成田空港問題
成田空港問題(なりたくうこうもんだい)は、日本最大の国際空港である成田国際空港を建設するに当たって発生した社会問題で、所謂三里塚闘争もしくは成田闘争のこと。
目次 |
[編集] 経緯
1978年に開港した成田国際空港は、1962年時点で既に建設案が浮上していたが、建設に当たり、空港用地内外の農民と近隣の騒音地域の住民の激しい反対運動により社会問題化した。その反対派住民にさらに「暴力革命」と日本政府粉砕を叫ぶ新左翼の各勢力が介入したため、警察との衝突、各種テロ事件、さらには反対運動内部での主導権を巡る派閥抗争・内ゲバまで様々な事件が発生することになった。
[編集] 歴史
[編集] 新空港建設計画
1960年代になると、年々増大する国際輸送についての航空機の重要性が高まったが、当時の国際線の主力空港であった東京国際空港(羽田空港)は手狭であり、再拡張により航空需要に対応しようと検討したが、
- 沖合に拡張した場合東京港の港湾計画との調整が極めて難しい事
- 当時の港湾土木技術では難工事になる事
- 航空機の離着陸経路の設定が著しい制約を受ける事
- 仮に拡張出来たとしても、空港の処理能力は20%〜30%程度の増加に留まる事
などから長期的航空機輸送需要に対応できない事が判明した。
この為、当時の運輸省は、首都圏内の他の場所に新空港を建設する為の検討に入った。
そこで「新東京国際空港」として建設計画が立てられ、当初は千葉県富里村(現・富里市)を建設予定地としていたが、地元自治体との調整は難航した。そのため、1966年佐藤栄作内閣は、建設予定地を同県成田市三里塚に変更した。国有地である宮内庁下総御料牧場があることから用地買収がより容易に進むと考えたためである。
[編集] 政府の強権的な姿勢による空港建設と反対運動の開始
御料牧場は空港予定地の4割弱に過ぎなかったが、政府は地元から合意を得るどころか事前説明すら怠り、代替地等の諸準備が一切なされていなかったことから農民を中心とした地元住民の猛反発を招いた。地元農民は土地を失うことや騒音問題への懸念から「三里塚・芝山連合空港反対同盟」を結成し反対活動を開始した。当初は日本社会党や日本共産党などの革新政党からの支援による反対運動だったが、反対派の主張を無視する政府の強権的な姿勢に対して、反対派農民が次第に「力には力で対抗する」という方針を固めたことにより、既成革新政党は反対運動から引いていった。
[編集] 新左翼の支援
革新政党に代わって、「暴力革命」を掲げ実力をもってしても政府と対決する新左翼諸派が「労農連帯」「国家治安の最前線の三里塚で機動隊を打ち破る」「新空港は日本に新たな軍事基地を作るものだ」「全国住民運動の頂上決戦」などの理由により、反対派農民を支援した。用地買収は停滞したため、政府は土地収用法に基づき行政代執行を1971年に2回実行、機動隊と反対派農民・支援の激しい衝突の末、9月の第二次代執行では警察官3名が死亡し(東峰十字路事件)、ようやく一期工事の用地を取得した。反対派は1972年に航空妨害を目的とした鉄塔を建てて対抗して、政府は当初の「1972年開港」の断念を余儀なくされた。1977年5月6日にこの鉄塔は撤去された。5月8日、鉄塔の撤去に抗議する反対派と機動隊が衝突し、支援者1名が死亡した。
[編集] 管制塔占拠事件と成田治安時限立法の成立
1978年3月26日、開港直前になって日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)(第四インター)派を主力とするゲリラが成田空港の管制塔に乱入し、管制塔内の機器を破壊した。また、空港の各所から反対派農民を支援する新左翼党派活動家4千人が乱入する「騒乱状態」となる(成田空港管制塔占拠事件)。このため開港が5月20日まで延期となった。
開港後も反対同盟は「百日戦闘宣言」を発し、ゲリラや滑走路の延長線上にアドバルーンを上げたり、タイヤを燃やしての航空妨害が続いたため、警察は厳重な警備を敷いた。政府は「この暴挙が単なる農民の反対運動とは異なる異質の法と秩序の破壊、民主主義体制への挑戦であり、徹底的検挙、取締りのため断固たる措置をとる」と声明を出し、「新東京国際空港の開港と安全確保対策要綱」(いわゆる「成田治安時限立法」)を制定した。この時限立法に対し、国会で反対したのは青島幸男ただ一人であった。また、管制塔襲撃事件を契機に、空港の安全確保のため、千葉県警察警備部に専従の機動隊「新東京国際空港警備隊」(現・千葉県警察成田国際空港警備隊)が発足した。
[編集] 国民感情との乖離
また、同年5月5日には京成電鉄が開港後の空港連絡列車「スカイライナー」に投入するため新製し車庫に留置されていたAE形車両が中核派によって放火され、4両が全半焼するというテロ事件・京成スカイライナー放火事件が発生した。また、5月19日にも京成本線5ヶ所で同時多発列車妨害事件が引き起こされた。
地元民の生活の足である京成電鉄へのテロ行為は、空港反対運動の枠を超えた地域の社会基盤そのものへの破壊活動であり、空港周辺部以外の京成線沿線の住民からの反対派への白眼視を招いたのみならず、この頃始まった新左翼そのものの衰退や当初の目的である開港阻止が適わなかった事による反対派への国民感情そのものへの乖離を加速させることになった。特に管制塔占拠事件も大半の国民には特異な思想を持った限られた人間によるテロ行為と捉えられるようになっていった。政府の断固たる姿勢と開港、運用の開始は、反対派の存在を多くの国民から有名無実化させていった。また農村部の過疎化が加速し始めた時期とも重なり、農業以外に地場産業を持たず、かつては当地の一大産業であった馬畜産・競走馬生産とそれの周辺産業も離れ始めた三里塚地域としても、このまま衰退するよりは空港と共生する道を模索するべきという意見が主流派を占める様になっていった。また、反対運動が始まった当初は反対派の主張に対して同情的な面を見せることもあったマスコミの多くからも、この頃には新左翼とテロリズムの影ばかりが目立つ状況に距離を置かれる様になるなど、反対派は孤立無援の状況へと徐々に追い込まれていった。
他方で新左翼テロリストらの多くは尚も活発にテロを行い、後述する様に反対派住民にとってさえ進めば地獄で退いても内ゲバが待つだけという泥沼化の事態に至り、参加した住民の多くが心身を疲弊させると共に、やがて反対運動それ自体が社会に対する説得力を失ってゆくこととなる。
そしてこの成田空港問題を他山の石とする形で、その後の全国各地の多くの高速道路・鉄道・原子力発電所・ダムなどの反対運動では、自勢力拡大を目的に反対運動への便乗を狙う新左翼の活動家たちを反対運動を行う住民自身が強く警戒する様になり、場合によっては新左翼勢力と繋がりを持つ人物や新左翼勢力を引き入れようとする人物を反対運動の組織の主流派が自ら排除するという動きも見られるようになった。
[編集] 一坪再共有化運動に端を発する内紛(内ゲバ)
1980年代に入っても、反対運動は一定の力を維持し、二期工事の着工をしばらく阻んでいたが、三里塚・芝山空港反対同盟は、主に「一坪再共有化運動」(空港予定地となっている農家の土地を多くの支援者で共有することで、空港公団の土地取得を困難にさせようとする運動。沖縄の反米軍基地運動の「一坪反戦地主運動」からヒントを得ている)の是非をめぐって1983年3月8日に分裂し、「一坪再共有化運動」を「土地の売り渡し」「金儲け運動」として反対した中核派らは「北原派」を、「再共有化」を推進する第四インター派らは「熱田派」を支持した。
