山岳ベース事件
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山岳ベース事件(さんがく―じけん)とは1971年から1972年にかけて連合赤軍が起こした同志に対するリンチ殺人事件。当時の社会に強い衝撃を与え、同じく連合赤軍の起こしたあさま山荘事件とともに日本の新左翼運動が退潮する契機となった。
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[編集] 概要
1960年代以前の日本では学生や労働者による政治運動や政治活動が盛んであったが、1970年頃より下火となっていった。70年代初頭にはまだ国民の間に庶民感情が強く、彼らに同情的な側面もあったが、活動の過激化の果てに金融機関を狙った現金強奪事件や交番襲撃事件などを起こすにいたり、一般市民の気持ちは遠のいていった。警察は一段と極左集団に対しては、全面対決姿勢をとるようになる。そうした時流や風潮に納得できない一部の若者らが、追い詰められた挙句、より過激な左翼的活動を先鋭化させた。さらには銃などで武装するなど非合法手段をもって革命を目指す過激集団が複数誕生したが、連合赤軍もその一つであった。そのメンバーの一部が仲間を短期間に殺したのが、この山岳ベース事件であった。「総括」と称するリンチで12名を殺戮したため、自ら集団を矮小化させたが、その残党である5名が軽井沢の別荘「あさま山荘」に立てこもり、警察と銃撃戦を繰り広げ、警官2名と民間人1名を射殺した事件が「あさま山荘事件」である。
[編集] 連合赤軍の山岳ベースへの集合
当時、連合赤軍は、テロを行ったメンバーの多くが指名手配されるなどして都市部で自由な行動ができなくなっていた。そこで、警察の目の届かない山岳地帯に「革命戦士」となるための軍事教練や今後のテロ作戦のための拠点として、神奈川県の丹沢山地および群馬県内の榛名山や妙義山の周辺に、廃屋などを利用したアジトを複数設営し、これを「山岳ベース」と呼称した(名称は「榛名ベース」のように「地名+ベース」で呼ばれた)。これらのベースは1971年に丹沢山地に第一号が設営され、同年11月頃からメンバーが榛名ベースに大挙集合して軍事教練を行った。山岳ベースに集まったメンバーは合計29人(内女性は10人)いた。
[編集] 総括開始
山岳地帯に逃げ込んで警察の捜査網から一時的に逃れたメンバーたちであったが、地元住民に不審な行動を通報されたことによって、警官隊の山狩りが開始された。その最中の1971年12月頃から「総括」と称して内部でメンバーに対する批判や自己批判の強要が行われるようになり、それがエスカレートして粛清に発展した。粛清の多くは榛名ベースで行われ、山狩りによって榛名ベースを放棄して妙義ベースに移ってからも行われた。「総括」の対象者は連合赤軍幹部の森恒夫と永田洋子の2人が独断で決定した。
[編集] 総括
総括とは、本来は過去を振り返る「反省」を意味した。当時の左翼の政治運動家の間で好んで使われた思考法である。しかし、連合赤軍では次第に総括が儀式化し、実態は私刑と化していった。連合赤軍の実質的リーダーであった森恒夫と永田洋子の2人は「殴ることこそ指導」と考えていた。殴って気絶させ、目覚めたときには別の人格に生まれ変わり、完全な共産主義を受け入れ真の革命戦士になれるという論理を展開し、部下にも強いたが、絶対的上下関係の中ではその思考は疑うことができないままに受け入れられるしかなかった。総括はあくまでも援助であり、「お前のためなんだぞ」といいながら殴り倒した。メンバーの一人は「俺のことを小ブル主義者と呼んだだろ」と口走ったことで、個人的な怨みで総括を行っているとして、総括要求された。散々殴られたうえにロープで吊るされ、さらに激しい暴行を加えられ、1971年12月31日死亡した。メンバーは総括で予期せぬ死者を出したことに一時は動揺したが「総括できなかったための敗北死」と解釈し、さらに総括をエスカレートさせた。
[編集] 虐殺
「総括」は建前は相手を「革命戦士として自ら更正させる」ことを目的としており、周囲のものが暴力をふるうことは「総括援助」と称して正当化された。その際のリンチは非常に凄惨で、激しい殴打を伴った。女性は逃亡を防ぐためとして髪を切られ、被害者らの死因は殴打による内臓破裂や、氷点下の屋外にさらされたための凍死であった。
森や永田を不快に思った発言をした幹部メンバーには言い掛かりをつけ「死刑」を宣告した。「死刑」の際、参加しなかった幹部メンバー1人も同様に「死刑」にされた。この「死刑」は「総括」とは異なり、相手を殺害することを目的としたもので、アイスピックやナイフで刺された後に絞殺された。森や永田に睨まれたら殺されるという考えがメンバー全員にあったことが、関係者による回想からうかがわれる。
