京成電鉄

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京成電鉄株式会社
Keisei Electric Railway Co., Ltd.
京成電鉄本社
京成電鉄本社
種類 株式会社
市場情報
東証1部 9009 1949年5月16日上場
略称 京成
本社所在地 Flag of Japan.svg 日本
〒131-8555
東京都墨田区押上1丁目10番3号
電話番号 総務部:03-3621-2242
広報室:03-3621-2231
設立 1909年明治42年)6月30日
(京成電気軌道株式会社)
業種 陸運業
事業内容 鉄道事業不動産業など
代表者 代表取締役社長 花田力
資本金 368億03百万円
発行済株式総数 3億4,482万2,371株
売上高 連結:2,391億31百万円
単独:688億01百万円
(2008年3月期)
営業利益 連結:235億77百万円
単独:133億17百万円
(2008年3月期)
純利益 連結:121億20百万円
単独:57億35百万円
(2008年3月期)
純資産 連結:1,512億99百万円
単独:950億46百万円
(2008年3月31日現在)
総資産 連結:7,098億93万円
単独:5,014億64百万円
(2008年3月31日現在)
従業員数 連結:6,898人 単独:1,722人
(2008年3月31日現在)
決算期 3月31日
主要株主 日本マスタートラスト信託銀行(株)(信託口) 5.52%
日本生命保険相互会社 3.99%
日本トラスティ・サービス信託銀行(株)(信託口) 3.44%
(2008年3月31日現在)
主要子会社 京成バス 100%
千葉ニュータウン鉄道 100%
京成ストア 100%
東京ベイシティ交通 65.3%
北総鉄道 50.0%
成田空港交通 66.6%
京成バラ園芸 20.0%
関係する人物 本多貞次郎
後藤圀彦
川崎千春
外部リンク www.keisei.co.jp
  

京成電鉄株式会社(けいせいでんてつ、英称Keisei Electric Railway Co., Ltd.)は、東京都千葉県に路線を有する大手私鉄のひとつである。

京成電鉄の社名は、起終点の頭文字である東京の「京」と成田の「成」に由来する。

京成グループを構成する中核企業。みどり会の一員。東証1部上場企業。本社所在地は東京都墨田区押上1丁目10番3号。

目次

[編集] 概要

鉄道業を本業とし、不動産事業も展開。また、鉄道、バス、タクシーなどの交通機関を運営する京成バス東京ベイシティ交通北総鉄道新京成電鉄関東鉄道千葉交通などの親会社であり、東京ディズニーランドなどを運営するオリエンタルランドの筆頭株主でもある(主要なグループ会社参照)。

コーポレートスローガンは「いろんな笑顔を結びたい」。

かつての社名は京成電気軌道で、当時の英語略称は「K.D.K」(Keisei Denki Kidō)であった。

かつてあったパスネットでの符号はKSである。

路線全体の駅数は2009年現在64駅であるが、新高速線開業時に新設1駅と北総鉄道北総線との共同使用駅となる14駅(京成高砂を除く駅数)を追加して合計79駅となる。

[編集] 歴史

[編集] 会社設立から成田延伸まで

日本の鉄道設立を遡ると有名な神社仏閣の存在が設立動機となったケースが多い。成田山新勝寺江戸時代から多くの参拝客を集めていたが、明治時代になると成田鉄道(初代)が開業(1897年)し、多くの参拝者が利用した。その後1900年代に入ると全国的に電気鉄道ブームが起きる中で、東京成田を直結する電気鉄道が3者競願で計画されたが、後に3者は合同し1903年本所区押上 - 千葉県成田町間を軌道条例によって出願。1907年5月28日に押上 - 成田・佐倉町宮小路 - 佐倉停車場について特許を得て、日露戦争後の経済不況のなかで株式募集は難航したが、1909年6月30日京成電気軌道株式会社を設立した。

1911年11月9日に第一期工事として押上 - 市川(仮・現江戸川駅西方)・曲金(現・高砂) - 柴又間を着工し、翌1912年11月3日に開業した(なお、この時市川へは渡船連絡をしていた)。また、これに先立つ同年4月27日には帝釈人車軌道(柴又 - 金町間)を買収。実は京成最初の営業路線は人車軌道であった。

1913年10月21日に改築なった柴又 - 金町間を開業させ、以後1914年9月1日に江戸川 - 市川新田(現・市川真間)間、1915年11月3日に市川新田 - 中山間、1916年12月28日には中山 - 船橋間と延伸を繰り返した。

船橋から先はまず県都・千葉を目指すこととし、1921年7月17日船橋 - 千葉間が開業。当時の京成千葉駅(現・千葉中央駅)は現在の千葉中央公園の位置にあって、千葉市の中心部には省線の千葉駅よりも近く、1935年7月1日に省線が電化されるまでは利用客数で圧倒的優位に立っていた。

1925年10月には本来の目的地・成田への延伸に着手。翌1926年12月9日津田沼 - 酒々井間、24日には酒々井 - 成田花咲町(仮駅)間を開業し、ここに東京と成田までが結ばれることとなった。なお、成田の駅の位置を巡っては新勝寺門前により近いところへの設置を画策して成田電気軌道(旧・成宗電気軌道)を買収(1925年)してその線路を接続する案もあったが、門前の商店街の猛反発に折れ、1930年4月25日に現在の位置に京成成田駅を設置した。

[編集] 都心延伸から終戦まで

東京側のターミナルとなっていた押上は、京成開業後発展していたものの、都心へは市電の乗り換えを必要とし、必ずしも便利とは言えなかったため都心部延伸を目指して1923年以降上野浅草への特許申請を6回繰り返した。しかし、当時の東京府東京市に存在した市営交通市営主義の厚い壁や、同じ頃業平橋から浅草延伸を計画していた東武鉄道との競合が絡んで事態は複雑化する。そして1928年9月に京成電車疑獄事件が発覚して、社長・専務ら会社幹部が逮捕される事態となり、結果的に浅草延伸は断念に追い込まれた。

