佐々淳行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

佐々 淳行(さっさ あつゆき、1930年12月11日 - )は、日本評論家

警察官として東大安田講堂事件あさま山荘事件など歴史に残る事件を始め数々の事件を担当・指揮し、要人の警備担当責任者として抜擢され、防衛施設庁長官・内閣安全保障室初代室長など数々の要職を務めあげ、各国の重要人物とも太いパイプを持っている。 三男は寝具メーカー西川産業の代表取締役を務める西川康行。

目次

[編集] 渾名

  • 事件を呼ぶ男
  • さすらいのガンマン
  • ダーティー・ハリー(ダーティハリーより)
  • 縦社会を横に生きた男
  • 血刀下げて裸馬に乗って単身敵陣に斬り込んでいく奴(後藤田正晴による)
  • "軍師"(石原慎太郎三選の都知事選挙で選挙対策本部長を務めた際の週刊誌評)

[編集] 受賞・受章歴

[編集] 系譜

戦国武将佐々成政の実姉が祖先であると伝えられ、時代劇『水戸黄門』でおなじみの助さんのモデルとなった佐々宗淳の兄佐々勝朗を祖先に持つ。

佐々友房は祖父。父は法学者の佐々弘雄。兄に朝日新聞記者、作家の佐々克明日本婦人有権者同盟代表で元参議院議員紀平悌子は姉。

佐々家には、幾振かの家伝の名刀が伝わっており、そのうち「虎徹」の一振りを、浅間山荘事件で苦労を分かち合い盟友となった、指揮下の機動隊長に贈ったという。

母方の祖先は和田義盛と伝えられ、母は和田万吉の娘。

[編集] 年譜

1930年

  • 12月11日 佐々弘雄の次男として、東京都麻布材木町で生まれる

1945年

1954年

1955年

1956年

1957年

1959年

1960年

  • 7月 警視庁外事課長代理(第一次安保闘争末期警備に従事)

1961年

1962年

1964年

1965年

1967年

  • 5月 香港暴動、領事として在留邦人保護を担当

1968年

  • 1月 ベトナム出張でサイゴン滞在中、テト攻勢に遭遇。臨時一等書記官として在留邦人保護にあたる
  • 7月 警視庁公安部外事第一課長
  • 11月 警視庁警備部警備第一課長

1969年

1970年

  • 7月 警視庁警務部人事第一課長
  • 9月 警視庁警務部参事官

1971年

  • 11月 警察庁警備局付警務局監察官

1972年

1973年

1974年

1975年

1977年

  • 1月 警察庁刑事局参事官
  • 8月 防衛庁出向。防衛庁長官官房防衛審議官(防衛白書担当)

1978年

  • 11月 防衛庁教育担当参事官(のちの人事教育局長に相当。以後政府委員として退官時まで国会の各委員会で答弁)

1980年

  • 6月 防衛庁人事教育局長

1982年

1983年

1984年

1986年

1987年

1988年

1989年

  • 2月 大葬の礼の警備責任者を担当
  • 5月 中国・苗長栄陸軍少尉に天安門暴動鎮圧につき助言を行う
  • 6月 内閣安全保障室長を辞任、退官

1990年

  • 2月 後藤田正晴の選挙応援の為、徳島へ
  • 3月 台北訪問。李登輝総統、許水特内政部長らと会談
  • 5月 西ドイツ連邦殊勲十字章受章
  • 8月 湾岸危機につき、首相閣外補佐を担当
  • 10月 渡米。情報収集の結果、湾岸地区における開戦必至の確信を得る
  • 12月 マスコミを通じて、開戦を前提に政策提言を展開

1991年

  • 2月 札幌出張中、宿泊先で海部首相より電話を受ける。テレビ朝日サンデープロジェクト」出演中、地上戦突入を知る
  • 3月 渡米。日本の90億ドル戦費負担額につき、米側高官と交渉
  • 4月 ボランティア団体・日本国際救援行動委員会(JIRAC)を設立し理事長に就任
  • 5月 北京訪問。公安部(警察)幹部に機動隊設立のための助言を行う
  • 8月 JIRAC、クルド難民救援活動。テレビ朝日「朝まで生テレビ!」で、ソ連崩壊つき、共産党議員と議論

