山岳ベース事件

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山岳ベース事件(さんがくベースじけん)とは1971年昭和46年)から1972年昭和47年)にかけて連合赤軍が起こした同志に対するリンチ殺人事件。当時の社会に強い衝撃を与え、同じく連合赤軍の起こしたあさま山荘事件とともに日本の新左翼運動が退潮する契機となった。

目次

[編集] 概要

1960年代以前の日本では学生や労働者による政治運動政治活動が盛んであった。そんな中、学生を中心とした新左翼諸派は、1967年昭和42年)頃より急速にその活動を先鋭化させていった。新左翼の過激な闘争は当初社会の注目を浴びたが、一般市民の彼らの運動への気持ちは次第に遠のいていった。一方で警察は新左翼に対してより強硬な姿勢で臨むようになり、そうした時流や風潮に納得できない一部の若者たちは、より過激な活動を行うようになった。そのような最過激派の代表格が、1969年昭和44年)9月に公然と登場した共産主義者同盟赤軍派、及びほぼ同時期に過激な闘争を開始した日本共産党(革命左派)神奈川県委員会(京浜安保共闘)であった。同年10月の国際反戦デー闘争や同11月の佐藤首相訪米阻止闘争で新左翼主流武闘派や全共闘が壊滅し政治運動が穏健化する中、彼らはハイジャックやダイナマイト闘争などを行い、その活動をより先鋭化させていった。

1971年昭和46年)に入ると、革命左派は銃砲店を襲撃し銃で武装するようになり、赤軍派は金融機関襲撃による資金獲得を行うようになる。警察は彼らに対して一段と厳しく対決するようになり、一方の革命左派や赤軍派も警察に対する「殲滅戦」(殺害)を目指すようになった。一方、この頃から中核派等の新左翼主流派勢力やノンセクト・ラジカルも過激な闘争を復活・先鋭化させるようになり、交番爆破や、東峰十字路事件のような機動隊員の殺害事件も起こるようになった。

この頃、連合赤軍として共闘関係を結んでいた赤軍派と革命左派は、警察の厳しい追及によって活動に行き詰まり、「殲滅戦」においても他党派に遅れをとるようになった中、事態を打開するため共同の軍事訓練を行うこととなった。その最中、「総括」と称するリンチで短期間に30名弱のメンバー中12名を殺害し、自ら集団を弱体化させたのが、この山岳ベース事件である。その後、その残党である5名が軽井沢の別荘「あさま山荘」に立てこもり、警察と銃撃戦を繰り広げ、警官2名と民間人1名を射殺する「あさま山荘事件」を起こすことになる。

なお、1971年昭和46年)8月には革命左派において山岳ベースを脱走したメンバー2名を「処刑」する印旛沼事件が起こっており、同志殺害という一線は既に越えられていた。当時、この事件は両派幹部内での秘密であったが、革命左派の被指導部メンバーは少なからず、この「処刑」に感づいていたとされる。

[編集] 連合赤軍の山岳ベースへの集合

当時、連合赤軍の母体の一つである革命左派は、テロを行ったメンバーの多くが指名手配されるなどして都市部で自由な行動ができなくなっていた。そこで、警察の目の届かない山岳地帯に軍事教練や今後のテロ作戦のための拠点となるアジトを設置し、これを「山岳ベース」と呼称した(山岳ベースは、脱走者の発生、他人に目撃される等の事情で、各地を転々とした。名称は「榛名ベース」のように「地名+ベース」で呼ばれた)。連合赤軍のもう一つの母体である赤軍派も、都内アジトを拠点としつつ山岳ベースの設置を目指すようになった。1971年昭和46年)7月に名目上結成された連合赤軍は、同年12月初頭に赤軍派の新倉ベース(山梨県)で初の合同軍事教練を行った。その後12月20日頃から始まった革命左派の榛名ベース(群馬県)で行われた両派の指導部会議において「新党」の結成が宣言され、両派のメンバーが山岳ベースに集合することとなった。山岳ベースに集まったメンバーはのべ29人(内女性は10人)であった。

[編集] 総括開始

榛名ベースでの「新党」においては、「総括」と称する内部でのメンバーに対する批判や自己批判がエスカレートするようになった。総括対象者は最初は作業から外されるだけだったが、間もなく正座させられ、更には殴打に至り、ついには死者を出すまでになった。総括による犠牲者の多くは榛名ベースで出たが、その後脱走したメンバーが出たため移動した迦葉ベースでも複数の犠牲者が出た。メンバーのさらなる脱走で迦葉ベースを放棄して移った妙義ベースで最後の犠牲者が出た。「総括」の対象者は連合赤軍リーダーの森恒夫が決定した。

[編集] 総括

総括とは、本来は過去を振り返る「反省」を意味した。当時の左翼の政治運動家の間で好んで使われた思考法である。しかし、連合赤軍では次第に総括が儀式化し、実態は私刑と化していった。連合赤軍のリーダーであった森恒夫は「殴ることこそ指導」と考えていた。殴って気絶させ、目覚めたときには別の人格に生まれ変わり、「共産主義化」された真の革命戦士になれるという論理を展開し、仲間にも強いたが、絶対的上下関係の中でその思考は疑われることなく受け入れられていった。総括はあくまでも「援助」であり、「お前のためなんだぞ」といいながら殴り倒した。メンバーの一人は「俺のことを小ブル主義者と呼んだだろ」と口走ったことで、個人的な怨みで総括を行っているとして、総括要求された。散々殴られたうえにロープで吊るされ、さらに激しい暴行を加えられ、1971年昭和46年)12月31日死亡した。メンバーは総括で予期せぬ死者を出したことに一時は動揺したが、森はこれを「総括できなかったための敗北死」とし、総括を継続した。

[編集] 虐殺

「総括」は建前は相手を「革命戦士として自ら更生させる」ことを目的としており、周囲のものが暴力をふるうことは「総括援助」と称して正当化された。後に、暴力はそれをふるう側にとっても「総括」であるとされ、自身の「総括」のためにもより一層の暴力をふるうことが要求されるようになった。リンチは非常に凄惨で、激しい殴打を伴った。被害者らの死因は殴打による内臓破裂や、氷点下の屋外にさらされたための凍死であった。「総括」にかけられたメンバーのうち、少数は自身に暴力がふるわれていることに対して抗議めいた態度を示したが、多くはされるがままに暴力を浴び続けた。中には自ら殴られることを願い出たり暴力に対して感謝の言葉を述べる者もいた。

一部のメンバーは総括の見込み無しとして「死刑」を宣告された。「死刑」の際、参加しなかったメンバーも同様に「死刑」にされた。この「死刑」は相手を殺害することを目的としたもので、アイスピックやナイフで刺された後に絞殺された。

1971年昭和46年)12月末からの約2ヶ月半の間に死亡したメンバーは12人にも上った。死亡者の中にはメンバー同士で恋仲だったり、兄弟であったりした者もいた。中には妊娠していた女性メンバーもいた。証拠隠滅のため遺体はすべて全裸で土中に埋められ、榛名ベースは退却時に放火された。

メンバーの多くはこれらの虐殺を嫌がったが、「革命」のためには我慢しなければならないという意識で虐殺にかかわり続けたことが、関係者による回想からうかがわれる。

[編集] 警察による捜査

1972年昭和47年)2月16日に、下山していたメンバー2人が発見され、逮捕される。森と永田は一度下山した後、活動資金を持ってキャンプに戻る途中で山狩り中の警官隊に発見され、2月17日に逮捕される。包囲網を突破した残党もやがて発見され、追跡劇の末にあさま山荘事件を起こして抵抗をするも2月28日に逮捕される。その後、山岳ベースから逃亡していた4人のメンバーが出頭した。

同じ頃、警官隊の山狩りの結果、山岳ベースの一つ、迦葉山ベースが発見される。焼けてしまった榛名ベースと違い、大量の証拠品が残されていた。迦葉山ベースで警察は、屎尿にまみれ、さらに切断された衣服を発見、証拠品として押収した。人間は、窒息などの死亡時、屎尿を垂れ流す。さらに、死後硬直した死体から衣服を脱がすにはナイフなどで切断するしかない。つまり、この衣服がここで「殺人」が起こった証拠品となった。