その後、日暮里 - 筑波に鉄道敷設免許を有していた筑波高速度電気鉄道を東武鉄道との競合の末に、1930年10月21日吸収合併、その免許を利用する形で翌1931年12月19日青砥 - 日暮里間、1933年12月10日日暮里 - 上野(当時・上野公園)間を開業。念願であった都心延伸を果たした。また日暮里 - 上野間は上野公園下の地下線となったが、これは東京の郊外電車としては初のケースとなった[1]

この頃、1928年4月7日には白鬚線向島 - 白鬚間)を開業。白鬚橋を渡って三ノ輪橋王子電気軌道と結ぶ計画もあったが、上野延伸と引き換えの形で1936年2月28日に廃止された。

また、1927年8月21日には谷津支線京成花輪 - 谷津遊園地間)を開業したが、後に谷津海岸駅(現・谷津駅)からの道路が開通したために1931年10月27日に休止、1934年6月22日に廃止されている。

創業時から兼業として電灯電力供給事業、その後バス事業や土地分譲、谷津遊園の開設などが行われていたが、昭和恐慌での経営不振の打開策として、東京電燈から千葉県及び茨城県の一部の電灯電力供給事業を譲受すべく交渉。1934年11月9日に当事者同士での契約調印がなされたが、監督官庁の逓信省が認可しなかったため不成立に終わった。しかし資金・人材の手当は済んでいたこともあり、ここから積極的な兼業展開を展開することとなる。1936年には幕張に畜産加工工場を設立して精肉加工肉製造販売(「京成ハム」・「京成ソーセージ」などのブランド)や「京成シミトール」(胃腸薬)などといった薬品を直営で販売(大手私鉄が食品業・薬品事業を行ったのはこの社だけであると思われる)。1938年には帝都タクシーを設立、梅鉢車輛(後の帝国車輛)を系列化。1943年にはセレベス開発鉄道を設立した。これ以外にも百貨店経営や、株式会社大日本東京野球倶楽部東京読売巨人軍の前身)への出資(筆頭株主であった)などが行われていた。

その後、太平洋戦争が近付くに連れ、1942年には電灯電力供給事業を関東配電株式会社に譲渡。また陸上交通事業調整法の下で常磐線以南のエリアの統合中核企業とされたが、系列下にあった総武鉄道(2代)は東武鉄道に、城東電気軌道は東京市電に統合されたためバス会社の統合のみが行われた。この時総武鉄道(2代)を喪失したことが戦後新京成電鉄を設立する動機になったといわれている。併せて千葉県下の成田鉄道(2代)・小湊鐵道九十九里鉄道が京成の資本系列下に入り、戦後千葉県下全域に事業を拡大する基盤を得ることとなった。

戦時中特筆することとしては、日暮里 - 上野公園間が当時の運輸省接収を受けたことであろう。戦争末期空襲が激しくなってきたことに伴い、運輸省の疎開先として上野公園下の地下トンネルに目を付けられたのだった。しかしほとんど機能しないまま、まもなく終戦を迎えることとなる。

[編集] 戦後から高度経済成長期まで

戦後、沿線の下総台地にあった陸軍施設が軍隊解散とともに民間施設に転用された。中でも千葉・津田沼には鉄道連隊が設置され、演習線が津田沼を起点に千葉・松戸に延びていた。この演習線跡地に目を付けた京成電鉄は下総電鉄を設立して、連合軍総司令部 (GHQ)・運輸省への払い下げ交渉を開始した。西武鉄道との激しい競合の末に1946年3月に転用許可を、8月には路線免許を獲得。10月には新京成電鉄(下総電鉄を改称)を創立して新線開業を押し進めることとなった。

また、交通統制が緩んだこの時期に東京の電鉄各社は都心延伸の免許申請を行った。しかし、電鉄各社や営団東京都との利害が輻輳し、京成でも1950年8月に押上 - 有楽町間の免許申請を行ったものの、1957年6月運輸省の行政指導で「地下鉄網の建設・運営は『営団』『東京都』が担当」「各電鉄は地下鉄に相互乗り入れ運転」の方針が決定される。京成電鉄は京浜急行電鉄とともに東京都が担任する1号線(現・浅草線)に相互乗り入れすることとなったが、京成 - 京浜急行では軌間の違い(京成1372mm/京浜急行1435mm)が最大の問題となった。

京成・京急・都での協議の結果、軌間は1435mmに決定。そのため、京成電鉄では全線を11工程13工区に分けて改軌工事を実施、運転を継続したまま1959年10月9日夜から12月1日朝までの50日間で完工した。また、同年2月には押上駅の地下移設工事に着工し、翌1960年11月30日新駅が営業開始。予定の12月1日より4日遅れの12月4日午後より、1号線押上 - 浅草橋の開業によって初の郊外電車 - 地下鉄の相互乗り入れが行われることとなった。

戦災にあった千葉市は、戦後都市復興計画により抜本的な区画整理が行われたが、この時に国鉄・京成電鉄の路線変更及び両千葉駅移転も行われることとなった。京成千葉駅(現・千葉中央駅)が現在地に移転(仮)開業したのは1958年2月10日である。

1960年前後には千葉・茨城県下の交通各社を系列下に収めるべく、1959年5月に常総筑波鉄道、11月には鹿島参宮鉄道(以上2社は後の関東鉄道)、1960年11月には銚子電気鉄道千葉交通の傘下に)の各鉄道や周辺バス会社を傘下に収めていった。同じ頃には兼業部門の拡充を再開。流通部門では京成百貨店開業(1963年)や京成ストアの設立、不動産部門ではオリエンタルランド(1960年)や京成不動産1971年・不動産部の独立)、谷津遊園の拡充や京成ホテルの設立などが行われた。