3月8日には、のちの「熱田派」が「総会」、のちの「北原派」が「実行役員会」をそれぞれ開催した。芝山町千代田公民館で行われた「総会」には反対派農民160人が出席し、「中核派支持色が強い」とされた北原鉱治事務局長の解任に反対派農家194戸のうち145戸が賛成、25戸が反対、24戸が保留し、北原の解任を決定した。また、中核派との共闘を絶つことも同「総会」で確認された。一方、成田市天神峰「現地闘争会館」で開催された「実行役員会」には、反対派農民58人が参加。「一坪再共有化運動」を推進する青年行動隊の石井新二を「反対同盟から除名した」とし、22人を「反対同盟の役職から解任した」とした。
中核派の「再共有化」反対論は「再共有化運動」に対する「空港用地内農民」の反発を背景にし「北原派」の中心部分は「用地内農民」だったが、石井武のように「用地内農民」で「熱田派」に加わった者もいる。逆に「一坪再共有化」を推進した「用地外騒音地域農民・住民」の多くは「熱田派」についたが、「北原派」についた「騒音地域農民・住民」(戸村一作夫人など)も存在する。また、中核派は、第四インター派を「公団に土地を売り渡そうとする新しい型の反革命」と規定して、1984年1月、全国一斉に五箇所の第四インター派メンバー宅を襲撃、一人に頭蓋骨陥没させる重傷を負わせた。7月にふたたび一斉に三箇所の第四インター派メンバー宅を襲撃、一人に片足切断の重傷を負わせた。あるいは中核派は「熱田派」農民や第四インター派メンバー、あるいは「一坪共有者」の自宅や職場を「訪問」または電話を掛けて「次はお前だ」などと組織的に恫喝を行った。
用地内農民を中心に形成された「北原派」だが、1987年9月に、やはり中核派への反発を背景に用地内農民の大半が離脱して「小川派」が結成された。「北原派」反対同盟および中核派は、「熱田派」農民とともに「小川派」に対しても「脱落派」と規定して激しく非難・攻撃した。
しかし、1998年に中核派は「脱落派の再共有化に応じた人びとを含む全国1,200人の一坪共有者に訴える。その権利を絶対に守り抜くことは人民の正義であり、三里塚闘争勝利のために不可欠である」と、「一坪再共有化運動」に対する態度をそれまでの総括なく180度転換した。ただし、第四インター派へのテロや非北原派の反対派農家への恫喝については一切謝罪をしていない。
[編集] 収用委員会に対するテロ
新左翼テロリストの暴走は第四インター派メンバー襲撃事件を契機に加速し、一般人をターゲットとしたテロ攻撃を起こすことになった。1985年(昭和60年)10月20日には千葉県成田市の三里塚交差点で空港反対同盟(北原派)支援の新左翼党派と警視庁機動隊が衝突した事件が発生(10.20成田現地闘争)。1988年9月21日には、千葉市内の路上で、当時千葉県収用委員会会長だった弁護士の小川彰が、フルフェイスのヘルメットをかぶった数人に襲われる(千葉県収用委員会会長襲撃事件)。小川は全身を鉄パイプで殴られ、両足と左腕を骨折するという重傷を負い、このテロの後遺症を苦に2003年7月に自殺する。このテロに中核派は犯行声明を出し、収用委員に組織的に脅迫じみた手紙、電話などを送り続けた。これにより収用委員全員が辞任し、千葉県収用委員会は2004年に再始動するまでの16年間、完全に機能停止に追い込まれた。
[編集] 円卓会議と政府の謝罪
1991年(平成3年)11月から隅谷三喜男東京大学名誉教授ほか4名の学識経験者(隅谷調査団)主宰のもと成田空港問題シンポジウムが15回にわたって開催され、引き続き1993年(平成5年)9月から12回にわたって開催された「成田空港問題円卓会議」で今後の成田空港の整備を民主的手続きで進めていくことが確認された。
円卓会議の結論を受け、最終的には1995年に当時の村山富市首相が日本政府を代表して、それまでの政府の強権的な姿勢を謝罪した。この謝罪は地元の一定の評価を得、その後二期工事への用地買収と集団移転に応じる農民・地主が出てきた。
[編集] 反対運動の現在
かつては新左翼テロリスト党派によるテロ・ゲリラ事件などが多発し、空港建設や正常な空港運用に支障をきたしていたが、隅谷団長を始めとする中立委員の努力や政府の謝罪などもあって反対派住民の移転と反対運動からの離脱も進んだ(ただし、近年においてもテロを継続している組織もあり、2008年には革労協が成田空港敷地内へ迫撃弾を撃ち込む事件を起こしている)。
二期工事のうち、平行滑走路(B滑走路)については1996年には暫定滑走路を建設する案が計画され、2002年に暫定滑走路として供用開始した。この新滑走路は、反対派農家の未買収地を残したまま建設され、農家の軒先数十メートルの誘導路をジェット機が通過するという状況が続いている。また未買収地を滑走路側に迂回して建設されたため、誘導路は「く」または「へ」の字形に屈曲しており、航空機が離着陸する時には他の航空機の移動が制限される。2002年12月1日には誘導路上で航空機同士の接触事故が発生した。2009年現在、屈曲部の改良工事が検討されている。
[編集] 地元の新たな危惧
2000年、羽田空港の再拡張と、羽田発着国際線復活の報が流れる。ほぼ時を同じくして、茨城県の航空自衛隊百里基地の民間共用化により、首都圏に第3の国際線空港(茨城空港)の開港が決定する。地元の危惧は羽田の再拡張と茨城空港の開港による成田空港の「地位低下」という、建設開始時とは180度正反対のものになっていた。
成田空港は東京をベースとする空港として捉えた場合、都心との距離が開いているため利便性がいい空港とは言えず、羽田空港に国際線乗り入れが再開されれば相対的に成田空港の地位が低下する。
茨城空港は航空会社へのPRとして「着陸料を成田の6割」を掲げており、開港に向けて格安航空会社を中心にシェアの確保を図っており、成田空港から一部国際線の逸走につながる可能性がある。
現在、主に暫定滑走路延長線直下の騒音地帯にある東峰部落住民を中心とする反対派農家は「空港と地域の共生」を掲げる地域の大勢の中で孤立化していると言える。東峰部落住民は「現在の暫定滑走路建設や北伸延長をすすめる手法も当初からの政府のやり方とおなじ」と批判している。
[編集] 反対運動の影響
ドイツのミュンヘン国際空港はこのような紛争を避けるため、徹底して成田空港の事例を研究し、反対派を十分に説得した上で建設されている(着工後、5年ほどで完成)。日本でも、成田での経験を元に大規模空港は騒音問題等が発生しにくい海上に造られるようになった。それでも関西空港の工事中には、成田空港反対派系の団体により、見学船が放火される事件が起こっている。
[編集] 年表
役職はいずれも当時のもの。
[編集] 1960年代
- 1962年11月16日:羽田空港の行き詰まり打開策として、新国際空港建設の方針を閣議決定。
- 1963年
- 6月10日:運輸省航空局が「新東京国際空港」(いわゆる「青本」)を発行。立地箇所は特定せず。
- 6月中旬:綾部健太郎運輸相が「浦安沖案」、河野一郎建設相が「木更津沖案」を発表。
- 7月4日:綾部運輸相、河野建設相、川島正次郎国務大臣、友納武人千葉県知事が初の四者会談。新空港立地を「東京湾沖千葉県側」とすることで合意。
- 8月27日:第2回四者会談で、綾部運輸相が「東京湾案」に加えて、「霞ヶ浦案」「富里村付近案」を追加提案。
