黒岩彰

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獲得メダル

黒岩彰
男子 スピードスケート
1988 500m
世界スプリントスピードスケート選手権大会
1983 ヘルシンキ 総合
1987 サンテフォイ 総合
1986 軽井沢 総合

黒岩 彰(くろいわ あきら、1961年9月6日 - )は、1980年代に活躍した日本のスピードスケート選手で、現在は、富士急行スケート部監督。現役引退後は、西武ライオンズ球団代表を務めた経歴を持つ。

経歴[編集]

群馬県吾妻郡嬬恋村出身。嬬恋村立干俣小学校[1]の頃からスポーツは得意だったが、唯一スケートだけは同級生の女子に勝てなかった。中学校でスケート部に入部、2年生の時に軽井沢で行われた大会の500mで45秒8の記録で優勝、中学3年の時には、42秒8の群馬県中学記録を作った。群馬県立嬬恋高等学校に進学、1年の時にインターハイの500mで5位、2年の時に優勝した。レークプラシッドオリンピック出場を目指したが、逃している[2]専修大学商学部に進学、1年次に全日本スプリントスピードスケート選手権大会で優勝、世界スプリント選手権では6位となった。2年次の世界スプリント選手権では怪我の影響もあり8位に終わったが、3年次の 世界スプリント選手権では総合優勝を果たした[3]。4年次の1984年サラエボオリンピックでは、前年の世界スプリント選手権に日本人初の優勝を果たしていたこともあり、500mの優勝候補に挙げられながらも10位に終わり[4]北沢欣浩(2位で銀メダル)の後塵を拝する敗北を喫した。このとき、アウトコーススタート(当時の500mの決勝は一つのスタートコースで滑って順位を決める一発勝負だった)だったことや、天候不良によりスタートが遅れたことなど、黒岩にとっては不利な状況も指摘されたが、それらについては一切コメントをしなかった。この時、円谷幸吉が「幸吉はもう走れません」と言って自殺した気持ちがわかったという[5]。後年毎日のようにスケート担当記者から、オリンピックでのメダルを期待する取材がストレスになっていたことや[5]最終調整をすべき時期に世界記録を出そうとスケベ根性を出してしまったことを明かしている[6]。)。同年大学卒業と同時に西武鉄道の実質的な親会社である国土計画に入社。入社前には堤義明を直接訪ねている[7]。サラエボオリンピック終了後は、当時あまり取り入れられていなかったメンタルトレーニングを行い[8]実業団スケート部の選手として第一線で活躍し、1988年カルガリーオリンピックでは500mで36秒77の自己ベストを出して銅メダリストとなった[7]。このときもサラエボと同じアウトコーススタートであった。世界スプリント選手権では、1983年大会、1987年大会と2度の総合優勝を飾った。

現役を退いてからは同チームの監督に就任し、中長距離の第1人者となった白幡圭史などを育てる[7]。1998年の長野オリンピックでもコーチとして同行した。

コクドの観光部広報課長補佐を経てプロ野球西武ライオンズに出向した[9]。広報課長、運営部長を担当した。このライオンズへの出向によりコクドスケート部監督を退任、白幡低迷の原因となった。黒岩本人もソルトレイク五輪に向けて伸びるであろう白幡を1人にしてしまったことを後悔している。

2000年9月13日に松坂大輔が起こした無免許運転駐車違反などの不祥事には身代わりとして警察署へ出頭した[8]。しかしその隠蔽行為が写真週刊誌に報道されたことにより、松坂は道路交通法違反、黒岩ともども犯人隠避の疑いで東京地検に書類送検されている。その結果、略式起訴により松坂は罰金19万5000円、黒岩は罰金10万円の略式命令を受けた。球団職員が駐車違反の隠蔽に関与していたことから、当時の小野球団社長及び黒岩は責任を取って辞表を提出するにまでに至った。

2004年にはライオンズの球団売却問題に直面した[9]

2004年12月より、西武球団代表に就任。堤義明オーナーが有価証券報告書偽造問題で辞任した球団運営が難しい時期でもあった[4]

2007年1月16日付で球団代表からプリンスホテルに人事異動[10]新高輪プリンスホテル営業支配人に就任[11]

プロ野球の裏金問題で、2007年5月18日付で人事部付へ降職となる[12]

2007年7月15日付けをもってプリンスホテルを退社[13][14]。スケート界への復帰の意向を明らかにした。

日本スケート連盟会長に就任していた橋本聖子から依頼されて、2008年4月1日付けで、富士急行スケート部監督に就任した[15][16]

備考[編集]

  • ダン・ジャンセンとは戦友で彼が悲願の金メダルを獲得した際には自らの事のように喜んだ。
  • 1980年代のスケート界は黒岩彰を筆頭に、同郷の宗久康志美智子ら、黒岩姓の選手が活躍し、黒岩ジャックと呼ばれた。(悟と康志は実の兄弟。黒岩姓は嬬恋村に非常に多い。)

主な成績[編集]

自己ベスト[編集]

オリンピック[編集]

世界スプリント選手権[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 心に残る授業”. 2012年7月7日閲覧。
  2. ^ 黒岩彰さんインタビュー 1/5”. 日本オリンピアンズ協会. 2012年7月7日閲覧。
  3. ^ 「世界一を狙う」の言葉どおり、日本人初の快挙達成”. スポルティーバ (2012年2月27日). 2012年7月7日閲覧。
  4. ^ a b 西武球団代表から再びスケート界へ・黒岩彰 3”. デイリースポーツ (2012年6月11日). 2012年7月7日閲覧。
  5. ^ a b 西武球団代表から再びスケート界へ・黒岩彰 1”. デイリースポーツ (2012年6月11日). 2012年7月7日閲覧。
  6. ^ 黒岩彰さんインタビュー 2/5”. 日本オリンピアンズ協会. 2012年7月7日閲覧。
  7. ^ a b c 黒岩彰さんインタビュー 3/5”. 日本オリンピアンズ協会. 2012年7月7日閲覧。
  8. ^ a b 守りに入って大失敗”. NPO法人サポートシステム. 2012年7月7日閲覧。
  9. ^ a b 西武球団代表から再びスケート界へ・黒岩彰 2”. デイリースポーツ (2012年6月11日). 2012年7月7日閲覧。
  10. ^ 黒岩球団代表が退任/西武が組織改革を発表”. 四国新聞社 (2007年1月11日). 2012年7月7日閲覧。
  11. ^ 黒岩彰”. コトバンク. 2012年7月7日閲覧。
  12. ^ 太田代行、副社長に降格/西武が裏金問題で処分”. 四国新聞社 (2007年5月7日). 2012年7月7日閲覧。
  13. ^ 黒岩彰氏がプリンス退社/プロ野球西武の前球団代表”. 四国新聞社 (2007年7月9日). 2012年7月7日閲覧。
  14. ^ 黒岩彰さんインタビュー 4/5”. 日本オリンピアンズ協会. 2012年7月7日閲覧。
  15. ^ 黒岩彰さんインタビュー 5/5”. 日本オリンピアンズ協会. 2012年7月7日閲覧。
  16. ^ 黒岩監督のプロフィール”. 富士急スケート部. 2012年7月7日閲覧。

関連項目[編集]