藤猪省太

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獲得メダル
日本の旗 日本
男子 柔道
世界柔道選手権
1971 ルートヴィヒスハーフェン 80kg級
1973 ローザンヌ 80kg級
1975 ウィーン 80kg級
1979 パリ 78kg級
アジア柔道選手権
1974 ソウル 80kg級
1974 ソウル 無差別級

藤猪 省太(ふじい しょうぞう、1950年5月11日 - )は、日本の柔道家。香川県東かがわ市出身[1]。1970年代から80年代にかけて一世を風靡した名選手である。現在は天理大学体育学部教授。

来歴[編集]

天理大学柔道部に入り、初代師範松本安市の教えを請い、世界選手権中量級で4連覇の偉業を達成した。世界最強の男と称され、畳の芸術家と言われた。しかし、オリンピックとは縁がなく、1976年のモントリオールオリンピックは肘の故障で選考会に間に合わず落選。続く1980年のモスクワオリンピックでは国内選考会に快勝して代表に内定。金メダル獲得も期待されたが、ソビエト社会主義共和国連邦アフガニスタン侵攻に抗議するということで日本政府がモスクワ五輪ボイコットを強制したため、幻の代表に終わった。その後引退し、京都産業大学で教鞭をとる傍ら、柔道部で後進の指導に当たった。国際大会においては外国選手と100戦以上対戦して無敗の戦績を残した。 また、2008年の北京オリンピックの女子48kg級決勝などで審判員を務めた。

天理大学柔道部の暴力問題[編集]

2013年9月には天理大学柔道部で5月から7月にかけて4年生の男子部員4名が1年生部員複数に対して暴力を振るい、そのうちの1名が鼓膜を破るなどのケガをしていたことが明らかになった。柔道部部長である藤猪は7月にこの件の報告を受けて、監督の土佐三郎や直接暴力は振るっていなかったものの暴行現場に居合わせた主将の大野将平らとともに、被害者である1年生部員の自宅へ謝罪に赴いた。しかし、女子柔道強化選手による暴力告発問題を受けて、暴力問題に本格的に取り組むことになった全柔連にはこの件を知らせず、8月には全柔連の新理事に就任した。この問題が発覚した9月4日の記者会見では、「部内と学校の中の話で終わると思った。甘かった」、「(暴力問題の対処は)大学に預けていたので、(学外に)問題が起きていることを言えなかった状況ということです」と述べて、この件を隠蔽する意図は持ち合わせていなかったことを主張した。これに対して被害を受けた1年生部員の関係者は、「これほどひどい暴力があった部の部長が、全柔連の理事になるなんて許せない」と憤った。 なお、藤猪は3日に全柔連に対して理事を、4日には大学に対して柔道部部長を辞任する意向を伝えた[2][3][4][5][6]

9月5日に天理大学は今回の件を受けて、柔道部部長の藤猪と監督の土佐を解任したことを発表した。 柔道部に対しても再発防止策が確認されるまで無期限の活動停止処分を下すことになった。 またこの日、全柔連は柔道部部長の藤猪、監督の土佐、監督代行の正木嘉美の3名を東京に呼び出して、暴力事件の経緯及び全柔連への報告が遅れた点などに関する事情を大学側が用意した資料を基に聞き出した。来週にも大学側からの再調査報告を受けて、藤猪らの処分を検討する懲罰委員会を立ち上げることになった。なお、藤猪がすでに提出していた全柔連理事の辞表届けは5日付けで受理された[7][8][9]

9月11日には大野も別の暴力行為に加担していたことが明らかになった[10]

9月18日に全柔連は懲罰委員会を開いて、前部長の藤猪と前監督の土佐を「暴力防止義務はあったが手は出していない」として文書による戒告、1年生に平手打ちするなどの暴力を振るった73kg級世界チャンピオンで柔道部元主将の大野将平ら4年生9名に3ヶ月の登録停止処分をそれぞれ下した[11][12]

主な戦績[編集]

中量級での戦績

78kg級での戦績

脚注[編集]

外部リンク[編集]