コザ暴動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索
コザ暴動後、燃やされた車の近くに立つ米軍兵士

コザ暴動(コザぼうどう、Koza Riot)とは、1970年12月20日未明、アメリカ施政権下の沖縄コザ市(現在の沖縄県沖縄市)で発生したアメリカ軍車両および施設に対する焼き討ち事件である。 直接の契機は米軍人が沖縄人[1]をはねた交通事故であるが、その背景には米施政下での圧制、人権侵害に対する沖縄人の不満があった。コザ騒動(コザそうどう)、コザ事件(コザじけん)、コザ騒乱(コザそうらん)とも呼ばれる。

目次

[編集] 背景

コザ市は米軍嘉手納飛行場と陸軍キャンプを抱え、米軍人・軍属相手の飲食店、土産品店、質屋、洋服店が立ち並び、市民には基地への納入業者、基地建設に従事する土木建築労働者、基地で働く軍雇用員も多かった。事件当時はベトナム戦争の最中で、沖縄を拠点に活動していた米軍関係者の消費活動は著しく、市の経済の約80%は基地に依存、産業構造は第三次産業に著しく偏向し、特に米軍向け飲食店(Aサイン)は「全琉のほぼ3割を占める286軒」が集中していた。

このような経済的助力を受けながらも、沖縄人の間には施政者である米軍に対する不満が鬱積していた。その最たるものが米軍人・軍属による犯罪とそれに対する処分の不十分さである。

[編集] 米軍人・軍属の犯罪

米軍施政下の沖縄において、沖縄人には日本およびアメリカの憲法どちらも適用されず、身分的にきわめて不安定な立場に置かれていた。

米軍人・軍属の起こした犯罪の捜査権・逮捕権・裁判権は米軍当局に委ねられており、加害者は非公開の軍法会議において陪審制による評決で裁かれたが、殺人・強盗・強姦などの凶悪犯罪であっても証拠不十分として無罪や微罪になったり、重罪が科されても加害者の本国転勤でうやむやになることも多く、また沖縄人被害者が賠償を受けられることはほとんどなかった。

琉球警察は米軍人・軍属の犯罪への捜査権を持たず、米民政府布令に定められた一定の犯罪で米軍憲兵(MP)が現場にいない場合のみ現行犯逮捕することができたが、加害者の身柄を速やかにMPに引き渡さなければならなかった。また交通事故は現行犯逮捕可能な犯罪に含まれず、加害者が公務外(非番)であってもMPが「外人事件報告引継書」にサインしない限り琉球警察は事件として捜査・逮捕すらできなかった。米軍人・軍属による重大事件や不当判決のたびに、琉球政府を筆頭に立法院、政党、各種団体などは強く抗議し、捜査権・逮捕権・裁判権の移管と被害賠償を強く求めてきたが、なんら改善されなかった。

事件当時の沖縄はベトナムからの帰還・一時休暇の兵士で溢れ、戦地で疲弊した米兵は基地外で酒、薬物、女に溺れた。沖縄での米軍人・軍属による犯罪は、それまで年間500件未満だったものが1958年から増加傾向を見せ、ベトナム派兵が本格化した1965年から1967年には1000件を超え、その後は減少傾向にあったものの、暴動の発生した1970年は960件と急増、そのうち348件がコザ市で発生している。内訳は凶悪犯143件、粗暴犯156件、器物毀棄罪212件で半数以上を占める。これに対し検挙者は436人、検挙率45.3%で、同年の民間犯罪検挙率80%を大幅に下回る。これとは別に交通事故は年間1000件を超え、死傷者は422人に上っている。なにより、加害者が現行犯逮捕されずに基地内に逃げ込めば、琉球警察は手を出せず、MPも追跡捜査をせず事件が迷宮入りする場合が多く、実際に起きた不法行為は上記をはるかに上回る。

このように多くの沖縄人が戦後25年にわたり人権を侵害されても泣き寝入りを強いられてきた。その苦しみは日本国憲法下での保護を求め「即時・無条件・全面返還」(基地撤去)を掲げる復帰協の運動にもつながるものだった。

[編集] 復帰合意と沖縄人同士の対立

1969年11月21日佐藤ニクソン共同声明で日米両国は沖縄の「核抜き、本土並み、72年返還」に合意した。米軍基地を残したままでの頭越しの復帰合意に、前年に初めて公選で行政主席となった屋良朝苗や復帰協など革新系団体は強く反発した。またこれとは逆に、基地関連業者は基地撤去による廃業・失業を恐れ、以前から「即時復帰反対」を訴えていた。