[編集] 経営危機から再建まで

1970年代に入ると、競合路線の新設(1969年営団東西線西船橋延伸)や輸送力の増強(1972年総武本線東京 - 津田沼間複々線(総武快速線)開業)によって旅客を奪われるようになり、交通事業での収益を上げることが難しくなっていった。このため、収益源を兼業部門に求める傾向がますます強くなり、特に沿線を離れた東北北海道での土地買収・開発を押し進めていった。具体的には常磐急行交通1962年)での長距離バス進出(新橋 - 日立)、いわき貨物自動車(1962年系列化)・日本陸運(後の「みちのく急送」)に改称、1964年系列化)での陸送部門での関与、さらには南部縦貫鉄道へも資本参加している。

またニュータウン交通機関として新線建設を目的とした会社を相次いで設立した。北総開発鉄道(1972年)、千葉急行電鉄(1973年)、遅れて東葉高速鉄道(1981年)がそれである。そして成田空港へのアクセスを目指して1968年12月に新線免許を申請した。しかし、運輸省・新東京国際空港公団(当時)が空港ターミナルビル地下への乗り入れを拒否した(当時予定されていた成田新幹線との兼ね合いもあった)。結局、第一・第二ターミナルビルの中間に駅を設置(空港通勤者の交通機関という位置付けとされた)することとなり、1970年11月着工、突貫工事により1972年11月には建設工事を終了し、1973年2月には習熟運転も始まった。しかし、反対運動による開港の延期(さらには初代AE車への放火)で6年あまり営業できない期間が続いた。都心側でも、京成上野駅の改良工事が1973年6月から1976年7月まで行われた[2]

こういった大型投資を繰り広げている最中に、オイルショックに見舞われた。1977年度決算ではついに無配に転落。空港新線が開業できなかったことも一因としてあるが、とりわけ積極的な土地投資が裏目に出て、土地評価額の下落と金利負担が経営を圧迫、ついには累積赤字が1980年度上半期133億円、1983年度下半期281億円に達した。この時、京成線の廃止を検討していた。

1980年10月に経営再建計画を策定、25%に上る人員削減といった徹底した合理化と系列百貨店閉鎖などの兼業整理、谷津遊園跡地や津田沼の車両工場などの資産処分を次々と行った。また、1980年3月には日本民営鉄道協会からも脱退(再建後の1990年4月に復帰)し、春闘の賃上げ交渉も独自に行うなど、なりふり構わぬ経営再建を図った。このため、1980年代前半までは労働組合による単独のストライキが頻発することもあったが、傘下のオリエンタルランド東京ディズニーランドという優良資産を得たことや、リストラ策が功を奏して経営が好転した。1988年度には単年度の経常利益を計上、1989年度上半期には累積赤字を解消。下半期には株式配当も復活し、ようやく経営危機からの復活を果たすこととなった。

[編集] 再建、そして発展へ

1980年代後半以降、成田空港のアクセスを巡っては開港後も駅の立地の悪さから、離れた場所で苦戦を強いられ、投資が回収できない状態が続いた。しかし、高速道路渋滞によりリムジンバスの遅延が慢性化するようになったため、1988年になって空港アクセス鉄道建設に対して真剣に検討が行われた。この結果、東日本旅客鉄道(JR東日本)と共同での成田空港新駅への乗り入れ(1991年3月19日)が実現し、利便性が向上した。

21世紀に入り、鉄道部門では新型車両の導入や駅員の大量募集といった積極経営を行っている。駅員の募集は、毎年のように行われており、数多くの人数を受け入れている。また、M&Aの動きが活発化する中で、高い資産価値を持つオリエンタルランドに対して簿価の小さい京成電鉄が親会社となっていることへの懸念が指摘されており、2006年4月に株式の敵対的買収に対する防衛策の導入を発表した。

2010年には、成田新高速鉄道線が開業予定。日暮里 - 空港第2ビル間を最速36分で結ぶことになり、成田空港へのアクセスの利便性がさらに向上する。後述も参照。

[編集] 年表

[編集] 歴代社長

[編集] 鉄道事業

[編集] 路線

停車駅表


2007年1月時点で次の6線区(102.4km)を有する。

ただし、本線のうち駒井野信号場(本線分岐部) - 成田空港間(2.1km)は、成田空港高速鉄道第3種鉄道事業者)が施設などを保有しており、京成電鉄は第2種鉄道事業を行っている。

また、都市基盤整備公団の「独立行政法人都市再生機構」への改組に関連し、公団が保有していた鉄道施設(北総鉄道北総線小室 - 印旛日本医大間や車両など一式)が、京成の全額出資で設立された新会社「千葉ニュータウン鉄道」に移管され、引き続き北総鉄道が第2種鉄道事業者として運行を行っている。

なお、北総鉄道を介して成田空港駅まで高速で結ぶ新線(成田新高速鉄道線)が成田高速鉄道アクセスの手によって建設中であり、2010年4月から京成電鉄が第2種鉄道事業者として列車の運行を行う予定である。新線を使用した場合の空港第2ビル - 日暮里間の所要時間は、スカイライナーで36分、特別料金不要の特急で59分としている。これに関連して、北総・公団線(当時)の区間を含む京成高砂 - 成田空港間の第2種鉄道事業許可を2002年7月に取得している。これにより駅数は79駅となり路線総延長も140kmを超え、関東大手私鉄の総延長は小田急電鉄を抜いて第4位となる。

