アメリカ横断ウルトラクイズ

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アメリカ横断ウルトラクイズ
Walter Gropius photo MetLife Building fassade New York USA 2005-10-03.jpg
第1回 - 第8回で決勝戦が行われたパンナムビル(現:メットライフビル
ジャンル クイズ番組 / 特別番組
放送時間 木曜スペシャル
放送期間 1977年10月20日 - 1998年11月23日(17回)
放送国 日本の旗 日本
制作局 日本テレビ
企画 山崎将暉(第1回 - 第7回)
演出 佐藤孝吉(第1回-第5回)
白井博(第6回 - 第10回)
加藤就一(第11回 - 第15回・“今世紀最後”)
※共に総合演出
プロデューサー 高橋靖二(第12回 - 第16回)
篠崎安雄(第12回・第13回)
城朋子(“今世紀最後”)
※全てCP
出演者 福留功男
徳光和夫
高島忠夫
石川牧子
福澤朗
渡辺正行
小倉淳
永井美奈子ほか
出演者を参照)
オープニング メイナード・ファーガソン「スタートレックのテーマ(Theme From Star Trek)」
(第3回 - 第15回・“今世紀最後”)

特記事項:
正式な番組名は第16回まで『史上最大!第○回 アメリカ横断ウルトラクイズ』(第1回は回数表記なし、タイトル末尾に『!!』がつく)、1998年は『ネッツトヨタスペシャル 今世紀最後!! 史上最大! アメリカ横断ウルトラクイズ』。
放送期間は第1回第1週から第17回第2週まで。
審査委員長や大会委員長などのスタッフについては主なスタッフを参照。
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アメリカ横断ウルトラクイズ』(アメリカおうだんウルトラクイズ)は、日本テレビで全17回開催・放送された視聴者参加型クイズ番組。略称は「ウルトラクイズ」あるいは「ウルトラ」。

英語表記は"TRANS AMERICA ULTRA QUIZ"である。なお、タイトルロゴには"TRANS AM ULTRA QUIZ"と表記された。

1977年昭和52年)、『木曜スペシャル』枠で日本テレビ開局25周年記念番組として放送された。翌年からレギュラー化し、年に1回制作、毎年10月下旬から12月上旬頃に放送された。番組名は『史上最大!第○回 アメリカ横断ウルトラクイズ』(第1回は回数表記なし)。1992年平成4年)の第16回を最後に終了となったが、1998年(平成10年)日本テレビ開局45年記念番組『ネッツトヨタスペシャル 今世紀最後!! 史上最大! アメリカ横断ウルトラクイズ』(以降「“今世紀最後”」と記す)として一度限りの復活を果たした。

概要[編集]

日本各地から集まった挑戦者たちが「知力、体力、時の運」を合言葉に広大なアメリカ大陸を横断しながら1,000問以上に及ぶクイズに挑戦し、ニューヨークを目指すという番組。

旅の途中「チェックポイント」と呼ばれる各地で風土や名所などに合ったクイズを行い、勝ち抜ければ次のチェックポイントに進み、敗れると現地で厳しい罰ゲームを受けた後、日本へ強制送還される。数々のチェックポイントを勝ち抜き、ニューヨークには各回2名(第11回は3名)が進出し、ここで最後のクイズを行い、優勝者「日本一のクイズ王」を決定した。

他のクイズ番組とは異なり、18歳以上(第11回までは45歳以下・第12回から第16回までは50歳以下・“今世紀最後”は上限なし)でパスポートを所持していれば、オーディションなしで誰でも番組に参加可能であった(高校生は不可。高専生は4年生から可。他にも細かい規定があった)。

1987年(昭和62年)に第24回ギャラクシー賞特別賞と第4回ATP賞優秀賞を、翌年には第25回ギャラクシー賞25周年記念特別賞ユーモア賞を受賞。ギネス・ワールド・レコーズ(ギネスブック)には「世界で最も制作費のかかったクイズ番組」として記載された。

番組の性格上、これまで再放送はされていなかったが2014年6月にCSのファミリー劇場で初めて再放送され(第12回)、また進行役だった小倉淳が関係者をゲストに迎え、放送当時を振り返るオリジナル番組「今だから話せるウルトラクイズ丸秘証言集」(全3回)も制作された。このほか、第10回と“今世紀最後”については横浜市にある放送ライブラリーで視聴することができる。なお、日本テレビでは、オンエアテープ以外の映像資料については、同社が旧社屋から汐留社屋に移転した際、新社屋に保管場所がないとの理由で全て破棄したため現存していないという[1]

番組のテーマ曲には、スタートレックの曲(メイナード・ファーガソン)が使用されていた。

番組の移り変わり[編集]

番組初期(1977年(昭和52年)-1985年(昭和60年))は、日本国外へ脱出できた挑戦者の大半が海外旅行初体験であった。しかし、番組開始年の1977年には年間315万人強だった日本人の海外旅行者数が、番組末期の1990年代には番組開始時の3倍を超える年間1000万人超となり[2]、時代の変化とともに海外旅行が庶民にも比較的容易に手に入る娯楽となったことで、相対的に挑戦者たちの驚きの価値は下がっていった(最大の影響として、1985年(昭和60年)9月プラザ合意による急激な円高1988年(昭和63年)12月からのアメリカ観光渡航ビザ免除協定発効、またそれらと並行して起きたバブル景気などが挙げられる)。番組中期以降(1986年(昭和61年)-1992年(平成4年))は、通常の海外旅行では行くことが困難な場所をルートとして選択するようになり、スケールを維持した。「突撃○×どろんこクイズ」や「バラマキクイズ」などの定番クイズと共に、第4回以降アメリカ合衆国以外の国にも上陸し、第9回ではアメリカ大陸を経てパリで決勝、第10回ではアメリカ南北ルートの選択、第12回では北南米大縦断、第13回ではオーストラリアニュージーランド、第14回ではタヒチもルートに加えアメリカ大陸上陸後、かつてアメリカ西部開拓団が通ったオレゴン街道を全ルートバス移動で遡るなど、演出面でさまざまな工夫を凝らした。

初回から番組名には「史上最大!」とうたっており、第1回は応募総数4,188名に対し実際の参加者は404名というクイズ番組の予選としてはかなりの大規模であった。当初の第一次予選会場の後楽園球場でも1塁側スタンドの一角で行っていたが、回を重ねるごとに参加者は増え続け、1983年(昭和58年)の第7回では初めて1万名を、1988年(昭和63年)の第12回では2万名を突破した。

その後、第10回をピークに視聴率が徐々に下落していったことや、莫大な制作費などの問題により、1992年(平成4年)の第16回の放送後、レギュラー開催の終了が決定した。 1998年(平成10年)、日本テレビ開局45年記念番組として単発で復活。“今世紀最後”と題されたこの回は「第17回」とは称されず、ウルトラクイズのスペシャル版という意味合いが強かった(ただし福留功男の著書『ウルトラクイズ伝説』では便宜上「第17回」と表現されている)。この大会では過去最多の50,453名が参加。応募総数は7万名を超え、実に2万名を超える人々が第一次予選会場の東京ドームに入ることすらできなかったという。

番組の特徴[編集]

本番組の影響を受けた番組も多数生まれた(番組がもたらした影響を参照)。しかし、大人数を海外に集めてクイズを行う形式を踏襲した例はごく少ない。他局は真似しようにも、どうしても出国手続だけで1日費やしてしまい、できなかったのである[3]。そのノウハウとは「成田(第1回のみ羽田)空港行きが決まった人の全てのチケット取得と出国手続きをジャンケン前に完全に済ませておき、ジャンケンに負けた人の分をその場でキャンセルする」という手法であったという(近畿日本ツーリストのウルトラクイズ担当談)。これは成田だけではなく、チケットは全員分決勝地まで用意しており、敗者が出るたびにキャンセルしていた[4]。日本テレビ側のきちんとした主旨の説明、旅行代理店側の腕、航空会社や空港スタッフ側による番組の主旨への寛大な理解と協力が必要であった。番組の「画」的にも、時の運に翻弄される一喜一憂の表情が濃く現れることになった(敗者にとっては、出国手続きを済ませてあとは乗るだけなのに問答無用でキャンセルさせられることになった)。

独自の演出[編集]

タイトルは「クイズ」であっても、単にクイズの優勝者「クイズ王」を決めるためだけの番組ではなく、普通の人々が突然アメリカなどの広大な自然や冒険・難局に直面したときの表情、挑戦者同士の触れ合いなど、人間ドラマを色濃く描かれた演出が特徴的であった。番組の主眼は挑戦者の人間模様、クイズに敗れた敗者にあり、「クイズ形式の人間ドキュメンタリー」というコンセプトがあった。番組で共に旅したのを機に、挑戦者同士がその後も何らかの形で交流を続けるようになったケースも多く、挑戦者同士が結婚したケースもある。

各クイズ後、勝者と敗者はすぐ引き離される[5]ため、クイズを行う時は挑戦者は必ず自分の荷物を傍らに運び込んでおく必要があった。これは、あくまで旅の途上との演出も兼ね備えていた。勝者が敗者の行う敗者復活や罰ゲームなどと鉢合わせしないよう、観光という形で隔離することもあった。

各チェックポイントにおいて失格またはドクターストップ以外の挑戦者本人の意思による自主的なリタイアは認められていない(第7回では急病によるドクターストップで挑戦者1名がリタイアとなった)。

基本的に挑戦者はいつクイズを行うかは直前まで知らされず、たとえクイズの合間の観光に見えても、自分の荷物を持たされている限りいつクイズが始まるかわからないのであった[6]。また、風光明媚な土地などでは、挑戦者を驚かせるため、クイズ会場までアイマスクをしたまま移動させることもあった。このようなシビアな条件が極限状況を生み出し、挑戦者同士の連帯感を生む要素ともなった。機材の撤収や敗者への罰ゲームの収録を行う関係からか、クイズの収録は午前中に行われることが多かったという。また、1日で複数のチェックポイントでのクイズの収録を行うこともあった[7]

福留功男は番組当初から、挑戦者の人間模様にも焦点を当てるために、恋人や婚約者の名前、家族構成や勤務先などといったプライベートなことを聞き出し、番組の中で効果的に披露していた。

優勝賞品はインパクト重視で、優勝賞品発表時の言葉から発せられるイメージと実物を見た瞬間のギャップが一つの見せ場となっていた。価値は100万円相当のものからタダ同然のものまで年によってバラバラ、実体も風変わりなものものばかりであった。これは当時のオープン懸賞の上限が100万円であったことに加え、東京からニューヨークまでの旅費も景品相当と解釈されていたためである。「世界一周旅行」など日常では経験できないような賞品が用意されたこともある。本クイズの優勝者に与えられるのは賞品のみで賞金は一切出なかった。

開催・放送[編集]

1977年(昭和52年)の第1回大会から1992年(平成4年)の第16回大会までと、1998年(平成10年)に行われた“今世紀最後”大会をあわせて全17回が開催された。このほか、特別版として1982年(昭和57年)に『ウルトラクイズ 史上最大の敗者復活戦』が日本国内で開催された。

開催地[編集]

各回のルート図

日本国外では、主な舞台であるアメリカ合衆国のほか、プエルトリコメキシコカナダバハマイギリスフランス(本国および仏領ポリネシア)、ボリビアブラジルアルゼンチンオーストラリアニュージーランドドミニカ共和国の13か国でクイズが実施された。

クイズ開催国の中で第10回のボリビアと第15回のドミニカ共和国には福留は訪れていない。これは第10回の南北コース分岐で福留は北米コース担当でボリビアとブラジルを訪問した南米コースは日高直人が担当。[8]第15回のドミニカは福留引退後の大会で上陸した為である。

日本国外で最も多くクイズが開催された場所は「クイズの都」ことニューヨークであり、全大会においてクイズが行われた。ニューヨークで決勝戦が実施されなかった第9回と“今世紀最後”でも、共にアメリカ大陸最後のチェックポイントとしてニューヨークは重要な位置に置かれた。その次に多く開催された場所はアメリカ最初のチェックポイントであるグァムハワイ(ともに13大会)。アメリカ本土では、上陸後最初のチェックポイントとなることが多かったロサンゼルス(9大会)およびサンフランシスコ(7大会)となっている。

アメリカの州別で見てみると、ニューヨーク州の次に多く訪れたのは、上記の通り本土上陸後最初のチェックポイントになることの多かった西海岸のカリフォルニア州である(全17回中、第10回と第14回を除く15大会)。

テレビ放送[編集]

テレビ放送は、第1回から第16回まで、当時木曜日に放送されていた『木曜スペシャル』で毎年10月下旬から12月上旬の間に、複数の週をまたいで放送されていた。第1回は2週(当初は1週のみの放送予定が2週に拡大)、第2回から第4回までは3週、第5回から第11回まで、ならびに第15回と第16回は4週、第12回から第14回までは5週に分けて放送された(第9回から第11回までは『木曜スペシャル』の放送時間が19時からの2時間枠、そのほかの回は19時30分からの1時間30分枠だった[9])。