共同声明の2週後の12月4日、米軍は折からのドル危機と沖縄返還を控えた経費削減のため、沖縄人軍雇用員26000人のうち2400人の大量解雇を通告。これに対し沖縄最大の労働組合であった全軍労は強力な解雇撤回闘争で対決するという方針を打ち出し、「首を切るなら基地を返せ」というスローガンのもと、翌1970年1月から48時間、120時間と長時間のストライキをその後も繰り返し展開した。

これに対し米軍はストのたびに、米軍人・軍属・家族に特別警戒警報「コンディション・グリーン(特定民間地域への立ち入り禁止)」さらに「コンディション・グリーン・ワン(実質的な外出全面禁止)」を発令[2]。これは米軍人が民間地において不要のトラブルを避けることが表向きの理由だが、実質的には米軍相手の沖縄人業者の収入源を絶ち、基地周辺の経済を疲弊させることによって、軍の意に沿わない運動に圧力をかける意図があった。

前述のようにコザをはじめとする基地周辺は極端な基地依存経済であったため、自治体の長は全軍労にスト回避を呼びかけ、軍司令官に命令解除を求め陳情を繰り返した。また基地関連業者はAサインバーのボーイを組織、または暴力団を雇い、1月20日には全軍労本部を包囲するなどスト中の労組員に暴力で対峙した。米軍支配に対する不満は共通しているはずの沖縄人同士が、米軍基地を巡り対立する結果となったのである。

[編集] 毒ガス漏洩

米軍はベトナム戦争用の兵器として、コザ市に隣接する美里村(現沖縄市)知花弾薬庫などに致死性の毒ガス(主要成分はイペリットサリンVXガス)を秘密裏に備蓄していたが、1969年7月8日ガス漏れ事故が発生、軍関係者24人が中毒症で病院に収容されたことが同月内に米ウォールストリート・ジャーナルの記事で明らかになった。米国外での毒ガス備蓄は沖縄のみで、周辺住民は事故の再発におびえ、島ぐるみの撤去要求運動が起こった。

[編集] 糸満れき殺事件

上記のように米兵の不法行為について法的に保護されない中、沖縄人は事件発生のたびに団結し示威行動で処遇改善を要求するしかなかった。1970年9月18日糸満町(現・糸満市)の糸満ロータリー付近で、酒気帯び運転かつスピード違反の米兵が歩道に乗り上げて沖縄人女性をれき殺する事故を起こした。地元の青年たちは事故直後から十分な現場検証と捜査を求め、現場保存のため1週間にわたってMPのレッカー車を包囲し事故車移動を阻止した。また地元政治団体とともに事故対策協議会を発足させ、琉球警察を通じて米軍に対し司令官の謝罪・軍法会議の公開・遺族への完全賠償を要求した。

[編集] 暴動発生の月

糸満れき殺事件で1970年12月7日に軍法会議は、被害者への賠償は認めたものの、加害者は証拠不十分として無罪判決を下した。沖縄人の多くがこの判決に憤り、12月16日に糸満町で抗議県民大会が開かれた。さらに暴動前日の12月19日には、美里村の美里中学校グラウンドで「毒ガス即時完全撤去を要求する県民大会」(上記の糸満事件無罪判決に対する抗議も決議文に含む)が開かれ、約1万人が参加した。その参加者が集会終了後に、またそれ以外の市民および周辺市町村住民も忘年会などを目的に、事件発生場所に隣接する中の町社交街に多数集まっていた。

[編集] 事件の勃発

1970年12月20日午前1時過ぎ、コザ市の中心街にある胡屋十字路から南に200メートルほどの地点(現サンエー中の町タウン店駐車場前)で、軍道24号線(現在の県道330号線)を横断しようとした沖縄人軍雇用員(酒気帯び)が、キャンプ桑江の米陸軍病院所属の米軍人(同じく酒気帯び)の運転する乗用車にはねられ、全治10日間ほどの軽症を負う事故が発生した(第1の事故)。現場には5台のMPカーと1台の琉球警察パトカーが出動、負傷者の病院搬送と現場検証、加害者の事情聴取を行った。その間、現場に隣接する中の町社交街から地元住民が集まり始めた。MPによる事故処理に対し「第二の糸満事件にするな」「犯人を逃がすな[3]」と不信・不満を口々に叫び騒然となったが、警察官の機転で加害者はコザ警察署(現沖縄警察署)に移送された。

事故車両の移動が済んだ午前1時35分ころ、現場に沖縄人ガールフレンドを伴った米兵が通りかかり、群集は彼らを挑発的に煽った。MPは2人をMPカーに乗せ移動しようとしたが、群衆はMPカーを取り囲み横転させようとした。他のMP隊員の応援でMPカーは現場から脱出したが、群集は続いて他のMPカーを横転させようとした。