- 9月12日:友納千葉県知事が「運輸省は富里村案を検討中」と県議会全員協議会で報告。
- 9月18日:この日から富里村、八街町の推進派と賛成派の双方が陳情を開始。
- 12月11日:空港審議会が第一候補・富里村付近、第二候補・霞ヶ浦と答申。
- 1964年
- 3月22日:日本社会党千葉県委員会が「新空港設置反対」を決議。
- 5月26日:閣議で「浦安案」を推す河野建設相と「富里案」を推す綾部運輸相が激しく議論する。
- 8月17日:友納千葉県知事が「木更津沖なら積極的に誘致、内陸なら消極的にならざるを得ない」と立場表明。
- 9月15日:新空港建設について「関係閣僚懇談会」(関係閣僚懇)発足。
- 11月13日:河野国務相が「富里・木更津・霞ヶ浦・羽田沖の四候補地を白紙に戻し、再検討を考慮中。500戸以上の移転は不可能」と発言。
- 12月18日:閣議で「新空港建設に関する基本的態度」を確認。「新空港は1970年完成を目標とする」「候補地についてはさらに検討」など。
- 12月23日:富里村の空港反対派が「血判状」を佐藤栄作首相に提出する。
- 1965年
- 4月5日:霞ヶ浦沿岸の漁民らが「空港設置反対集会」を開催。
- 6月2日:新東京国際空港公団法を公布(施行は'66年7月7日)。
- 11月15日:富里村空港反対派がトラクター50台で千葉県庁までデモを展開。知事室に乱入する騒ぎとなる。
- 11月18日:関係閣僚懇が新空港を冨里に内定、と発表。
- 11月19日:千葉県側が「富里案内定」の発表に、「事前連絡不充分」と不満を表明。
- 11月25日:富里村議会と八街町議会が、それぞれ「空港設置反対」を決議。
- 11月27日:富里・八街・山武の「空港建設同盟連合会」が、運輸省に「建設促進」を陳情。
- 12月21日:酒々井町議会が「空港建設反対」を決議。
- 12月24日:芝山町議会が「空港建設反対」を決議。
- 1966年
- 2月7日:富里の空港反対派のデモ隊が、千葉県庁に乱入する。
- 2月28日:友納千葉県知事が「政府に条件を提示しない。地元住民に説得もしない。事態の推移を見守る」と態度表明する。
- 3月4日:閣議で「臨時新東京国際空港関係閣僚協議会」を決定。
- 3月11日:自民党新東京国際空港推進本部が「閣議協の決定に拘らず富里案を基本的に検討する。冨里以外の候補地も検討する」と表明。
- 5月18日:富里・八街空港反対同盟が農地不買運動(一坪マンモス登記運動)を開始する。
- 6月8日:千葉県空港調査室が「三里塚案」について検討。
- 6月17日:富里案に地元の反対運動が激化し、自民党政調会が三里塚案を提出する。
- 6月21日:中村寅太運輸相が「新空港は富里・八街しかない」と発言。
- 6月22日:佐藤首相が友納千葉県知事に、原案の二分の一に圧縮した三里塚御料牧場での空港建設案を提示。
- 6月25日:友納千葉県知事が、藤倉武雄成田市長に新空港建設の協力を要請。
- 6月28日:三里塚新国際空港反対同盟が3千名の参加で結成される。三里塚の農機商店を営むクリスチャンの戸村一作を代表とする。遠山中学校にて「新空港反対総決起集会」を開催。
- 6月29日:運輸省が三里塚での新空港設置計画を発表。友納知事、即日「三里塚案」の受け入れを表明。
- 6月30日:芝山町空港反対同盟が結成される。
- 7月4日:佐藤栄作内閣が、新東京国際空港の建設予定地を千葉県成田市三里塚地区の宮内庁下総御料牧場付近に閣議決定。千葉県議会と成田市議会は「三里塚空港建設反対決議」を可決。
- 7月10日:三里塚地区と芝山町の反対派農民・住民が連合して三里塚芝山連合空港反対同盟を結成。代表は三里塚の戸村一作が就任する。
- 7月20日:芝山町議会が「成田空港建設に強く反対する決議」を可決。
- 7月30日:新東京国際空港公団 (NAA) 設立。初代総裁に成田努が就任。
- 8月2日:成田市議会が、7月4日の「建設反対決議」を白紙撤回。
- 8月25日:条件派団体の「成田空港対策部落協議会」が発足。
- 8月27日:反対同盟が「一坪共有化運動」を開始。
- 8月31日:反対同盟、最初の行動として運輸省に800名で抗議行動を行う。
- 9月30日:空港公団が、地元住民に対する第1回説明会を開催。土地買収価格などについて説明。
- 12月12日:大橋武夫運輸相が、空港公団に「平行滑走路2本、横風用滑走路1本」の基本計画を指示。
- 12月16日:反対同盟が天神峰に最初の団結小屋(現地闘争本部)を建設。以後、駒井野、天浪、東峰、木の根などに逐次建設。
- 12月27日:芝山町議会が、町民の傍聴を排して「富里案」時代の「空港設置反対決議」の白紙撤回を決議。
- 1967年
- 3月2日:富里村議会が、66年11月25日の「空港反対決議」を白紙撤回。これにより、行政単位の反対は皆無となる。
- 6月26日:条件派2団体との会談のために成田を訪れた大橋運輸大臣に対して、反対同盟が抗議行動を展開。一時京成成田駅が占拠され、運輸相らは缶詰め状態となる。
- 8月15日:空港反対同盟と三里塚国際空港反対千葉県共闘会議(社会党・共産党らの革新政党の共闘組織)が「三里塚空港粉砕・強制測量実力阻止平和集会」を千葉市内で共催。反対派農民が千葉県庁に座りこんだ。この日に、反対派農家の子どもたちによる「少年行動隊」が結成される。翌16日、反対同盟は「あらゆる民主勢力との共闘」を確認する声明を発表。新左翼諸党派の支援が開始される。
- 10月10日:測量のための杭打ちに、初めて機動隊を動員。2千名の機動隊に反対同盟農民1千2百名が座り込みなどで対抗し、三里塚現地での最初の実力闘争となる。逮捕者2名、負傷者数十名、重傷1名。日本共産党の支援部隊は、衝突の最中に座り込みを解除して合唱を始めるとともに、農民に実力行使の中止を求める。農民は反発し、反対同盟農民と共産党が訣別する直接の原因となる。
- 10月16日:10日に打った杭が何者かに引き抜かれ、空港公団は再び、1トンのセメントで固めた杭を打ち直す。四時に衝突が起こり、公団は作業を中止するが、反対派農民は2名逮捕される。
- 10月21日:芝山町の条件派7団体が「芝山町空港対策連絡協議会」を結成。
- 11月3日:三派全学連が、成田市街で集会を行い、空港予定地までデモ行進を行う(新左翼の登場)。
- 11月29日:初の用地買収契約締結。
- 12月15日:反対同盟が総会を開いて、日本共産党の支援と介入を排除することを決定する。その間共産党は、反対同盟幹部を名指しで批判するビラ撒きや、反対同盟切り崩しのオルグ活動を行っていたことから、決定的な決裂に至った。
- 1968年
- 2月26日:三里塚・芝山連合空港反対同盟・三派全学連・砂川基地拡張反対同盟が成田市営グランドで「三里塚空港実力粉砕・砂川基地拡張阻止現地総決起集会」を共催。全学連が「空港公団分室粉砕」をスローガンに機動隊と衝突。数十名の逮捕者と戸村一作反対同盟代表はじめ155名の負傷者が出る。
- 3月10日:空港反対同盟と全国反戦青年委員会共催で「空港粉砕・ベトナム反戦総決起集会」を成田市営グランドで開催。集会後、ふたたび機動隊とデモ隊が大規模衝突を起こす。衝突後の解散集会に機動隊5千名が突入し、100名以上の逮捕者と空港反対派に300名以上の負傷者を出す。