関東地区では、本放送直後に『ビッグサタデー』で再放送された。また大会開催の直前にも、『ビッグサタデー』で前回大会のダイジェスト版を放映した。

一方、“今世紀最後”は1998年11月22日(日)・23日(月・祝)にそれぞれ2時間半、2夜連続で放送。「史上最大の敗者復活戦」は1982年(昭和57年)12月31日(金・大晦日)に、3時間半で放送された。

視聴率は、第7回(4週目)で歴代最高の38.5%を記録[10](4週トータルの平均でも34.5%だった)。

このほか、第10回開催前には、『ウルトラクイズ 史上最大の傑作選』が1986年(昭和61年)6月19日に放送された。これはもともと、木曜日の後楽園球場ナイター中継が中止だったときの代替番組だった。出演者は、高島忠夫・石川牧子・福留功男・徳光和夫・小林完吾・日高直人の6名(小林と日高は後から参加)。内容は、「第1回」、「どろんこクイズ傑作選」、「成田のジャンケンの人間模様」(第4回クイズ王の上田由美が、ジャンケン相手からハチマキを貰ってどんどん勝ち進み、優勝するまでの模様も放送された)、「罰ゲーム傑作選」など。

2014年6月、『ビッグサタデー』における数週間遅れのリピートならびに前年分のダイジェストを除けば初めてとなる再放送(第12回大会)が、ファミリー劇場で3週に渡って放送された[11]。また、全3回で小倉淳が聞き手となり、番組スタッフや第12回大会の優勝者を含む出場者4人が出演し、ウルトラクイズの裏話などを明かす「今だから話せるウルトラクイズ丸秘証言集」が放送された。

大会一覧[編集]

大会 開催年 視聴率 参加人数 CP数 クイズ開催国(日本を除く)
第1回 1977年(昭和52年) 約25% 404 9 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
第2回 1978年(昭和53年) 23.9% 700 11 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
第3回 1979年(昭和54年) 23.9% 1,362 11 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
第4回 1980年(昭和55年) 29.9% 2,707 11 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国プエルトリコの旗 プエルトリコ
第5回 1981年(昭和56年) 27.2% 6,473 14 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国メキシコの旗 メキシコ
第6回 1982年(昭和57年) 27.2% 7,332 11 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国*1
第7回 1983年(昭和58年) 34.5% *2 10,203 13 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国カナダの旗 カナダ
第8回 1984年(昭和59年) 23.1% 11,048 *3 14 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国バハマの旗 バハマ
第9回 1985年(昭和60年) 22.2% 11,754 17 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国イギリスの旗 イギリスフランスの旗 フランス
第10回 1986年(昭和61年) 26.8% 17,162 *4 18 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ボリビアの旗 ボリビアブラジルの旗 ブラジル*5*6
第11回 1987年(昭和62年) 20.4% 18,017 14 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国メキシコの旗 メキシコ*7
第12回 1988年(昭和63年) 17.9% 20,774 16 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ブラジルの旗 ブラジルアルゼンチンの旗 アルゼンチン
第13回 1989年(平成元年) 16.6% 24,115 15 オーストラリアの旗 オーストラリアニュージーランドの旗 ニュージーランドアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
第14回 1990年(平成2年) 15.0% 26,735 14 フランス領ポリネシアの旗 フランス領ポリネシアアメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
第15回 1991年(平成3年) 18.1% 28,523 14 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国メキシコの旗 メキシコドミニカ共和国の旗 ドミニカ共和国
第16回 1992年(平成4年) 14.6% 26,121 12 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
“今世紀最後” 1998年(平成10年) 21.2% *8*9 50,453 *3 11 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国バハマの旗 バハマ
史上最大の
敗者復活戦
1982年(昭和57年) 約11% *10 24,642 - 日本の旗 日本のみ)
  • 視聴率は関東地区、ビデオリサーチ調べ。
  • CP数=チェックポイント数。決勝地を含み、国内予選は含まない。
  • *1:優勝賞品の世界一周旅行でイタリアの旗 イタリアローマギリシャの旗 ギリシャアテネエジプトの旗 エジプトカイロタイ王国の旗 タイバンコク香港の旗 香港にも訪れている[12]
  • *2:「史上最大の敗者復活戦」優勝者(グァム空港から参加)を含めると10,204名。
  • *3:グァムでの奇襲クイズを独立したチェックポイントとして数えた場合の値。第8回と“今世紀最後”においては奇襲クイズが直前のクイズと同一チェックポイントとして扱われているが、第5回・第13回-第16回では奇襲クイズが独立したチェックポイントになっているので、それに合わせた。
  • *4:ルート分岐前と「北米ルート」「南米ルート」各チェックポイント、決勝ニューヨークをすべて合計した数値。片ルートのみで計算した場合は15チェックポイントとなる。またこの回は日本国内である成田空港が第1チェックポイントだった。
  • *5:ボリビア、ブラジルは「南米ルート」のみ
  • *6:クイズ開催はなかったが北米コースのオフにはバハマの旗 バハマにも訪れている。
  • *7:優勝賞品の授与地としてカナダの旗 カナダにも訪れている。
  • *8:応募は約7万名あり、申し込みの遅かった約2万名は選外となった。
  • *9:もっとも、東京ドームが小石川消防署に届けている定員は46,314人(そのうち立ち見2,976人)である[13]
  • *10:各地区大会の参加者の合計

出演者[編集]

出題・海外リポーター[編集]

この番組の厳密な意味での「司会者」は、スタジオで進行やルート紹介を行う「総合司会」であり、あくまで出題担当の福留/福澤は「出題・海外リポーター」(第1回-第10回)または「出題・リポーター」(第11回-第16回)であった。第1回から第16回までオープニングのクレジットでは一貫してこれらの表記がなされてきた(初期の紹介クレジット順は高島→石川→徳光→福留であった)。しかし、回を重ねるにつれて挑戦者とともにニューヨークを目指し、「アメリカ横断ウルトラクイズ」という旅の実質的な進行を行う「出題・(海外)リポーター」が番組の主軸をなす意味合いが強まっていった。そのため本番組の司会といえば福留/福澤と一般的に認識されており、福留/福澤ともに本番組司会者と自負している。

  • 福留功男
    • 第1回から第14回までの全編、第15回の第1問正解発表までと、“今世紀最後”の全編を担当。予選開催時のフレーズは第1回から5回までは「絶対ニューヨークへいってみるか?罰ゲームは怖くないですか?」、「どんなことをしてもニューヨークへいきたいですか?罰ゲームは怖くないですか?」とやわらかく挑戦者に問いかけるトーンのものであったが、第6回以降は「みんな!ニューヨークへ行きたいかーっ!!」「どんなことをしても、ニューヨークへ行きたいか!!」「罰ゲームは怖くないかーっ!!」という固定フレーズになった。
    • 番組開始当時は35歳の中堅アナウンサーで、『歌まね振りまねスターに挑戦!!』や単発番組のナレーションを担当していた。局側から「アナウンサーならば1か月ロケ分のギャラがかからないし、経費節減になる」との理由で選任されたが、当時クイズ番組の常識とみられていた「主観的な進行と客観的な出題は別人の役割」という概念を覆し、進行と出題を一人でこなす技術を編み出したことで、一躍本番組の看板人物かつ日本テレビの主力アナウンサーとなった。
    • 何があるかわからないウルトラの雰囲気に合わせた、意地悪さを全面に押し出した進行ぶりがウリであったが、キャラクターが一人歩きし後年ダウンタウンにネタにされるようにもなる。
    • 司会ぶりが評価され、1986年に第23回ギャラクシー賞・選奨を受賞[14]
    • 1991年(平成3年)の第15回(福留が日本テレビを退社した年)で、「体力の限界」を理由に第1問正解発表をもって勇退し、後述の福澤に後を託した。その後、1998年(平成10年)の“今世紀最後”で再び司会を務めた。この“今世紀最後”では従来の「出題・(海外)リポーター」ではなく「Mr.ウルトラクイズ」の異名が付けられた。
    • 初期は明朗活発に振舞っていたが、カメラの回っていない時や中期以降は冷静さも垣間見せ、挑戦者に対しても「お前、いいチャンスだから力を発揮しろよ」とプロデューサーのごとく冷静なアドバイスをしていた。
    • 出題する際、必ず「問題」と言ってから問題文を読む。(以後の出題者にも継承されている。)
  • 福澤朗
    • 第15回の第2問以降と第16回の全編を担当。決まり文句は「ニューヨークへジャストミート!!」。
    • 就任当時は入社4年目の28歳で、『全日本プロレス中継』の実況などで徐々に知名度と評判を上げていた。同年『全国高等学校クイズ選手権』も福留から引き継いだ。新しいウルトラクイズの歴史を作っていくことを目指したものの、翌1992年(平成4年)の第16回をもって終了となり、わずか2回だけとなった。
    • 後年、日本テレビ退社時の会見やインタビューなどで本番組の進行を福留から引き継いだことに大きなプレッシャーと辛さを感じていたことを明かした。それとともに「メモリアルな仕事」だとも述べ、番組への深い思い入れを語った[15]
    • 司会の際に着用するブレザーは彼のみ赤色だった。

総合司会(スタジオ司会)[編集]

スタジオでの番組全体の進行を担当した。詳しくはスタジオパートを参照。

第1回-第12回
  • 高島忠夫[16]
  • 石川牧子(第1回1週目ではアシスタント。第4回では後楽園球場スタンドのリポーター、第7、8回ではツアー同行アナウンサーも務めていた)
  • 徳光和夫(第1回2週目のみ)
第15回
“今世紀最後”

国内リポーター(敗者の味方)[編集]

国内予選会場(後楽園球場、東京ドーム、成田(羽田)空港)で、敗者へのインタビューを行いつつ、ヘルメットをかぶり敗者たちに玩具のピコピコハンマーで叩かれる役[18]を毎回こなした。第一次予選で敗者復活戦の実施を福留に要求したり、第二次予選では、開始前に福留/福澤の前に現れて、ジャンケンの撤廃や全員通過を訴える役割、空港での敗者復活戦の進行役、敗者の代表として飛び立つ勝者たちが乗った飛行機に向かってのシュプレヒコール役も務めた。シュプレヒコールには、「もう二度と日本テレビは見ないぞ!」という程度だったが、「舳先は今サハリンに向かったぞ!」(第7回。大韓航空機撃墜事件)、「お前たちが泊まるホテルにはスプリンクラーがついてないぞ!」「おまえらの泊まるホテルの社長は蝶ネクタイだぞ!」(第6回。ホテルニュージャパン火災)、「アメリカはエイズの国だ!」(第9回。エイズウィルス発見)、「ジャンケンで勝ったお前達は、疑惑の勝利者だ!」「お前達の帰り道は、フルハムロードだぞ!」(第9回。疑惑の銃弾・ロス疑惑) 、「第8回。機内食は辛子蓮根だ!」(辛子蓮根食中毒事件)といった時事がらみのブラックジョークが多かった。

  • 徳光和夫(第1回 - 第11回、“今世紀最後”)
    • 敗者の味方としての徳光の出演と敗者にピコピコハンマーで徳光を叩かせる演出は、第1回開催直前に急遽決まった。徳光によれば「日本テレビの代表として、一番露出度が高いお前さんが殴られるしかない」と言われて引き受けたとのことである。
    • 第7回から第10回までは体調不良()のため、ピコハン叩きではなく全身落書きとなった。
    • 第9回で「阪神の好調はハレー彗星と同じくらいの珍事」と発言したため、第10回で阪神ファンにピコピコハンマーで猛打される屈辱を味わった。
    • 第11回では助手の日高直人を連れ、男性挑戦者に叩かれる際には日高が代わりに叩かれた。
    • 第11回は敗者復活名古屋縦断ミニトラクイズを断行。成田から名古屋小牧飛行場まで飛び名鉄小牧線小牧駅前までバスと電車を乗り継ぎ、パチンコ店「ニューヨーク」で2000発以上獲得でグアム行きとなるこれまでにはなかった敗者復活を担当、パチンコ店「ニューヨーク」前では出題、店内ではクイズ実況と終了後のアナウンスも担当している。
    • 第12回と第13回では茅ヶ崎から参加の一挑戦者として東京ドームの第一次予選に参加。第13回では第一問を突破しグラウンドに降りたが予選通過は果たせなかった。第12回で敗れ去った際には、後任である渡辺に自らが番組で使い続けてきたヘルメットを譲り渡し(それまで渡辺はヘルメットなしで叩かれていた)ピコハン叩きも行った。第14回は生放送番組出演のため参加できなかった。
    • “今世紀最後”でも生放送番組出演があったが、予選終盤にクイズ会場へ駆けつけた。高齢を理由に、ほとんどの叩かれ役を若手アナの菅谷大介に任せた。
  • 渡辺正行(第12回 - 第16回)
    • 福留が大学の先輩にあたるため、言い包められることが多かった(言いくるめられて裏切ったこともある)。
    • 成田では時に新ルールを提案したりしていた徳光とは対照的に、常に全員通過で押し通していた。
    • 敗者復活が無くなった第15回では、ジャンケンの敗者に対し余興としてハウス食品菓子ジャック」(現在販売終了)のCMの替え歌を披露した。
    • 第16回で成田では、福澤に「来たな!豆親父!!」と言われて「マメー」と返していた。これも当時の「ジャック」のCMからのネタである。
    • 成田の勝者に対するシュプレヒコールではほとんど自虐的なシュプレヒコールを展開した。
    • 着用するブレザーは常に青色だった。
    • 第15回・第16回で共演した福澤とは、1994年に「クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!」で、再び共演を果たした。