この時点で数百人規模になっていた群集は半ば暴徒と化し、公然と車道に出て、当時黄色のナンバープレートによって区別されていた米軍人・軍属の車両が走行してくると進路を妨害するなどしたため、MPおよび警察官は秩序維持のため応援部隊を要請。そして午前2時10分ころ、反対車線で走路妨害にあった米兵運転の乗用車が、沖縄人運転の民間車両に追突(第2の事故)。暴徒はこれを取り囲み投石、運転手に暴行を加えた。またMPにも投石を始め、MPが退いた後に残ったMPカーを横転させ、火を放った。

隊伍を組み直したMPは午前2時15分ころ拳銃による威嚇発砲を行い、暴行を受けていた運転手を救出。しかし発砲で一旦ひるんだ暴徒はかえって怒りを爆発させ、MPを投石で押し返すとともに、2時30分前後から沿道に駐車中の米軍車両や放置されたMPカーを車道中央へ押し出し、次々と放火した。

[編集] 事件の拡大と収束

午前3時ころには、琉球警察は第三号召集(全警察官1200人の最大動員)を発令、米MPも完全武装の兵員配備を要請したが、暴動発生現場の制圧は不可能と判断しいったん周辺へ退いた。最終的に警察官は約500人[4]、MP・沖縄人ガード(警備員)約300人、米軍武装兵約400人が動員された。また米民政府は午前3時30分、コザ市全域に24時間の「コンディション・グリーン・ワン」を発令した。

なお午前3時30分ころ、第3の交通事故が発生しているが被害者は軽症であった。

暴徒は二手に分かれて進み、約200人が胡屋十字路から西へ約600メートルに位置する嘉手納基地第2ゲートから、火のついた車両を押し立てて基地内へ侵入した。基地内ではゲートに設けられているガードボックスや米人学校が放火された。米軍は威嚇発砲、放水で対抗しそれ以上の基地内への侵入を抑えた。また約2000人が事件発生現場から南西へ約1キロメートル離れた島袋三叉路まで押し出して武装兵と対峙。車両への放火、投石が繰り返され、即席の火炎瓶も使用された。午後5時に米軍はベトナムでも使用していた手投げ催涙ガス弾の使用を許可、暴徒の行動は分断され沈静に向かった。

琉球政府では、屋良朝苗行政主席が東京出張で不在のため、知念朝功副主席が午前5時55分に現地に到着して事態の収拾を指揮した。警察は宣伝カーを繰り出して群集に帰宅を呼びかけ、午前7時30分までに暴動は自然収束した。結果、車両75台以上[5]が炎上し、米軍人40人、沖縄人ガード5人、米軍属16人、地元住民14人、容疑者7人、警官6人が負傷したが、暴動につきものの民家・商店からの略奪行為は発生しておらず[6]、米軍人・軍属のみを標的にした暴動であった。MPと琉球警察は当日、21人を現行犯逮捕した。

事件上特徴的なのは、政治党派の組織的な指導指揮がなく自然発生的であったこと、また、それまで米軍から利益を得ており、反米・反基地・日本復帰運動に敵対的だったAサインバー・クラブの従業員が、逮捕者も含め積極的に暴動に参加したことである。

[編集] 事件後

事件の報道を受けて、それまで米軍支配に対して鬱屈した感情を抱いてきた沖縄人の多くが快哉を叫んだ。また事件は反米事件として内外に報道され、中国・ソ連の通信社は事件を強く支持する論評を配信した。

逆に、ランパート高等弁務官は暴動当日、民間テレビ局を通じ、暴動を強く非難するとともに、予定されていた毒ガス移送の延期を示唆した。この発言は沖縄人の怒りを買っただけでなく、米本国からも越権行為と批判され、毒ガス移送は予定通り進めることとなった。

日本政府は米側に対し、事件の発生に遺憾の意を表明したうえで、沖繩住民の感情にも十分留意しつつ、再発防止のため原因究明に努め、円滑な沖繩復帰のために建設的な協力を申し入れた。その結果、1971年1月5日、米軍は米軍法会議に琉球政府代表がオブザーバーとして参加することを認めた。

米軍が発令した24時間の外出禁止令は、24日から午後6時からの12時間、翌年1971年2月13日からは午前0時から6時間と短縮されながらも長期に継続された。基地周辺経済への影響は甚大であり、コザ商工会議所の調べでは、事件当日から5日間の外出禁止令により市内で約100万ドルの損失が計上された。

そのような状況下でも全軍労は解雇撤回闘争を継続したが、日本政府の「基地に反対しながら解雇撤回を求めるのは筋が通らない」という論理的指摘を受けた。1972年5月の復帰までに約7000人が解雇された。