[編集] 事件発覚

そして3月、逮捕された連合赤軍メンバーの供述をきっかけに、事件の全貌が明らかになった。僅か2ヶ月足らずの間に同じグループ内で12人も殺害した凄惨極まりない事件は、社会に大きな衝撃を与えた。

あさま山荘事件終結後も、日本社会党の議員や左派系マスメディアの中には、連合赤軍を擁護する主張・言動を続けていた者が少なからず見られた。しかし、あさま山荘事件とその直後に発覚した山岳ベース事件の真相と連合赤軍の実態が明らかにされるにつれて、連合赤軍を擁護した者たちの面目と社会的信用は丸つぶれとなった。かくて、左派として行動・主張してきた者たちも悉く一斉に手の平を返し、赤軍を批判する側へと回っていった。

日本国内では、これまで左翼運動を否定的に見ていた人間はもちろん、左翼運動を好意的に見ていた人間も、この事件によって左翼を嫌悪するようになっていった。それまで世論の一部に存在していた連合赤軍に同調する動きもまた、一気に冷却・縮小していった。

左翼党派においては、日本共産党革マル派は連合赤軍を強く非難し(日本共産党および革マル派は元々自党派以外の左翼党派を全否定しており、連合赤軍についても当初より全否定していた)、日本共産党は街宣車で連合赤軍を非難して回るなどした。日本共産党はこの事件を中国共産党批判に、革マル派は中核派批判に利用した。中核派は沈黙を守った。毛沢東主義諸党派もほぼ沈黙した。連合赤軍の母体の一つである革命左派は、一連の事件を「反米愛国路線の放棄」と総括し、自分たちの指導に従わなかったのが原因だとした。ブント系諸党派は発言と沈黙を繰り返した。蜂起派では激しい議論が起こり、情況派等でも議論が交わされた。RG派は一連の事件を新左翼全体に突きつけられた自分たち自身の問題とし、連合赤軍を支持した。連合赤軍のもう一つの母体である赤軍派では、連赤総括を巡って激論が交わされ、分裂状態に陥った。

[編集] その後

残った連合赤軍メンバー17人は全員逮捕された。1973年昭和48年)1月森恒夫首吊り自殺1975年昭和50年)8月坂東國男クアラルンプール事件超法規的措置で釈放・国外逃亡し、2011年現在も国際指名手配されている。裁判で永田洋子坂口弘死刑吉野雅邦は無期懲役が確定した。永田と坂口は死刑確定囚として東京拘置所に収監され、永田は2011年(平成23年)2月5日に脳腫瘍のために獄中死した。また共犯者が逃亡中であり裁判が終了していないので、残る坂口の死刑が執行される見通しは立っていない。確定順位は15位である。

連合赤軍事件によって世論の新左翼に対する好意的な見方は一気に縮小したが、その後新左翼主流派は血で血を洗う内ゲバにのめり込んでいった。内ゲバの凄惨さは、質においても量においても連合赤軍事件をはるかに上回るまでになり、学生運動・新左翼運動は殺人と同義と見なされ世間から更に見放されるようになった。

一連の連合赤軍事件後、山岳ベース事件でのリンチ殺人については、元連合赤軍メンバー全員が何の正当性もない犯罪行為と捉えているものと思われる。日本の左翼党派は、連合赤軍事件の他にも多くの殺人事件を起こしているが、殺人を犯した党派や実行犯は様々な理由をつけて自己正当化している場合がほとんどであり、当事者による事件の詳細な経緯の発表も当然行われておらず、事件の実態は闇の中となっている場合が多い。そのような中にあって、山岳ベース事件は事件を批判的に捉え返した詳細な記録が複数の当事者により発表されており、事件の実像に迫りやすいという点でも特異な事件である。

[編集] 事件の原因

山岳ベース事件における大量虐殺の原因については、様々な意見がある。

1979年石丸俊彦裁判長による判決文では、大量虐殺は「絶対的な権威と権力と地位を確保した森と永田が、その権威と権力と地位を維持確保せんとする権勢欲から、部下に対する不信感、猜疑心、嫉妬心、敵愾心により」行われたとされた。1982年中野武男裁判長による判決文ではこれに加え、更に永田について「女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味」が加わった、とした。

連合赤軍最高幹部の森恒夫は、一切の責任は自身と永田にあるとした。但し後に、革命左派(川島豪ら獄中指導部を含む)に事件の原因を求めることもしている。遺書では、革命左派の誤りを自身が純化させてしまった(革命左派内では適切な党運営により誤りが純化されることは無かった)のが原因だとしている。

連合赤軍幹部の永田洋子坂口弘坂東国男は、いずれも事件を主導したのは森恒夫だとしている。但し、森は権力欲から総括を行ったのではなく、自身の作った総括の理論にのめり込み、そこから抜け出せなくなったのだとしている。坂口は「極論すれば、山岳ベース事件は、森恒夫君の観念世界の中で起きた出来事なのであった。」と述べている。永田、坂口、坂東は、いずれもそれぞれの立場から石丸判決、中野判決を批判している。

事件の原因については、永田の他のメンバー(特に女性メンバー)に対する嫉妬が原因だとされることもある。連合赤軍被指導部の植垣康博は、当初そのような分析を行っていたが、永田にそうではないと指摘され取り下げている。

赤軍派と革命左派が両派の路線の違い(赤軍派は広義のトロツキズム、革命左派は毛沢東思想)を無視して野合したことに事件の原因を求める意見もある(植垣『兵士たちの連合赤軍』など)。これに対して坂東は、両派の路線は内実をなしていなかったとしている。

加藤倫教は自著で「あのとき、誰かが声をあげさえすれば、あれほど多くのメンバーが死ぬことはなかった」「しかし、私にはそれができなかった。それよりも「革命」という目標を優先し、それに執着してしまったのだ」と述べている[1]

2月上旬に脱走したメンバーは「主観的な行動とうすうす感じつつも武装闘争に殉じたいと思い、それを達成させるための「粛清」を違和感を感じつつも受け入れてしまった」「仲間を殺すことに耐えられなくなった時、私は脱落した」と述べている[2]