国内リポーター(その他)[編集]

国内予選で登場したが、その役目は主に徳光や渡辺と共に敗者にピコポンハンマーで叩かれる役回りである。海外リポーターとの兼任はここでは除外する。

海外リポーター[編集]

出題者の福留が万一病気などで現地での司会進行ができなくなった場合、代理として出題役を務められるように設けられた[19]。第13回・第14回では敗者予想も行った。

  • 石川牧子(第7回・第8回) - OA分出番無し。第7回グァムでは、泥んこプールに飛び込んでいる。
  • 日高直人(第9回・第10回) - 主にクイズのルールやペナルティの実演・罰ゲームの実験台を担当し、福留からよくからかわれる存在であった。第10回では南米ルートの出題も担当。
  • 増田隆生(第11回) - ハワイで罰ゲームのマラソンクイズの出題役、ロサンゼルスでルーレット係、マイアミでエバーグレース大湿原での実況を担当。名古屋敗者復活者の機内ペーパークイズ試験官も行った。
  • 小倉淳(第12回-第14回) - 主に福留が参加できない状況下での進行役や「二重音声クイズ」の出題を担当、第12回と第14回では賞品地のリポートも行った。
  • 鈴木健(第14回) - 予興クイズの出題を担当していた。
  • 多昌博志(“今世紀最後” 西インド諸島のみ) - OA分出番無し。福留未到着の場合に備え、現地に先乗りしてスタンバイしていた。

コンピュータ予想[編集]

日本テレビのコンピュータルームにおいて、次のチェックポイントで失格となる挑戦者や、決勝戦で優勝する挑戦者の予想をコンピュータを用いて行った。後期の大会ではCGを使ったミニゲームも取りいれられた。スタジオパートを参照。

  • 徳光和夫(第1回・第2回・第4回・第8回-第11回)
  • 白岩裕之(第3回・第6回)
  • 小林完吾(第5回・第7回)
  • 永井美奈子(第12回)

ナレーター[編集]

通常、ナレーションはクイズ進行役の福留/福澤が行ったが、本編以外の次回予告や舞台裏などでは他の者が担当する場合もあった。

  • 小倉淳(第13回・第14回)
  • 鈴木健(第14回・第16回)
  • 郷里大輔(“今世紀最後”)

主なスタッフ[編集]

  • 協力:米国商務省観光局、パンアメリカン航空コンチネンタルミクロネシア航空全日空近畿日本ツーリスト、神本プランニング(第15回まで)ほか
  • 審査委員長:佐藤孝吉(第1回-第5回)、白井博(第6回-第10回)、高橋靖二(第11回-第16回)
  • 大会委員長:北川信(第11回)、岡田晋吉(第12回)、高橋久仁(第13回・第14回)、太田杜夫(第15回・第16回)
  • 企画:山崎将暉(第1回-第7回)
  • 構成:萩原津年武、望月敏、わたなべ研一、田淵寛、松井尚、藤原琢也、原田俊弥、堀越詔彦、折戸泰二郎、本田泰、三木睦郎、岩沢景子、わぐりたかし明川哲也、稲原誠、西田秀城、松村幸子、弓場伸治ほか
  • 音楽:大谷幸、吉田邦夫(共に第16回のみ)
  • 問題作成:テレピットほか
  • イラスト:くどう昭
  • 技術:後藤勝彦
  • 撮影:川田正幸、金子二三夫、黒澤清図、深山健一郎、木村祐一郎ほか
  • 編集:坂内三容、照井教全、弓削とよ、米山内順子、鈴木教全、馬場勝
  • 音効:岩味潔、高橋柳太郎、塚田益章、岡田貴志、塩屋吉絵、渡辺直子
  • 演出:日比野研、土橋正道、柏木登、加藤義人、加藤就一、篠崎安雄、雨宮秀彦、仲川陽介、稲垣昭彦、山根真吾、竹内満、保坂秀司、碓田千加志、喜園伸一、狩野英一、箕野ちえみ、梅原幹、松崎聡男、川野真、小路丸哲也、勝田晃生、長嶺正俊、下山元、渡辺明、清博、大塚歩、細野雅人ほか
  • 総合演出:佐藤孝吉(第1回-第5回)、白井博(第6回-第10回)、加藤就一(第11回-第15回、“今世紀最後”)
  • プロデューサー:佐藤孝吉、重延浩、佐藤利明、高村裕、秋原道也、白井博、鶴野徹太郎、井上雅子、武藤幸恵、小野毅、高橋靖二、篠崎安雄、神成尚亮、初川則夫、廣田潤、下苧坪洋彦、チャールス・リー、稲塚秀孝、青海鉄山、安藤正臣ほか
  • チーフプロデューサー:高橋靖二(第12回-第16回)、篠崎安雄(第12回・第13回)、城朋子(“今世紀最後”)
  • 製作協力:ジャパン・クリエイト(第1回-第6回)、テレビマンユニオン(第1回-第11回)、タキオン(第12回-第14回)、才 SAI(第16回)、トマホーク(第8回-第14回・“今世紀最後”)、チップトップ(第8回-第14回)、日本テレビビデオ、ワイズメンコミュニケーションズ、イズム(“今世紀最後”)
  • 制作:石川一彦、中村公一、佐藤孝吉、山中義仁、藤原千晶、高橋進(第9回-第14回)、篠崎安雄(“今世紀最後”)

大会の流れ[編集]

この節では、1回ごとの「アメリカ横断ウルトラクイズ」の大会の大まかな流れを解説する。なお、ここでは最もオーソドックスなパターンのみを記し、例外は極力省く。クイズの詳細についてはアメリカ横断ウルトラクイズのクイズ形式を参照。

  • 「アメリカ横断ウルトラクイズ」はアメリカに旅立つ前にまず、日本国内における予選から始まる。8月中旬ごろ、日本各地から大会に応募した挑戦者たちは東京にある予選会場(第11回まで後楽園球場、第12回以降東京ドーム)に集合。ここで「国内第一次予選」が行われ、数多くの挑戦者の中から100名+αに絞られる。
  • 8月末から9月初旬ごろ、第一次予選を通過した挑戦者たちは海外旅行用の荷物を持って日本テレビ本社に集合し、ここから決勝地に向けての旅が始まる。翌朝、成田空港内のホテル成田エアポートレストハウス(第1回は成田開港前だったため羽田空港内の羽田東急ホテル)において「国内第二次予選」が行われ、人数は約半分の50名+αとなる。ここでの予選を通過して、挑戦者はようやく国外へ向かう飛行機に乗ることができる。ここで予選が終わり、本選に突入する。
  • 本選ではまずグアムまたはサイパンへ向かう飛行機内で第1チェックポイント(機内ペーパークイズ)が行われ、以降、決勝地にたどり着くまで、10-15前後のチェックポイントでクイズが行われる。クイズで一定条件を満たせば勝ち抜け次のチェックポイントへ進むことができる。敗れると失格となり、罰ゲームを受けて日本へ送還される。
    • 第2・第3チェックポイントはほとんどの場合グアム、サイパン、ハワイといったアメリカ西部の離島で行われ、全体の半数近くが一度に敗者とされることも多い。敗退者が多すぎた場合、敗者復活戦(第3回と第15回では敗者復活戦はなし)、勝者が多すぎた場合勝者決定戦が行われる。
    • やがて人数が10-20名に絞られたところでアメリカ大陸本土に上陸。準決勝までの各チェックポイントではバラエティに富んだクイズが行われる。敗者は1回のチェックポイントにつき、おおむね1名から2名[20]となる。敗者への罰ゲームも本格的に行われる。
  • 挑戦者の人数が2名(第11回のみ特例で3名)にまで絞られると、最後のクイズ会場で決勝戦が行われ、ここでの勝利者が優勝、「クイズ王」となる。クイズ王となった者は優勝旗が授与され[21]、賞品地へおもむき、優勝賞品を受け取ったあと日本へ帰国する。

以上が1回ごとの大会の大まかな流れである。日本テレビを出発してから優勝者が帰国するまでの行程は3週間から1か月ほどであった。

使用機材[編集]

ほぼ全編が海外ロケの本番組では、以下に挙げるような機材が使われた。

早押しテーブル[編集]

解答席「早押しテーブル」は、金属製・もしくは木製の折りたたみ式のものが使用された。テーブル上には解答者が問題に答えるときのマイクと早押しボタン(後述)が設置された。マイクについているウインドスクリーンは後述の早押しハットと同色のものが使われた。早押しクイズだけでなく、三択クイズやリレークイズなど大多数の個人戦クイズで使用された。

早押しテーブルは挑戦者の人数分横一列に並べられたが、残り人数10名以上の段階では2段に分けて配置されることもあった。挑戦者は第1回を除き原則として、カメラから向かって左側の席から(2段の場合は下段が先。ただし初期は上段が先の回もあった)挑戦者番号の若い順に着席した。リレークイズなどではあらかじめ抽選などで席順を決めた場合もあった。

デザインは基本的に濃紺に近い青色を基調としていた。デザインの移り変わりは次のとおり。

  • 第1回は青一色のテーブルに、番組シンボルマークである「?」マーク、「アメリカ横断」、「ウルトラクイズ」のロゴが別々にそれぞれ白地に赤い文字でステッカーで貼られており、マイクはテーブルの外から一般的なマイクスタンドを使って取り付けていた。ハワイと決勝以外では卓上右には紙製の得点盤が置かれ、解答ごとにスタッフの手で操作していた。
  • 第2回では水色と白のテーブルが交互に並べられ、テーブル上部に「?」マーク、下部にロゴが直接ペイントされ得点板は撤去された。得点表示は増減時、または一斉に長四角の枠の中に得点が表示され、プラスポイントの場合は「+1」というように頭にプラス符号が付けられていた。ただし第1回や第12回の災難クイズのようにプラス符号がなく、また通常、0ポイント時は符号なしの表示だが第10回のアトランタのように「±0」と符号が付く場合もあった。得点表示の長四角の枠、数字や符号の文字の大きさも、回によって微妙に異なっていた。
  • 第3回以降は青地のテーブルの下部に太く白いラインが入り、ライン上に赤字で番組ロゴが、青い部分に「?」マークが描かれたものが使用され、以降このデザインが定着した。細かなデザインや色は各回で微妙に異なる。第8回からは「?」マーク周辺に星が彩られるようになった。
  • 第9回の決勝ではフランス国旗になぞらえて、本番組のロゴの下の部分が赤い色になっていた。
  • 第11回の準決勝で第1回クイズ王の松尾清三が使用したテーブルのデザインは通常の早押しテーブルと同様でベースが赤だった。

早押しハット(ウルトラハット)[編集]

挑戦者は早押しクイズを行うとき、早押しハットと呼ばれる帽子を被って行った。「ウルトラハット」「帽子」と呼ぶこともあった。

ハットはシルクハットを模した早押し判定機で、基本は赤・青・黄・緑・水色・紫であるが、初期の頃は茶・桃・深緑などもあった。また、国内一次予選でのデモンストレーションや、第11回の準決勝で松尾清三が使うゲスト用の星条旗柄の早押しハットがあった。更に第6回のサイパンまでは、挑戦者が多数いた時、早押しハット正面の星の部分に番号や名前が書かれている場合があり、第13回のゴールドコーストでの敗者復活戦と第14回のタヒチでは、早押し機を背負うワイヤレスタイプがあった。また、回によっては放送の最終週で6色全部が使われなかった回もあった。なお、第1回での早押しハットの色は解答者によって固定されており、勝ち残った解答者は決められた色の早押しハットを被っていた。その様な事があり、決勝で使う早押しハットが赤と青に固定されたのは第3回からで、第1回は桃(優勝者の松尾清三)と緑(準優勝者)、第2回は赤(準優勝者)と緑(優勝者の北川宣浩)の早押しハットが使われた。なお、第11回では3名が決勝に進出したため、黄色も決勝で使われた。

解答権を得るとハット上部の?札が立ち上がるが、第11回の準決勝のみ、対戦者の松尾清三の早押しハットの札がアメリカの交通標識のSTOP札となっている。また、第1回のみ磁石で?札がくっついており、解答権を得ると?札が磁石から外れてバネの力で立ち上がり、回答後に解答者が自分で?札を磁石に戻してくっ付けていたが、第2回から?札が自動で立ち上がったり倒れたりするソレノイド式になった。通常のクイズ番組で使われるパトライト(回転灯)形式にしなかったのは、屋外で使用した場合、太陽光でランプの光が見えにくくなり、判断が困難になる恐れを考慮したためである[22]。ちなみに、ハットをかぶれない状況下での早押しクイズでは、?札が立ち上がる駆動部のみを取り外して使用したりパトライトを使用することもあったがその頻度は少なく、基本的には頭に被らずともハットのままの状態で使用していた。

