クイズダービー

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クイズダービー
ジャンル クイズ番組/ゲーム番組
放送時間 毎週土曜 19:30 - 20:00(30分)
放送期間 1976年1月3日 - 1992年12月19日(862回)
放送国 日本
制作局 TBS
プロデューサー 居作昌果
副島恒次
山口安広
小畑光良
出演者 司会
大橋巨泉
1976年1月3日 - 1990年3月31日1992年12月19日(最終回))
(→徳光時代はスーパーバイザー
徳光和夫
1990年4月14日 - 1992年12月12日
解答者
篠沢秀夫
はらたいら
竹下景子
北野大
井森美幸
ほか(レギュラー解答者も参照)
音声 ステレオ放送
1978年11月25日 - 最終回)
オープニング 作曲:ボブ佐久間
外部リンク TBS

クイズダービー』(英称:QUIZ Derby)とは、1976年1月3日から1992年12月19日まで、日本TBSで放映された、トークショーを交えたタレントおよび視聴者参加によるクイズゲーム番組である。ロート製薬一社提供番組。全862回放送。

2005年1月3日からCS放送TBSチャンネルで再放送されている。

目次

[編集] 概要

本放送時は毎週土曜日の19時30分から20時に放送されていた。通常は30分の放送だったが、過去に数回1時間のスペシャルが放送された。番組は「巨泉の、クイズダービー!!」(最初期は「大橋巨泉の……」だった)の掛け声の後、発馬機のゲートが開く音とともにオープニングテーマが流れ、同時に番組セットのすべての電飾が点灯してスタートした。

この枠では元々大橋巨泉司会で、同じくロート製薬の一社提供番組だった『お笑い頭の体操』(1968年 - 1975年)が放送されていたが、リニューアルされることになり、このとき巨泉の競馬好きから、かつてカナダで見たクイズ解答者をに見立て賭けを行い高得点を競う競馬形式のクイズ番組セレブリティ・ステークス』を模倣した番組が企画された(詳細は#ルールの変遷を参照)。巨泉は同時期に系列局の毎日放送で『世界まるごとHOWマッチ』(1983年 - 1990年)の司会を担当していたが、その番組でも巨泉の趣味が反映されて、ゴルフのルールが取り入れられていた。

『セレブリティ・ステークス』は巨泉の話によれば非常に短命で、1年も続かなかったというが、この番組はルールはもとより、司会者と解答者とのやりとり、ギャンブルのスリルを味わえることが受けて人気番組になった。最高視聴率1979年6月30日に記録した40.8%(関東地区)で、ビデオリサーチ調べのクイズ・ゲーム部門ではNHKの『クイズ面白ゼミナール』が記録した42.2%に次ぐ高視聴率であり、民放に限れば第1位の視聴率である[1]。『ぴったし カン・カン』と並び、クイズ番組にトークショーを基礎とする現在の原型を作った。

クイズ番組としては珍しく、TBSの音声多重放送開始当初である1978年11月25日放送分よりステレオ放送となった。TBSのテレビ番組では初めて、かつテレビのクイズ番組としてもおそらく世界初のステレオ放送[要出典]であった。また、1990年以降はクリアビジョン放送もされていた。

[編集] 巨泉時代

番組開始当初は、複雑なルールが災いして視聴率が4%台と低迷し、TBS上層部から再三打ち切り勧告が出された。しかし、スポンサーのロート製薬側の意向もあり存続し、現在知られるルールに単純化したところ、秋ごろには視聴率が20%を超え、TBSを代表する看板番組となった。『料理天国』、『まんが日本昔ばなし』(MBS)、『8時だョ!全員集合』、『Gメン'75』などと合わせ、1970年代から1980年代の土曜日の夜はTBSが視聴率で他局を圧倒していた。当時TBSではこれらの番組の放送を優先させたため、土曜の夜にプロ野球中継がほとんど組まれなかった。当番組がプロ野球中継のために休止されたのは、1977年1978年1979年1987年の4回のみである。収録は隔週月曜日に現在のTBS社屋の近くにあったTBSホールで行われていた。

巨泉は自身の「セミリタイア宣言」に伴い、1990年3月31日(第734回)をもって司会を降板した。この回の詳細については#大橋巨泉司会終了回を参照。

司会交代後の巨泉は「スーパーバイザー」として番組に参加した。

[編集] 徳光時代

1990年4月14日(第735回)からは元日本テレビアナウンサー徳光和夫が2代目の司会者となり、オープニングの掛け声も「徳さんの、クイズダービー!!」と変更された。

巨泉はかねてから後任に久米宏を希望していたが、久米はこのとき既に『ニュースステーション』(テレビ朝日系)のキャスターに就任しており、他番組の司会を務めることができなかった。他の司会候補者として山城新伍上岡龍太郎板東英二逸見政孝古舘伊知郎島田紳助らの名前も挙げられていたが、最終的にはスポンサーのロート製薬が徳光を支持したため、徳光の起用が決まった。

この時期の裏番組には『おぼっちゃまくん』(近畿広域圏朝日放送では『部長刑事』)があり、さらに1991年10月に『平成教育委員会』が始まると、視聴率の低下が進んだ。1992年7月からはテコ入れとして従来固定されていたレギュラー解答者を週替わりにしたものの、視聴率の下落はますます進み、また同年度初頭には当時社長だった磯崎洋三が低迷するTBSの大改革を掲げ「つるの一声」を発したこととの兼ね合いなどから、同年末での打ち切りが決まった。末期の途中で次回の解答者紹介を交えつつ、その中で指定された解答者が次回の放送で8問中何問正解するかを視聴者に予想してもらうクイズが新設され、的中者の中から抽選で5人に任天堂スーパーファミコンなどの賞品がプレゼントされた。

