国軍機と戦闘し、ほとんどを撃墜した。またその際、戦闘による零戦の損害はほとんどなかった。[4]

この日を境に中国軍は航空機を温存するようにし、空襲警報と共に奥地へと航空機を退避させるようにした。

その他、精密爆撃の非効率性が露呈してきたため、重慶市内を各区画に分けて順番に各区画を絨毯爆撃する方法を編み出し、事実上無差別爆撃を行う形となった。[5]

結果[編集]

日本軍戦果[編集]

日本軍爆撃後の重慶(1941年)

奥地進行総数

攻撃日数

陸軍21日 海軍50日(54回)

攻撃延機数 九七式重爆727機 司偵177機 零銭24機 中攻3627機

使用爆弾 27107発 2957トン

交戦統計

交戦延機数 607機

撃墜機数 117機(不確実14機)

地上撃破 65機

各都市の破壊

中国軍戦果[編集]

日本軍機 16機撃墜

その他[編集]

日本軍はその後一〇二号作戦を立案し、実施した。

また、一〇一号作戦発動中は、ちょうどドイツによるロンドン空襲が実施されていた時期と重なり、重慶市民はある種のロンドンとのつながりを感じていたとされている。

脚注[編集]

  1. ^ 防衛庁防衛研修所戦史室『中國方面陸軍航空作戦』(戦史叢書 74) 朝雲新聞社、1974年7月
  2. ^ 防衛庁 1975, p. 156.
  3. ^ 牧島 2001, p. 113.
  4. ^ 神立尚紀 『戦士の肖像』文春ネスコ、2004年。
  5. ^ 笠原 十九司 『日中戦争全史』高文研、2017年7月18日、140頁。

参考文献[編集]

太平洋戦争研究会編 森山康平著『日中戦争』2000年 河出書房新社

笠原十九司 『日中戦争全史』2017年 高文研

前田哲男 『戦略爆撃思想』 1988年 朝日新聞社

菊池一隆 『中国抗日軍事史』2009年 有志舎

『戦史叢書 中国方面陸軍航空作戦』

神立尚紀 『戦士の肖像』文春ネスコ、2004年。

防衛庁防衛研修所戦史室『中国方面海軍作戦』 2巻、朝雲新聞社〈戦史叢書 79〉、1975年。 

牧島貞一『炎の海 : 報道カメラマン空母と共に』光人社、2001年。ISBN 4-7698-2328-2 

関連項目[編集]