早押しボタン[編集]

早押しクイズで使用されるボタンは、ハットと同色(第4回までは白で統一)のボックスに小さなクリックボタンが付いたものであった。このボタンは早押しテーブル上の挑戦者の右手の位置に設置されていたため、左利きの挑戦者に対しては考慮されていなかった。そのため、不自然な体勢で左手でボタンを押す挑戦者もいた。

ただし第7回のみ、テーブルの中央に、手のひらで押すタイプの大型ボタンが配置されていた。この年は、ボタンを押すまで両端のバーを両手で握っていなくてはならなかった。この大型ボタンは第7回以降もダイビングクイズやマラソンクイズなどのボタンを押す体勢が定まりにくい早押しクイズなど、様々なシチュエーションで使われた。後に押す部分全体がゴムで覆われている防水性タイプに発展し、現在の『高校生クイズ』などでも使用されている。

クイズを行う場所や形式の関係上、早押しテーブルを設置することが困難な場合は、早押しボタンのボックスを挑戦者の手に持たせる、多人数が参加する国内予選の敗者復活戦や、第15回ハワイの対決早押しクイズで、早押しボタンを頭の上部にくくり付ける、第12回のアラスカ鉄道の列車内での早押しクイズで、早押しの大型ボタンをベルトで太ももにくくり付けるなど、体の一部に早押しボタンをくくりつける方式があり、主に団体戦などの特殊なクイズ形式では、ボタンの代わりに足で踏むことによって解答権が得られるマット式のものが使われることもあった。

その他[編集]

ネームプレート
第1回ではアメリカ本土上陸以降(羽田では番号のみのプレート)、第2回以降は第二次予選から各挑戦者の胸に、挑戦者番号と名字(第1回は手書きで名字のみ)が書かれた、白い長四角のネームプレートが付けられた。過酷な体力系クイズなどで破損した場合はクイズ終了後にその都度新しいものに変えていた。第2回からは紐が付けられ首から下げる方式にされ、途中から衣服に安全ピンで取り付ける形に、どろんこクイズなど安全ピンの針が事故になる可能性のあるクイズでは、最初はホッチキスで衣服に留めていたが、後にプレート全体がシール状の紙製のものを衣服に貼り付ける形のものが使われるようになった。第11回では久伊豆神社のおみくじで大吉を引いた挑戦者には赤色で「吉」のシールが、大凶組には黒色で「凶」のシールが右上に貼られた。優勝者が賞品地を訪れる際には外された(第15回は除く)。
勝ち抜けメダル
本選のチェックポイントを勝ち抜けた挑戦者には、本番組のシンボル「?」マークのメダルが首にかけられた。グァムやハワイではメダルの代わりにレイがかけられた。また、バラマキクイズや前期の三択クイズでは、ポイントを獲得するごとにメダルがかけられた。この場合メダルではなくワッペンが使用されたこともある。
ロゴシール
挑戦者の携帯している荷物に貼られるだけでなく、三択クイズにおいて上記以外での得点代わりとして衣類に貼られたりもした。第6回の推理クイズでは1周目で不正解になった挑戦者にのみ貼られた。

クイズ形式[編集]

本番組では、○×クイズ早押しクイズ、三択クイズなど様々な形式のクイズが行われた。グァムにおいて恒例化した「○×どろんこクイズ」、空から問題がばら撒かれる「バラマキクイズ」、大声を発して解答権を得る「大声クイズ」など本番組独特のクイズも毎回行われた。このほか、訪れた土地にちなんだクイズ形式やロケ地にちなんだご当地問題など、多種多様なクイズが出題された。クイズ形式によっては体力[23]や運[24]も試され、知力だけでは勝ち進むことができず、まさに「知力・体力・時の運」であった。問題の正誤判定基準は時に甘めであったり厳格であったりすることがあり、この基準が勝敗を分ける決定打になったこともある[25]

罰ゲーム[編集]

主にグァム以降のチェックポイントで敗れた敗者に対し、様々な罰ゲームが行われた。一般的には演出上の理由だが、挑戦者の個人的な都合で早く日本に帰りたいがために安易に負け抜ける者が出ないようにという理由もあった[26]。罰ゲームの放映時間は一般的に、1つのチェックポイントにつき1分から10分ほどだが、収録にはおよそ2時間以上の時間が費やされていた。基本的に福留/福澤(第10回南米ルートでは日高)も罰ゲームに立ち会った[27]が、行程上の理由でスタッフと敗者だけで罰ゲームを行ったこともある(第9回のドーバー)。そして最後にテロップが「○月○日(第6・7回は表記されず。) 第○チェックポイント(第1回・第2回1週目では第○次と表記) 失格者(今世紀最後のみ敗者) ○○ 帰国」( 「○○」の部分は失格者が単独または2名の場合は失格者の氏名。ただし第4回までは1人でも「失格者○名」と氏名を両方表記していた。多数の場合は失格者の人数) と出る。砂漠や迷路、荒野、海洋を使った罰ゲームで、終わる(帰国する)のが何時か分からない場合には、「帰国?」とハテナマーク付きで出される場合もある[28]。大半の罰ゲームでは失格者は行方不明もしくは消息不明、生死不明という演出をしているが無論、番組は責任を持ってちゃんと日本へ帰国させている[29]。まれに「帰国予定」[30]「やっと帰国」[31]や帰国中の敗者が画面に映った時には「帰国中」の表記も使われた[32]。 なお、今世紀最後では高齢者の参加があったことに配慮し、スカイダイビングの罰ゲームでは強制ではなく、直前に行うか否か確認をしていた。

罰ゲームには以下のようなものがあった。

  • 苦痛な状況を我慢する。例えば、氷河の氷を掘り出しその氷で作ったかき氷を食べる[33]、真冬の服装を分厚く着込み、砂浜に設けられた電気こたつに入って過ごし鍋焼きうどんを食べさせられる[34]など。後述の帰国手段系の罰ゲームと複合したケースもある[35]
  • 公の場などで恥ずかしいと思われることをやらされる。例えば、ホワイトハウス前の庭で囚人服を着てゴミ拾いをさせられる、体に屈辱的な語句のシールを貼って日焼けさせる、移動式バスタブのCMを繰り返すなど。
  • スポーツやスタント、絶叫マシン、パフォーマンスなどの体験。闘牛体験や米海軍士官学校一日体験入校[36]ジョー・フレージャーとのスパーリング[37]ルー・テーズとのプロレス勝負[38]ロデオ[39] などもあった。失格者の嗜好と罰ゲームの内容によっては罰ゲームの意義が薄れる(むしろ労り、労いの性格が強くなる)[40]こともあった。前述の屈辱系と複合した小学校再入学+居残り授業[41]などもある。
  • 非常に体力を消耗する作業や運動。階段で超高層ビルの屋上まで上がらせられたうえ屋上でマラソンをさせられる、強力な磁石を引きずりながら走って空き缶などを拾う、スタッフに代わってクイズ機材の回収・撤収作業をやらされる[42]など。
  • 非常に難易度の高い作業。空き缶と棒、タコ糸でベースを作って演奏する[43]など。
  • クイズ会場からの帰国手段そのものが罰ゲームとなっているもの。川や海の水上・水中を徒歩や貧弱な乗り物で渡って(流されて)帰国、砂漠を歩いて帰国[44]、北北西に進路を取り帰国を目指す、熊やワニなどの危険な動物を連れて帰国する、犬・豚に道案内してもらい帰国するなど。
  • 現地に置き去り。荒野[45]、僻地[46]、ホテル[47]に置き去りにされる。
  • ドッキリ系の罰ゲーム。第13回ではクイズの時に後ろでバンジージャンプをバンバンやっているところを見せ、クイズが始まる前から「罰ゲームは当然おわかりですね?」と挑戦者を震え上がらせていた。実際は敗者がジャンプする直前で、「そこまで!」と言ってやめさせるという罰ゲーム[48]など。ヒッチハイクして運転手(実際は米国俳優による演技)に銃を突き付けられ恐喝されるなど。この罰ゲームは何度も行われ、似た形の罰ゲーム[49]も多く行われた。第8回グァムなど食事を振る舞われたと思ったらゲテモノ料理だったというパターンのドッキリなどもある。
  • 第12回イグアスでは、川を下っているところを不法出国で捕まるという罰ゲームがあった。当初の予定では「ブラジルを出国するところで同国の警官が連行する」という筋書きのはずだったが、実際には対岸のパラグアイに流れ、さらには本物のパラグアイ国境警備隊に威嚇射撃を受けてしまう。慌てたスタッフがブラジル側の警官と共にテレビ番組の収録だと説明したが、それでも警官に信じてもらえず、結果的にウルトラクイズのロゴ入りTシャツとキャップを警官を渡して事無きを得た[50]

ごくまれに罰ゲームに先だって、または罰ゲーム終了後に賞品が贈呈[51]されることもある。ただし、所詮罰ゲームであるためオチがついている[52]ことが多い。 新聞テレビ欄で罰ゲーム内容の要約が掲載されネタバレされることもあった[53]

スタジオパート[編集]

第13回・第14回・第16回を除く各回ではスタジオパートがあった。スタジオでは、総合司会(“今世紀最後”ではスタジオ司会)がルートの紹介をするなど番組全体の進行を担当した。

第12回までの総合司会の服装は基本的に本番組特製のブレザーを着用し(第1回・第2回は黄色、第3回-第6回は白、第7回-第10回は水色、第11回は藍色、第12回は青)、高島忠夫は常に蝶ネクタイだった。しかし第15回では小倉淳が常にタキシードだったのに対し、永井美奈子はドレスだったり洋服だったりした。

スタジオでのルート紹介は、第1回から第12回までと第15回では電飾が配置された地図のセットが使用された。総合司会の2人が地名とキーワードを順次読み上げ(総合司会の男性が地名、女性が説明+αの形で紹介、これはスタジオがある回では毎回共通)最後は「ここまでたどり着けるのはたったの2人」の決まり文句で締めるのが恒例となった。第1回のみ賞品地の場所も記され、第3回以降では各チェックポイントのイメージがイラスト(第5回以後はくどう昭が担当)によって紹介された。回が進むとルートが壮大になり、第12回ではブラジル、アルゼンチン、チリの南アメリカルートが床の部分に伸びていた。また、第10回の南北ルートや第11回の一足飛びルートは、それぞれ雲や竜巻の形をしたセットでルートを隠し、視聴者や観客に興味を持たせた。第13回、14回は衛星写真をもとにCGルートが構成され、“今世紀最後”では電飾ではなくCG画像を使って行われた。

チェックポイントの合間や番組ラストには総合司会の2人による、ジョークを交えたトークが行われ(例えばハワイ行きが決まった時には、高島が「これがハワイ〈早い〉者勝ちですね」とダジャレをかました)、時にはそのチェックポイントでのクイズ形式の実演を行うこともあった。また初期ではチェックポイントのOA後に敗者がスタジオに呼ばれることもあった。現地で罰ゲームがなく、スタジオでびっくり箱による罰ゲームがあったこともあった。

また第12回までは、別室においてコンピュータを使用しての敗者(または勝者)予想が行われた。コンピュータ予想は主に挑戦者の正解率のデータを用いて行われたが、正答率順で上位の人に落選マークをつけて実際にその通りになったことや、それまでの挑戦者たちの傾向やジンクスから予想したり、何のデータも示さずCGで特定の挑戦者のアニメーションを流すこともあった(例えば、第8回準決勝では、フィラデルフィアを舞台にした映画『ロッキー』にちなんでボクシングをするアニメーション、第9回決勝ではパリにちなんで挑戦者がフレンチカンカンを踊るアニメーション)。第8回では挑戦者と予想対決もした[54]

第5回以降は、番組終了時に、総合司会の2人で「勝てば天国!」「負ければ地獄!」「知力体力」「時の運」「早くこいこい」「木曜日」「史上最大」「第○回」「アメリカ横断」「ウルトラクイズで」「お会いしましょう!」という決まり文句を発していた(「木曜日」の部分は第5回最終週では「1年後」、第6回最終週では「また来年の木曜日」、“今世紀最後”の1日目では「月曜日」2日目では「21世紀」)。

決勝戦終了後は、クイズ王が出題者とともに優勝旗を持ってスタジオに登場し、総合司会からインタビューを受けた。クイズ王のほか、準優勝者や上位まで残った挑戦者(主に準決勝進出者)、クイズ王の親族などが登場することもあった。“今世紀最後”では決勝戦を生放送(衛星生中継)で行ったため、現地のクイズ王がスタジオに招かれた家族と会話した。

第1回では、アメリカ本土上陸者が決まった時点でスタジオの観客が優勝者を予想し、当たった人で賞金を山分けした。また、“今世紀最後”のスタジオパートは1日目は収録だったが、2日目は決勝戦を衛星生中継で行うことから生放送で行われた。

なお、第13回・第14回はスタジオパートがなかったが、CG画像を使用しての全体ルート紹介や、現地でのスタッフや挑戦者、敗者による敗者予想が行われた。第16回では、2週目以降の各放送の冒頭で前週までのルートをCG画像で紹介したのみで、全体のルート紹介は行われなかった。