- 3月31日:反対同盟と新左翼運動が連帯した三度目の全国結集の大集会を開催。成田市営グランドが使用禁止され、三里塚第二公園で開催。集会後、公団分室に向けてデモ行進。機動隊と衝突し、逮捕者235名、空港反対派に300名以上の負傷者を出す。
- 4月21日:一連の衝突の件で、農民4人を逮捕する。
- 5月12日:ボーリング調査に抗議していた青年行動隊員・島寛征が逮捕される。反対同盟は成田警察署に大挙して押しかけ、即日釈放される。
- 5月27日:天神峰と駒井野への立ち入り測量に抗議した反対派が、機動隊300名と衝突。逮捕者2名。負傷者2名。
- 6月5日:木の根部落で、反対派農民300名が立ち入り測量の職員を蹴散らすが、機動隊との衝突で反対派2名が重傷を負う。
- 6月15日:ふたたび、木の根部落への立ち入り測量で衝突。婦人行動隊員1名逮捕される。反対派に8名の負傷者。
- 6月30日:三里塚第二公園で「全国総決起集会」を開催。5千名の結集。
- 7月12日:芝山町千代田で立ち入り測量に対して、老人行動隊が、はじめて人糞を用いた抗議行動を行う。老人行動隊1名が逮捕される。
- 7月15日:横堀部落で、反対同盟の投石などの抵抗で、立ち入り測量の公団職員と機動隊が立ち往生する。
- 7月17日:反対同盟が測量地点にバリケードを築いて、終日阻止行動を展開。逮捕者1名。
- 7月18日:空港公団、立ち入り測量の終了を宣言。
- 11月24日:反対同盟が「三里塚空港粉砕・ボーリング調査阻止全国総決起集会」を開催。それまでの最大規模の8千名が結集。空港公団は「年内のボーリングと調査の工事開始は困難」と発表する。
- 12月19日:青年行動隊2名が、公団職員を発見して叩き出す。2名は同日夜に逮捕される。
- 12月29日:反対同盟の連日300名の成田警察署への抗議行動により、19日逮捕の2人は釈放される。
- 1969年
- 3月30日:反対同盟が「公団の『四月着工』声明粉砕・事業認定申請粉砕全国集会」を開催。1万2千名の結集。
- 4月18日:老人行動隊が、空港予定地の御料牧場の存続を宮内庁に請願。
- 8月18日:御料牧場閉場式に、反対同盟200名が抗議行動。青年行動隊が乱入し、翌9月8日に青行隊8名が事後逮捕されるが、萩原進行動隊長の行方が知れず、萩原は指名手配となる。
- 9月28日:事業認定粉砕全国集会開催。1万3千名が結集した。
- 10月5日:反対同盟が、ボーリング調査阻止の連続闘争を11月12日まで展開する。
- 10月14日:成田警察署員が、指名手配中の萩原宅にいた青行隊員・柳川秀夫を萩原と誤認して逮捕する。反対同盟100名が成田警察署で抗議行動を展開、即日釈放となる。
- 11月6日:萩原進が、自宅で作業中に逮捕される。
- 11月12日:反対同盟が、工事用道路に座り込みブルドーザーを阻止する。反対同盟戸村代表ら13名が逮捕される。
- 12月16日:坪川信三建設大臣が土地収用法に基づく「事業認定」を承認。
[編集] 1970年代
- 1970年
- 1月15日:「強制測量粉砕・収用法粉砕全国総決起集会」が開催される。
- 2月19日:反対同盟が「第一次強制測量阻止闘争」に取り組む(翌日まで)。
- 3月13日:反対同盟が「事業認定取消請求訴訟」を起す。
- 5月14日:「第二次強制測量阻止闘争」
- 6月12日:千葉県収用委員会が、第一次収用裁決申請に係る審理を開始。反対同盟は1千名で傍聴。少年行動隊は「同盟休校」で闘争に参加した。反対派の抗議などで会場は混乱した。
- 8月26日:「第一次申請分」六筆の土地に収用委員会の現地調査が行われる。反対同盟が1千名で阻止闘争を展開。3名逮捕。1名が手錠のまま逃走する。
- 9月11日:空港公団委託の業者2名が横堀部落に入るが、現地農民が抗議行動を展開。
- 9月16日:11日の抗議行動の件で、千葉県警が反対同盟瀬利副委員長宅を家宅捜査。
- 9月17日:11日の抗議行動の件で、千葉県警が支援学生1名を誤認逮捕。
- 9月30日:この日から10月2日まで「第三次強制測量阻止闘争」(のちに空港反対派は「三日戦争」と名づけた)。反対同盟は、落とし穴、「白兵戦」、糞尿などを駆使して徹底抗戦する。3日間の攻防で59名が逮捕される。
- 10月7日:空港公団、用地取得に「特別措置法を適用する」と発表。
- 12月6日:「強制測量粉砕・全国住民運動総決起集会」が開催される。
- 12月26日:千葉県収用委員会が、第一次収用裁決申請分に対する収用裁決(権利取得の時期及び明渡しの期限71年1月31日)。
- 1971年
- 1月6日:反対同盟、強制収用対象地に「地下壕」を掘り始める。
- 1月13日:反対同盟の小川明治副委員長が、心筋梗塞で死去。15日に同盟葬が行われた。遺言により、空港予定地内の共同墓地に埋葬された。
- 1月31日:「強制代執行反対」を掲げて、全国全共闘と全国反戦青年委員会を中心に、千葉市内で集会を行い、知事公舎にデモ。5名が逮捕される。
- 2月11日:少年行動隊が、150名で「強制代執行の中止」を求めて公団分室にデモ。機動隊と衝突になり、少行隊員1名負傷。
- 2月14日:「強制代執行反対」を掲げて、全国全共闘と全国反戦青年委員会を中心に、ふたたび知事公舎に向けて千葉市内をデモ。2千5百名が結集し、28名が逮捕され、デモ隊20数人が負傷する。
- 2月22日:建設予定地で第一次行政代執行。反対同盟と支援者3千名と機動隊が衝突。少年行動隊は「同盟休校」で闘争に参加。千葉地方裁判所は、反対同盟の代執行停止処分申し立てを却下する。
- 2月24日:少年行動隊80名が公団職員らと衝突。公団は代執行を停止するが、少年行動隊3名が負傷。午後に、ガードマンが少年行動隊に暴行を加え、多数の負傷者が出る。間に入りガードマンを制止しようとした「監視団」の社会党議員にも暴行を加える。
- 2月25日:「駒井野砦」で反対派が集会中に、機動隊が突入。支援者49名が逮捕。その際に「地下壕」が落盤。農民1名が重傷を負う。この日の逮捕者141名。反対派の負傷者253名。5名が成田日赤病院に緊急搬送される。
- 2月26日:友納千葉県知事が、27日から3月1日までの代執行の停止を表明する。
- 3月2日:代執行再開。機動隊2千3百名に増強。反対同盟、支援者と周辺住民の「野次馬」3千名が対峙。「野次馬」が投石を開始し、機動隊が撤収する。故小川明治副委員長の四十九日の慰霊祭が砦内でとり行われる。この日逮捕者13名。反対派の負傷者20名。成田日赤病院への緊急搬送3名。
- 3月3日:機動隊3千名にさらに増強。土砂降りの雨の中の衝突となる。逮捕者19名。反対派の負傷者213名。
- 3月5日:機動隊さらに3千5百名に増強。「野次馬」を閉め出す検問を開始。この日から立ち木に鎖で身体を括りつけた農民を木ごと切り倒す。逮捕者65名。反対派の負傷者259名。
- 3月6日:機動隊は高圧放水などで、「地下壕」を除き砦などの反対派拠点を撤去。千葉県は「代執行終了」を宣言。
- 3月7日:反対同盟が「緊急抗議集会」を1千5百名で開催。反対同盟は、「負傷者続出」の事態に友納千葉県知事、今井榮文空港公団総裁、本庄千葉県警本部長を告発することを決定する。十日間の第一次代執行期間で逮捕者461名、負傷者841名うち重傷43名。
- 3月8日:公団と機動隊が「地下壕」を攻撃。一部撤去し、8名を逮捕。
- 3月25日:機動隊4千名を動員して「地下壕」撤去に向けて攻撃。反対派19名逮捕。