1992年

  • 3月 渡米。プルトニウム輸送問題で交渉
  • 6月 日本新党の議員候補者リストに名が挙がる
  • 8月 JIRAC、カンボジア帰還民救援活動
  • 9月 ロシア極東地区弱者救援活動を目的として現地視察
  • 12月(~翌年1月) カンボジア帰還民救援活動

1993年

  • 1月 JIRAC、ロシア極東地区福祉施設等救援活動
  • 4月 慶應義塾大学法学部政治学科非常勤講師
  • 8月 JIRAC、ロシア極東地区福祉施設等救援活動
  • 9月 慶應義塾大学法学部で「日本の安全保障行政」講義開始(6年間に及ぶ)

1994年

  • (前年12月~)1月 JIRAC、カンボジア救援学校建設等活動
  • 3月 JIRAC、対ロシア支援評価有識者ミッション
  • 4月 日米文化教育交流会議(カルコン)日本側パネル委員就任。内外情勢調査会理事と日本国際フォーラム政策委員就任
  • 5月 JIRAC、ロシア極東地区福祉施設等救援活動

1995年

  • (前年12月~)1月 JIRAC、カンボジア救援学校建設等活動。阪神大震災救援物資運送活動
  • 2月 首相官邸にて、村山首相に震災対策に関する意見具申
  • 3月~5月 オウム真理教による地下鉄サリン事件関係で多数のテレビ出演。
  • 6月 全日空857便ハイジャック事件発生。滞在中のハワイから全日空職員に電話で、ハイジャック対処法を助言
  • 7月(~翌年8月) ロシア極東地区福祉施設等救援活動

1996年

  • (前年12月~)1月 JIRAC、カンボジア救援学校建設等活動
  • 3月 新官邸危機管理懇談会メンバー就任
  • 4月 平成国際大学法学部政治学科非常勤講師就任
  • 8月 JIRAC、ロシア極東地区福祉施設等救援活動
  • 12月 JIRAC、カンボジア救援学校建設等活動。ヴィクトル・アリトミ駐日ペルー大使に、ペルー大使公邸占拠事件への対処法を助言

1997年

  • 7月 アルベルト・フジモリ大統領歓迎晩餐会に出席
  • 8月 JIRAC、ロシア極東地区福祉施設等救援活動。建設省河川審議会危機管理小委員会座長就任
  • 12月 JIRAC、カンボジア救援学校建設等活動

1998年

  • 3月 人道目的地雷除去支援の会(JAHDS)理事就任
  • 12月 JIRAC、カンボジア救援学校建設等活動

1999年

  • 2月 日米文化教育交流会議出席のため、沖縄へ。稲嶺知事よりサミット招聘への協力を求められる
  • 6月 東京都移転問題専門委員会委員就任
  • 7月 ハイジャック対策につき、小渕総理、野村全日空社長に意見具申
  • 8月 ハイジャック対策懇談会座長就任
  • 12月 JIRAC、カンボジア救援学校建設等活動

2000年

  • 2月 JIRAC、カンボジア地雷撤去活動
  • 12月 第48回菊池寛賞受賞

2001年

2002年

  • 5月 映画「突入せよ!あさま山荘事件」公開。東映本社に小泉首相を迎え、特別試写
  • 7月 横浜市専門委員に就任
  • 9月 アメリカ同時多発テロ1周年取材のため滞米中、小泉純一郎首相の訪朝および拉致問題の対処を支持する立場を表明。帰国後、ハイジャック事件解決の功により国交相より表彰を受け、皇太子夫妻に拝謁

2004年

2005年

  • 9月19日午後8時53分 元上司・後藤田正晴が逝去。享年91
  • 10月31日 後藤田正晴のお別れの会に出席。ホテルニューオータニ「芙蓉の間」で約3000人が参列

2007年

[編集] 経歴

[編集] 生い立ち

1930年東京熊本県人の学者佐々弘雄の次男として生まれる。参議院議員・紀平悌子は姉。他に尚子という妹がいたが、1942年2月に3歳で病死している[1]旧制成蹊高等学校を経て、1954年昭和29年)3月に東京大学法学部政治学科を苦学の末卒業。警察三級試験に3600人中2位で合格、国家地方警察本部(現・警察庁)に入庁した。