次回予告[編集]

15年間「ウルトラクイズ」を一貫して放送した「木曜スペシャル」では本編の終了後に次回放送する特番の予告に入るパターンだったが、「ウルトラクイズ」では一部の回をのぞいてエンディング近くで行うパターンだった。ただし初期ではスタジオで次回の予告を説明した後、CM明けで改めて次回の予告を行うパターンであった。予告で流れたBGMは第13回までは一貫しておらず、14回から固定された。

優勝賞品について[編集]

優勝賞品の多くはほとんど、あるいは全く役に立たないものであった。中には「ほとんど罰ゲームみたいな優勝賞品」と評されたものもある。第16回のブドウ畑のように、税金などの経費負担が重く結局手放さなければならない場合もあった(課税される商品の固定資産税などの税金は初年度のみ日本テレビが負担していた)。しかし、中には第11回の島のように、その後長期に渡って保有している(固定資産税を納付している)例もある。第15回の温泉は特に珍しいものではなく、地元の人々も自由に作って入っている。

優勝賞品の発表は、残り人数が6-7名と少人数になった頃のチェックポイントで行われることが多かった。例外として第1回では参加申込規約に発表されており、第8回と第13回では第一次予選会場で発表された(第13回では3つのヒントのみが発表されただけで賞品の概要は優勝者のみに明かされた)。

本番組の優勝賞品はあくまでも「おまけ」であり、優勝を果たすまでの長い旅路の過程、アメリカなど各国の広大な景観・自然、一緒に長い旅をすることで得た世代を超えた友人達や普通では体験することができない人生経験、「ウルトラクイズのクイズ王」という名誉自体が「本当の優勝賞品」という認識をされている。これは優勝者だけでなく、準優勝者以下の敗者たちにとっても同様である。実際に、大多数のクイズ番組では当たり前のように出る「賞金」が本番組にはない。第2回のリノで行われたルーレットクイズで、勝ちぬけに必要なドル数(6ドル)以上を勝ち抜け時に取ったときは、その取り分が現金として挑戦者に渡されたことがある(もっとも、ほとんどの勝者は3-4ドル位の獲得で、当時のレートで1000円前後だった)。これが本番組で唯一明確に出された「賞金」だった。 このほか、賞品と銘打たれてはいないものの、クイズの勝者に対するボーナス[55]として、あるいは敗者に対して記念品として[56]食事が振る舞われたり、クイズで使用した道具、ペナルティとして獲得した品物が譲渡されることがあった。

優勝賞品は、当初はまともな賞品にする予定であった。第1回大会では、申込の時から「アメリカの土地2000坪(実際は1226坪の1エーカーに変更)」を賞品にすると告知していた。ところが公正取引委員会の指導で、賞品は100万円相当を限度にしていたため(景品表示法の規定による当時の賞金商品の最高額。現在は廃止されたが、1997年より民放連自主規制として一人200万円相当、5人チームならば1000万円相当を限度としている)、砂漠のど真ん中の土地しか買えなかったという。これがきっかけで、以降も風変わりな賞品を出すようになった。

これらとは別に、裏賞品として第11回開催時、歴代クイズ王にトロフィーが渡された。これは、第一次予選のエキシビションマッチでクイズ王サイドから提案されたもの。第一次予選時に各クイズ王にトロフィーが渡され、エキシビション不参加のクイズ王には郵送で贈られた。この年のクイズ王である稲川良夫にも優勝後渡された。全部で12個作られたが、残りの1つの行き先は不明(翌年の第12回優勝者・瀬間の手には渡っていないとのこと、その翌年以降のクイズ王に関しては不明)。

関連番組[編集]

ここでは、パロディ版は除外する。

ネット局独自のウルトラクイズ[編集]

日本テレビ系列のNNNNNS各局では本番組の亜流ともいうべき大人数参加のクイズ大会が制作、放送されていた。ウルトラクイズを名乗り、各系列局のアナウンサーやタレントではなく福留や福澤が司会を担当するなど(例として、福井放送『福留功男のウルトラクイズ福井版』、テレビ岩手『福留功男のウルトラクイズ岩手版』など)、ルールやセット、BGMなどに関しても本家を踏襲したものとなっていた。

1994年(平成6年)から2001年(平成13年)までに福島県岩瀬郡天栄村で行われた「ウルトラクイズinてんえい」は本格的なイベントとして反響を呼んだ。当初は村制施行40周年記念として開催され、その後も村おこしとして続いたが、日本テレビと福島中央テレビの協力を仰ぎ、司会こそ地元アナだが、ウルトラクイズ名物の泥んこ飛び込みクイズならぬ不正解だと粉まみれになるシロンコ飛び込みクイズや、ウルトラハットなどのセットに本物を使ったりと本家に近い形式になり、評判となった[57]

1983年(昭和58年)3月には、ラジオ番組としても制作されたことがある。日本テレビの系列局でもある青森放送が開局30周年記念番組として企画、同局のみで放送された。当初、青森放送から企画を打診され協力を要請された日本テレビは、番組タイトルも含めて難色を示したとされているが、最終的には実験として制作に全面的に協力、問題の提供や早押しハットなどの機材も貸し出し、福留やスタッフが青森に赴き、福留が司会を務めた。青森放送でも、当時ラジオ制作部に所属していた佐藤元伸(伊奈かっぺい)がディレクターを務め、地元にちなんだ問題の作成や台本づくりなどの放送作家的な仕事もこなした。併せて、当時アナウンサーだった大友寿郎がラジオ放送向けの実況(カゲの声)を務めている。収録は、青森市内の中央3丁目にあった青森県営体育館(現在は取り壊され、跡地には青森県男女共同参画センターと青森県子ども家庭支援センターの2つの機能を併せ持つ複合施設「アピオあおもり」が建っている)で行われた。第一次予選は4回に分けて行われ、のべ3,650名が参加した。このときの優勝賞品は、アメリカ西海岸旅行であった。

多摩地域東京都に編入されて100周年を記念して1993年(平成5年)に行われたイベント「TAMAらいふ21」の一環として、同年夏に自治体とのタイアップによる、ウルトラクイズ同様の形式のクイズ番組「80大学対抗クイズ選手権」が制作された。この模様は日本テレビで深夜にローカル放送された。司会は福澤が務め(この時の福澤のかけ声は「ジャストミート」ではなく「タマ王」だった)、ウルトラクイズのスタッフも多数参加した。大学生2人1組での参加による大会であった。収録は2日間にわたり、多摩の名所を巡った。優勝チームには「タマ王」の称号が与えられた。

番組がもたらした影響[編集]

本番組からパロディ化されたものは大小合わせて数えきれないほどある。例えば番組そのもののパロディには『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』のほか、その他各局の番組にて「○○ウルトラクイズ」なるコーナーが登場したり、本番組とほぼ同様の小道具やBGM・テロップなどを用いたパロディも登場した。

パロディ化した番組の例
パロディ化したコーナーの例

このほか、「ニューヨークへ行きたいか!」の掛け声、「罰ゲーム」「勝ち抜け」「敗者復活戦」などの言葉、番組での、どろんこクイズやハットなどのアイデアやセットが後のテレビ・ラジオ番組で使用されたり、日本各地の大小イベント(オンラインゲームなどでも)で「ウルトラクイズ」と銘打った企画が行われるなど、『ウルトラクイズ』の存在がクイズ界にとどまることなく影響を与えている。フジテレビの「クイズ!ヘキサゴンII」においても、合宿スペシャルなどでウルトラクイズのような企画がある。

また乗り物で移動しながらクイズを行う番組として、週レギュラーのTBSクイズ列車出発進行』や続く『日本縦断クイズ合戦』がある。不正解者が脱落するコンセプトも同じだった(現在、乗り物を使うクイズ番組ではNHK総合テレビの『クイズでGo! ローカル線の旅』が放送されている)。

2003年(平成15年)には、日テレの汐留移転にちなむミニイベント「シオドメ横断ウルトラクイズ」が開催された。

2006年(平成18年)からは、スポンサーの広告コラボレーション企画として、突撃○×泥んこクイズバージョンのテレビCMが関東地区でのみ放映された[59]。出題役は『全国高等学校クイズ選手権』の3代目司会者である鈴木崇司。飛び込み役は各社共通は長州小力バナナマン(2006年)、コージー冨田スピードワゴン2007年)、髭男爵ザブングル2008年)、それ以外はスポンサー関係者などだった。スポンサー関係者が正解に、芸人が誤答(泥)に飛び込む趣向だった。また、2008年版は、視聴者からの飛び込み役も公募していた。

2010年には、ロフト渋谷店および、セガアーケードゲームネットワーク対戦クイズ Answer×Answer Live!』との当番組公認のコラボ企画「夏休み横断!ウルトラクイズ」を開催した。ロフト渋谷店では番組グッズの販売とともに、番組で使われた小道具・美術(早押しハットや早押しテーブルなど)が展示された。また『Answer×Answer』と日本テレビの携帯サイト『日テレクイズ』によるクイズ大会が8月16日より行われ、『Answer×Answer』決勝大会の成績優秀者2人と『日テレクイズ』の成績優秀者1名の計3名による「クイズ王決定!イベント」が、9月4日に汐留・日テレの公開スタジオ「テレビバ」で開催された。

他局でも、本番組で初めて登場した「クイズ王」の称号をタイトルに使用した、『FNS1億2000万人のクイズ王決定戦』(フジテレビ)や『史上最強のクイズ王決定戦』(TBS)などの大型視聴者参加型クイズ番組が生まれた。

本番組の反響は、世界各国でも紹介された。また、日本テレビの了解を得て同様の番組が日本国外で制作された。他国から企画を利用するクイズ番組が多かった当時の日本では、珍しい例である。

  • アメリカでは、1981年11月に "All American Ultra Quiz"(世界一周ウルトラクイズ)を20世紀フォックステレビジョンが制作し、NBCネットワークで放映された。司会はディック・マーティンとダン・ローワンのコンビが務めた。日本テレビもこの番組の放映権を持っていたが、本来の持ち味である人間ドラマ色が薄かったなどの理由で放映されなかった。
  • イギリスでは、1983年-1985年の3シリーズに渡って "Ultra Quiz" をTelevison Southが制作し、ITVネットワークで放送された。第1シリーズと第2シリーズは海外でもクイズを展開したが、シリーズを追うごとに予算が縮小され、第3シリーズはイギリス国内にとどまった。司会者はシリーズごとに異なっていた。各シリーズとも全8回の放送であった。

大学クイズ研究会[編集]

本番組は回数を重ねるにしたがい、大学クイズ研究会関係者の活躍が目立つようになった。

初期の優勝者や上位進出者にも、クイズサークル等に所属する「クイズ番組荒らし」と呼ばれる参加者は多かった。しかし社会人が主流であり、同じクイズ修練者とはいえ年齢層に違いがあった。また初期は本番組以外にも視聴者参加型クイズ番組が多く、その様々な「常連」が自然に本番組にも足を向けたため、挑戦者のバラエティも豊富だった。

しかし、本番組がクイズファンの人気を集める一方で、1980年代中盤から視聴者参加型クイズ番組は次第に減っていった。その結果、本番組に影響されてクイズファンになったという若い世代が増え、大学クイズ研究会も本番組に向けて対策を特化させていった。本番組のために旗揚げされた大学クイズ研究会も少なくなかった(「ウルトラクイズ愛好会」を名乗るサークルもあった)。中期には序盤のチェックポイントにおいて大学クイズ研究会対抗戦の図式を作り上げて場を盛り上げる演出[60]が行われたこともあった。

大学クイズ研究会の主な動向[編集]

第一次予選の○×クイズでは集団で問題の検討・行動を行い、彼らの研究成果である「法則」(多くの問題は真偽を知らなくても、問題パターンなどの外部要因から○×解答を導けるというもの)を駆使。これにより大学クイズ研究会のメンバーは、正解率も一般個人参加者より必然的に高くなり、結果的に彼らは第一次予選突破者の中でかなりの数を占めることとなった。定員に近くなるとクイズの問題検討よりも定員内に残るための作戦(多数の集団についていき、安全策をとる)を実行したり、さらには都合上第二次予選以降に参加できないメンバーがわざと目立つように誤答することで他の参加者を道連れにし、ライバルを減らすことを試みるといった戦略も行われていた[61]ことが日本テレビ側の反感を買っている(後述参照)。

本番組において彼らは、早押しクイズを特に得意としており(知識以上の反応速度で解答権を得るために、問題文の癖読みを研究するなど)一部の視聴者から人気を得た。一方、クイズ研究会の活躍が増えた時期から、後半のチェックポイントに正統派早押しクイズが多くなったため、クイズ研究会関係者が後半まで勝ち残ると優勝が大方予測できてしまい、番組視聴の興味を削いだ点も指摘された。

日本テレビ側の動向[編集]