[編集] 事件の経過

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  • 1971年10月22日頃 - 赤軍派(森恒夫)と革命左派(永田洋子坂口弘寺岡恒一)、両派による共同軍事訓練の開催で合意。この時点で革命左派の山岳ベースは丹沢ベース、赤軍派は山岳ベース未設置。
  • 10月24日頃 - 革命左派のS・MとM・S子、丹沢ベースから脱走、名古屋で逮捕される(S・M脱走問題)。
  • 10月25日 - 革命左派、丹沢ベースを放棄し、大井川上流の井川への移動を開始。
  • 10月27日頃 - 革命左派、井川に到着。八木尾又付近の廃屋をアジトとする(井川ベース)。また、安倍川上流、牛首峠東の造林小屋を拠点に、さらに奥に小屋の設営を開始(牛首ベース)。
  • 11月1日 - 赤軍派、早川支流の黒柱河内川上流の飯場をアジトとする(新倉ベース)。
  • 11月3日 - 赤軍派と革命左派、共同軍事訓練について打ち合わせ。赤軍派の山岳ベースでの開催決まる。
  • 11月5日 - 革命左派、牛首ベースに移動。
  • 11月中旬 - 革命左派、人に見られたため牛首ベース(建設中)を放棄、井川ベースに戻る。
  • 11月19日 - 赤軍派と革命左派、共同軍事訓練について打ち合わせ。
  • 11月21日 - 革命左派の是政アジト摘発され、加藤能敬、N・I子、K・F子、他一名逮捕、アジト近くで川島Y子(川島豪の妻)逮捕される(是政大量逮捕問題)。
  • 11月23日 - 革命左派、榛名山への移動を開始。
  • 11月24日 - 革命左派、榛名湖の温泉旅館跡を拠点に、さらに奥に小屋の設営を開始(榛名ベース)。
  • 12月2日 - 革命左派の軍事訓練参加組、新倉ベースへの山道に到着。出迎えの植垣康博(赤軍派)、革命左派が水筒を持っていなかったためベースに水筒を依頼。
  • 12月3日 - 早朝、植垣、革命左派の昼食のための握り飯をベースに依頼。午前中、水筒を届けに来た赤軍派(山崎順・進藤隆三郎)、水筒を持ってこなかった件で革命左派を批判(水筒問題)。昼、握り飯を届けに来た赤軍派(A・M)、水筒問題で革命左派を批判。午後、革命左派、新倉ベースに到着。森ら赤軍派、水筒問題で革命左派を批判。永田、水筒問題を自己批判。夕食後、顔合わせ全体会議、参加者は赤軍派9名(森恒夫、坂東国男、Y・T、A・M、N・M、遠山美枝子、植垣康博、山崎順、進藤隆三郎)、革命左派9名(永田洋子、坂口弘、寺岡恒一、吉野雅邦、M・T、I・H、K・M子、O・S子、S・M子)。
  • 12月4日 - 朝、共同軍事訓練開始。永田、森に対して遠山を批判。夜、全体会議にて赤軍派、米子闘争を自己批判。森、革命左派にS・Mの脱走と是政大量逮捕の総括を要求。
  • 12月5日 - 森、革命左派にS・Mの脱走と是政大量逮捕の総括を要求。永田、遠山(赤軍派)を批判、他の革命左派メンバーも続く(遠山問題)。
  • 12月6日 - 森、遠山批判の受け入れを表明し、遠山が総括できるまで山から降ろさず、山を降りる者は殺すと確認、と表明。森、N・M(赤軍派)を批判。夕食後、赤軍派、遠山を批判。森、N・Mを批判。
  • 12月7日 - 共同軍事訓練最終日。森、革命左派のO・S子、寺岡、吉野を問題視。夕方、永田、坂口を除く革命左派メンバー、新倉ベースを去る。森、永田に対し進藤(赤軍派)を批判。
  • 12月8-10日 - 遠山、進藤、N・Mへの森の批判続く。9日、次回指導部会議を12月20日に赤軍派都内アジトまたは革命左派榛名ベースで開催することを決定。10日、永田、坂口、新倉ベースを去る。
  • 12月中旬 - 是政アジトで逮捕された加藤能敬、N・I子釈放。
  • 12月15日 - 革命左派の榛名ベース、ほぼ完成。
  • 12月16日 - 次回指導部会議の開催地、榛名ベースに決定。
  • 12月17日 - O・M、18日の十二・十八柴野春彦虐殺弾劾追悼一周年集会で主催者名がこれまでの「京浜安保共闘と革命戦線」ではなく「革命左派と赤軍派」になっていることを永田らに伝える。永田ら、革命左派獄中指導部(川島豪ら)を批判し、榛名ベースでの十二・十八集会前夜集会開催を決定。前夜集会で十二・十八集会にM・TとI・Kを派遣し、軍としての発言を行うことを決定。
  • 12月18日 - 十二・十八柴野虐殺弾劾追悼一周年集会。獄外指導部、M・TとI・K、集会での発言を救対(モップル)に拒否される。
  • 12月20日 - 森と坂東、榛名ベースに到着。森、遠山らは総括したと報告。森、小嶋和子を批判、続いてK・M子を除く革命左派メンバー(特にO・M)を批判。森、徹夜で会議を開催。
  • 12月21日 - 十二・十八集会に参加していたM・T、I・K子帰還、集会で発言できなかったことを報告。森、モップルを批判。森、銃と連合赤軍による「共産主義化」の追求を発言。永田、「我々になった」と述べ、森も同意。両派の合同の方向定まる。永田、坂口、森、坂東とI・K子に結婚を提起。森、全体会議で小嶋を批判。夜、加藤能敬とI・H、榛名ベースに到着、O・S子、I・Hの連名、加藤能敬、N・I子の同意で十二・十八集会に関して革命左派獄外指導部への意見書を提出。永田、意見書を批判。加藤能敬とI・H、意見書について自己批判。Y・J、妻のY・Y子と子供のRちゃんを連れ榛名ベースに到着。永田、加藤能敬から取り調べ中に雑談したことを、O・Mから銃の埋めてある場所の地図を救対に渡したことを聞き、二人を批判。Y・J、自分一人の判断でY・Y子とRちゃんを連れてきたことを自己批判。永田、加藤能敬に総括を要求。O・M、自己批判。指導部、徹夜で会議。翌朝にかけスターリン問題を議論。永田、「スターリンの全面肯定も全面否定も誤り」とし他の指導部も同意。
  • 12月22日 - 昼からの指導部会議で森、塩見孝也を評価し川島豪を批判、また赤軍派指導者のひとり八木健彦を批判。T・M子とS・M子、永田の指示でO・S子を連れて来るため上京。森、革命左派被指導部の歌を批判。森、加藤能敬が歌をリードしているのを問題視。寺岡、被指導部に歌をやめさせる。森、小嶋を批判。夜、加藤能敬、取調べでの雑談を自己批判。森、加藤能敬を追及。森、各自に総括を要求。指導部会議、未明前に終了。
  • 12月23日 - 朝、K・M子、Y・Tの出迎えに榛名湖のバス停に向かう。朝、指導部会議開始。夕方、K・M子とY・T、榛名ベース到着。夕食後、指導部会議再開。未明近く、森、小嶋と加藤能敬を批判して指導部会議終了。
  • 12月24日 - 昼、指導部会議開始。森、川島豪を批判。森、七・六問題(1969年7月6日のブント内ゲバでの戦線逃亡)を総括。夜遅く、森、被指導部が加藤能敬のリードで歌っているのを問題視。寺岡、歌をやめさせる。森、加藤能敬と小嶋を批判。永田、加藤能敬と小嶋を討論させて総括させることを提案。森、加藤能敬と小嶋を作業から外し総括させることを決定。指導部会議、未明まで続く。
  • 12月25日 - 昼近く、指導部会議開始。森、革命左派に対し、同派の過去の分派問題で暴力的分派闘争を行うべきだったと指摘。森、川島豪の偽装転向を川島が本当に「気違い」になったと批判。夕方、森、加藤能敬と小嶋を別々に正座させる。夕食時、森、加藤能敬と小嶋に食事を与えないことを決定。夜、指導部会議。
  • 12月26日 - 指導部会議。Y・T、共産主義化の観点からタバコをやめると表明、坂口も続く。森、寺岡と吉野にタバコをやめるよう指示。永田、タバコをやめないと表明、森もやめないと表明する。夕食後、全体会議。全体会議後、指導部会議。森、川島豪を批判し、革命左派に川島豪との決別を迫る。小嶋、永田に夜に加藤能敬から変なことをされると訴え、それに対し永田は小嶋にも問題があるとし[3]、指導部会議で「神聖な『我々』の場をけがした」と二人を批判。森、殴ることは指導であるとして総括のために加藤能敬を殴って気絶させることを提起。加藤能敬と小嶋を殴ることが決定され、指導部及び被指導部による二人への殴打が始まる。永田、小嶋に加藤能敬を殴らせる。森、小嶋を正座させ、トイレに行くのを認めず。永田、加藤次男と加藤三男に加藤能敬を殴らせる。夜が明け始めた頃、森の加藤能敬への追及・殴打終わる。加藤能敬、坂東と寺岡と吉野によって縛られる[4]。永田、加藤能敬と小嶋に食事を与えるよう指示。