[編集] 警察官僚として

入庁後は、いわゆるキャリア組の警察官として目黒警察署勤務の警部補を皮切りに、主に警備警察公安警察外事)の分野で活動。ソビエト連邦北朝鮮中華人民共和国などのいわゆる共産スパイの取り締まりを主に担当した[2]1964年には警察庁警備局付になり、ケネディ大統領暗殺事件の調査のためにアメリカに派遣され、帰国後は東京オリンピックの際の警備や亡命者の処遇や法整備などを担当した。

1957年、27歳の時に大分県警No.2の警務部長兼監察官室長に抜擢され着任。当時の大分県警は自警(自治体警察)出身の「不良非行人」が多く、1954年の国警・自警統合後も自治体警察時代の風潮が残り、地元指定暴力団「石井組」との癒着・汚職が多発して、問題解決のための人事面での刷新が必急の課題であった。着任後、県警本部長であった富田朝彦を助け、監察官として徹底捜査、汚職警官や署長・課長クラスの頸を次々と切って、「首切り浅右衛門」の異名をとった。この際佐々が頸を切った警察署長は15名。反面、警視以上の人間を15名罷免すると、その下級の各階級は15名ずつ(警視・警部・警部補・巡査部長)昇進試験が実施できるので、60名が昇進試験を受けられる事になったという。この際大分に警察官住宅の建設・白バイ隊の整備等も並行して行った。

1965年からの外務省への出向(在香港日本総領事館領事)を経て、1968年6月29日に帰国[3]。その直後に当時の秦野章警視総監(佐々の実質仲人)の強い意向により警視庁に復帰し、異例の人事[4]により同年7月1日付で警視庁公安部外事第一課長、同年11月には警備部警備第一課長に任命される。別室(副官)寺尾正大は1995年地下鉄サリン事件を捜査第一課長として指揮し、佐々も助言した。

警備第一課長としては、機動隊の抜本的改革[5]を断行した。その中で起きたのが、東大安田講堂事件であった。この後、警視庁人事第一課長を経て、警察庁警備局付警務局監察官に任命される。その直後に連合赤軍によるあさま山荘事件が発生した。

なお、安田講堂事件、あさま山荘事件の時、警察庁長官を務めていたのが、後に直属の上司となる後藤田正晴(後衆議院議員副総理)であった。あさま山荘事件後も警察庁警備局の幹部(調査、外事、警備各課長)として三菱重工爆破事件金大中事件などの当時の日本を揺るがせた数々の大事件の捜査を指揮している他、1970年代日本赤軍などによって起こされた一連の日本航空ハイジャック事件の解決にも関与している。

しかし、1975年に行われた沖縄国際海洋博覧会の警備責任者として皇太子夫妻(現・今上天皇皇后)の警護に当たるが、沖縄解放同盟などの左翼過激派の活動家による皇太子夫妻に対する火炎瓶の投擲を許し(ひめゆりの塔事件)、警備幕僚長(警備課長)を解任、三重県警察本部長へ異動となった(一部では左遷と見るむきもある)。その三重県警本部長時代は三重県国体が開催されており、国体警備のための異動とも言われている。そしてひめゆりの塔事件から2ヵ月後、皇太子夫妻(現・今上天皇皇后)の伊勢神宮内宮への御参拝直後に風日祈宮(かざひのみのみや)火炎瓶放火事件が発生した。 その後、警察庁刑事局参事官を歴任し、防衛庁に出向する。歴職を経て防衛施設庁長官に就任した。

[編集] 初代内閣安全保障室長

そして1986年7月1日に、第3次中曽根康弘内閣で初代の内閣官房内閣安全保障室長(兼総理府安全保障室長)に就任。中曽根康弘内閣の官房長官になっていた後藤田の部下として、大島三原山噴火やなだしお事件昭和天皇大喪の礼防衛費1%枠撤廃閣議決定など、再び国家の危機管理に尽力し、1989年の昭和天皇大喪の礼を最後に同年6月に退官した。