本線京成高砂 - 京成津田沼間と押上線では地上を走る部分で恒常的に踏切が開かずの踏切と化しており、各所で連続立体交差化事業が進められている。本線の海神 - 船橋競馬場間付近で行われている連続立体交差化事業では、2004年11月27日より海神 - 船橋競馬場間の上り線、2006年11月25日より同下り線の高架が供用開始された。また、押上線でも押上 - 八広間と四ツ木 - 青砥間(2012年度完成予定)の2区間で連続立体交差化事業が行われている。これらが完了すると優等列車のスピードアップが実施され、大幅に所要時間が短縮される予定である。さらに、お花茶屋駅、京成小岩駅、京成八幡駅付近でも立体化工事の計画が浮上している。

また、本線の青砥 - 京成上野間は筑波高速度電気鉄道の免許を買収してその免許を利用して敷設したものだが、元々上野には押上から浅草を経て行く計画だった。しかし先に東武鉄道に対し浅草延伸が認められたため、焦った京成は東京市議会有力者を巻き込んだ京成電車疑獄事件を引き起こしてしまい、この計画は頓挫してしまった。仕方なく王子電気軌道との接続を目指して白鬚線を建設するなどしたが、会社合併を持ち掛けた筑波高速度電気鉄道からの話に乗る形で、やや遠回りではあるが現行の日暮里経由の経路で上野乗り入れを果たした。その他の筑波高速の免許線については「もし、戦争がなかったら筑波にも延伸する予定」と社史などに書かれているが、実際には戦前に免許が放棄されている。京成上野駅付近のトンネルは当時御料地であった上野公園の下を通過することから御前会議にまでかけられた。

[編集] 廃止路線

  • 白鬚線:向島駅 - 白鬚駅間(1.4km) - 1928年4月7日開業、1936年1月27日廃止。駅は向島・長浦・京成玉の井・白鬚の4駅。
  • 谷津支線:京成花輪駅(現・船橋競馬場駅) - 谷津遊園地駅間(1.1km) - 1927年8月21日開業、1931年休止、1934年廃止。途中駅は未設置。

[編集] 直通運転

それぞれ相互直通運転している。ただし京成車両は現在京急蒲田駅からすべて空港線に入るため、多摩川を渡って神奈川県に入ることはない(箱根駅伝開催時は京急蒲田空港線第一踏切をランナーが通過するため、その時間帯のみ京急川崎駅まで乗り入れることがある、またかつて平日夜に三崎口駅まで乗り入れていた)。

このほか、京成津田沼駅より新京成電鉄千葉線に直通している。かつて新京成線が全線開通した1950年代中頃にも直通運転が行われていたが、その後廃止されていた。しばらく直通運転は行われていなかったが、2006年12月10日のダイヤ改正から千葉線への乗り入れが新京成車両の片乗り入れにより再開された。ホームの有効長が6両分しかないので8両編成は乗り入れない(8両編成対応なのは京成千葉駅以東である)。現時点では千原線に乗り入れや京成車両が新京成線に乗り入れる運転は行っていないが、将来は千原線への乗り入れやラッシュ時の運転、京成車の新京成線乗り入れも検討されている。

[編集] 改軌工事

1956年8月運輸省(現・国土交通省)が「東京およびその周辺における都市交通に関する第1次答申」策定する。この答申は東京のターミナル駅における混雑の緩和を狙ったもので、11の地下鉄を整備し、一部での相互直通運転を行うというものだった。この「相互直通運転」の対象となったのは都営地下鉄1号線(現・都営地下鉄浅草線)及び京成電鉄・京浜急行電鉄である。これにより3者による規格統一に向けての議論が行われるが、規格統一の際に浮かび上がった大きな難題が軌間の違いである。

当時、京成電鉄は軌間1372mmの「馬車軌(偏軌)」、それに対して京浜急行電鉄は軌間1435mmの標準軌を採用していたが、相互直通運転に際して当然ながら統一する必要があった。ともに運転頻度の高い路線だが、議論の結果京成電鉄が対策をとることとなった。この時1372mmと1435mmの三線軌条四線軌条とする案も挙がったが、車輪やレール同士の干渉など物理的な問題により、結局全線改軌の方針となった。

まず、改軌のテストも合わせて1959年(昭和34年)8月18日 - 11月30日に同じく軌間1372mmの新京成電鉄新京成線の改軌を実施し、この成果を見て改軌工事計画を立案した。

まず、同年春に犬釘をレールの外側に仮打ちする工事を行い、改軌工事のスムーズ化を図った。そして同年10月9日 - 12月1日に改軌工事を行うこととした。

改軌工事の工程は、

  1. 1959年10月9日10日:千葉線 京成幕張 - 京成千葉(現・千葉中央)間 8.8km
  2. 1959年10月13日14日:本線 宗吾参道 - 京成成田間 4.2km、千葉線 京成津田沼 - 京成幕張間 4.0km
  3. 1959年10月17日18日:本線 鹿島川専用乗継場(一般には京成臼井 - 京成佐倉仮駅と案内されていた) - 宗吾参道間 8.0km
  4. 1959年10月20日21日:本線 京成大和田 - 鹿島川専用乗継場間 10.5km
  5. 1959年10月24日25日:本線 京成津田沼 - 京成大和田間 9.0km
  6. 1959年10月28日29日:本線 東中山 - 京成津田沼間 8.1km
  7. 1959年11月4日5日:本線 京成高砂 - 東中山間 8.9km
  8. 1959年11月10日11日:押上線 押上 - 青砥間(全線) 5.7km
  9. 1959年11月16日17日:本線 お花茶屋 - 京成高砂間 2.8km、金町線 京成高砂 - 京成金町間(全線) 2.5km
  10. 1959年11月22日23日:本線 日暮里 - お花茶屋間 7.8km
  11. 1959年11月30日12月1日:本線 京成上野 - 日暮里間 2.1km