- 3月28日:革マル派が、機動隊との戦闘で負傷した者の救護にあたる「三里塚野戦病院」の車両を襲撃し、2名を負傷させる。
- 5月2日:武装したガードマンが突如、各所の反対派の団結小屋を襲撃して回った。反対派に48名の負傷者を出し、うち17名が重傷を負った。止めに入った反対派農民1名が逮捕。
- 5月25日:千葉県警が反対派農民の大木よね宅を家宅捜索。
- 6月6日:「強制代執行土地収奪粉砕全国総決起集会」開催。
- 6月12日:千葉県収用委員会が、期限を9月にした第二次収用裁決を下す。
- 7月15日:千葉地裁が、反対同盟申請の「占有権妨害禁止等仮処分」の申請を却下する。
- 7月26日:反対同盟は、この日から30日まで仮処分阻止闘争を取り組む。午前4時55分に千葉地裁執行官が機動隊に守られながら「執行通告」。激しい衝突となり逮捕者179名、反対派の負傷者221名。「地下壕」には手をつけられないまま夜11時に「仮処分終了」を宣言。
- 7月27日:早朝5時30分から公団・機動隊が「地下壕」を攻撃。攻防戦で反対同盟の瀬利副委員長ら106名が逮捕、反対派の負傷者158名。
- 7月28日:「地下壕」を撤去できないまま、今井空港公団総裁が「執行は終わった。地下壕撤去作業は中止する」と記者会見で語った。この日の反対派の負傷者36名。
- 7月29日:反対同盟が「駒井野砦」で「地下壕戦110時間勝利集会」を開催。
- 7月30日:反対派拠点や各所の団結小屋に家宅捜索。抗議した秋葉哲反対同盟救援対策部長ら5名逮捕、400名が負傷。
- 8月3日:「地下壕」に最後まで立て篭もっていた北原鉱治反対同盟事務局長、石井武反対同盟実行役員が令状逮捕される。
- 9月15日:翌日の第二次代執行阻止闘争に向かおうとしていた活動家を白昼茨城大付近で、私服公安刑事が木刀で襲撃する事件が起きる。活動家は23日に私服刑事を告訴・告発した。
- 9月16日:建設予定地で第二次行政代執行。数百名の「ゲリラ部隊」が各所で後方警備の機動隊を襲撃。千葉県へ応援派遣されていた神奈川県警察特別機動隊員3名が火炎瓶による全身火傷・殴打により死亡、80名以上が負傷した(東峰十字路事件)。この日の逮捕者375名。
- 9月17日:千葉県警は、反対同盟戸村代表宅や各団結小屋などの反対派拠点、都内13ヶ所の党派事務所を「殺人、殺人未遂、公務執行妨害、兇器準備集合罪、爆発物取締法違反」の容疑で一斉に家宅捜索を行う。
- 9月20日:空港公団は突如「住居への代執行はしない」との約束を反故にして、大木よね宅を強制収用。住居への代執行は、初めてのことである。抗議した支援者ら90名が逮捕され、負傷者27名。
- 9月21日:「地下壕」に立て篭もっていた農民3名が、機動隊に排除される。うち農民1名が逮捕される。機動隊3千名が捜索していたところ、反対派支援者と遭遇。その夜、大清水に設営された「野戦病院」を機動隊約100名が突入。深夜、機動隊500名が包囲する中、飯場作業員が無人の千代田団結小屋「市民の家」を放火、全焼させる。
- 9月27日:反対同盟が、友納知事、川上紀一副知事らを9月16日の「駒井野鉄塔」撤去に関して「殺人未遂」で千葉地検に告発する。
- 10月1日:青年行動隊員・三ノ宮文男が「空港をこの地にもってきた者を憎む」と遺書を残して自殺する。
- 12月8日:東峰十字路事件に関して、千葉県警の三警官殺害事件特別捜査本部が、青年行動隊員11名を別件逮捕。以後、翌年9月まで青年行動隊員、三里塚高校生協議会(反対同盟の高校生グループ-三高協)、支援者らの逮捕、別件逮捕が相次ぐ。
- 12月24日:釈放された1名が再逮捕される。
- 1972年
- 1月26日:今井空港公団総裁が「6月中の開港の見通しがついた」と発表。
- 3月12日:反対同盟が、芝山町岩山に航空妨害を目的にした高さ約100mの大鉄塔を建設(いわゆる「岩山鉄塔」)。
- 3月15日:鉄塔建設によって、この日予定していたフライト・チェックが中止される。
- 3月31日:空港管理ビルが完成する。
- 7月5日:東峰十字路事件に関して、青年行動隊員12名が傷害致死罪による逮捕。以降、同罪状での逮捕が続く。
- 8月3日:今井空港公団総裁が、佐々木秀世運輸大臣に「パイプラインの工事の遅れで年内開港は困難」と報告。
- 8月3日:反対同盟が「傷害致死罪攻撃粉砕集会」を開催。
- 8月31日:千葉県警が71年9月16日の「駒井野鉄塔」撤去に関連して公団職員ら6名を書類送検。反対同盟は「殺人未遂での告訴を無視している」と反発した。
- 9月16日:「第二次代執行阻止闘争一周年・青行隊奪還人民大集会」を開催。6千名の結集。
- 10月3日:青年行動隊20名が保釈。
- 11月12日:東峰十字路事件第1回公判。この間、反対同盟からの逮捕者のべ139名、保釈金1350万円。
- 12月21日:今井総裁、年度内開港の断念を発表。
- 1973年
- 1974年
- 1975年10月12日:反対同盟が「空港粉砕全国総決起集会」を7千名の結集で開催。デモで逮捕者5名、反対派に数十人の負傷者。
- 1977年
- 1月11日:福田赳夫内閣が、閣議で「年内開港」を指示。緊張が高まる。
- 1月19日:11日の指示により、「岩山鉄塔」撤去のための道路工事が再開される。この日抗議した2名が逮捕。
- 2月4日:パトロールをしていた青年行動隊2名が「道交法違反」で逮捕される。
- 2月6日:「鉄塔防衛全国総決起集会」開催。
- 2月20日:千葉市内での三里塚集会でデモの際3名逮捕。
- 2月21日:「岩山鉄塔」の周囲を公団が鉄条網で封鎖する工事を開始。抗議した1名が逮捕。
- 3月8日:「岩山鉄塔」防衛隊員1名が逮捕。
- 3月27日:「鉄塔防衛」第三波総決起集会に4千5百名結集。1名逮捕。
- 3月28日:「三里塚闘争に連帯する会」が設営したテント村に機動隊が突入。2名逮捕。反対派2名負傷。
- 4月9日:1971年の東峰十字路事件で指名手配されていた1名が逮捕。
- 4月16日:翌17日の総決起集会の前段デモで1名逮捕。
- 4月17日:「鉄塔防衛全国総決起集会」に最大の2万3千名が結集。デモで逮捕者7名。反対派の負傷者100名以上。
- 4月18日:17日のデモの件で団結小屋4ヶ所に家宅捜索。反対同盟は、21日に告訴を発表。
- 5月6日:千葉地裁が「岩山鉄塔撤去仮処分」を下し、その日のうちに「岩山鉄塔」が機動隊の包囲の中、撤去される。抗議した支援者ら16名が逮捕。反対派の負傷者33名。反対同盟は、「仮処分」に対する「異議申し立て」を提出する。赤坂の空港公団総裁室に、反対派3名が乱入し逮捕される。
- 5月7日:「岩山鉄塔」撤去への抗議行動で、25名逮捕。反対派18名負傷。
- 5月8日:「岩山鉄塔」が撤去されたことに対する抗議行動が、機動隊との大規模衝突となる(いわゆる「5.8戦闘」)。反対同盟の「野戦病院」の前でスクラムを組んでいた支援者の東山薫が、機動隊員が水平撃ちしたガス弾を受け重傷、2日後に死亡。衝突で逮捕者33名のうち15名に殺人未遂罪。負傷者327名うち入院3名。
- 5月9日:「東山君虐殺糾弾対運輸省行動」で1名が逮捕。同日、芝山町長宅警官詰め所を何者かが火炎瓶攻撃。警官1名が死亡。前日の報復と見られるが、犯行声明などはなく犯人未逮捕のまま時効が成立した。
- 5月11日:6日から8日までの衝突の件で団結小屋9ヶ所を家宅捜索。