  • 12月27日 - 森、加藤能敬を批判、束縛を総括に集中させるためと説明。森、殴ることを「同志的援助」と位置づけ。森、小嶋を批判。森、O・Mを批判。吉野、自己批判。何人かが小嶋を批判。昼前、T・M子とS・M子がO・S子を連れ榛名ベースに帰還。O・S子、意見書について自己批判。指導部会議開始、森、革命左派に川島豪との決別・暴力的分派闘争を迫る。革命左派、川島豪との決別・分派闘争を受け入れ、「新党」の結成が確認される。夜、全体会議。森、O・Mを批判。未明まで指導部会議、新倉ベースの元赤軍派メンバーを呼び寄せることを決定。
  • 12月28日 - 森、小嶋の束縛を決める。朝食後、小嶋を縛る。森、永田を批判。坂東、寺岡、新倉ベースへ出発。夕食後、全体会議。O・M、十二・十八闘争で日和ったことを自己批判。O・M、正座。全体会議後、朝まで指導部会議。森、O・Mの闘争歴からO・Mの日和見主義を問題視。
  • 12月29日 - 朝食後、M・TとI・H、N・I子を呼び出しに上京。O・S子と加藤三男、伊香保に買い物に行く。指導部会議再開。昼食後、指導部会議再開。森、十二・十八闘争に見立ててO・Mに警官役と決闘させることを提起。坂口、警官役に名乗り出、決闘始まる。O・Mがほぼ一方的に殴り返され続ける形で決闘終了。永田、O・Mを批判し、O・Mに立ったまま総括させる。森、小嶋を批判し束縛を提起。森、K・M子を批判。森、O・Mを批判。O・S子ら帰還。指導部会議後、森、O・S子を批判。S・M子、寺岡との離婚を表明。夕食後、全体会議。S・M子、寺岡との離婚を表明し、森はこれを評価。K・M子、吉野との離婚を表明し、永田はこれに反対。森、O・S子を批判。O・S子、自己批判。この日は夜の指導部会議無し。
  • 12月30日 - 午前中、吉野、O・Mを批判。森、O・Mを縛ることを提起。森と指導部、O・Mを殴り、その後O・Mを立たせて縛る。夕方、指導部会議。その後全体会議。I・HとM・T、N・I子を連れて帰還。N・I子、取り調べ中に飲食したことを自己批判。
  • 12月31日 - 指導部会議。夕方、森、O・Mを批判し、O・Mの腹部を殴り気絶させることを提起。森ら、O・Mの腹部を膝蹴りするが、O・Mは気絶せず。森、膝蹴りを中止し、O・Mが気絶しないことを批判。夜、O・Mの死を確認。最初の犠牲者。森、O・Mの死を「総括できなかったところの敗北死」とする。全体会議。森、永田にO・Mの「敗北死」を報告させることを決定。永田、加藤能敬と小嶋を小屋の外に出すことを提起。夕食後、Y・TとI・H、加藤能敬と小嶋を小屋の外に出す。坂東とY・J、遠山とN・Mと進藤を連れて榛名ベースに帰還。森、遠山を批判。森、N・Mと進藤を批判、永田と坂口は不同意。全体会議で永田、O・Mの「敗北死」を報告。会議は日付を越えて続く。
  • 1972年1月1日 - 森、進藤を批判。森、進藤を縛ることを指示。森、進藤を殴る。他の指導部、被指導部も続く。森、遠山とN・Mに進藤を殴らせる。夜明け後、進藤への殴打終了。坂口、坂東ら、進藤を外に連れ出す。坂口と坂東、進藤を批判。I・H、進藤の死を確認。2人目の犠牲者。森、進藤の死を「敗北死」とする。森、永田に全体会議で進藤の「敗北死」を報告させる。坂口と吉野ら、加藤能敬と小嶋を床下に移す。加藤三男と永田の「小嶋は闇を恐れる」という意見により、森、小嶋に目隠しをさせる。森、小嶋を批判。森、加藤能敬を評価し、縄を解いて小屋の中に入れさせ、再び縛る。加藤次男、小嶋の様態急変を報告。I・K子、小嶋の死を確認。3人目の犠牲者。森、Y・Tら、小嶋の蘇生のため人工呼吸を行うが叶わず。指導部会議、森とY・T、小嶋の死について対立。森、小嶋の死を「敗北死」と規定。夜、全体会議。森、永田に小嶋の「敗北死」を報告させる。
  • 1月2日 - 午前中、指導部会議。森、遠山とN・Mを批判。昼、植垣と山崎、榛名湖のバス停に到着(森、M・Tに二人を迎えに行かせる)。午後1時、植垣と山崎、M・Tに連れられ榛名ベース到着。植垣、O・S子との結婚を提起。森、これを評価。永田、これを批判。森、批判に転じる。山崎、自己批判。全体会議。O・S子、植垣との結婚受け入れを表明。森、指導部に対しO・S子を批判。A・M、自己批判。森、遠山を批判。被指導部、遠山を批判。森、遠山を批判し追及。永田、遠山に小嶋の死体を埋めさせることを提起し森は同意。永田、遠山に小嶋の死体を埋めるよう提起し遠山は同意。N・M、自らが死体埋めに加わることを提起。森、遠山が小嶋の死体を埋めN・Mがそれを手伝うよう指示。森と永田と加藤能敬を除くメンバー、小嶋の死体を埋めに出かける。この時午前一時頃。
  • 1月3日 - 森、加藤能敬から総括を聞く。森、加藤能敬を批判し、総括を認めず。寺岡、メンバーに小嶋の死体を殴らせる。午前三時頃、小嶋を埋めに行っていたメンバー帰還。Y・T、寺岡が小嶋を殴らせたことを森に報告。森、小嶋を殴らせた件について寺岡に総括要求。森、遠山から総括を聞く。森、被指導部に対し遠山を批判し、遠山の総括を認めず。森、遠山を批判。森、遠山に対し重信房子を批判。遠山、重信を批判。森、遠山の重信批判を認めず。森、遠山に対し自分で自分を殴らせる。30分強後、森、遠山に自分を殴るのをやめさせる。永田、遠山に自分で殴った顔を鏡で見させる。森、植垣と山崎とA・Mに遠山を縛り髪を切るよう指示。朝食後、指導部会議。永田、遠山を着替えさせることを提起し、森は同意。遠山の縄を解き着替えさせ、再び遠山を縛る。昼食後、指導部会議。森、N・Mを批判。夕食後、指導部会議。森、中央委員会(CC)の結成を提起し、メンバーを元赤軍派の森、Y・T、坂東、元革命左派の永田、坂口、寺岡、吉野とすることを提起、政治局(PB)を森、永田、坂口の3名とすることを提起。夜九時頃、全体会議。森、坂口にCC結成と森の提起による7人の立候補を伝えさせる。立候補者、自己紹介。他のメンバー、立候補者の承認とCC結成支持の発言。森、N・Mを批判。森、N・Mの総括を認めず、A・M、山崎、植垣にN・Mを縛ることを指示。この時午前二時頃。加藤能敬、CC結成を支持する発言。坂口、加藤能敬を黙らせる。
  • 1月4日 - 朝、森、加藤能敬を批判。森と永田、加藤能敬を追及。森、加藤能敬を殴打し更に追及。森、加藤能敬を立たせて縛ることを指示し、ただちに実行される。森、中央委員会で加藤能敬を批判、間もなく加藤能敬の死が確認される。4人目の犠牲者。森、加藤能敬の死を「敗北死」と総括し、永田に被指導部に対して報告させる。その後中央委員会。森、寺岡を批判。夕食後、中央委員会。森、O・M、進藤、小嶋、加藤の死体を別の場所に埋め直すことを提起し、翌日埋葬地調査に出かけることを決定。Y・T、坂東、寺岡、吉野、M・TがY・Y子運転の車で埋葬地調査に出かけることを決定。森、M・TとY・HとT・M子と植垣とA・Mを党員にする計画を告げる。
  • 1月5日 - 早朝、Y・T、坂東、寺岡、吉野、M・Tの5名、Y・Y子運転の車で埋葬地調査に出かける。午後、森、A・Mに総括を要求し、六・一七闘争に関して追及。永田、森の追及をやめさせる。夕方、Y・Tら帰還。午後9時頃、Y・Tら5名と坂口、植垣ら被指導部の男性、死体の埋め直しに出発。零時過ぎ、坂口、植垣ら帰還。早朝、Y・Tら帰還。寺岡、Y・Tを批判。
  • 1月6日 - 永田、遠山を座って縛ることを提起し、森は同意、遠山縛り直される。夕食後、森、A・Mと植垣と山崎にN・Mの縄をほどき立たせて追及することを指示。森、N・Mを追及。森、逃亡防止のために、N・Mの肩胛骨と大腿部を殴るよう指示し、N・Mを殴打。Y・Tら、植垣ら続く。寺岡、N・Mを薪で殴打。森、植垣らにN・Mを逆えび型に縛るよう指示。森、植垣らに遠山の縄をほどき連れてくるよう指示し、遠山を追及、他の者も続く。永田、森?を批判。森、遠山を殴りつつ追及。森、遠山を「N・Mと同じように殴って縛」ることを指示。Y・Tら、遠山の肩胛骨と大腿部を殴打し、遠山を逆えび型に縛り始める。森、遠山の足の間にまきをはさんで縛るよう指示、寺岡、「×××××みたいに足を拡げろ」と発言し、男性メンバーら笑い出す。永田、男性メンバーらを批判。中央委員会。森、寺岡の発言を批判。森、寺岡に小嶋とS・M子の件に関して総括を要求。森、「殲滅戦の準備のため」として井川ベースの整理、K・F子(名古屋)らの呼び出し、東京での若干の活動、山岳調査などの必要を述べる。全体会議。永田、殲滅戦の準備のための山岳調査などを行うことを告げる。森、井川ベースの整理、K・F子の呼び出しを告げる。森、O・S子とK・M子に総括要求。森、山崎とT・M子とN・I子とY・Y子を井川ベースの整理に、I・HとI・K子をK・F子の呼び出しに、M・TとA・MをO・Sのオルグ等のため東京に行かせることを決定。