となっており、1工程終了後2日以上の準備期間を設けて行うというものであった。

そして準備が整った10月9日に改軌の第1工程となる千葉線京成幕張 - 京成千葉間の改軌を開始、翌10日に予定通りに終了し、同区間で最新鋭の3050形による始発列車が運転された。その後改軌工事は順調に進み、11月30日に最終13工区の京成上野 - 日暮里間の改軌を予定より2日前倒しして終了、これを以って京成電鉄全線の改軌が終了した。

これと並行して、京成電鉄は軌間1372mmの旧型車両の改軌と東武鉄道の協力を得て押上駅の地下化も行い、1960年11月29日に同駅の地下化を以ってすべて終了した。翌月12月4日に都営浅草線浅草橋 - 押上間が開業し、浅草橋 - 東中山間で日本初の民鉄・地下鉄の相互直通運転が開始された。

[編集] 線路施設

2004年10月時点で京成では手動式踏切が3か所設置されていた。このうち、船橋1号踏切は高架化工事に伴う2004年11月の上り線切り替え時に自動化された。残る高砂1号・2号踏切も東武鉄道伊勢崎線竹ノ塚駅の踏切事故を受けた安全対策の一環として自動化が行われることとなり、2号踏切が2006年3月30日に、1号踏切が9月28日に自動化された。

騒音防止のため、ロングレール化や重軌条化が急速に進行しており、将来は木製の枕木の使用を廃止し、PC及び合成枕木に統一する予定である。

[編集] 列車種別

京成電鉄では普通急行快速、通勤特急、特急快特、そしてスカイライナーが運転されている。

[編集] スカイライナー

詳細は「スカイライナー」を参照

有料の空港アクセス列車として、特急より上格の列車である「スカイライナー」を1973年12月30日から運行している(成田空港乗り入れは同空港が開港した翌日の1978年5月21日から)。その後同列車は1985年10月19日から朝夕はそれぞれ「モーニングライナー」「イブニングライナー」と名前を変え、JRでのホームライナーに相当する通勤輸送も行っている。


[編集] その他の種別

列車種別
(2006/12/10-)
8:スカイライナー他

普通列車は、路線図や発車案内装置においては普通と案内されるが、駅の案内放送などによっては各駅停車と案内される。

2002年10月12日のダイヤ改正より高砂以東の「急行」を廃止し「快速」を新設するなど、種別の再編を実施した。

2006年12月10日のダイヤ改正より特急停車駅が大幅に見直され、佐倉 - 成田空港(一部芝山千代田)間が各駅停車となり、早朝・夕夜間に従来の特急停車駅と同じである「快特」が新設された。しかし、快特の登場により「快速(カイソク)」と「快特(カイトク)」の発音が似ており誤乗を招くという問題が発生したため、2007年8月16日より一部案内において快特を「快速特急」と案内するよう変更された。空港アクセス列車であるが、快特も特急も英略は「Limited Express」である(京浜急行電鉄においても同一)。

都営浅草線の上り直通列車は基本的に押上駅(朝夜の一部は高砂駅)にて種別が変わる。高砂駅で変更される場合は「普通→快速」となる。またラッシュ時には北総線直通の急行(北総線内も急行運転)が運転される。

[編集] 車両

都営浅草線乗り入れ列車が多く、初代3000形以降の一般車全形式が地下鉄乗り入れ規格である「都営1号線直通車両規格」準拠となっている。助士席側には遮光幕を設けないのが特徴である。

形式呼称は小田急電鉄京浜急行電鉄などと同様に「…系(けい)」ではなく「…形(がた)」を使用する(初代3000形から3300形までの1号線直通規格普通鋼製通勤車、いわゆる「赤電」を総称して3000系と呼ぶことがあるが、あくまでも通称である)。

京成における車両システム上の特徴は初期新性能車の750形から駆動装置を2種併用で採用している事で、保守・管理上からは統一する方が望ましいと思われるが,近年導入が続いている新3000形においても継続されている。 また“3000系”及び3500形は全電動車編成であるが、このうち3221以降の3200形3300形・3500形以降についてはコスト削減を目的に、主電動機を75kWから100kWに出力アップして2両あたり8台から6台に減らしており(1.5M-0.5Tユニット、6M車と呼ばれる。2両あたりの合計出力は従来の8M車と同じ)、京成の抵抗制御車の特徴となっている。

乗り入れ先の京浜急行電鉄の信号システムが先頭台車を動力台車とする前提で設計されている[3]ため、京成車が京急に通常ダイヤで乗り入れるようになった1990年以降製造された3700形以降の各形式では先頭車が制御電動車とされ、製造時は先頭台車が付随台車だった“6M車”も車体更新時に先頭が動力台車となるように改造された。また、2代目AE形を除いてボルスタレス台車を採用していない。台車の色は3700形以前の車両でサックスブルーで塗装されていたが、2003年2月デビューの3000形以降はグレー塗装とし、3700形以前の在籍車両も2003年7月 - 2007年4月の全般検査・重要部検査時にグレーの塗装に変更した。

宗吾工場では北総鉄道舞浜リゾートラインの車両も検査することがある。

2008年7月12日現在、営業用車両522両を保有する(事業用車・休止車両・保留車等を除く)。各系列の詳細、使用線区、運用などについては、それぞれの記事を参照されたい。

他の大手私鉄とは異なり、新京成電鉄以外の地方私鉄へ移籍したもの、民間に売却されて保存されている車両は2009年1月現在に至るまで存在しない。但し、冷房装置が長野電鉄に売却され3500系・3600系電車に移植された実績はある。

