東峰十字路事件
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東峰十字路事件(とうほうじゅうじろじけん)とは、1971年(昭和46年)9月16日に成田空港建設予定地であった反対派の土地に対して、千葉県による第二次行政代執行が行われた際に、警備にあたっていた警察部隊と空港反対派との衝突により警察官3名が死亡した事件である。
この事件で空港建設に反対していた農民組織である三里塚空港反対同盟の青年行動隊員の多数が逮捕、55名が起訴されたが、十数年の裁判を経て3名が無罪、52名が執行猶予付の懲役刑となり実刑判決は無かった。これは、当初から警察官への襲撃に全く関わっていなかったか、襲撃に関与していても、多人数による騒乱状態の中で行われたため、誰が誰に対し、どのような行為をしたか、具体的に警察や検察が証拠を提示できなかったことが理由として挙げられる。
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[編集] 事件経過
[編集] 対峙
第二次行政代執行警備のため、千葉県警代執行警備本部は千葉県警機動隊の他、警視庁機動隊、関東管区機動隊など、総勢5000人の部隊を動員した。
当日、早朝6時45分に代執行が宣言され、行政代執行法に基づき、警備部隊は一坪地主の土地から退去せず座り込みを続ける日本社会党議員らと、反対派農民と支援学生(左翼セクトを含む)が「砦」と呼んでいた3カ所の団結小屋に立て篭もる空港反対派を排除するすべく、行動を開始した。
[編集] 衝突
行政代執行が開始されると、関東管区機動隊2個大隊は二手に分かれ、一方は座り込みを続ける社会党議員の排除を、もう一方は、主に反対同盟員が篭城していた木ノ根団結小屋の包囲・制圧を開始し、数十分で制圧した。
千葉県警察機動隊は、天浪団結小屋の制圧を開始したが、篭城する学生らの激しい抵抗に遭遇した。しかし正午までに、この団結小屋を制圧した。
また午前8時35分頃には、駒井野団結小屋の南西側の大清水地区でも、警視庁第9機動隊と学生たちが衝突。学生側が投擲した爆発物により同隊の中隊長(警部)の橋本らが負傷した。
警視庁機動隊による部隊は最大の「砦」である、駒井野団結小屋の制圧を開始。ここでも学生らの激しい抵抗に遭遇するが正午頃、一部の部隊が団結小屋内部への突入に成功。午後2時頃までに制圧した。
しかし、実はこれらの団結小屋に篭城していた反対派農民と支援学生の数は、総勢でも500人程度で、反対派農民と学生の主力約2000人は、鉄パイプ等を所持して、数百人単位の「ゲリラ部隊」を編成し、空港建設予定地周辺の農家や茂み、草むらの中に潜んでいた。
空港反対派は1971年3月、7月に行った行政代執行阻止闘争の経験から、全員が団結小屋やほら穴に立て篭もる戦術から、「ゲリラ部隊」によって後方警備の阻止線を突破し、機動隊の規制で足止めされていた、当時数千人単位で現地に駆けつけていた成田周辺の一般市民(もしくは野次馬)と篭城部隊を合流させるという戦術に転換していた。
「ゲリラ部隊」は代執行が開始された午前6時45分頃から、団結小屋周辺の後方警備を担当する部隊を次々と襲撃した。
本警備実施のために千葉県へ応援派遣された神奈川県警察特別機動隊(神奈川連隊)第2大隊(大隊長は神奈川警察署次長の堀田(警視)で、堀田大隊と呼称されていた)は、団結小屋の包囲部隊の外側で、後方警備や、道路封鎖を実施していた。
同大隊約240人は当日、午前4時前に集結地点であった川崎臨港署を出発し、代執行が宣言される直前の午前6時30分頃、小見川街道の東峰十字路に到着。十字路付近の草むらの中に空港反対派の武器、爆発物などが隠されているとの情報に基づき、検索のため十字路を中心に第2中隊が西側に、第3中隊が東側に、第1中隊が二手に分かれて南北に展開した。
大隊が展開を終了すると、突然、部隊を包囲するかのように、十字路周囲の藪の中から、700人以上の空港反対派が一斉に現れ、大隊を襲撃した。
特に十字路の北側に展開し、不意をつかれた第1中隊第1小隊(小隊長は福島誠一警部補、神奈川警察署外勤第一課係長、当時47歳)は、200人以上の空港反対派に包囲されて孤立してしまう。
第1中隊第1小隊からの救援要請の無線を傍受した大隊本部は、警備本部に対して無線で救援部隊を要請するとともに、検索中の第2、第3中隊を包囲された第1中隊第1小隊の救援に向かわせようとしたが、他の中隊や大隊本部も襲撃を受け指揮系統が混乱し、大隊は総崩れとなり、十字路の南側に退却を余儀なくされた。
この襲撃により、大隊長の堀田が腕を骨折したのをはじめ、大隊全体で80名以上が重軽傷を負った。
救援が来ないまま、完全に孤立した第1中隊第1小隊は、空港反対派の包囲網から激しい襲撃を受けた。
これにより、小隊長福島誠一(警部補)、第1分隊長柏村信治(巡査部長、神奈川警察署外勤第一課主任、当時35歳)、隊員森井信行(巡査、神奈川警察署外勤第一課、当時24歳)の3名が殺害(火炎瓶による全身火傷と殴打)され、他の隊員20名以上が重傷を負い、部隊は壊滅状態となった。
午前7時15分頃に、大隊本部からの救援要請の無線を傍受した警備本部は、警視庁第2機動隊を第1中隊第1小隊の救援に向かわせたが、警視庁第2機動隊が東峰十字路の北側へ到達した時には、空港反対派は撤収した後であった。
また第2大隊のうち36名は、一時的に空港反対派によって連行されたが、警視庁第2機動隊によって救出された。
事件当時、神奈川県警察では常設の警備部第一、第二機動隊の他、関東管区機動隊が設置されており、関東管区機動隊も行政代執行警備に派遣されていた。
関東管区機動隊員は、平素は地域部集団警ら隊として、各警察署で活動に従事するが、定期的に集合して部隊訓練を行っており、第一、第二機動隊と同様に、錬度の高い部隊である。
一方、堀田大隊は、隊長は機動隊勤務の経験が無く、隊員は刑事、防犯、交番、パトカー勤務の若手警察官により臨時編成された特別機動隊であり、装備も不十分な後方支援部隊であった。
この事件は結果として、常設の精鋭部隊が行政代執行の最前線で警備実施をしている間に、後方支援にあたっていた臨時編成部隊が襲撃され、全滅するという構図であった。
また、代執行時には、警視庁航空隊のヘリコプター2機が上空から空港反対派の襲撃を警戒していたが、東峰十字路付近を警戒中だったヘリコプターの無線機が飛行中に故障したため、反対派の襲撃隊の動静を警備本部が把握できなかったことも被害を大きくした要因であった。
[編集] 捜査・裁判
実行犯である空港反対派については身元の特定が出来ず、捜査当局は地元住民で空港建設に反対していた空港反対同盟青年行動隊員多数を逮捕、55名を起訴した。1986年10月4日、警察官3名が死亡した東峰十字路事件の判決で、千葉地裁は判決文で「地元農民の理解と協力を求めようとする姿勢が十分だったとは思われない」「新空港建設に反対する心情は理解できない訳ではない」として、 55名の被告のうち3名が無罪、52名が執行猶予付の懲役刑となった。実刑判決はなかった。この捜査については、警察官を殺傷された報復として証拠不十分なままに起訴した、意図的な冤罪事件とする指摘もある。