なお、1986年6月に防衛施設庁長官を辞職しており、本ポストには再雇用の形となっている。これは、著書によれば当時の防衛庁長官である加藤紘一との確執によるもので、加藤は佐々の本ポスト就任に反対したが、後藤田が押し切ったとされている。

[編集] 大島三原山噴火事件

大島三原山の噴火史上最大の1777年の噴火に匹敵する、209年ぶりの大噴火が起こり、流れ出した溶岩がじりじりと役場のある元町地区に向かって迫り始めていた。この非常事態に国土庁は、夕方から19省庁の担当課長を防災局に集めて延々と会議を催しており、官邸にはなんの連絡もしなかったのである。このありさまに後藤田正晴が怒り出し、佐々にすぐさま、なんの会議をやっているかを調べさせた結果、第一議題は「災害対策本部の名称」大島災害対策本部か、三原山噴火対策本部か。第二議題は「元号を使うか、西暦にするか」昭和61年とするか、西暦1986年にするか。第三議題は「臨時閣議を召集するか、持ち回り閣議にするか」だった。これを聞いた後藤田は、一瞬絶句したのち、官僚達にまかせていたら島民達が危険だということで、佐々にすぐさま島民達を避難させるよう命じ、同席していた中曽根康弘総理も「オレが責任を負う。すぐやりなさい」と発言。佐々は平沢勝栄官房長官秘書と玉造敏夫内閣審議官と相談し、各責任者に連絡をとりまくり、島民避難行動を開始させはじめた。また橋本龍太郎運輸大臣も行動を始めていた。このおよそ非官僚的な、政治主導型官邸直立型の災害行政が行われている様は、壮観であり、奇観だったという。そして無事島民の避難が完了し、溶岩も元町寸前で止まることとなる。翌日になると、国土庁はじめ関係省庁が記者たちに向かって「官邸横暴、安保室長越権」と憤慨したという。

[編集] 退官後

退官後はこれまでのキャリアを生かし、危機管理の専門家として各種講演活動や企業・団体へのアドバイスの他、「ビートたけしのTVタックル」などのテレビ番組への出演、著作活動を行い、「危機管理のノウハウ」、「連合赤軍『あさま山荘』事件」などのベストセラーも多数ある。また、橋本龍太郎亡き後の日本美術刀剣保存協会・刀剣博物館の7代目会長・理事・館長に就任している。ちなみに無給。この協会の運営形態に対し、佐々が会長就任後、政府与党、および野党双方から度々批判の声が挙がっており、日本美術刀剣保存協会の等級審査の問題点の解決を求められている。

2003年イラク戦争ではを全面支持し、開戦に消極的な国連安保理非常任理事国に対して「この期に及んでもなお態度を決めないメキシコチリカメルーンアンゴラギニアパキスタンといった開発途上国や弱小国に人類の運命を左右する安全保障上の重大決議のキャスティング・ボートを持たせておいて本当にいいかと思った。[6]」と非難した(結果として、アンゴラ以外賛成に回らず、安保理での否決は確実になった)。3月19日開戦すると、湾岸戦争の停戦決議である国連安保理決議687は「「撃ち方やめ」だから違反があれば直ちに攻撃再開してよく、現に1998年12月16日、クリントン大統領は国連の決議もないまま英と共に(は支持)「砂漠のキツネ作戦」を4日間展開し、航空機650機・巡航ミサイル450発(湾岸戦争300発)による武力制裁を行っているが、誰もいわなかった。」として、安保理決議を経ず攻撃しても何の問題もないと主張。開戦に反対した理事国(前記各国に加え、常任理事国の仏、、非常任理事国の独、シリア)を重ねて非難し、戦費負担は彼らにやらせるべきだと主張した[7]

2006年には祖父に当たる佐々友房が設立した、熊本県立済々黌高等学校を訪れ、あさま山荘事件などの自身の体験や佐々友房などについてかたり、同校の図書館に自身の全著書を寄贈した。