[編集] 現有車両

  • AE形(2代)(新型スカイライナー 2009年 - 2010年度に8連8本の64両を製作、車両デザインは山本寛斎。京成では1600形更新車以来のアルミ車となる)保有しているが運用開始は成田新高速鉄道線開通後になる予定。
  • AE100形(スカイライナー)
  • 3000形(2代)(京成グループ標準車両)
  • 3700形(京成グループ主力車両・1編成は北総鉄道にリース。成田新高速線運用対応工事中)
  • 3600形(京急乗り入れ不可・1編成はVVVF化改造車・芝山鉄道に1編成がリース)
  • 3500形(更新車・未更新車混合。未更新車は京急乗り入れ不可・順次廃車)
  • 3400形(AE形の機器流用車)
  • 3300形(廃車進行中・1編成は北総鉄道にリース)

[編集] 廃車・転出

[編集] 特急専用車
  • 1500形(初代開運号)
  • 1600形(2代目開運号。晩年は2両が試作アルミカーに更新され、残り1両は青電タイプの車体に載せ替えられた)
  • AE形(正式形式名は「AE車」。初代スカイライナー)
[編集] 1989年以降の消滅形式
  • 1000形(旧京浜急行1000形)
  • 3000形(初代)(最初の都営浅草線乗り入れ用車両)
  • 3050形(初代)(改軌と同時に登場した車両)
  • 3100形(晩年は6両が千葉急行電鉄で活躍した後2両が京成に復帰)
  • 3150形(一部に3代目開運号用のボックスシート車両があった)
  • 3200形(同上。開運号用車両のみ3150形に合わせて片開き扉。3221号からは6M車)
  • モニ10形事業用車(電動ホッパ車)
  • リキ100形事業用車(土運車)
  • モニ20形事業用車(電動貨車)
  • チ5形事業用車(長物車)
  • トキ20形事業用車(無蓋車)
[編集] 1988年以前消滅形式

1931年新造の200形から1946年新造の220形まではドア配置が左右対称ではなく点対称という特徴のあるデザインであった。ドアを左右非対称に配置することで混雑の均等化を狙ったといわれている。また、1970年代後半頃までは新京成電鉄に移った車両が多かった。

なお、旧型車は形式が多種多岐にわたるが車体サイズや性能から便宜的に以下のように分類される

(※:多段式制御装置を持つ形式)

開業当時の車両
  • 1形(1912年の開業時から1927年の1200V昇圧時まで使用された)
20形関連
(15メートル級の木造車で、車体長は100形と同じ)
  • 20形(一部は200形と同様の非対称の半鋼製車体を新造し、また、一部は新京成に譲渡された。現在、宗吾車両基地に本形式の台車が保存されている)
33形関連
(製造当初13メートル級の木造車)
  • 33形(全車が戦前に鋼体化され300形となった)
  • 39形(40、43は戦前に鋼体化され300形となった)
  • 45形・300形(新京成電鉄への移籍後に全金属車体に更新した)
100形関連
  • 100形(昭和40 - 50年代に掛けて新京成電鉄に移籍し、主力として使用された)
  • 126形(製造当時は制御車だった、新京成電鉄への移籍後に全金属車体に更新した)
200形(210/220形関連)
(※:更新時に多段式制御装置を装備)
  • 200形(左右非対称ボディや関東では当時屈指の高速性能で有名な戦前の代表車両。引退後は新京成電鉄に移籍し、1990年まで使用された)
  • 500形・510形(製造当初は制御車であった。京成では1980年まで使用され、最後の吊掛駆動の営業車であった)
  • 1100形(京成での新製車と新京成で他形式から編入された車両の2グループからなる)
  • 1500形(2ドアクロスシートで、製造当初は制御車であった)
  • 2000形(17m戦災国電の復旧車、210形の制御車としても活躍した)
  • 220形(戦後初の新車)
  • 600形(いわゆる運輸省規格型車両で、末尾2両のみ新京成電鉄に譲渡された)
  • 1600形※(開運号。後に2両は試作アルミカーに改造、700系と同性能になった)
  • 2100形・210形・2000形※(更新と同時に新性能化、1980年代に塗装変更され、1988年まで使用)

※このほか、新京成独自の形式として2300形(200・500形の電装解除)、250形(新京成初の自社発注車、旧性能)があった。

700/750形※
(当初から多段式制御装置を持つ形式)
  • 700形・2200形(704-2203は京成初の新性能車で、晩年は行商専用車として活躍した)
  • 750形・2250形(京成初の量産新性能車。更新されずに短命に終わった)
事業用車

このほかにもある。

[編集] 新造予定

[編集] 車両基地

京成電鉄の車両検修施設」を参照

[編集] 運賃

大人普通旅客運賃(千原線除く・小児半額、10円未満切り上げ)。2004年12月1日現在。

キロ程 運賃(円) キロ程 運賃(円)
初乗り3km 130 36 - 40km 520
4 - 5km 150 41 - 45km 580
6 - 10km 180 46 - 50km 640
11 - 15km 250 51 - 55km 700
16 - 20km 310 56 - 60km 750
21 - 25km 360 61 - 65km 810
26 - 30km 420 66 - 70km 860
31 - 35km 470
  • 加算運賃
    • 京成成田以西と空港第2ビル・成田空港間:140円を加算
    • 京成成田以西と東成田間及び京成成田 - 成田空港・東成田間内のみ:70円を加算
    東成田 - 空港第2ビル・成田空港間の運賃は京成成田 - 駒井野信号場間のキロ数(片道6km)を含めないで算出する。
  • 空港第2ビル - 成田空港間は並行するJRに合わせて上表に関係なく140円の特定運賃。ただし、成田空港の2ターミナル間は連絡バスで無料で移動できる。