第13回の第一次予選の○×クイズで「自分の意思で決めて下さい」というアナウンスを無視して集団行動し、相手を罠に嵌める作戦も行う大学クイズ研究会への対策として、第14回以降の○×クイズでは4問目・7問目・9問目辺りに「クイズ研殺し」という問題を出す様にした。[62]これは「問題集や資料などでは予習しようのない内容で、かつ素直に考えることで正解しやすく、○×クイズのパターンを研究している者は余計な深読みをして間違えるような問題」を指す。これにより、大学クイズ研究会の大量予選通過を阻止することに成功した。

司会の福留は著書『葬らん!』で「ウルトラクイズには社会人が出てきて喜怒哀楽をみせてほしい」という内容を書いているが、思惑とは違う方向に進んでいく。社会人が長旅で仕事や家庭などのしがらみを気にしながらそれでも旅する様を描くことが番組名物の一つであったが、まさにそれゆえ社会人は参加しにくく、番組が有名になるにつれ1980年代中盤からは応募者の大半を学生が占め、チェックポイント通過者の多数も学生が占める結果になった。

福留が第15回で司会を降りた理由は体力の限界だった(前述のようにTBSで『ブロードキャスター』の司会を担当することになり、スケジュールの確保が困難になったという事情もある)。しかし、前掲『葬らん!』によると、他の理由として「人生経験を積んだ社会人を中心に扱いたいのに、学生や大学クイズ研究会ばかりが勝ち残ることに嫌気がさしたため」もあるという。福留は「視聴者に番組をハイジャックされたようなもの」と述懐している[63]。 “今世紀最後”で設けられた公式サイトでは、冗談半分とはいえ「クイズ研究会は書類審査で落ちるとトイレの裏で聞いた」などと日本テレビ側が公式サイトに書き、彼らの神経を逆なでした。ジャンケンからピカイチ芸(一発芸)、機内での400問三択クイズから漢字書き取り問題への変更も、没個性を淘汰するというクイズ研究会対策ではないのかと噂された。特にピカイチ芸の導入に含め、福留の著書『ウルトラクイズ伝説』の「クイズマニアを落とすのは簡単だ」については、大学クイズ研究会員などから非難を浴びた[64]

ただし、日本テレビが1991年(平成3年)に発行したムック本『絶対ニューヨークへ行きた〜いッ! アメリカ横断ウルトラクイズ 攻略技術と対策問題』においては「クイズ同好会訪問!」と題した企画があり、企画冒頭では「この本の柱になっているのは『クイズ同好会』」と明記し、いくつかの大学クイズ研究会の紹介をしている。さらに同ムックの第11回-第13回の海外脱出者の討論会の席においては、インタビュアーが「この本の柱はクイズ『同好会』なんですが」と話題を振り、その後にクイズ研究会についての話が展開されている。また番組の企画創設メンバーであり全17回全てのクイズ問題を担当したスタッフが「むしろ感謝こそすれ、大切なクイズファンを嫌ったり、警戒したりなどありえない」とブログに表記しており、メインスタッフでも福留とは正反対の見方をしていたことが明らかとなった[65]

エピソード[編集]

当初の企画は、東名高速道路の開通時に、沿線を移動しながらクイズを行うというものだった。この企画は日の目を見なかったが、舞台をアメリカに変えることで実現した。

日本テレビ開局25周年企画候補の1つとして「世界をバスで横断・大クイズ大会」という企画があった。スタジオで200人の挑戦者にクイズを出し、勝ち残った人は香港へ行き、バス移動の道中でもクイズ、脱落者を出しながら行ける所まで行くというものであった。結局「ピラミッド再現計画」に決まったため開催されなかったが、これがウルトラクイズの原型となる[66]

内容および規模的に、日本テレビ職員だけでは出来ない企画だったが、第1回放送の前年、1976年7月4日に、日本テレビでアメリカ合衆国独立200年を記念して放送された番組「夢と冒険!アメリカ大横断」で、日本人の老若男女男女7人がキャンピングカーを利用しアメリカ大陸を横断するという内容を企画制作し、グループ海外移動のノウハウを持っていたテレビマンユニオンに声を掛け、同社の参加が決まったという[67]

本番組が最初に企画された際の仮タイトルは「ジャンボクイズ」だった。しかし、1977年(昭和52年)当時、『木曜スペシャル』のスポンサーの一社だった全日空は「ジャンボジェット」ことボーイング747を保有しておらず、一方ライバルの日本航空は既に747を保有していた(全日空が747を導入したのは1979年(昭和54年))。「ライバル会社を連想させる名称は良くない」とのことで「ウルトラクイズ」に名称が変更されたという[68](なお、当時は「航空憲法」こと45/47体制のため全日空は国際線を運航しておらず、番組開始当初はパンアメリカン航空、同社の倒産後はコンチネンタル航空を利用[69]、実際に番組内で全日空を使うようになったのは、同社がグアム路線を運航し始めた1986年(昭和61年)の翌年、第11回大会以降である)。また、「ウルトラクイズ」のタイトルは、特撮番組「ウルトラマン」に由来するとしている[70]

また、当初の計画では、日本テレビ側がアメリカ横断を、TBS[71]側がヨーロッパ大陸横断を担当し、両方の優勝者がニューヨークで決勝を行う予定であった。しかし、TBSがこの企画を拒否したため、アメリカ横断のみの開催となった。

ウルトラクイズが始まった頃、ホノルルの空港の税関で「早押しハット」が不審尋問にかかってしまった事がある。スタッフが身振り手振りで税関係官に説明するもなかなか通じず、電源を繋いで実演する事によって何とか通関した[72]

ハプニング・トラブル[編集]

次のようなハプニング・トラブルもあった。

福留の病気(第6回)
ダラスでのクイズ終了後、福留が農薬のついたブドウを皮ごと食べ、体調を崩し病院に運ばれた。この時は挑戦者のみ次のチェックポイントに先に移動し、福留は1日遅れの日程でロケに復帰。次のチェックポイント(ニューオリンズ)に赴くまでには腫れが引いたものの、腫れの引きが急激に起こり、顔の皮膚が伸び切った状態となってしまった。このため、福留の顔は一切映しだされず、後姿(顔にはサングラスをつけていた)と声だけでクイズを進行した。それがきっかけとなり、次の回からは万が一福留が何らかの理由で司会進行が不能になった場合に備え、予備のアナウンサーを同行させるようになった(石川牧子、小倉淳など)。また、入社したての若手アナウンサーを研修目的で参加させることもあった(日高直人、鈴木健など)[73]
挑戦者のドクターストップ(第7回)
バンクーバーでのクイズ終了後、挑戦者の一人が収録中に急病にかかり、現地の病院に搬送された。尿路結石のため再発の恐れがあるという理由でドクターストップがかかり、日本へ強制帰国となった。本番組の旅で常時挑戦者を1人多く連れて行く体制になっていたのは、このような不測の事態に備えていたためである。準決勝が通常4名(第6回は5名、第10回の北米・南米各ルートでは同様の理由で3名)で行われるのはこのため。準決勝が3名で行われたのは第1回、第3回、第7回だが、当初から3名で行われるのを想定していたのは第1回と第3回のみ。上記の体制が確立したのは第4回以降からである。
祭典によるルートの変更(第8回)
当初グランドキャニオンで行われる予定だったが、当日祭典があり、多数の観光客が押し寄せると予想されたためリノへ変更。大声クイズは、リノに隣接している高地スコーバレーで行われた。
災害によるルートの変更(第10回)
当初の南米ルート決勝地は、北米ルートのナイアガラに対しイグアスの予定だったが、洪水のためリオデジャネイロへ急遽変更された。
ストライキによるルートの変更(第13回)
オーストラリアの航空便国内線がストライキ決行中で利用できず、チェックポイントをシドニーからバス移動できるオーストラリア東海岸範囲に変更せざるを得なかった。エアーズロックパースダーウィンが削除され、代わりにモーリー・ブルーマウンテンニュージーランドを追加したといわれる[74]
台風の余波(第14回・第16回)
第14回ではグァムで台風の直撃を受け、どろんこクイズのセットや撮影機材を維持させることが不可能になり、急遽○×ボードを掲げる方式のクイズに変更された。第16回では同じくグァムで、台風自体は既に通過していたが、空港が救援物資を空輸することを最優先にしたため、ブーブーゲートが設置できなくなり、挑戦者全員をいったんグァムに下ろし、滞在先のホテル入口で類似のセットを使用し合否判定を行った。また、電気などのライフラインも破壊され、どろんこクイズのプールを作ることができず、急遽早押しクイズに変更された。
制作プロダクションの降板(“今世紀最後”)
「今世紀最後」は第1回から第11回まで制作に携わったテレビマンユニオンが制作を担当し、プロデューサーは井上雅子、鶴野徹太郎、総合演出も第6回から第10回まで担当した白井博が務める予定だった。しかし、「今世紀最後」の放送時間が同社が制作する『世界ウルルン滞在記』の裏に重なることになってしまい、放送枠変更が叶わなかったため、テレビマンユニオンならびに白井をはじめとするスタッフが制作を降りた。それに伴い番組スタッフは、当時の日本テレビのバラエティ番組で成果を上げていた城朋子を中心とした態勢で臨むことになった。
テロによる日程変更(“今世紀最後”)
1998年(平成10年)8月アメリカ大使館爆破事件が起きたため、スタッフにアメリカのビザの発給が大幅に遅れ、当初の日程(成田集合9月20日から日本帰国10月9日成田着までの予定)で収録をすることが不可能になった。当初の日程では、福留が生放送でキャスターを務めていたTBS系土曜夜の報道・情報番組『ブロードキャスター』を1週(9月26日)休んでロケができる日程(10月3日特番で放送休止)が組まれていたが、成田集合9月30日から準決勝終了後一旦日本帰国10月16日成田着・1カ月後に決勝地へ出国という変則日程となり、結果的には福留は同番組の休暇日を9月26日から10月10日へ変更した。また、全面的な企画変更を余儀なくされ、挑戦者にも多大な迷惑がかかり、出場を辞退した挑戦者も多数出て、第一次予選の補欠合格者の中で第二次予選以降に参加できる挑戦者を全員繰上げ当選させても当初の通過人数であった128名には届かなかった。決勝会場がニューヨークでなくなったのはこの日程変更の余波といわれる。さらに、このことにより番組予算に億単位の赤字が出たことが、以後の番組復活を妨げる要因とされる。実際、2007年に全日空が、日中国交正常化35周年および同社の北京路線就航20周年を記念、かつ翌2008年の北京オリンピック時における同社の日本航空に対する優位性拡大を狙い、中国で「ウルトラクイズ」をやるのであれば制作費として3億円を出すという提案をし、当時アール・エフ・ラジオ日本に出向していた元総合演出の加藤就一が詳細な企画案まで提出したものの、最終的に局上層部の判断でゴーサインが出なかったという[75]

番組スタッフについて[編集]

本番組におけるホテルや飛行機などの手配など、旅行部分のコーディネート業務は、番組開始から終了まで一貫して近畿日本ツーリストが担当していた。番組の全盛期には「ウルトラクイズの仕事がしたい」という理由で同社を志望し実際に入社する学生が多数存在したという[76]

スタッフに支給される1日の食費手当は当時のアメリカの食費1食分くらいだったが、福留は「1年かかって覚える仕事を1か月で覚えるから、志願するスタッフも多い」と挑戦者に話をしていた。

スタッフはほとんど挑戦者と交流を持たないとされており、交際も禁じていた。これは、挑戦者に情が移ったりクイズの情報が漏れたりすることを防ぐためや、スタッフのモラル向上のためであった。ただし、挑戦者が10名前後の時点で、司会の福留/福澤、主要スタッフ(萩原津年武など)と挑戦者の夕食会が設けられ、そこで初めて福留/福澤と挑戦者が一緒に食事をし、個人的な話もできた。これには挑戦者個々の性格を把握しておき、それをその後の番組演出に生かす目的もあったとされている[77]。なお、スタッフがホテルのゴミ箱に捨てたデータから機内ペーパークイズの順位が漏れたこともあった。

決勝が終わると、ニューヨークの日本料理屋を借り切って盛大な打上げパーティが行われる。その際、頑張ったスタッフを表彰するイベントが第1回大会から行われており、選ばれたスタッフは嬉しさの余り、声を上げて泣きながら選ばれた事を喜ぶ姿も見られたという。

参加中の挑戦者について[編集]

挑戦者は第一次予選を通過すると後楽園球場・東京ドームの近くにある建物に集められ、通称「勝者弁当」を支給されて渡航説明会を受けた。その際大まかなクイズルート・予定などの概要を説明されるが、実際の行程は一部変更されることも珍しくなかった(過去の挑戦者の個人ウェブサイトなどによる)。また、グァムのクイズを通過した挑戦者は誓約書を書かされた(ただし強制ではなく任意)。

挑戦者の宿泊費・交通費・食費といった旅費は日本テレビが負担した。挑戦者の数が10名前後の時点からはアルコール代なども負担してもらえた。失格後も成田(第1回は羽田)空港までの旅費と食費を負担してもらえたが、挑戦者のものよりランクが下がっていた。