- 5月13日:東山薫の両親が警察庁長官ら5名を「殺人」などで告訴。
- 5月14日:三里塚現地の坂志岡・承天寺で東山薫の反対同盟葬がとり行われる。
- 5月15日:沖縄米軍基地内の「反戦地主」の土地が使用期限切れになるこの日、代々木公園で「沖縄と三里塚を結ぶ中央集会」が開催される。1万5千人の結集。デモで逮捕者12名。
- 5月28日:6日から8日までの衝突の件で団結小屋18ヶ所を家宅捜索。
- 5月29日:「東山君虐殺糾弾集会」に1万8千名の結集。デモで逮捕者71名。反対派の負傷者79名。
- 6月15日:千葉地裁に「東山君虐殺」の国賠訴訟を提訴。
- 6月19日:「三里塚東京集会」開催。デモで5名逮捕。
- 7月24日:ジャンボ飛行阻止闘争に10,950名の結集。デモで5名逮捕。
- 8月7日:この日から9日まで、反対同盟が三日連続で飛行阻止闘争を展開。三日間で10名の逮捕者。
- 10月9日:反対同盟主催の「全国総決起集会」に2万2千名の結集。
- 12月:全国から集まった一億円のカンパで、航空妨害を目的とした「横堀要塞」の建設が開始される。
- 12月21日:反対派が騒音テスト飛行阻止闘争を展開。逮捕者6名。
- 12月22日:飛行阻止闘争で逮捕者4名。
- 12月27日:第一期工区内でただ一つ残っていた小泉英政所有の農地を一家の座りこみを排除して強制収用。
- 1978年
- 2月6日:航空法49条違反として、機動隊が「要塞」とその上に立てられた鉄塔の撤去に着手する。機動隊の高圧放水やガス弾などの攻撃に対して、空港反対派は火炎瓶、パチンコ弾などで応戦した。夜10時に篭城していた反対同盟農民6名を含む41名を逮捕。周辺での衝突で4名が逮捕された。
- 2月7日:「横堀要塞」に残っていた4人の支援者は零下7度のなかで徹底抗戦したが、夜10時の反対同盟による「勝利宣言」の呼びかけによって投降し、逮捕された。4人全員が手足に凍傷を負っていた。二日間の衝突で逮捕者49名。反対派の負傷者10数名。
- 3月1日:「横堀要塞」前で現地集会が開催され、反対同盟が「3月開港阻止決戦突入」を宣言。「横堀要塞」付近の検問で反対派2名が逮捕。
- 3月23日:機動隊が、反対派の「開港阻止決戦」に備えて、1万4千人の配置をほぼ終える。反対派2名が検問で逮捕。
- 3月26日:開港四日前の成田空港に空港反対派4千人が突入し、地下道に潜んでいた15人の行動隊が管制塔を占拠し、通信機器を破壊した(成田空港管制塔占拠事件)。
- 3月28日:閣議で開港の延期を決定する。福田首相は「世界に申し訳ないことになった」と語った。
- 4月2日:川上紀一千葉県知事が、反対同盟に対話を呼びかける。
- 4月17日:反対同盟が「逮捕者の全員釈放・開港延期と二期工事凍結・成田新法の撤廃と機動隊の撤退」を条件に「話し合いを拒まない」と態度を決定する。
- 5月5日:午前3時半頃、千葉県酒々井町の京成電鉄操車場で、空港特急スカイライナー4両が放火され全半焼(京成スカイライナー放火事件)。
- 5月18日:反対同盟が「開港阻止五日間戦闘」を開始する。
- 5月19日:中核派が千葉県八千代市の米本中継所をゲリラ活動によって破壊したが、翌日には復旧。
- 5月20日:反対派と機動隊の衝突とゲリラ活動が続く中、開港される。反対派の集会は、2万2千人が結集した。反対同盟は「百日戦闘宣言」を発した。第5ゲート前の反対派と機動隊の衝突で、48名が逮捕され、反対派の負傷者25名。
- 5月21日:航空機運航開始。京成電鉄空港線(京成成田駅 - 成田空港駅(現:東成田駅))が開業。京成上野駅からの特急スカイライナーが運行開始。
- 6月13日:3月26日の空港突入闘争で全身火傷を負った反対派支援の新山幸男が死亡する。
- 7月:新東京国際空港警備を目的として千葉県警察に新東京国際空港警備隊が創設される。
- 7月2日:反対同盟が「飛行阻止現地大集会」を開催。1万5千人の結集。第九ゲートから突入しようとした6名が逮捕され、デモ全体で44名の逮捕者。反対派の負傷者14名。
- 9月16日:反対派約800人が、「たいまつデモ」を行ない、着陸体勢に入った航空機に花火を命中させる。
- 1979年
- 11月2日:反対同盟代表・戸村一作が70歳で死去。11日に三里塚第一公園での追悼集会に3千人が参加。
[編集] 1980年代
- 1981年
- 5月1日:芝山鉄道株式会社が設立される。
- 6月7日:この日投票の芝山町長選挙に反対同盟は石井新二を擁立、大方の予想を大きく上回る1,804票を獲得したが落選。
- 8月18日:この日から23日まで、反対同盟の小川源を団長に石井武、秋葉哲、石井新二、熱田誠、加瀬勉らと支援者15人が、フランスのNATO軍事基地拡張反対闘争で名を馳せていたラルザック地方を訪問。反軍拡・反原発・反開発をテーマにした「ラルザック国際連帯討論集会」に参加して、ラルザック農民や西ドイツのフランクフルト空港拡張反対派住民、フランスのプロゴフ原発建設反対派住民、ポーランドの「連帯」、北アイルランドのIRAなどと交流し、講演や小川紳介監督の映画会などを開催して「三里塚闘争の国際的意義」を訴えた。
- 1983年
- 1984年
- 1985年10月20日:10.20成田現地闘争。千葉県成田市の三里塚交差点で反対同盟(北原派)支援グループと警視庁機動隊が衝突、機動隊員59名が負傷。241人を公務執行妨害等で現行犯逮捕した。成田空港反対運動終期の大規模な反対派と警察部隊の衝突であった。また同日、過激派が偽装消防車などで空港内に侵入し、施設の一部を破壊。
- 1986年
- 1987年9月4日:反対同盟(北原派)から用地内農民を中心に離脱。新たに「小川派」が結成される。
- 1988年
- 3月19日:開港以来の国際旅客1億人達成。
- 9月21日:当時千葉県収用委員会会長だった弁護士の小川彰が、千葉市内の路上でフルフェイスのヘルメットをかぶった数人に襲われる。小川弁護士は全身を鉄パイプやハンマーで殴られ、両足と左腕などを複雑骨折する重傷を負う(千葉県収用委員会会長襲撃事件)。このテロに中核派は犯行声明を出し、「収用委員会解体闘争」と称して収用委員全員の住所と電話番号を機関紙『前進』に掲載して、組織的に脅迫じみた手紙や電話などを送り続けた。翌月には収用委員全員が辞任、千葉県収用委員会は完全な機能停止に陥る。
- 10月7日:空港公団内に「用地交渉推進本部」が発足する。
- 1989年
[編集] 1990年代
- 1990年
- 1月30日:江藤隆美運輸大臣と反対同盟熱田派農民が現地で公開会談を行う。
- 5月15日:反対同盟熱田派がパンフレット『20年が過ぎた成田事業認定-私たちは政府と公開論争を続けています』を発行。
- 8月22日:政府・公団は成田新法に基づき「三里塚闘争会館」を撤去。
- 9月28日:開港以来の国際旅客1億5千万人達成。
- 10月15日:政府・公団は成田新法に基づき「大清水団結小屋」を撤去。
- 11月1日:「地域振興連絡協議会」が発足。
- 11月6日:開港以来の発着回数が100万回達成。
- 11月27日:政府・公団は成田新法に基づき「横堀団結の砦」を撤去。
- 12月20日:東京高等裁判所は77年5月8日の衝突で死亡した東山薫の死因について、一審判決を破棄して機動隊によるガス弾の頭部直撃によるものと認定し、千葉県に3,940万円の賠償命令判決を下す。千葉県は不服として27日に最高裁判所に上告したが、最高裁は96年に県側の上告を棄却。