  • 1月7日 - 昼、井川・名古屋・東京へ行くメンバーとの打ち合わせ。夕方、全体会議。井川・名古屋へ行くメンバーの決意表明。永田、遠山の衰弱を確認。坂東とY・T、遠山の縄をほどき人工呼吸を開始し、吉野も加わる。森、遠山に酒を飲ませるよう指示。永田、坂口に酒をあたため遠山に飲ますよう指示。坂口と永田、酒を一升瓶ごとあたためるか飲ます分だけあたためるかで対立。坂口、永田を批判。永田、反論し坂口は批判を撤回。坂東ら、遠山の死を確認。5人目の犠牲者。全体会議を中断し中央委員会会議。森、遠山の死を「敗北死」とする。夕食後、全体会議。永田、遠山の「敗北死」の総括を告げ、女性メンバーに対し総括要求。O・S子、自己批判。永田、O・S子に対し総括要求。K・M子、吉野と別れることを告げる。永田、K・M子に吉野との離婚の必要を否定し総括要求。
  • 1月8日 - 早朝、山崎、T・M子、N・I子、Y・Y子とI・H、I・K子、榛名ベースを出発。中央委員会。永田、O・S子に山岳調査のための地図を購入するよう指示し、O・S子、加藤三男と共に出発。昼前、M・TとA・M、東京に向け出発。森、吉野とT・M子、植垣とS・M子の二組を山岳調査に行かせることを決定。昼、坂口、永田に共産主義化への疑問・不満を告げる。永田、中央委員会で坂口の発言を告げる。夕方、森、K・M子とO・S子(買い物から帰還)を批判。森、K・M子を会計から外すことを提起。永田、K・M子に会計から外すことを告げる(会計は当面永田が行うこととなる)。この日の晩は中央委員会・全体会議ともに無し。
  • 1月9日 - 午前1時頃、森、N・Mの死を確認。6人目の犠牲者。朝、森、N・Mの死を告げる。N・Mの死に関する会議は開かれず。昼、山岳調査の検討。夕方、井川ベースの整理に行っていた山崎ら帰還。夜、Y・Tと坂東と寺岡と吉野、Y・J運転の車で遠山とN・Mの死体を埋めに出かける(坂口、植垣、山崎も車までの死体運びに加わる)。午前零時過ぎ、坂口、植垣、山崎帰還。
  • 1月10日 - 早朝、Y・Tら帰還。午前中、中央委員会。植垣とS・M子が迦葉山に、吉野とT・M子が赤城山に山岳調査に行くことを決定。夕食後、全体会議。森、これまでの6人の死を「高次な矛盾」と総括
  • 1月11日 - 夜明け前、植垣とS・M子、吉野とT・M子、Y・Tによって車(Y・J運転)で山岳調査に出かける。昼、中央委員会。森、関西のある救対メンバーを連れてきて共産主義化を要求し、応えない場合は殺すという発言・仕草をする。永田、森を批判。森、坂東と寺岡に日光方面の山岳調査を指示し、また寺岡に対し総括を要求。夜遅く、Y・TとY・J、帰還。森、Y・Tに坂東、寺岡を山岳調査に連れていくこと、帰りに『コミンテルン・ドキュメント』を購入することを指示。
  • 1月12日 - 早朝、坂東と寺岡、Y・TとY・Jに連れられ山岳調査に出かける。昼、永田、毛沢東を批判、森は同意、坂口は黙る。夕方、Y・TとY・J、『コミンテルン・ドキュメント』他を購入し帰還。森、Y・Tにあるグループをオルグしに上京することを指示。
  • 1月13日 - 森、Y・Tを批判。Y・T、森に催促され上京。A・M帰還、O・Sのオルグ失敗等を報告。
  • 1月14日 - 朝、森、名古屋滞在中のI・Hらと連絡を取るためY・J運転の車で伊香保に向かう。夕方、森ら帰還。森、Y・Jを批判。森、改造弾の作り方をA・M、山崎、O・S子、K・M子らに教える。森、Y・Jを批判し、Y・Jは反論。森、永田に対してK・M子らが笑いながら改造弾を作っているのを批判。永田、森の批判を受けK・M子らを批判。森、T・M子を会計とすることを決定。永田、I・K子をT・M子の補助とすることを決定。夜、会議。森、寺岡を批判し、永田、坂口も同意。森、永田に寺岡の活動歴を聞く。森、寺岡がかつて出した革命左派の「改組案」を寺岡の「分派主義」と批判し、寺岡への総括要求を提起、永田、坂口も同意。
  • 1月15日 - 夕方、Y・T帰還。森、Y・Tに寺岡への総括要求を伝え、Y・Tは同意し寺岡を批判。
  • 1月16日 - 森と永田と坂口とY・T、寺岡問題のまとめ、寺岡の過去の言動を全て分派主義とする。午後、Y・Jと加藤三男、山岳調査隊を迎えに高崎に向かう。夕方、吉野とT・M子帰還、ベース候補地が見つからなかったことを報告。森、吉野に寺岡への総括要求を伝える。吉野、同意し寺岡の過去の言動を批判、森、永田、寺岡への批判を強める。
  • 1月17日 - 朝から午後にかけ、寺岡への総括要求についての話続く。午後、Y・Jと加藤三男、山岳調査隊を迎えに行き、夕方、坂東と寺岡と植垣とS・M子帰還。森、坂東に寺岡が逃げようとしなかったか聞く。森、寺岡の追及を開始。寺岡、追及への答えの中で「(永田や坂口が)逮捕されればよいと思った」と答え、これに永田と吉野怒り、吉野が寺岡を殴る。森、寺岡を批判し、指導部メンバーへの人物評を要求。寺岡、人物評、批評された者はこれに反発せず。寺岡、総括のために「殴ってほしい」と発言。森、寺岡の指示で殴ることを拒否。永田、寺岡を全体で追及することを提起し、植垣に他メンバーを起こすよう指示。
  • 1月18日 - 午前一時頃、被指導部集まる。永田、被指導部に対し寺岡を批判し、吉野が補足。寺岡批判、被指導部に伝わらず? 坂東、寺岡が「革命を売ろうとした」と批判し、被指導部の寺岡への批判始まる。全員による寺岡への追及の中で、寺岡への殴打始まる。寺岡への追及続き、殴打激しくなる。森、寺岡に権力との関係を追及。寺岡、これを否定。森、寺岡の足をナイフで刺す。森と永田、寺岡に権力との関係を追及。寺岡、これを否定。森、寺岡の行為を「反革命」とし、寺岡に対し「死刑」を宣告。森、寺岡に対し「おまえのような奴はスターリンと同じだ」と言い、アイスピックで寺岡を刺す。寺岡絶命せず。他何人かがアイスピックで寺岡を刺す。寺岡絶命せず。坂口、寺岡の首を締めるよう指示。森、山崎が後ろでウロウロしていることを問題視。午前七時頃、寺岡絶命。7人目の犠牲者。朝食後、中央委員会。森、寺岡処刑を「テロリズムとの闘い」とし、坂東、A・M、植垣を評価。森、スターリンを批判し、寺岡とスターリンが同じであるとする。永田と坂口と吉野、これに同意も反対もせず。夕食後、会議継続。永田ら、森の寺岡とスターリンが同じであるという位置づけに同意せず。森、寺岡処刑を「分派主義との闘争」とする。午後九時頃、全体会議。永田、森の指示で森のメモに基づき寺岡処刑の総括を告げる。森、寺岡処刑の総括を告げる。森、寺岡処刑へのかかわりを発言するよう全体に対し要求。Y・J、元革命左派メンバーの中で唯一スターリン主義に触れる。森、指導部に対しY・Jを問題視。森、O・S子の寺岡処刑へのかかわりを「女を売り物にする態度」と批判。森、指導部に対し山崎を問題視し、山崎への追及を開始。山崎、「自分の問題が寺岡と似ていたので、自分も殺されると思った」と発言。森、指導部に対し山崎を問題視。M・T帰還し、山崎への追及中断。M・T、電車内でナイフを落としたと報告。坂東と植垣、山崎に総括要求。山崎、自己批判。森、全体会議を打ち切り、K・M子、O・S子、山崎、植垣に総括要求。この時19日の午前三時頃。この頃、名古屋の喫茶店でI・H、I・K子に持ち金を渡し、逃亡を宣言し立ち去る。最初の離脱者(あさま山荘陥落後出頭)。