東京都心と成田空港間では京成が最も安い(京成上野・日暮里 - 成田空港間:片道1,000円、押上 - 成田空港間:片道950円)。

[編集] 研修所

宗吾参道駅近くに京成電鉄研修所があり、乗務員の養成などの研修を行っている。自社の電車運転士の教習を行うほか、有料で他社の電車運転士の養成も受託しており、新京成電鉄や北総鉄道など京成グループの運転士も養成している。従って京成グループの運転士は一度他社(京成)の施設、および電車と線路を使って教習を受けるということになる。自社で研修所を持たない鉄道会社も多いため、他社で教習を受けることは珍しくない。車掌や駅員も同様に現地で研修を実施している。

なお以前は東葉高速鉄道の運転士養成も受託していたが、同社が委託先を変更したので現在は受託していない。所内には3500形と3400形のシミュレータが存在する。

[編集] 不動産事業

[編集] 主要なグループ会社

詳細は「京成グループ」を参照

主に千葉県を中心にバスやタクシーなどの交通、観光関係の事業を展開しているグループ会社が多い。

また、2003年10月1日にはバス事業が分社化されて京成バスとして再出発した。

京成電鉄が筆頭株主であるオリエンタルランド (OLC) の株式時価総額が京成電鉄を上回っているため、京成電鉄を買収することでオリエンタルランドの経営権を手にすることができることから、敵対的買収のリスクを抱えていることが指摘されている。

なお、2005年7月になって東証2部上場投資会社バイアウト・ファンド)「プリヴェチューリッヒ企業再生グループ」(現・プリヴェ企業再生グループ)が筆頭株主となった。プリヴェは表向きは投資目的としているが、東京スカイツリーが沿線に建設されるのを見越しての投資と言われている。

2006年3月10日、OLCと京成電鉄は業務提携及び資本提携の強化を発表。また同関係を強固なものにするため、OLCは6日までに京成電鉄の普通株式を約1千万株(発行済み普通株式の約3.4%)取得したと発表した。これは、株式を持ち合うことにより上記のプリヴェなどによる企業から京成を経由してのOLCへの経営支配力を弱めることが目的とされている。

[編集] 特記事項

[編集] 「京成」を冠する駅名の扱い

  • 正式名称に自社名を冠する駅名(京成○○)の数は鉄道会社の中でも多い。
  • 京成電鉄では、自社線内向けの案内においては、「京成○○」(例:京成高砂京成千葉)という正式駅名から「京成」を省き「○○」(例:高砂、千葉)としている。ただし京成津田沼駅では例外的に「京成津田沼」と駅名標や路線図に書かれている(方向幕や駅・車両の案内表示器は新京成保有車両を除き「津田沼」のみ表示)。これは京成グループである新京成電鉄の隣駅で、かつJR東日本津田沼駅との乗換駅である新津田沼駅が存在して紛らわしいことが理由と思われる。また、京成幕張本郷駅でも「京成幕張本郷」と駅名標に書かれている。これはほぼ並行するJR東日本総武線幕張本郷駅と駅舎が事実上一体化しており、紛らわしいことが理由と思われる。
    • 関屋・高砂・大久保・大和田・立石の各駅は、同名駅が同都県ではないので混同される恐れはない。
    • 上野・八幡(本八幡)・船橋・成田・金町・幕張本郷・幕張・千葉の各駅は、同名(または括弧内)のJRあるいは地下鉄・モノレールの駅と近接していて徒歩乗換が可能である。
    • 小岩・国府台市川)・市川真間(市川)・中山(下総中山)・西船(西船橋)・津田沼・佐倉・酒々井・曳舟・稲毛の各駅は、同名(または括弧内)の他社線のりかえに時間がかかる(振替輸送で徒歩5-10分程度の距離にある小岩・西船や中山、市川真間、曳舟が使われることがある程度で、その他の駅については徒歩では20分以上要し、連絡はバスに頼らざるを得ない。
      • なお、異名の連絡駅としては関屋が牛田東武伊勢崎線との乗換えが可能であり、両駅の近辺に限られるが連絡乗車券も発売されている。
    • 中山は、同名の駅横浜市東日本旅客鉄道(JR東日本)横浜線と横浜市営地下鉄グリーンラインの駅として存在する。
    • 八幡は、同名の駅北九州市九州旅客鉄道(JR九州)鹿児島本線の駅として存在するが、読みは「やはた」である。なお、他社私鉄では名鉄豊川線に同音の「八幡駅」が、遠州鉄道に「八幡(はちまん)駅」が存在する。
    • 臼井は、同名の駅福岡県嘉穂郡碓井町(現・嘉麻市)に九州旅客鉄道(JR九州)上山田線の駅で存在していたが、1988年に上山田線が廃止されたため現在は存在しない。ただし、相互直通運転を行なっている北総鉄道白井駅と混同されやすい事から「うすい」と平仮名で表記する事がある。
    • 他社線との乗り換え駅(相互乗り入れに限らず)の場合も、非公式ながら駅名に京成○○と呼称する場合もある。主に地元の人間が混乱を避けるために呼ぶ場合が目立つ。(例:京成町屋など)

[編集] 旅客向け案内

  • 成田空港に関する詳細な案内が成されている。
    • 通勤用車両には各扉の戸袋部分、スカイライナー用AE100形は各座席テーブル部分に成田空港を発着する各航空会社の一覧表が掲示されている。成田空港は航空会社などによって旅客ターミナルが異なり、第2旅客ターミナル、第1旅客ターミナルは、それぞれ空港第2ビル駅成田空港駅と下車駅が違うため、混乱を防ぐために貼付されたものである。
  • 2006年4月29日より一部の特急列車で英語の自動放送が行われている。内容は成田空港行では成田空港駅・空港第2ビル駅での降車駅案内と荷物検査案内、上野行では青砥・日暮里・上野の各駅での乗り換え案内である。放送の声はクリステル・チアリである。なお自動放送は市販のICレコーダーによるもので、車両の放送装置には、ICレコーダーが接続できるよう工事が行われている。
  • 案内放送の特徴として「XXにはX時X分到着の予定です」と、「予定」の言葉を使用して放送している。
  • 京成電鉄が所有する車両の中にある路線図は、京成線全線の路線図のほかに、京成グループの新京成線北総線の路線図や、相互乗り入れ先である都営浅草線京浜急行全線・芝山鉄道線の路線図も一緒に書き込まれているため、大変サイズが大きく、書き込まれている駅数も多い。