- 1991年
- 1月18日:開港以来の航空貨物取扱量1千万トン達成。
- 3月19日:成田線成田駅 - 成田空港駅、京成本線京成成田駅 - 成田空港駅が開業。
- 4月9日:地域振興連絡協議会が空港公団、千葉県、ならびに反対同盟三派に、公開シンポジウム参加を申し入れる。熱田派は「強制収用放棄の再確認」を含む五条件を提示。翌日、北原派は「シンポに協力する脱落派を徹底糾弾する」と声明を発表。小川派は20日にシンポ不参加を声明。
- 8月1日:二期区域エプロン一部供用開始。
- 8月10日:二期用地内で、地元有志企画による『三里塚・都はるみ・星空コンサート』が開催される。
- 11月21日:第1回成田空港問題シンポジウム開催(以後15回開催)。
- 1992年
- 1993年
- 1994年
- 1995年4月8日:開港以来の国際旅客2億5千万人達成、第2サテライト供用開始、第1旅客ターミナル改修開始。
- 1996年
- 1997年
- 1998年
- 1999年
[編集] 2000年代
- 2000年
- 4月1日:コージェネレーションシステム導入・運用開始。
- 7月7日:第1ターミナルビル第2サテライト供用開始。
- 2001年10月31日:暫定平行滑走路の完成。
- 2002年
- 4月18日:2本目の滑走路・暫定平行滑走路の供用開始。東峰地区で空港反対同盟「熱田派」と「北原派」がそれぞれ終日抗議行動を展開。
- 5月13日:回転翼航空機(ヘリコプター)の受け入れ条件を一部緩和。
- 9月25日:第2旅客ターミナルビルスイングゲートの供用開始。
- 5月27日:第2旅客ターミナルビル出発ロビー北側増築部(Wカウンター・Yカウンター)の供用開始。
- 10月16日:空港南口ゲートの供用開始。
- 10月27日:芝山鉄道の供用開始。
- 10月27日:日本の市民団体の招きで来日したフランスの酪農家で社会運動家ジョゼ・ボヴェが、熱田一宅や石井武宅などのいくつかの空港反対派農家を訪問する。反対同盟は、1980年代にボヴェの故郷で軍事基地反対運動が起こっていたフランス・ラルザック地方を訪問したことがある。
- 12月1日:暫定平行滑走路の反対派農家の未買収地を残して建設された「くの字誘導路」上で航空機同士の接触事故が発生。
- 12月16日:第1旅客ターミナル第3サテライトの供用開始。
- 2003年
- 1月20日:新東京国際空港の改称「成田国際空港」及び新会社「成田国際空港株式会社」の名称について扇千景国土交通大臣へ要望書を提出。
- 1月27日:午後9時49分に、韓国仁川国際空港発のエアージャパン908便(乗客・乗員102人、ボーイング767-300型)が暫定滑走路南端から70メートルオーバーランし、航空灯火に激突するという事故が発生した。
- 4月17日:第2旅客ターミナルビル北側及び地上通路沿いのスポットの供用開始。
- 5月29日:開港以来の航空貨物取扱量3千万トン達成。
- 7月10日:千葉県収用委員会会長襲撃事件で負傷した小川彰弁護士が事件の後遺症を苦に福岡で入水自殺した。
- 11月17日:航空燃料輸送量1億kl達成。
- 2004年
- 2005年
- 6月8日:開港以来の発着回数が300万回達成。
- 7月15日:暫定平行滑走路を本来の計画とは逆の北側延伸で、北側一雄国交相と成田国際航空会社・社長が同意。
- 11月11日:1978年に管制塔を占拠した元活動家16人は、政府などから事件の損害賠償を求められ、1995年に判決が確定するも支払いを拒否していたため、2005年になって給料を差し押さえられた。元同志らのカンパ運動により、賠償請求額と利息の合計約1億300万円を支払う。
- 11月18日:旧新東京国際空港公団発注の成田空港電気設備工事で、空港公団主導による受注調整など官製談合の疑いが浮上、関わった電機企業各社と成田国際空港会社が東京地検の捜索を受ける。
- 2006年
- 2007年
- 4月23日:成田国際空港会社は暫定平行滑走路の誘導路新設に伴い、滑走路南東側の「東峰の森」(約10ヘクタール)で計画していた樹木の伐採作業に着手。空港会社の発表によると、作業は6月末まで行い、4ヘクタールの森林で伐採を行う計画。
- 5月22日:成田国際空港会社の社長人事で、政府は6月下旬に任期満了を迎える黒野匡彦社長の後任として森中小三郎・住友商事特別顧問を充てる方向で最終調整に入った。民営化前の新東京国際空港公団時代も含めトップに民間人を起用するのは初めて。同社の社長人事では、民間人を起用したい首相官邸が国土交通省が打診した元運輸事務次官の黒野の再任案を拒否した一方で、自民党千葉県連や地元の成田市が黒野の続投を要請しており、首相官邸筋と地元の対立が表面化した。
- 6月14日:東京高裁は、暫定平行滑走路の誘導路建設に伴う樹木伐採問題で、伐採禁止を求めた東峰地区住民の主張を退けた千葉地裁決定を支持し、住民の即時抗告を棄却。
- 2008年
- 2009年
- 3月23日:アメリカの貨物機・フェデックス機が着陸時に突風に巻き込まれて墜落、炎上。操縦士ら2名が死亡した。開港以来、初の空港における死亡事故となった。
- 7月9日:森田健作千葉県知事が定例会見で、成田空港の未買収地について、用地内の地権者に対して「早い段階で訪問したい」と述べ、直接面会する考えを示す[1]。
- 7月30日:成田空港のB滑走路とターミナルビルがある駐機場を結ぶ「東側誘導路」が供用を開始した。
- 9月17日:成田国際空港株式会社は、未買収用地取得を進めるため、現在空港反対派らが持つ「一坪運動共有地」と「土地」を空港会社へ売却を求める訴訟を千葉地裁に起こす方針を固めた[2]。
- 10月22日:B滑走路が2500mに延伸され、供用開始。
- 2010年
- 2011年
- 6月23日 - 成田国際空港株式会社が航空科学博物館敷地(駐車場)内に、成田空港問題の史実や反対派のヘルメットなどを展示した資料館「成田空港 空と大地の歴史館」を建設し開館。
年表(2001年まで)作成に伴う参考文献
- 『三里塚野戦病院日記』 郡山吉江 著 柘植書房
- 『三里塚アンドソイル』(2001年) 福田克彦 著 平原社 など
[編集] 着陸帯、滑走路、誘導路及びエプロンの数値の推移
| 供用開始期日 又は廃止期日 |
着陸帯 長さ・幅(m) |
滑走路 長さ・幅(m) |
誘導路 延長(m) |
エプロン 面積(m2) |
備考 | |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 新東京国際空港(供用開始前・予定) | ||||||
| 1971年(昭和46年) | 4月1日 | A 長さ4,120 幅300 |
A 長さ4,000 幅60 |
30,117 | 1,907,763 | 昭和41年運輸省告示第397号 |
| 1974年(昭和49年) | 4月1日 | B 長さ2,620 幅300 |
B 長さ2,500 幅60 |
|||
| C 長さ3,320 幅300 |
C 長さ3,200 幅60 |
|||||
| 新東京国際空港(供用開始後) | ||||||
| 1978年(昭和53年) | 5月20日 | 長さ4,120 幅300 |
長さ4,000 幅60 |