  • 1月19日 - 午前中、中央委員会。森、山崎を批判。森、山崎を中央委員会に呼び出し追及。午後一時頃、I・K子帰還、山崎はI・Hがいないことに対して「逃げたな」と発言。森、山崎に正座を指示しM・T、A・Mに山崎の見張りをさせる。I・K子、K・F子と連絡が取れなかったこと、I・Hが逃亡したことを報告。永田、ベース移動の必要を述べる。森、I・Hは警察に行かないとしてベース移動の必要はないとする。この頃、ラジオで元坂東隊メンバーのM・Y子の逮捕伝わり、坂東隊がかつて高崎にアジトを設置していたことからベース移動の必要性が確認され、移動先は植垣の報告から迦葉山方面とする(迦葉ベース)。森、永田に対しベース移動の際に山崎を処刑することを示唆。永田、山崎にニセ死刑宣告を行い様子を見ることを森に提起し、森は賛成、中央委員会でも承認。森、Y・TにY・Y子と共に上京し、O・Sのオルグ、レンタカーの都内での確保、ベース移動のための工具類・材料の購入をすること指示。夕暮れ後、Y・TとY・Y子出発。山崎、この頃までに髪を切られ縛られる。森、山崎に「死刑」宣告し、森と坂東と吉野と坂口、山崎にナイフを突きつける。森、山崎に総括要求。永田、山崎に総括要求。森、山崎を縛るよう命じる。午後十一時頃、坂口と坂東と吉野と植垣、Y・J運転の車で寺岡の死体を埋めに行く。
  • 1月20日 - 早朝、坂口ら帰還。昼頃、森、永田に対し山崎を批判。森、山崎の足にアイスピックを刺し総括要求することを提起。永田、坂口、同意し、坂口、アイスピックを刺すことを名乗り出る。森、山崎への追及を開始。坂口、山崎の足にアイスピックを刺す。後に他のメンバーも追及に加わる。森、山崎に対しメンバーの人物評を要求。人物評をされた者はこれに反発せず。森、山崎への殴打を開始し、他の者も続く。森、山崎への死刑を宣告。森、山崎をアイスピックで刺し、植垣、坂東続く。山崎、絶命せず。A・M、植垣、山崎をナイフで刺す。山崎、絶命せず。坂口、山崎の首を締めるよう指示し、吉野と坂東とM・TとY・Jら、山崎の首をロープで締め、山崎絶命。8人目の犠牲者。中央委員会。森、山崎死刑を総括し、寺岡の問題と山崎の問題が同質であることを強調。森、K・M子が懐中電灯の電池を隠したと批判。午後八時、全体会議。永田、K・M子を懐中電灯の電池の件で追及。K・M子、これを否定、森は何も言わず。永田、全体会議中のタバコ制限の撤廃を提起、他のメンバーは何も言わず。永田、森の指示で山崎の死刑の総括を報告。A・M、自己批判。森、A・Mを追及。O・S子、自己批判。永田、O・S子の総括を認めず。T・M子、O・S子を批判。森、O・S子を批判し総括を認めず。K・M子、自己批判。森、K・M子を批判。永田、K・M子に総括要求。午後十一時頃、Y・TとY・Y子、O・Sを連れて帰還。O・S、自己紹介。森、中央委員に対しK・M子を批判。森、K・M子が吉野から自分に乗り移ろうとしていると主張。森、K・M子を批判、他の中央委員、被指導部も続く。森、吉野に対しK・M子批判を要求。吉野、K・M子との離婚を表明。
  • 1月21日 - 朝食後、A・MとT・M子、Y・J運転の車でベース移動のための工具類・材料の購入に出かける。森、O・Sに入山の決意表明を求め、O・Sを評価し、入山しなかったFを批判。中央委員会。森、ベース建設の期間(一週間)と人の割り振り(ベース建設:坂東、吉野、植垣、M・T、S・M子、I・K子、N・I子、加藤次男、加藤三男。ベース間連絡:A・M、Y・J。榛名ベースの荷物整理:T・M子、Y・Y子。O・S子とK・M子は榛名ベースで総括させ、森、永田、坂口、Y・Tは榛名ベースに残る)を決定。先発隊をS・M子、坂東(車運転:Y・J)とすることを決定。夕方前、A・Mら帰還。夕食後、全体会議。森、ベース建設について指示。ベース建設メンバー、決意表明。中央委員会。森、吉野に対しK・M子を批判。吉野、K・M子を批判的に語る。
  • 1月22日 - 午前五時頃、S・M子と坂東、Y・J運転の車で出発。午前七時頃、吉野、M・T、N・I子、加藤次男、出発。森、永田に対しK・M子を批判。午前八時頃、植垣、A・M、I・K子、加藤三男、出発。レジュメ作成のための中央委員会。
  • 1月23日 - 森、O・Sに対しFを批判。森、O・Sにベース建設に参加するかを聞き、O・Sは同意。夕方、A・MとY・J帰還。A・M、ベース建設の目処について答えられず。森、A・Mを批判。森、坂口に対しベース建設に加わるよう提起、坂口は同意。夜、坂口とY・TとA・MとT・M子、Y・Y子運転の車で山崎の死体を埋めに行く。
  • 1月24日 - 午前七時過ぎ頃、坂口帰還。ベース近くで車を路肩の溝に落としたと報告。約一時間後、Y・T、A・M、Y・Y子帰還。Y・T、レッカー車で引き上げる必要があることを報告。森、同意し、運転免許を持っているO・Sに対し、Y・Tと共に出かけるよう指示。朝食後、Y・TとO・S、出かける。昼過ぎ、T・M子帰還。車を引き上げ、Y・TとO・Sが車修理のため高崎に行ったことを報告。夕方遅く、O・SとY・T帰還、車が直ったことを報告。夕食後、指導部会議。あるグループに車のカンパを要請することを決定。
  • 1月25日 - (迦葉ベース)朝、Y・J、車をぬかるみにはめる。Y・J、自己批判せず。坂口、Y・Jを批判。夜、全体会議。坂口、Y・Jを批判し追及。坂口、Y・Jを正座させる。坂東と吉野、Y・Jを見張る。(榛名ベース)午前八時頃、Y・T上京。森、O・S子が懐中電灯の電池を隠していると主張、永田に荷物を調べさせるが見つからず。森、K・M子がタオル・さらしを大量に持っていると主張、永田に荷物を調べさせるが見つからず。夕食後、森、O・S子を追及。O・S子自己批判。森、O・S子の総括を認めず追及を続ける。森、K・M子を追及。K・M子、森の批判を認めず。森、O・S子を追及。O・S子、植垣について話そうとするが永田はこれを認めず。森、O・S子にM(印旛沼事件で殺害)との関係を追及。O・S子、Mとの関係を認める。永田、O・S子のMとの関係を批判。森、O・S子を追及。森、K・M子とO・S子を縛ることを提起。永田、同意も反対もせず。森、K・M子がタンスに自由に寄りかかれるよう縛り、食事にも配慮するとし、永田、縛ることに同意。この頃26日夜明け。森、O・S子とK・M子を縛る
  • 1月26日 - (榛名ベース)朝食後、森、K・M子を柱に縛る。森、O・S子とK・M子にミルクを与える。森、K・M子を批判し当面食事を与えないことを決定。午前中、坂口、A・M、O・S帰還。坂口、Y・J問題を報告。森、Y・Jを殴って縛べきと主張。永田、これに同意。坂口、これに同意。森、Y・Jを批判。坂口、Y・Jを批判。永田、坂口にO・S子とK・M子の束縛を報告。森、A・MとT・M子の交代を決定。昼食後、森、永田と坂口に対しK・M子を批判。永田、これに同意(以降、K・M子に食事は与えられず)。永田、O・S子におしるこを与え、総括を聞く。森、O・S子の総括を認めず(以降、O・S子に食事は与えられず)。坂口、T・M子、O・S、迦葉ベースに出発。
  • 1月27日 - (榛名ベース)迦葉ベースへの移動の準備。昼頃、T・M子とO・S来訪し、T・M子、Y・Jを殴り縛ったことを報告。森、小屋完成前のベース移動を提起。森、永田と連名での坂口への手紙を書き、永田に見せずにT・M子に渡す。森、O・Sから高崎でY・Tと風呂に入ったことを聞く。夕方前、T・M子とO・S、迦葉ベースへ出発。森、永田に対し風呂の件でY・Tを批判し、Y・Tへの総括要求を決定。夕方、森、永田に対しK・M子を批判し、K・M子がお腹の子供を私物化していると主張、子供を取り出すことを考えなければならないとする。永田、K・M子への積極的な総括要求を主張し、森は同意。
  • 1月28日 - (榛名ベース)迦葉ベースへの移動の準備。午前中、坂口、坂東、O・S来訪。坂口、Y・Jの件を報告。森、K・M子を批判し、K・M子を殴り髪を切ることを提起。坂口、坂東、永田、これに同意。森、輪にした針金でK・M子を殴る。永田、坂口、坂東も続く。K・M子、殴打に抗議。森と坂口と坂東、K・M子を殴り、A・M、Y・Y子、O・S続く。森、K・M子にベース移動時に声をあげたり等しないよう要求し、K・M子は同意。森、K・M子の髪を切るよう指示。O・S、運転免許証をなくしたと言う(運転免許証を持っているY・Y子がいつでも運転を交代できるようにすることで対処)。夕方、車に荷物を運び、その後O・S子、K・M子を運ぶ。午後七時頃、O・S運転の車でY・Y子、森、永田、坂口、坂東、Rちゃんを連れ迦葉ベースへ出発(A・Mは榛名に残る)。29日午前一時頃、森ら迦葉ベース入り口に到着。森ら、迦葉ベースメンバーの「殲滅戦」計画を知る。森、殲滅戦計画について吉野を批判し、吉野は釈明。永田、森の指示で植垣、T・M子に殲滅戦批判を伝える。