[編集] 現在

[編集] 2007年

2007年東京都知事選挙では、石原慎太郎自らの要請により石原の選挙対策本部長を務めた。選挙プランナーとして、沖縄県知事選の仲井眞弘多候補などを勝利に導いたという三浦博史を起用。選挙前から「都政の私物化」などの批判が強かった石原について、「反省しろよ慎太郎、だけどやっぱり慎太郎」とのキャッチフレーズでソフト路線への転換をアピールする作戦を取った。またこれまで石原の選挙運動で恒例であった石原軍団など芸能人の応援演説も拒否し[8]、治安対策など石原のこれまでの実績を強調する作戦をとった結果、圧倒的大差での3選に導いた。

一方で、知事選を「戦後六十年のイデオロギー対決の準決勝戦(改憲が決勝であるとすれば)」と述べ、「まさに戦後六十年のイデオロギー的対立軸が綜合的に“石原VS反石原”となって激突した。ものすごく意義のある選挙だった。」「(市民に対する)国民・(福祉ではなく)安心安全・トップダウン・タカ派」が選択された、「反体制側、全共闘ベ平連、極左過激派集団のOB」、「石原の悪口と福祉しか連呼しない頼りない父の世代」との闘いである、と安田講堂事件やあさま山荘事件を起こした世代であり、反石原的な左翼的指向を持つ団塊の世代について語っている(『諸君!』6月号)。これらは選挙後の発言であり、石原に公約として訴えさせたものではない(むしろ福祉の充実は石原の公約にも掲げさせていた。「東京再起動。」参照)。

2007年5月17日に発生した愛知立てこもり事件では、犯人に首を撃たれた巡査部長が、玄関先に倒れたまま5時間に亘って放置され、あげく守りについていたSAT隊員が殉職してしまうという事態に陥った。佐々は出演していた番組内で、この事件を統括していた愛知県警がやるべきだったことは、犯人の銃弾を避けるために大楯を持った部隊で取り囲んで撃たれた巡査部長を助ける事を優先し、人質を無事保護出来たところで、SAT隊による強行投入をさせるべきだったと厳しく指摘した。[9]

川田洋によれば、第21回参院選天木直人9条ネットから立候補すると、「天木は当選させない」と公言していたという。なお、天木は落選している。」

[編集] 2008年

2008年11月22日、生放送の『情報7days ニュースキャスター』に出演中、元厚生事務次官宅連続襲撃事件の犯人が自首したことに絡み、以下のような発言をした。「安住さん、こんな事件の生放送ができてあなたついてますよ」、「心神耗弱状態で刑事責任がどうのこうのと言うわけの分からん弁護士がつきますから」「吉原、山口よりも悪名高い官僚がいますからね」(より正確には「殺すなら、他にもっと悪名高い次官がいます」と発言していた。)「埼玉県警なんてつまらんでしょ」。歴史的な事件のクライマックスに遭遇し高揚状態にあったとしても、上記のような発言をしてしまったことについては賛否の声がある。