事件を受けて生徒・学生が抗議行動を展開した。12月22日には首里高校で討論集会が開催され、外出禁止令が短縮される12月24日には同高生徒1200人が米民政府に押しかけて抗議を行った。同日、コザ市の国際大学では琉球大学沖縄大学・国際大学の三大学共闘会100人が「反基地、反軍政、暴動支援集会」を開催後デモに移ろうとして機動隊に解散させられ、さらにそれを聞きつけたAサインバー従業員150人が構内に乱入し学生と小競り合いになった。

毒ガス兵器は、米領土であるジョンストン島へ撤去移送された。第1次移送は1971年1月13日、第2次移送は7月15日から9月9日までの56日間にわたって行われ、周辺住民約5000人が避難生活を余儀なくされた。

[編集] 逮捕者

当日に21人が逮捕された後、琉球警察は暴動の翌年1971年1月8日に騒擾罪容疑で10人を逮捕。さらに1月29日から2月18日にかけ同じ容疑で市職員・教員・政党職員・労組員など20人余りを逮捕し、政治弾圧として大きな反発を浴びた。最終的に34人が事件送致されたが、琉球政府検察庁は騒擾罪適用を避け、4月19日、バーのボーイ・マネージャー5人、工員2人、無職3人の計10人を凶器準備集合や放火で起訴した[7]。公判中に被告1人が死亡(オートバイで国会議事堂正門に激突[1][2])、3人が所在不明、2人は別容疑で刑が確定したため、残りの4被告に対し1975年6月17日に執行猶予付きの有罪判決、控訴は1976年3月17日に棄却され、事件の法的な処分は終了した。

[編集] 事件の呼称をめぐって

地元紙である琉球新報沖縄タイムスでは事件明けの朝刊でこの事件を大々的に報じたが、見出しは「コザ反米騒動」であった。当時は酒に酔った米兵が集団で暴れることが珍しくなく、この種の事件は「騒動」として報じられていた。さらに上記の通り、この事件の現行犯逮捕者は騒擾罪容疑ではなく、後日に騒擾罪容疑で逮捕された者も不起訴・起訴猶予か別の罪状での起訴となったため、以降も地元マスコミおよび自治体はこの事件を「コザ騒動」と表記することが多い。

なお事件翌年に外務省が発行した「わが外交の近況」では「コザ事件」と表記している。

[編集] 出典・参考文献

  • 「米国が見たコザ暴動」沖縄市企画部平和文化振興課
  • 「沖縄県警察史 第二巻」沖縄県警察史編纂委員会
  • 「コザ市史」コザ市編
  • 「沖縄大百科事典」沖縄タイムス社編
  • 「KOZA 写真がとらえた1970年前後」沖縄市企画部平和文化振興課
  • 「高等学校琉球・沖縄史」新城俊昭著
  • 「新歩く・みる・考える沖縄」沖縄平和ネットワーク編
  • 「わが外交の近況 昭和46年版」外務省

[編集] 脚注

  1. ^ 当時の沖縄住民は日本およびアメリカのどちらの憲法も適用されない不安定な身分であったことを鑑み、以下便宜上「沖縄人」と表記する。公式の表現は「琉球住民」である。
  2. ^ このような処置は一般に「オフリミッツ」と呼ばれ、島ぐるみ闘争当時から何度となく発令されていた
  3. ^ 負傷者の搬送より加害者の移送が先になり、あたかもMPが加害者を逃がそうとしたように見えたので群集が騒ぎ出したという説もある。
  4. ^ 勤務外の警官はほとんどが自宅に電話を持っておらず実質的に動員不能だった。
  5. ^ 「沖縄県警察史」では75台、「米国が見たコザ暴動」収載の米軍秘密通信では米軍人車両72台、軍車両6台、軍消防車1台、オートバイ3台の計82台。軍有車両を除けば両者の数値は一致する。
  6. ^ Aサインバーに放火しようとした者もいたが、同じ沖縄人の説得に応じて中止したという証言あり。矛盾に満ちた住民対立/コザ騒動から30年琉球新報2000年12月20日
  7. ^ 比嘉良仁検事長(当時)が“革新団体や住民に手を付ければ、新たな暴動に発展する可能性もあったため、単なる酔っ払いの起こした事件として処理した”と後に述べている「新たな暴動 懸念」コザ騒動 騒乱罪見送り沖縄タイムス2010年12月17日。なお、米民政府は騒擾罪適用に消極的であった。沖縄市が「コザ反米騒動」資料入手/米国民政府、騒乱罪適用に消極的琉球新報1999年9月4日

[編集] 関連項目

個人用ツール
名前空間
変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス
他の言語