  • 1月29日 - 朝食後、T・M子とO・S、買い物、Y・Tとの連絡、A・Mの迎えに出発。夜、森ら迦葉ベースに移動。Y・J、K・M子、O・S子、小屋の床下に縛られる。森、Y・Jに対し「総括もできず自殺もできないのか」と言い、Y・Jは舌をかもうとする。永田、K・M子とO・S子に総括要求しO・S子は同意。森、A・MにY・Jの様子を見させ、Y・Jに水を与え猿轡をさせるよう指示(Y・Jは水は飲まず)。午後11時過ぎ、中央委員会。森、Y・Jの件について坂口らに報告。T・M子とO・Sを東京にY・Tを迎えに行かせることを決定。
  • 1月30日 - 夜中のうちにY・J死亡。9人目の犠牲者。森、Y・Jの死を「敗北死」とする。永田、森と坂口にY・Jへの総括要求と死について妻のY・Y子に説明することを提起、森ら同意しY・Y子に経緯を説明。T・M子とO・S、上京。中央委員会でY・Jの「敗北死」を確認。森、永田に対しO・S子を批判。永田、同意も反対もせず。午後、中央委員会。森、坂東らが小屋建設を手伝ったことを批判し、CC用のこたつを作ることを要請。坂東、釈明しつつも同意。森、O・S子を批判し、他の中央委員も同意、永田は同意も反論もせず。森、Y・TがO・Sと風呂に入ったことを批判し、Y・Tへの総括要求を決定、他の中央委員も同意。夕方、永田、O・S子に睨まれたと会議で主張。森、O・S子を殴ることを決定し、他の中央委員も同意。永田、植垣とS・M子にO・S子を殴らせることを提起し、森は同意。永田、森の指示で被指導部にO・S子の殴打決定を伝え、O・S子を批判、植垣とS・M子にO・S子を殴るよう要求。植垣ら、O・S子が縛られている床下に向かい、O・S子が既に死亡していることを確認。10番目の犠牲者。森、O・S子の死を「ショック死」とする。永田、森の指示でO・S子の「ショック死」を全体に伝える。
  • 1月31日 - 早朝、T・M子とO・S、Y・Tを連れて帰還。昼、S・M子とO・S、小屋建設の資材購入に出かける。中央委員会。Y・T、車のカンパに失敗したこと等を報告。森、カンパ失敗を問題視しY・Tは反論。森、Y・Tに対しO・Sと風呂に入ったことを問題視し、この件についての総括を要求し追及を終える(Y・J、O・S子の死とK・M子への殴打・束縛については説明せず)。森、K・M子を「女寺岡」と批判し、お腹の子供がおりてしまわないか調べることを主張。永田、N・I子とI・K子とY・Y子に調べさせることを提起。森、A・Mを加えさせることとする。夕方、坂口らK・M子を床下から運び、N・I子らとA・M、お腹を調べる。K・M子、床下に戻される。S・M子とO・S、資材を購入し帰還し、坂口、坂東、吉野及び被指導部、資材を運ぶ。中央委員会用の場所完成。午後十時、中央委員会。翌日2月1日にY・JとO・S子の死体を埋める場所を坂口、坂東、吉野が探しにいく(車の運転はO・S)こと、その間に森と永田がY・Tの総括を聞くことを決定。
  • 2月1日 - 朝食後、坂口ら出発。森と永田、Y・Tの総括を聞く(永田は途中で退席)。昼近く、森、永田に対しY・Tが話の途中に逃げたと言う。昼食後、森、Y・Tを批判し、森とY・Tは無言で対立。夕方前、坂口ら帰還、埋める場所を見つけ穴を掘ったこと、警察が大勢いたこと、指名手配のポスターが大量にあったことを報告、この日の死体の埋葬は行わず翌日坂東が様子を見にいくことを決定。森、「K・M子が総括しない時には子供を取り出す必要がある」と話し、いざという時は自分が子供を取り出すと言う。永田と吉野、子供を取り出すことへの参加を表明。森、子供を「組織の子として育てる」とする。永田、K・M子を小屋に入れ食事を与えることを提起し、森は同意、坂口らも同意。森、永田に子供を取り出すことを皆に話すよう指示。夕食後、永田、被指導部に対しK・M子を批判、いざという時は子供を取り出すことを告げる。永田、女性らでK・M子の体をきれいにすることを提起。男性ら湯を沸かす。永田と女性ら、K・M子の縄をほどいて部屋に上げ、体をふき新しい服を着せ、土間に縛る。中央委員会。森、Y・Tを追及。森、Y・Tの赤軍派復帰を繰り返し追及。Y・T、CC辞任を申し出る。森、Y・TのCCからの除名を告げ、Y・T、こたつから出て正座する。森のY・Tへの追及続く。
  • 2月2日 - 朝、森、Y・Tが総括できていないとし、以降Y・Tに食事を与えず。朝食後、中央委員会。森、Y・Tを批判。森、A・MにK・M子のお腹の子供について質問し、婦人科の医学書を買ってくるよう指示。この間K・M子、永田にミルクを要求、永田はK・M子を殴りミルクを与える。午前十時、坂東は町の様子を見に、I・K子は買い物にO・S運転の車で出かける。午後、中央委員会。森、Y・Tを批判し、Y・Tを雪の上に座らせることを提起、永田、坂口、吉野は同意。森と坂口と吉野、雪の台を作り、その上にY・Tを正座させる。夕方、森、Y・Tが総括しようとしていないとし、Y・Tを小屋の中に入れることを提起、永田らは同意、Y・Tを小屋の中で正座させる。坂東、I・K子、O・S帰還。森、Y・Tが総括しようとしていないと批判し、永田に対処を求める。永田、Y・Tに薪拾いをさせることを提起。森、Y・Tの総括は「0.1パーセントの可能性」とし、一日水一杯で薪拾いをさせることを決定。森、Y・TとA・MとN・I子にY・Tの見張りをさせること、Y・Tへの総括要求を永田が全体に話すことを決定。植垣とA・MとN・I子にY・Tの薪拾いでの見張りを指示し、A・MとN・I子がY・Tの監視を開始。夕食後、永田、Y・Tへの総括要求について全体に話す。森、Y・Tの問題を指摘。森、Y・TにCCからの除名を伝え、一日水一杯で薪拾いをするよう通告。午後十時、坂口と坂東と吉野、O・S運転の車でY・JとO・S子の死体を埋めに出かけ、被指導部の男らも車まで死体を運ぶ。午前0時過ぎ、被指導部の男ら帰還。午前4時頃、坂口ら帰還し、森、永田、坂口の大きな指名手配署が随所に大量に張ってあったことを報告。
  • 2月3日 - 朝食前、森、A・MとS・M子とO・Sに榛名の残りの荷物の運搬を指示、またA・Mに婦人科の医学書の購入を指示。朝食後、A・Mら出発。森、Y・Tに水一杯を与え薪拾いを指示、植垣とT・M子見張りにつく。中央委員会。森、車のカンパの必要性を強調。昼過ぎ、坂東、Y・Tらを迎えに行く。森、T・M子と植垣から報告を聞き、Y・Tが総括できていないとする。K・M子、トイレを要求し、永田はK・M子をトイレに行かせることを提起。森、黙る。永田、K・M子をトイレに行かせることを繰り返し提起し、森はこれを認める。永田とN・I子ら、K・M子の縄をほどくが間に合わず。永田ら、K・M子の下着を替え柱に縛ろうとするがK・M子は立てず。永田、K・M子を寝かせることを提起。森、K・M子が敵対することを考えなければならないとし、K・M子を寝かせて縛る。夕方、坂東と植垣、Y・Tを連れ帰還。森、坂東と植垣から報告を受ける。森、Y・Tが総括しようとしていないとし、逆えびに縛ることを決定。森、Y・Tを殴ることを決定。Y・Tへの追及開始。森、Y・Tを追及し、殴る。他のメンバーも続く。A・MとS・M子とO・S帰還、追及に加わる。K・M子の様子が変わり、永田と森、K・M子の様子を確認。Y・Tへの追及と殴打を再開。森、Y・Tの総括の可能性が0.01パーセントであるとし、植垣らにY・Tの束縛を指示。皆でY・Tを縛る。永田、吉野にK・M子にミルクを与えるよう指示し、吉野は同意(実際にはミルクを与えず)。
  • 2月4日 - 午前4時頃、坂口、坂東、吉野と被指導部の男ら、A・Mの持ってきた荷物を取りに出かける。午前6時半頃、坂口ら帰還、K・M子が既に死亡していることを確認。11人目の犠牲者。森、K・M子のお腹の子供を取り出すことを断念。森、「子供の私物化と闘えなかった」とし、CCが自己批判すべきとする。森、K・M子が自分に対して死ぬことを隠していたと批判、「子供の私物化を許したのはCCが躊躇したから」としそのことを自己批判すべきとする。森、永田に被指導部に「子供の私物化を許したのはCCが躊躇したから」という自己批判を伝えるよう指示。永田、被指導部に対し「子供の私物化を許したのはCCが躊躇したから」ということを自己批判。森、K・M子が死ぬことを隠したと批判。朝食後、中央委員会。夜にK・M子の死体を埋めにいくことを確認。