敗者はクイズが終わると、番組上では罰ゲーム後、「東京直行」[78]として即強制送還という演出がされていたが実際は必ずしもそうではなかった。日本方面の飛行機の日程の都合や現地の天候、各チェックポイントの周辺施設の警備上の問題等の理由で、実際には敗者がその地に一泊してから帰るというケースもあった。例えば、グァムまでの機内テストで敗者になった場合、番組ではタラップ最後の一段でグアムの地を踏めずに機内に戻されるというシーンがあったが、実際にはそのままグァムで一泊することもあった。また、ハワイでは敗者を乗せたバスに福留が乗り込み、「敗者の皆さんも番組を盛り上げてくれたので、特別にハワイの夜をプレゼントしましょう」と言い、勝者と共に敗者も同じホテルに一泊してから帰国したこともあった。

なお、敗者は失格地の宿泊所から空港までは残置されたスタッフが連れて行くが、それ以降乗継ぎなどがあった場合、もしくは途中で別の土地で一泊する場合にはチェックインや搭乗手続きなどを全て自分1人で、しかも自己負担で行わなければならなかった(中継地に近畿日本ツーリストのオフィスがある場合は、現地スタッフが案内するケースもあった)。終盤、序盤でも僻地で敗者になった場合、1日で日本に帰るケースはほとんどなく(本番組放送時代は成田直行は今ほど多くはなかった)、2-3日かけて帰国[79]するケースもあった。

出場辞退・補欠制度[編集]

第一次予選を突破したものの、都合により第二次予選以降の参加を辞退する挑戦者は毎回少なからず存在する。第16回では第一次予選の途中、勝ち残り人数が絞られてきた段階で辞退者の確認が行われた[80][81]。辞退者の確認が行われる理由は、「クイズ参加者の自己都合による途中辞退や棄権は、健康上の理由など委員会が特に認める場合以外は絶対に認められません」(ウルトラクイズの進め方より)。」[82]の「ウルトラクイズ審査委員会」の参加規定によるものである。第一次予選で失格した者のうち、後半の問題まで勝ち残った数名が補欠として予め選ばれており、辞退者が出た場合は繰上げで第二次予選挑戦者に登録された。例えば第10回大会では、最後の1席を3名で争い2名が敗者となったが、その2名は後日繰上げで勝ち抜け扱いとなり、両者ともアメリカ本土上陸を果たしている。第12回でもクイズ王・瀬間が繰上げで第二次予選へ進んでいる。

挑戦者の事情など[編集]

第一次予選を突破した挑戦者の中には、本土まで勝ち残り旅の途中で会社を解雇された挑戦者や、会社に辞表を提出して第二次予選に臨んだもののジャンケンで負け途方に暮れる挑戦者もいた。社会人にとっては、勝ち抜けたことが逆に苦難となるケースもある。仕事の都合でそれ以上チェックポイントを勝ち進むのが困難となったり、会社から「これ以上帰ってこないなら席がなくなるぞ」と連絡を受け、無解答または故意の誤答をして故意に失格した挑戦者もいた(大学生も単位不足や定期試験により故意に失格した挑戦者がいた。国際電話連想クイズでは、電話を受けた挑戦者の親族が、帰国させるために故意に正解を言わず失格させた例があったという[83])。このため、製作局側も勤務する会社の企業名を頻繁に出すようにし[84]、勝ち進むに連れて会社の宣伝になるように工夫し、仕事の都合を付けその挑戦者が休みを取りやすくなるように配慮した。

その一方で、同じ社会人でも自営業者や会社自体の経営者、家族が経営する会社に勤めていた挑戦者は、このような縛りが比較的少ないため優位にあった(第1回クイズ王・松尾、3回・宗田、第7回・横田、第10回・森田などが該当)。まとまった形での休暇が取りやすい公務員も優位で、上位に残りやすい傾向があった。第14回クイズ王・佐藤は郵便局職員(当時の郵便局職員は旧・郵政省に所属する公務員)、第15回クイズ王・能勢は埼玉県の地方公務員であった。民間企業の会社員で優勝したのは第11回・稲川が唯一である。

クイズのエピソード[編集]

第一次予選の○×クイズについて、福留は「番組の中では答えが○の問題が3回続き、次は×だろうと解答者が思うときにまた○の問題を出す。出題者が意地悪だから次も○だと思うところで×の問題を出す……というように、番組ではその場の駆け引きがあった。」と語っている[85]。つまり、挑戦者の心理を読み、解答が○×どちらになるかその都度問題を選択していたということである。

小倉淳によると、特定の挑戦者に罰ゲームをやらせるのが演出上よいと考えた場合、その挑戦者を落とすため、各挑戦者の得意分野を考慮し、落としたい挑戦者が不利になるような問題順を考えていたという[86]成田空港での第二次予選として行われていた3ポイント先取による勝ち抜けジャンケンが第10回記念大会において腕ズモウに替えられたが、翌年の第11回大会では勝ち抜けジャンケンに戻された。また、敗者が憂さ晴らしとしてミニコーナー的に行っていたものとして、徳光和夫アメリカンフットボールのヘルメットとプロテクターを着用して、敗者となった参加者にピコピコハンマーで叩かせるというコーナーがあったが、徳光が参加者の強力な一撃によって軽度の脳震盪を起こし、収録への参加を急遽取り止め、病院に向かうといった一幕があった。

著名人の出場・出演[編集]

以下の著名人が参加・出演していたことが確認されている。

出場[編集]

  • 高島忠夫 : 第11回の第一次予選に参加し、第1問で敗退した。このときは当時の年齢制限の上限の45歳の挑戦者を率いる添乗員的な役割だった。しかし高島自身は、第1回(1977年)の時点で既に45歳を越えていた(第11回当時57歳)。
  • 徳光和夫 : 第12回・第13回の第一次予選に参加。なお、スタンドの敗者席にて渡辺正行との「敗者の味方」交代式も行われた。
  • 田島昭宇(漫画家) :『電撃摩陀羅海賊本』によると、アシスタント時代は毎年のように参加していたが、一度も後楽園球場から脱出できなかった。『魍魎戦記MADARA』ヒット後には「もし予選通過したら原稿が落ちる」と言われ、泣く泣く断念したという。
  • 大桃美代子 : 芸能界デビューする前、第9回の第一次予選に参加し、2問目で敗退したことがある。大桃は大学入学時に、ウルトラクイズに出られると言われクイズ研究会へ入部した。このことは、『スタジオパークからこんにちは』(NHK)や『特捜!芸能ポリスくん』(TBS)でも触れられている。
  • ラサール石井よみうりテレビ超近未来遭遇!! どーなるスコープ』で、第16回の第一次予選に参加してどこまで勝ち残れるかを予想した。同番組内でラサールは、『伝染るんです。』のネタになぞらえて、「有名クイズ王を自分の服に隠して『下の人などいない』と言おうか」と発言。参加した結果、第1問で敗退した。
  • ナンシー関コラムニスト消しゴム版画家) : 第16回の第一次予選に「ネタ」で参加し、そのことを自身の連載で書いた。角川文庫『信仰の現場』に収録されている。タイトルの通り、本番組に参加する人を、宗教信者になぞらえ、そして自分自身はまったく興味がないはずなのに、第1問に正解するとものすごくうれしかったことを恥じるような文章になっている。
  • 尾方未紀(漫画家) : “今世紀最後”の第一次予選に参加し、そのことを「街角トワイライトゾーン〜トメと行くアメリカ」のタイトルで2ページの漫画として、放送に合わせて雑誌に掲載した。この漫画については“今世紀最後”の放送の最初でも触れられた。
  • 角田裕育ジャーナリスト): “今世紀最後”の第一次予選に参加するも、第一問で敗退。番組が継続していたら、公務員を辞めず報道関係の仕事につくつもりもなかったとのこと。

出演[編集]

  • 渡部麻里 : 元プロスケーター・渡部絵美の姉。第4回のコロラドスプリングスで勝者にメダルをかけていた。
  • Mr.マリック : 第13回にシドニーでゲスト出演し、敗者復活戦・罰ゲームも担当した。この時敗者復活者となった永田喜彰にハンドパワーTシャツをプレゼントしている。
  • 木佐彩子フジテレビに入社する前、第15回の第一次予選で、「疫病神(これまですべて1問目で敗退している挑戦者。第16回で初めて1問目を突破した。)」を乗せたリリーフカーを運転していた。
  • 福井敏雄(気象解説者) : 第16回の際、東京ドームの外で、これまでの1問目の正解とその日の気象条件から正解を予想した。

関連商品[編集]

書籍[編集]

  • アメリカ横断ウルトラクイズ (全16巻、日本テレビ放送網、ISBN 4-8203-8015-Xほか)
    各回の放送内容と放送された全問題(機内ペーパークイズは未放送問題も)を収録。第6巻の2刷以降の帯には、「史上最大の敗者復活戦」の問題が掲載されているようなことが書いてあったが、実際は一問も載っていない。
  • 福留功男の私情最大! アメリカ横断ウルトラクイズ(福留功男・編著、1984年11月、スポーツライフ社)
    福留がアナウンサー時代に発刊、第7回大会での出来事も掲載。
  • アメリカ横断ウルトラクイズ クイズ王の本(クイズ王の会・編、1987年8月、日本テレビ放送網、ISBN 4-8203-8739-1
    第10回までの優勝者の文章をまとめたものだが、実際は第10回優勝者森田敬和が他の優勝者に取材して、第2回優勝者北川宣浩がそれぞれ文体を変えて執筆した。袋とじで第11回の予想も載っている。絶版だが、インターネット版がウェブサイト上で公開されている(外部リンク参照)。
  • アメリカ横断ウルトラクイズ ニューヨークへ行きたいかーッ! データ解析 傾向と対策(1990年8月、日本テレビ放送網、ISBN 4-8203-9027-9
    第13回大会までの問題をジャンル別に抜粋。福留以下主要スタッフのインタビューなども掲載。
  • 絶対ニューヨークへ行きた〜いッ! アメリカ横断ウルトラクイズ 攻略技術と対策問題(長戸勇人・監修、1991年8月、日本テレビ放送網、ISBN 4-8203-9116-X
    前掲書の事実上の続編。立命館大学クイズソサエティ(RUQS)など大学のクイズ研究会が作成した問題や、第11回 - 第13回大会で本土上陸を果たした挑戦者の座談会などを収録。
  • アメリカ横断ウルトラクイズ 虎の巻(1998年7月、日本テレビ放送網、ISBN 4-8203-9694-3
    “今世紀最後”の放送に際して出版された。過去問題5000問や歴代クイズ王へのインタビューなど。過去問題は、1998年現在のデータに修正されている。
  • ウルトラクイズ伝説(福留功男・編著、2000年2月、日本テレビ放送網、ISBN 4-8203-9743-5
    番組のエピソードを各大会の写真(ただし、福留が担当した回のみ)を交え記録。欄外で“今世紀最後”の問題の一部を見ることができる。

ゲームソフト[編集]

電子ブック[編集]

  • アメリカ横断ウルトラクイズ 電子ブック版(ナレッジプレス、1994年1月)
    書籍版第14巻(第14回大会)までの内容と、『アメリカ横断ウルトラクイズ ニューヨークへ行きたいかーッ! データ解析 傾向と対策』『絶対ニューヨークへ行きた〜いッ! アメリカ横断ウルトラクイズ 攻略技術と対策問題』からスタッフインタビュー、ジャンル解析、新作問題を収録。さらに、歴代優勝者への質問を新規収録している(回答があった優勝者のみ)。また、優勝者以外の挑戦者の名前は、仮名になっている。

サウンドトラック[編集]

  • アメリカ横断ウルトラクイズ オリジナル・サウンドトラック(大谷幸、吉田邦夫・作編曲/ファンハウス 1992年(平成4年))
    第16回の放送にあわせて発売。リニューアル版テーマ曲と第16回だけの放送で使われたオリジナル曲を収録。ファンハウス(現:BMGファンハウス)より現在も入手可能。

ビデオ[編集]

  • 史上最大! アメリカ横断ウルトラクイズのすべて(1998年バップ/VHS

玩具[編集]

  • アメリカ横断ウルトラクイズゲーム(1984年・エポック社
    早押し機はないが、番組中のクイズ形式の再現に力を入れている。内容は○×クイズ、綱引きクイズ、神経衰弱クイズなど。
  • アメリカ横断ウルトラクイズ(1989年・トミー) 4980円
    6人用の早押し機(番組と同等の1/1000秒単位で判定[87]。ただし効果音は安っぽい)と問題集2000問が付属。子供向けとして発売されたが、特に早押し機は使い回しができるため、大人にも重宝された(早押し機なしバージョンもあった)。この商品では、グアム泥んこクイズを模した○×早押しクイズを不正解になった女性が頭から泥をかけられるテレビCMが放送された。
  • NEW アメリカ横断ウルトラクイズ(1990年・同) 5980円(税抜き)
    早押し機やパッケージのデザインを変更し、付属の問題集が2500問に増加。以降発売の「91年度版」「Jr.」は、この「NEW」のフォーマットが基調となっている。第14回の番組内で「敗者予想クイズ」に使用された。
  • アメリカ横断ウルトラクイズ 91年版(1991年・同)
  • アメリカ横断ウルトラクイズ Jr.(1992年・同)
  • アメリカ横断ウルトラクイズ ミニウルトラハット(2003年・バンプレスト
    ゲームセンターのクレーンゲーム機の景品として作られた。本物と同じようにハットの色が6色(青・赤・黄・薄緑・水色・薄紫)あり、高さ10cm弱のミニチュアサイズでウルトラハットが再現されていた。早押し機能はついていないがボタンが付属されており、押すと実物と同じように「?」マークがチャイム音と共に立ち上がる。単三乾電池2本が必要。稼動方式は「?」マークをフックにひっかけて固定し、ボタンを押すと電磁石の力でフックが外れてバネの力で「?」マークが立ち上がるもので、実物とは稼動方式が異なっている。頭の位置に電池を入れるようになっているので、頭の入るところは空洞にはなっておらず、またハットの大きさの関係で、実際に被ることはできない。
  • アメリカ横断ウルトラクイズ ウルトラハットペン(2010年・日本テレビ
  • アメリカ横断ウルトラクイズ ウルトラハットマスコットキーチェーン(2010年・同)
    この商品を紹介する写真で、ボタンを押した時のチャイム音が「カーン」と表記されている。