12,090 | 1,182,910 | 空港供用開始(当初の予定は3月30日) |
| 1979年(昭和54年) | 2月25日 | 1,231,580 | ||||
| 1980年(昭和55年) | 7月10日 | 12,330 | ||||
| 1983年(昭和58年) | 8月4日 | 1,243,230 | ||||
| 1985年(昭和60年) | 5月9日 | 1,302,040 | ||||
| 1988年(昭和63年) | 5月16日 | 1,317,180 | ||||
| 6月2日 | 12,680 | |||||
| 7月28日 | 1,325,070 | |||||
| 1990年(平成2年) | 4月1日 | 1,333,444 | ||||
| 1991年(平成3年) | 5月2日 | 13,497 | ||||
| 8月1日 | 1,531,182 | 第2期工事区域エプロンの一部供用開始 | ||||
| 1992年(平成4年) | 4月23日 | 13,898 | ||||
| 8月1日 | 1,540,148 | |||||
| 10月31日 | 14,595 | 1,903,336 | 第2旅客ターミナルビル供用開始(12月6日)に備えた拡張 | |||
| 11月12日 | 15,116 | |||||
| 1993年(平成5年) | 6月24日 | 15,079 | ||||
| 11月11日 | 15,895 | 1,903,713 | ||||
| 1995年(平成7年) | 12月7日 | 1,906,155 | 梅の木共有地の解消 | |||
| 1997年(平成9年) | 10月9日 | 15,858 | ||||
| 1999年(平成11年) | 12月2日 | 16,048 | ||||
| 2001年(平成13年) | 2月5日 | 16,560 | ||||
| 4月19日 | 17,117 | |||||
| 10月4日 | 17,289 | |||||
| 2002年(平成14年) | 4月17日 | B' 長さ2,300 幅150 |
B' 長さ2,180 幅60 |
21,467 | 1,908,627 | 新滑走路記念便に限り着陸帯B′及び滑走路B′供用開始 |
| 4月18日 | 25,304 | 1,932,651 | 着陸帯B′及び滑走路B′正式供用開始(当初の予定は5月20日) | |||
| 5月16日 | 1,970,056 | |||||
| 6月13日 | 25,709 | |||||
| 8月8日 | 25,742 | |||||
| 12月26日 | 2,002,036 | |||||
| 2003年(平成15年) | 2月20日 | 25,947 | 2,011,928 | |||
| 4月17日 | 25,769 | 2,094,368 | ||||
| 10月30日 | 26,395 | |||||
| 12月25日 | 26,081 | 2,158,359 | ||||
| 2004年(平成16年) | 2月19日 | 27,351 | ||||
| 成田国際空港 | ||||||
| 2004年(平成16年) | 11月25日 | 26,860 | 2,112,606 | 第1旅客ターミナルビル第4サテライト供用開始 | ||
| 2005年(平成17年) | 3月17日 | 26,530 | 2,126,248 | |||
| 8月4日 | 26,334 | 2,135,308 | ||||
| 9月1日 | 26,310 | |||||
| 9月29日 | 26,268 | |||||
| 2006年(平成18年) | 2月16日 | 25,509 | 2,187,013 | |||
| 5月11日 | 2,180,368 | |||||
| 6月8日 | 25,579 | |||||
| 2007年(平成19年) | 6月7日 | 2,182,858 | ||||
| 10月25日 | 25,392 | |||||
| 11月22日 | 2,186,488 | |||||
| 2008年(平成20年) | 9月25日 | 26,078 | ||||
| 10月23日 | 2,190,677 | |||||
| 2009年(平成21年) | 1月15日 | 26,284 | ||||
| 5月7日 | 27,388 | |||||
| 7月30日 | 29,997 | 2,194,385 | ||||
| 10月22日 | B' 長さ2,620 | B' 長さ2,500 | 30,280 | 2,216,005 | 着陸帯B'及び滑走路B'の北側延長部分供用開始 | |
| 2010年(平成22年) | 2月11日 | 2,248,054 | ||||
| 3月11日 | 2,282,782 | |||||
| 7月29日 | 29,882 | 2,298,687 | ||||
| 2011年(平成23年) | 3月10日 | 29,869 | ||||
| 6月30日 | 2,330,426 | |||||
- 「又は廃止期日」とあるのは、転用・変更等により短縮・縮小される部分は廃止扱いとなるため。
- 供用開始前の計画上の誘導路の延長及びエプロンの面積の数値については、各滑走路に対応する分がそれぞれ各滑走路とともに(1971年と1974年に分けて)供用開始となるとされていたが、その内訳は告示されなかったため、本表では一つのセルに全延長及び全面積をそれぞれまとめて表示した。
- 1978年供用開始時の告示では、「A」を付さずに単に「着陸帯」及び「滑走路」と表記されたため、本表ではこれに倣って「A」を省いたが、その内容は当然に着陸帯A及び滑走路Aに係るものである。
- ダッシュ(プライム)の付された着陸帯B'及び滑走路B'は、2001年11月30日までに着陸帯B及び滑走路Bを完成させることが困難な場合を想定し、暫定的な施設として認可されたものである。
[編集] 成田空港問題を扱った作品
[編集] 漫画
[編集] 映画
小川紳介監督作品
- 日本解放戦線 三里塚の夏(1968年)
- 日本解放戦線 三里塚(1970年)
- 三里塚 第三次強制測量阻止斗争(1970年)
- 三里塚 第二砦の人々(1971年)
- 三里塚 辺田部落(1973年)
- 三里塚 五月の空 里のかよい路(1977年)
その他
- 鹿島パラダイス(1972年、ベニー・デスワルト、ヤン・レ・マッソン共同監督、フランス作品)
- 抵抗の大地(1971年、反対同盟製作)
- 大義の春(1978年、関西三里塚闘争に連帯する会製作)
- 草とり草子(1985年、福田克彦監督)
[編集] 参考文献
- 宇沢弘文『「成田」とは何か―戦後日本の悲劇』岩波書店 1992年 ISBN 4-00-4302161
- 隅谷三喜男『成田の空と大地』岩波書店 1996年 ISBN 4-00-001546-X
[編集] 脚注
- ^ 千葉県 (2009-07-09), “知事定例記者会見概要 質疑応答”, プレスリリース 2011年6月14日閲覧。
- ^ 成田の一坪共有地売却求め提訴へ 空港会社、反対派相手に(2009年9月17日 メディアジャム)
- ^ 「成田空港:団結小屋の撤去を命令、地上権認めず…千葉地裁」 (2010年2月25日 毎日jp(毎日新聞))[リンク切れ]