[編集] 死亡メンバー

死亡メンバー
死亡日 メンバー 生まれ年 学籍 旧所属 総括事由(植垣) 死因
1971年12月31日 尾崎充男(22歳男性) 1950年 東京水産大学 京浜安保 敗北主義 餓えおよび寒さ
1972年1月1日 進藤隆三郎(22歳男性) 1950年 日仏学院 赤軍派 ルンペン・プロレタリアート 内臓破裂?
1972年1月1日 小嶋和子(22歳女性) 1949年 市邨学園短期大学 京浜(中京)安保 小ブル急進主義 餓えおよび寒さ?
1972年1月4日 加藤能敬(22歳男性) 1949年 和光大学 京浜安保 防禦的、受動的、啓蒙主義 餓えおよび寒さ?
1972年1月7日 遠山美枝子(25歳女性) 1946年 明治大学 赤軍派 古い赤軍派 餓えおよび寒さ?
1972年1月9日 行方正時(22歳男性) 1949年 岡山大学 赤軍派 非軍事的 餓えおよび寒さ?
1972年1月17日 寺岡恒一(24歳男性) 1948年 横浜国立大学 京浜安保 小ブルテロリズム 窒息死(死刑)
1972年1月19日 山崎順(21歳男性) 1950年 早稲田大学 赤軍派 全共闘的体質 窒息死(死刑)
1972年1月30日 山本順一(28歳男性) 1943年 北九州大学 京浜(中京)安保 外在的、日和見主義 餓えおよび寒さ?
1972年1月30日 大槻節子(24歳女性) 1948年 横浜国立大学 京浜安保 日和見主義 餓えおよび寒さ?
1972年2月4日 金子みちよ(24歳女性) 1948年 横浜国立大学 京浜安保 権威主義 餓えおよび寒さ?(妊娠8ヶ月)
1972年2月12日 山田孝(27歳男性) 1944年 京都大学 赤軍派 官僚的、理論主義的 餓えおよび寒さ?

※総括事由(植垣)……森恒夫の行った批判の植垣康博によるまとめ。(永田洋子『続 十六の墓標』より)

[編集] 脚注

  1. ^ 加藤倫教『連合赤軍 少年A』(新潮社、2003年)
  2. ^ 『若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(朝日新聞出版、2008年)
  3. ^ 永田の証言。坂口、坂東、吉野、加藤次男の証言では永田は加藤能敬と小嶋が接吻しているところを目撃したと言った、としている。森は以前の二人の接吻について小嶋が「そうされた」とした、としている。
  4. ^ 吉野は加藤能敬を縛るよう命じたのは永田だと証言。永田はこれを否定。

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

  • 永田洋子『十六の墓標 (下)』 彩流社、1983年
  • 永田洋子『続 十六の墓標』 彩流社、1995年
  • 坂口弘『あさま山荘1972 (下)』 彩流社、1993年
  • 坂口弘『続 あさま山荘1972』 彩流社、1995年
  • 植垣康博『兵士たちの連合赤軍』 彩流社、1984年
  • 坂東国男『永田洋子さんへの手紙』 彩流社、1984年
  • 加藤倫教『連合赤軍 少年A』 新潮社、2003年
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