[編集] 2009年

2009年3月21日、『ウェークアップ!ぷらす』において、資本主義社会で「ひどいことをやってるのはユダヤ人です」という主旨の発言をした。

[編集] 著書

全部の著書ではない。文春文庫で多く再刊されている。
  • 危機管理のノウハウ
  • わが上司後藤田正晴 決断するペシミスト
  • 後藤田正晴と12人の総理達 ―もう鳴らない“ゴット・フォン”―
  • 東大落城 安田講堂攻防七十二時間
  • 香港領事佐々淳行 香港マカオ暴動、サイゴン・テト攻勢
  • 平時の指揮官有事の指揮官
  • 謎の独裁者・金正日
  • 目黒警察署物語(自ら描いた挿絵は玄人はだしの実力である)
  • 危機の政治学―ハンガリー事件から、湾岸戦争、ソ連邦崩壊まで
  • 美人女優と前科七犯―佐々警部補パトロール日記
  • 戦時少年佐々淳行―父と母と伊藤先生
  • インテリジェンス・アイ-危機管理最前線
  • 連合赤軍「あさま山荘」事件(映画『突入せよ! あさま山荘事件』原作)
    • 事件解決に当たり警察庁との間で確執があった長野県警察関係者から「記述が不正確で当時の関係者の名誉を傷つけるものだ」との抗議が寄せられた。これらのことが影響してか、映画化に際して長野県警の協力を得ることができず、現地撮影をあきらめ、新潟県上越市を撮影地にしている。なお、映画において佐々の役は役所広司が演じた。映画では、無能で体面にこだわる長野県警側と解決をあせる警察庁側との対立が、よりコミカルに強調されている。ちなみに、映画館のシィンでエキストラとして後田成美宇田川信一とともに出演している。
    • 当事者である坂口弘から、彼の短歌を改変(読点を追加)して引用した点と坂口の名誉を毀損する表現があった点につき、版元の文藝春秋とともに訴訟を起こされた。東京高裁の確定判決では、短歌の改編が著作者人格権の侵害、坂口とは無関係の爆弾事件(土田・日石・ピース缶爆弾事件)に関与したかのように印象付ける記述が名誉毀損に当たると認定し、損害賠償を命じている。
    • 後藤田正晴も同書に関しては「佐々君は何か記憶違いをしているのかも知れない」とたしなめる主旨の発言をしている。ただし、後藤田は自身の回顧録『情と理』において、「佐々君の本は間違いがありませんね」とも述べている。当時現地で実況中継に当たった日本テレビ久能靖も「事実に反する描写が多々ある」、北原薫明(当時長野県警警備第二課長)も『連合赤軍「あさま山荘事件」の真実』のあとがきで佐々の本について「警備本部の内情に事実と異なる点があること」、「長野県警が一丸となって死力を尽くした点などが十分に記述されていない」と批判している。
  • 菊の御紋章と火炎ビン 「ひめゆりの塔」「伊勢神宮」が燃えた「昭和50年」
警察庁の警備責任者として、三重県警本部長として、激動だった1975年を回想している。当時の上司の警察庁長官浅沼清太郎と警備局長三井脩を批判している。
  • 『一隅を照らす行灯たちの物語 実践的青少年教育のノウハウ』(冨山房インターナショナル 2009年)

[編集] 参考文献

  • 秦郁彦 『日本近現代人物履歴事典』 東京大学出版会 2002年 245-246頁

[編集] 演じた俳優

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ 朝日新聞首都圏版夕刊連載「新聞と戦争」2007年12月7日付
  2. ^ 因みにフレデリック・フォーサイスの小説「第四の核」には「スパイ・キャッチャー」として実名で登場している
  3. ^ 外務省出向期間を半年以上残したままの強引な復帰人事だったという。なお、他省庁への出向期間は通常3年間(1965年~1967年)であったが、この時点で佐々は香港総領事から特に実力を買われ更に出向期間を1年間延長されており4年目(1968年)に入っていた
  4. ^ 当時の慣例的な人事では、出向者は帰国後半年ほど閑職に就かせ、海外勤務から国内勤務への「リハビリ」を行い、再び通常の職務に復帰させるのが普通だった。しかし、全共闘などの騒乱が続く中で第二次反安保闘争の吹き荒れる「警察戦国時代」であったことから、秦野が中心となって機動隊の実兵指揮ができる警察幹部を集め組織強化を行っていたことから、半ば強引な人事となったと佐々は著作で述べている
  5. ^ 戦術的後退や挟撃作戦などの発案、隊員の受傷防止の為の個人防御装備の開発、警備車両の充実化など、後の機動隊の基礎を固め、また、連合赤軍あさま山荘事件で有名になった特型警備車「防弾装甲放水車」の配備に尽力したと著書に記している
  6. ^ 『産經新聞』2003年3月13日号「正論」「米国の武力行使は国連安保理の代執行だ」
  7. ^ 『産經新聞』2003年3月23日号「正論」「武力制裁は『イエス』戦費負担は『ノー』だ」
  8. ^ ただし、全く芸能人の応援がなかったわけではない。石原の選挙ビラには、女優藤原紀香競泳北島康介歌舞伎役者の中村勘三郎などが推薦人に名を連ね、コメントを載せていた。しかし、これまでのように「応援演説」という形で芸能人を表に出すことはなかった。(『スポーツ報知』「慎太郎氏ビラに豪華著名人8人…都知事選」、WebArchiveによる保存)
  9. ^ 愛知県警は、人質を保護した後も約6時間強行突入させずにいて、その後犯人は投降した。

[編集] 外部リンク