食品[編集]

  • アメリカ横断ウルトラクイズ チョコスナック(明治製菓
    箱に○×クイズが書かれており、正解の方の開け口からしか食べられない。菓子自体の形も○と×。箱の表には福留、裏には福留と徳光が描かれている(チョコのパッケージに現職アナのイラストが掲載されているのは初)。テレビCMでは「第1次予選」の一部を使用した。
  • BOOのクイズ徒然草に画像がある。運送用に使われた箱もあった。

脚注・出典[編集]

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  1. ^ 大門弘樹 『QUIZ JAPAN vol.1』 セブンデイズウォー、2013年、24頁。ISBN 978-4907601003
  2. ^ 4.海外旅行者数と海外旅行費用の推移(2011年)”. 一般社団法人 日本旅行業協会. 2014年5月20日閲覧。
  3. ^ 10月11日(月) 「ウルトラクイズ」
  4. ^ 北川宣浩『TVクイズ大研究』第7章 特別番組 アメリカ横断ウルトラクイズ
  5. ^ 稀にそうでないケースも存在する。第1回では敗者は勝者と同じ列車で罰ゲーム会場まで移動した例があり、第7回オルバニーでは罰ゲーム中の敗者の乗った飛行機から勝者と福留が攻撃され勝者と敗者が戦闘状態になり、第12回サンフランシスコでは勝者への弁当配達が罰ゲームの一部であったため勝者と敗者の接触が存在、第14回レイクミシガンではクイズの形式上から勝者と敗者の再接触が存在した。
  6. ^ ただし一部のチェックポイントでは開始時間について事前予告をしていたところもあった。
  7. ^ 現地のスケジュールの都合による。第11回ではニュージャージー(ジャージーシティ)での準決勝とニューヨークでの決勝戦が同日収録だった。
  8. ^ その後福留は第12回大会でブラジルにも訪問した。
  9. ^ ただし、第13回第5週と第14回から第16回までの第1週は19時からの2時間枠だった。
  10. ^ 2009年2月26日放送『モクスペ』より、木曜スペシャル歴代視聴率4位(歴代ベスト20位には第3回 - 第7回放送の週が多く占められていた)。
  11. ^ ファミリー劇場 今月のおすすめ
  12. ^ さらに、実際にはアラブ首長国連邦の旗 アラブ首長国連邦ドバイにも訪れたが、不法撮影の被疑で強制退去となったため、放映されなかった。
  13. ^ 1988年(昭和63年)10月7日朝日新聞22面。
  14. ^ 第23回ギャラクシー賞受賞作品”. 放送批評懇談会. 2014年11月14日閲覧。
  15. ^ 福澤朗インタビュー
  16. ^ 第11回では敬老会(当時の年齢上限45歳チーム)代表として第一次予選にも参加したが、第1問で敗退した
  17. ^ 第6回では本編終了後の「プレゼントコーナー」を担当したり、数回にわたって福留をサポートする同行アナを担当する(後述)など、陰ながらも初期から番組に深く関わってきた。またビデオ「史上最大! アメリカ横断ウルトラクイズのすべて」ではナレーションも担当した
  18. ^ 稀に敗者を煽って別の敗者をピコハンで叩かせたり、全身落書きの際口紅を塗った敗者にキスマークをつけるなど逆襲することもあった。
  19. ^ 第6回のダラスで福留が体調を崩しツアー日程に影響が出たため、第7回から設けられた。
  20. ^ 2名敗者が出るのは主に前半 - 中盤で、後半では準決勝を除き1名であることが多い。
  21. ^ 優勝旗の初登場は第2回。第1回では他のチェックポイントと同じ勝ち抜けメダル。第12回などでは副賞で賞品の権利書なども授与された。
  22. ^ 大門弘樹 『QUIZ JAPAN vol.1』 セブンデイズウォー、2013年、47頁。ISBN 978-4907601003
  23. ^ 第11回パームスプリングスでは強風に抗えず回答席に着くことすらできなかった挑戦者が出た。単なるパワーやスタミナ以外の体力要素が勝敗を分けることもあった。第7回レイクパウエルでは体型が、第12回フェゴ島では耐寒能力が勝敗を決している。
  24. ^ 「クイズ私がママよ」などでは眼鏡を忘れるといった凡ミスが苦戦のきっかけになったりもした。
  25. ^ 第8回フェニックスでは高水準の回答を要求されて誤答した挑戦者が失格、第13回ブルーマウンテンでは微妙な言い間違いをし誤答を取られた挑戦者が敗退することになった。その一方、第8回グァム奇襲クイズでは通常なら即誤答の「完全に回答しきった後で言い直した回答」が問題担当者との協議で正解とされたこともある。
  26. ^ 『ウルトラクイズ伝説』p.164
  27. ^ ラパスでの罰ゲームには立ち会うのみならず付き合わされ、食用ネズミの丸焼きを敗者と共に食べた。
  28. ^ 第11回チチェンイツァ、第12回アラスカ鉄道(3名中2名)、モハーベ砂漠(第15回でも)、イグアス、フェゴ島、第14回タヒチ、ソルトレイク、アーチーズ、グランドテートンなど。極端な例としては「玉砕」や「永住決定?」、「おいてけぼり」という表記もあった。
  29. ^ 本当に生還できたか分からない、死亡さえ匂わせるナレーションがつくことも多く、日本テレビ刊行の「アメリカ横断ウルトラクイズ」シリーズでも行方不明という書き方をしているが敗退の年以降に再挑戦している挑戦者や他の番組に出演した者もおり、無事帰国している。
  30. ^ 第11回グアム。
  31. ^ 第13回ロサンゼルス。
  32. ^ 第11回ニューヨーク
  33. ^ 第7回ジャスパー。
  34. ^ 第8回ハワイ。なおこの罰ゲームはフジテレビのテレビ番組『ザ・ガマン』のアイデアを“逆輸入”したものだった。
  35. ^ 第3回ヒューストンなど。
  36. ^ 第9回アナポリス。正規の士官候補生同様、入校に際して丸刈りにされた。
  37. ^ 第8回フィラデルフィア。
  38. ^ 第15回ヨークタウン。
  39. ^ “今世紀最後”テキサス。
  40. ^ 第12回パシフィカ、サンパウロなど。
  41. ^ 第12回ワシントンDC。
  42. ^ 第6回ルイビル、第13回ロサンゼルス。第13回ロサンゼルスでは罰ゲーム後にダメ押しとして敗者復活と見せかけた敗者予想が空港への途上で行われた。
  43. ^ 第13回メンフィス。
  44. ^ 第11回バッドランド、第12回・15回モハーベ砂漠、第13回ブルーマウンテンなど。
  45. ^ 第6、10回モニュメントバレー。
  46. ^ 第12回アラスカ鉄道ネナナ駅、線路上。
  47. ^ “今世紀最後”グァム。
  48. ^ この時、福留が「そこまで!」と言った後に「いくらウルトラクイズでも飛び込むところまでやる人がいるか?」と笑いながらも言っていた。
  49. ^ 第11回ロサンゼルスなど。
  50. ^ 恐怖の罰ゲーム今だから話せるウルトラクイズ裏話(ウルトラクイズに参加した構成作家のブログ)このような裏事情があったにもかかわらず、敗者には普通のドッキリだと思わせたという。なお、この罰ゲームのせいで次のチェックポイントであるアルゼンチン入りが大幅に遅れてしまった。『ウルトラクイズ伝説』pp.170 - 176
  51. ^ 第13回ボルチモア(アメリカ50州パズル)、第14回キティホーク(掃除道具)など。
  52. ^ 前述の第13回ボルチモアでは「ニューヨークに行けなかった」ということでニューヨーク州のピースのみ没収され、第14回キティホークでは賞品贈呈後、罰ゲームの挑戦者バス掃除が開始された。
  53. ^ 第7回第3週放送の11月3日号の読売新聞24面にはレイクパウエルの罰ゲーム内容が「折り紙船で帰国」、11月10日号の24面にはオルバニーでの罰ゲーム内容が「仕返し爆撃」と記載された。
  54. ^ コンピュータールームの予想が的中した。
  55. ^ 第8回ダコタ。ただし自分で調理しなければならなかった。
  56. ^ 第8回キーウェスト、第12回サンパウロ。
  57. ^ ウルトラクイズinてんえいホームページ
  58. ^ TVチャンピオン2:テレビ東京 2006年12月7日放送
  59. ^ 第2日本テレビ -ウルトラクイズ2008
  60. ^ 第13回成田など、一方の人数が極端に少なくなっている状況下でも行われた。
  61. ^ 長戸勇人『クイズは想像力・理論編』情報センター出版局、p.22。
  62. ^ こちら山中デスクです』(TBSラジオ、2007年(平成19年)8月放送)[出典無効]
  63. ^ 『葬らん!』 p.92
  64. ^ 『ウルトラクイズ伝説』p.98 - 104
  65. ^ 『アメリカ横断ウルトラクイズヒストリー 今だから話せるウルトラクイズ裏話』クイズ研究会(2013-01-18)
  66. ^ 佐藤孝吉・著「僕がテレビ屋サトーです」219ページより。
  67. ^ 大門弘樹 『QUIZ JAPAN vol.1』 セブンデイズウォー、2013年、26、41、53。ISBN 978-4907601003
  68. ^ 『ウルトラクイズ伝説』p.24
  69. ^ 大門弘樹 『QUIZ JAPAN vol.1』 セブンデイズウォー、2013年、25-26頁。ISBN 978-4907601003
  70. ^ 第9回大会、ハワイでの問題より。
  71. ^ 「ウルトラマン」シリーズはTBS系列での放映である。
  72. ^ 「僕がテレビ屋サトーです」262ページより。
  73. ^ 『ウルトラクイズ伝説』p.158
  74. ^ 『クイズは想像力・理論編』p.160
  75. ^ 大門弘樹 『QUIZ JAPAN vol.1』 セブンデイズウォー、2013年、38頁。ISBN 978-4907601003
  76. ^ 『ウルトラクイズ伝説』p.48
  77. ^ 『クイズは想像力・理論編』p.188
  78. ^ 荷物に「東京直行」のシールが貼られ、「東京直行」の旗を持たされる。
  79. ^ 第12回フェゴ島での失格者のケースでは2泊3日。
  80. ^ 第16回クイズ王・田中健一のホームページクイズマガジン21のうち「ウルトラクイズ体験記」の【2】人工芝上の攻防戦/東京ドーム・第1次予選(2)による。
  81. ^ 第16回挑戦者のブログYahoo!ブログ-C's Lifeのうちあの夏の記憶 東京ドーム突破!!にも同様の記載がある。
  82. ^ ナンシー関『信仰の現場』(角川書店、1994年(平成6年)7月)のうち「突撃! ウルトラクイズ」による。
  83. ^ 北川宣浩 2nd TRANS・AM ULTRA QUIZ PHOTO GALLERY
  84. ^ 大声クイズの絶叫フレーズにするなど。第13回の挑戦者募集CMには第12回イグアスでの大声クイズの映像が使用された。このほか演出の意図の有無は不明であるが、会社の法被姿で挑戦する挑戦者も多かった。
  85. ^ 「ニューヨークへ行きたいかぁ〜!!」 福留功男さんが協力した超リアル、PS2「アメリカ横断ウルトラクイズ」
  86. ^ 事前にチェックポイントごとに第1問からどの問題を出すかを、誰が正解し、勝ち抜くかまでを想定して決めていた。この作業を、出題の用紙をかるたのように順番に並べて行くことから「かるたとり」と称していた。もちろん、常に想定通りの結果になったわけではなく、全く予想外の展開になることもあった。 小倉淳『やっぱり滝川クリステルは斜め45度がいいのだ! 美人キャスターを見ればテレビのすべてがわかる』 講談社2008年2月28日第1刷 ISBN 978-4-06-214473-5 pp.127-129
  87. ^ トミー(閉鎖済みのためウェブアーカイブより) アメリカ横断ウルトラクイズ 当時の価格 4,980円

関連項目[編集]

外部リンク[編集]