森恒夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

森 恒夫
生年: 1944年
没年: 1973年
思想: マルクス主義
活動: 山岳ベース事件ほか
所属: 連合赤軍
投獄: 東京拘置所
裁判: 獄中自殺の為、結審せず
  

森 恒夫(もり つねお、1944年12月6日 - 1973年1月1日)は、連合赤軍中央委員会委員長

目次

[編集] 経歴

高校は大阪府立北野高校出身。高校時代は剣道部に所属した。父は大阪市交通局に勤務していた路面電車(大阪市電)の運転士。幼少より、在日コリアンの問題に関心があったという。

大阪市立大学中国語学科在学中に学生運動に飛び込み、共産主義者同盟関西派に参加し、田宮高麿の忠臣になった。1965年11月、日韓条約批准阻止デモに参加し逮捕されている。1969年の7月6日の明大和泉校舎での関東派襲撃事件では直前で敵前逃亡をし、大阪に戻る。その後復帰を許され、共産主義者同盟関西派から分裂・先鋭化した赤軍派に参加。

1969年から1970年にかけて、赤軍派幹部を含む活動家が逮捕されあるいは海外の「国際根拠地」に移動すると、三里塚闘争で黙々と拠点作りをしていた森恒夫の名を挙げられ、塩見孝也により森は政治局員に昇進。やがて国内赤軍派の獄外最高幹部であった京大生・高原浩之が逮捕されると国内赤軍派の獄外メンバーの事実上のリーダーとなり、M作戦(金融機関強盗)などを指揮した。1971年より京浜安保共闘との連携を指導し、やがて統一組織連合赤軍を結成した。

山岳アジトの軍事訓練に永田洋子率いる革命左派出身のメンバーたちが水筒を持参しなかったことを批判。赤軍派が主導権を握ることに成功し、連合赤軍最高幹部となる。その後も山岳ベースを転々とする中で、「総括」と称する暴力行為によって、永田洋子と二人で独裁体制を固め、12人の同志を殺害する山岳ベース事件を指揮した。1972年2月17日、永田洋子とともに一度下山した後活動資金を持ってキャンプに戻ろうとしたところを警察に発見され、ナイフを振りかざして警官隊の群れの中に突入し、警官を刺したが制圧され、揃って逮捕された。

1973年元日、拘置所独房首吊り自殺しているところを発見された。発見時まだ心臓はかすかに動いており、ただちに蘇生措置が講じられたが、心臓は間もなく停止、死亡した。28歳。塩見孝也坂東國男宛に遺書が残されており、発見された遺書には「自己の責任の重さに絶望…自らに死刑を下す」と綴られていた。

逮捕されてからは、キリスト教に関心を示していたという。

[編集] 死後の評価

葬儀は三日後に駒込のキリスト教会で行なわれた。葬儀には赤軍派関係者、救援運動家などが参加したが、赤軍派創設時の指導者らが生前に拘置所へ面会に行かなかったことなどに対し、救援関係者が彼等に抗議する場面などもあり、森=連合赤軍への評価をめぐる混乱が浮き彫りにされた。

2001年公開の映画「光の雨」では森をモデルにした最高幹部、倉重鉄太郎を山本太郎が演じている(厳密には劇中劇の扱い)。一方、関係者の大半を実名で描いた2008年公開の映画「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」では地曵豪が森の役を演じている。

[編集] 逸話

  • 森の死の当日、当時の人気歌謡番組だった「夜のヒットスタジオ」元日特番生放送の本番中に、(当時は日本共産党支持者であることを公にしていなかった)司会の前田武彦が、森の死を罵詈雑言混じりに伝えるというハプニングがあった。
  • 森の死を獄中で聞いた永田洋子は「ずるい!」と絶叫したという。
  • 性格的には優柔不断で、また、有名大学出身の同志を疎んじた。

[編集] 著書

  • 『銃撃戦と粛清』新泉社

[編集] 関連項目

他の言語