1971年12月末からの約2ヶ月半の間に死亡したメンバーは12人(内女性は4人)にも上った。死亡者の中にはメンバー同士で恋仲だったり、兄弟であったりしたものもいた。中には妊娠8ヶ月の女性メンバーもいた。遺体はすべて全裸で土中に埋められ、榛名ベースは放火されるなど証拠隠滅が図られた。
[編集] 警察による捜査
1972年2月16日に、下山していたメンバー2人が発見され、逮捕される。森と永田は一度下山した後活動資金を持ってキャンプに戻る途中で、山狩り中の警官隊に発見され、2月17日に逮捕される。包囲網を突破した残党もやがて発見され、追跡劇の末にあさま山荘事件を起こして抵抗をするも2月28日に逮捕される。その後、山岳ベースから逃亡していた4人のメンバーが出頭した。
同じ頃、警官隊の山狩りの結果、山岳ベースの一つ、迦葉山ベースが発見される。焼けてしまった榛名ベースと違い、大量の証拠品が残されていた。迦葉山ベースで警察は、糞尿にまみれ、さらに切断された衣服を発見、証拠品として押収した。人間は、窒息などの死亡時、糞尿を垂れ流す。さらに、死後硬直した死体から衣服を脱がすにはナイフなどで切断するしかない。つまり、この衣服がここで「殺人」が起こった証拠品となった。
[編集] 事件発覚
そして3月、逮捕された連合赤軍メンバーが供述した事で、事件の全貌が明らかになった。2ヶ月足らずの間に同じ組織に属する者を12人も殺害した凄惨な事件は、社会に衝撃を与えた。
あさま山荘事件終結後も、日本社会党の議員や左派系マスメディアの中には、犯人を擁護する者がいた。しかし、あさま山荘事件直後に明らかとなった山岳ベース事件によって、赤軍を擁護した者の面目は丸つぶれとなった。左派は一気に手の平を返し、赤軍を批判する側へと回った。
日本国内では、これまで左翼運動を否定的に見ていた人間はもちろん、左翼運動を好意的に見ていた人間も、この事件の異常性から左翼を嫌悪するようになっていった。連合赤軍に同調する世論は、一気に縮小した。
森と永田が逮捕されずにメンバーと合流していれば、「緊縛されたメンバーを庇って縄を勝手に解いた」としてナンバー3であった坂口弘が次の「総括」対象者だった(なお、坂口が庇ったメンバーは再度緊縛されて後に死亡した)。
残った連合赤軍メンバー17人は全員逮捕された。1973年1月に森恒夫が自殺、1975年8月に坂東國男がクアラルンプール事件で超法規的措置で釈放・国外逃亡した。裁判で永田洋子と坂口弘は死刑、吉野雅邦は無期懲役が確定した。2008年現在、永田と坂口は死刑確定囚として、東京拘置所に収監されている。
[編集] 死亡メンバー
| 死亡日 | メンバー | 学籍 | 旧所属 | 総括事由 | 死因 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1971年12月31日 | 尾崎充男(22歳男性) | 東京水産大学 | 京浜安保 | 12.18闘争の交番襲撃における日和見主義 | 凍死 |
| 1972年1月1日 | 進藤隆三郎(21歳男性) | 秋田高卒 | 赤軍派 | 総括不十分 | |
| 1972年1月1日 | 小嶋和子(22歳女性) | 市邨学園短期大学 | 京浜(中央)安保 | 接吻 | 凍死 |
| 1972年1月4日 | 加藤能敬(22歳男性) | 和光大学 | 京浜安保 | 接吻 | 内臓破裂 |
| 1972年1月7日 | 遠山美枝子(25歳女性) | 明治大学 | 赤軍派 | 総括不十分 | |
| 1972年1月9日 | 行方正時(25歳男性) | 岡山大学 | 赤軍派 | 不適切発言 | |
| 1972年1月17日 | 寺岡恒一(24歳男性) | 横浜国立大学 | 京浜安保 | 不適切発言・分派主義で死刑 | 窒息死 |
| 1972年1月19日 | 山崎順(21歳男性) | 早稲田大学 | 赤軍派 | 死刑不参加・分派主義で死刑 | 窒息死 |
| 1972年1月30日 | 山本順一(28歳男性) | 北九州大学卒 | 京浜(中央)安保 | 不適切発言 | |
| 1972年1月30日 | 大槻節子(23歳女性) | 横浜国立大学 | 京浜安保 | 永田の嫉み | 内臓破裂 |
| 1972年2月4日 | 金子みちよ(24歳女性) | 横浜国立大学 | 京浜安保 | 永田の嫉み | 全身打撲(妊娠8ヶ月) |
| 1972年2月12日 | 山田孝(27歳男性) | 京都大学 | 赤軍派 | 単独行動 | 凍死 |
[編集] その他
連合赤軍事件で殺人を正当化していく過程はオウム真理教内で麻原彰晃によりポアが本来の意味から外れて殺人を意味するようになった過程との類似性が指摘されることがある。
[編集] 関連項目
- 印旛沼事件
- 映画『光の雨』
- 映画『突入せよ! あさま山荘事件』
- 映画『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』