[編集] 列車および車両

行商専用車の窓に運行時のみ貼付されるステッカー
  • 京成電鉄では行商の人のために「行商専用車」を運転している。かつては専用列車が数往復していて、一部に押上発着もあったが、現在は普通列車1本(第736列車、7:46芝山千代田発・9:45京成上野着)のみの運行となっている。専用車は6両編成の最後尾の1両が充てられ、この車両には一般の旅客は乗車できない。ただし、稀に行商組合で定められた休日のみ当該時刻の列車であっても一般客に開放される。運用は6両固定すべてが入り、最新の3000形も「行商専用車」の札を横窓に下げ、5両目と6両目の間の貫通扉にも札を下げている(同様の目的を持った列車としては、近畿日本鉄道で鮮魚の行商人専用に列車を貸し切っている鮮魚列車が存在する)。
  • 2005年5月より、平日上りの通勤特急の成田寄り1両に女性専用車を設定した。今後、他の列車へも順次設定を拡大していく予定である。

[編集] 鉄道施設内の商業撮影

京成電鉄は日本の鉄道事業者で初めて映画テレビ番組CMの撮影を鉄道施設内で行うことを認めた会社である。その後関連会社の北総鉄道でも実施され、北総鉄道の方が登場機会が多くなった。

[編集] 元官僚などとの関係

経営危機に陥った1970年代後半に、運輸省(現在の国土交通省)出身の佐藤光夫が社長に、日本興業銀行出身の村田倉夫が副社長に就任し、それ以来ごく最近まで運輸省のOBや銀行出身者が経営に参画し、事実上の国家管理・銀行管理となっていた(厳密には国家管理ではない)。これは、不動産投資の失敗や石油ショック後の不況、成田空港関連の先行投資負担(及び開港の遅れによる損失)が重なって破綻寸前に追い込まれたためである。上野の京成百貨店が撤退したことや谷津遊園を閉園したのもこの影響である。佐藤・村田のリーダーシップのもとで京成はなりふり構わぬ徹底した経営再建を推し進め、その努力は1989年度の累積赤字一掃・復配により結実した。

[編集] 広報誌

京成電鉄では、『京成らいん』という広報小冊子を毎月発行しており、京成電鉄各路線のすべての駅において専用スタンドに置かれている。1951年「京成文化」という題名で創刊。その後「京成ライン」を経て「京成らいん」と改題。当初は有料で販売していた[4]が、現在は無料配布している。2008年2・3月号で通巻第600号を数えている。沿線案内や京成グループ各社のPRだけではなく、京成沿線にゆかりのある有名人・文化人などのインタビューコーナーもある。現在では京成電鉄ホームページからも最新号およびバックナンバー(ただし過去7号まで)をFLASH形式で閲覧することができる。

[編集] 競馬

中央競馬では、三大都市圏の5場において観客輸送を担う鉄道事業者が特別競走に賞を出しているが、京成も中山競馬場の観客輸送をJR東日本とともに担っているため、京成杯京成杯オータムハンデキャップ(共にGIII競走)に社杯を提供している。競馬場の最寄り駅は東中山駅である(特に大きな重賞の時は、特急が臨時停車することもある)。

[編集] 提携など

[編集] 輸送関係

  • オリエンタルランド - 京成電鉄沿線における新規事業展開や東京ディズニーリゾートへのゲスト輸送力のさらなる拡大、その他両社グループ会社双方の協力による事業展開を模索する業務提携。
  • 近畿日本ツーリスト - 京成電鉄側は、子会社京成トラベルにおいて、近畿日本ツーリストの旅行商品を主要商品と位置づけ、同商品の増売に取り組んでいる。近畿日本ツーリスト側は、主に京成電鉄の成田空港アクセスにおいて鉄道・バス・タクシーの利用促進を図る施策を検討、実施する業務提携をしている。

[編集] 京成カード(自社発行のクレジットカード)関係

  • 三菱UFJニコス - クレジットカード会社側として運営面の業務提携をしている。
  • 千葉銀行 - 千葉銀行の取引実績により発生するポイント「リーフポイント」を京成カードのポイントサービス「京成グループポイント」に、交換することができる業務提携をしている。
  • 中央三井信託銀行 - 京成カード所有者に対して、中央三井信託銀行の取引実績により「京成グループポイント」が発生するほか、住宅ローン金利優遇特典を提供する業務提携をしている。
  • 楽天 - 「京成グループポイント」を、「楽天スーパーポイント」に交換することができる業務提携をしている。

[編集] 脚注

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  1. ^ 京都市では1931年3月31日新京阪鉄道(現阪急京都本線)が、神戸市では1933年6月17日阪神本線が地下乗り入れを果たしている。
  2. ^ 成田空港建設中から、開港、そして鉄道乗り入れ後も度々中核派などによって線路や会社関係者宅や関係施設に爆弾が仕掛けられることがあった。2000年代に入ってからはほとんど見られなくなっている。
  3. ^ 「京浜急行の先頭電動車編成について」電気車研究会鉄道ピクトリアル』1998年7月臨時増刊号(通巻656号)掲載による。
  4. ^ 京成らいん 2008年2・3月号

[編集] 参考文献

  • 白土貞夫『ちばの鉄道一世紀』
  • 京成電鉄『京成電鉄85年のあゆみ』

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ
マルチメディア
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