1992年12月19日の最終回(第862回)では、巨泉が1990年3月に「セミリタイヤ宣言」で降板して以来の司会に復帰し、2代目司会者の徳光は5枠のゲスト解答者として出演した。この回の詳細については#最終回を参照。

[編集] 特別番組

TBSでに放送されていたスペシャル番組『クイズまるごと大集合』(1987年 - 1991年)では、関口宏ビートたけしが司会をしていた。なお、この2人は本放送時にゲスト解答者として出演した経験がある。

1988年には『お正月だよクイズダービー』が放送された。

[編集] 本放送終了後

本放送終了後、復活特番が2回行われた。前者はレギュラー時代のテイストを継承していたのに対し、後者ははらたいらが逆ギレしたり篠沢秀夫が変人キャラ化したりとバラエティ色が濃厚だった。いずれの回も10万点獲得チームは出なかった。

2005年よりCS放送・TBSチャンネルでの再放送が始まった。本放送と同じくステレオで放送されている。また、ロート製薬の初代オープニングキャッチも併せて放送されている。TBSチャンネルでの最初の放送となった1月3日は、地上波での放送開始からちょうど30年目にあたる節目の日でもあり、放送開始時刻も本放送と同じ19時30分に設定された(この日は4本分連続で放送)。その後毎週月曜日の放送に変更されたが、この月曜日は本放送の公開録画が行われていた曜日である。2005年1月はランダムで放送されたが、2月以降は第589回(1987年5月9日放送分)から順番に放送している(ただし、事情により放送されなかった回もある。第739回など)。2008年2月11日に巨泉勇退の回を放送した。

[編集] ルールの変遷

番組の基本的なシステムやルールの考案者は、初代司会者だった大橋巨泉である。

[編集] 基本ルール

毎回3チーム(初期は4チーム)の出場者と、5人(初期は6人)の解答者が出演した。

出場者チームは各問題に対して正答しそうな解答者を一人指名し、持ち点(3000点からスタート[2])の範囲内から100点単位で賭けていく。解答者には問題の解答力に応じた倍率が設定されており、指名した解答者が正解した場合には賭け点と解答者の倍率をかけた得点が与えられ、不正解だと賭け点分のみマイナスとなった。ただし、解答者が全員不正解の場合にはその問題での賭け点はすべて返された。

実際の競馬でいうと、出場者は「賭け手」、解答者は競走馬あるいは騎手、出場者の持ち点は馬券、解答者の倍率はオッズ、解答者のシンキングタイムは競走、解答者の正解は「1着ゴールイン」、出場者の得点獲得は「的中」、全員不正解は「競走不成立による全返還」に見立てたものである。

[編集] 問題

通常は8問(初期は9問)出題され、1・3・5・8問目が一般問題、2・4・7問目が三択問題、6問目は音楽問題というのが基本だった(まれに1問目で音楽問題や、三択が出題されたこともある)。なお、問題を解くカギとして、問題中にヒントが隠されており、そこから答えを連想することができた。音楽問題は歌詞通りに書かなければならないが、一般問題と同様に問題のフレーズの周りの歌詞にヒントがあり、そこから予想していた。

出題は一般常識や時事関連、著名人のエピソード・名言、時代を反映したエピソード、事件簿、アメリカンジョークなどの珍問・奇問の問題が中心で、知識より勘やユーモアを問う問題が比較的多かった。中には出場者のタレントに関するエピソード問題や、普通の辞書には載っていないユニークな漢字の出題もあった。出場者に関係する問題については、解答に入る前に司会者から出場者に対して「○○さん(みなさん)は黙っていてくださいね!」と注意があった。

[編集] 倍率(オッズ)

倍率は、通常問題は1倍から10倍まで。三択問題は1倍から7倍まで。(初期は1倍から5倍までだった。)最後の問題(合図として出題前に約1秒のチャイムが鳴る)では、設定された倍率が2倍になった。

番組の初期は、司会の巨泉と、レギュラーオッズマンの藤村俊二と、ゲストオッズマンの3人で解答者の倍率を決めていた。これは、解答者の正解不正解を、競馬の予想マーク(◎○△×)で予想するもので、3人全員がマークを付けない状態では「10倍」であり、マークの種類と個数に応じて倍率が下がっていった。ただし、どのマークでどれだけ下がるかの規則性は、番組内では明らかにされなかった。なお、競馬の予想マークは倍率の下に表示していた。その後、解答者が6人から5人に整理された際に、予想マークや倍率を下げるルールが廃止され、巨泉が単独で倍率を決める方法に改められたが、「最高倍率は10倍(最終問題は20倍)」というルールはそのまま継続された。巨泉はこのリニューアルについてのちに「複雑すぎて視聴者に受け入れられず、視聴率が取れなかった。それなら思いっきり単純にしようと思って、オッズマン制をやめた」と語っている。

倍率は、概ね1枠・2枠・5枠には5〜10倍、(三択問題では最大7倍だが、8倍がダニエル・カール藤田朋子等に付いたことがある。)3枠と4枠には2・3・4倍(いずれも最終問題はさらに2倍)が表示されていたが、ごくまれに「1倍」がついたこともある。「1倍」の設定は正解率の高いはらたいらが多かったが、その他の解答者でも専門・得意分野にちなんだ問題では「1倍」が設定されたことがあった。また、番組初期から中期にかけてはごくまれに、はらに5倍、竹下にも5〜10倍(例:竹下が生まれていない時代の問題が出題された場合)という高倍率が設定され、最終問題で彼らに10倍が出たこともある。

最終問題では倍率が2倍になるため、確実に2〜20の偶数がオッズになるのだが、初期は単純に1〜20倍の間で倍率が決められたため、最終問題の倍率が2桁の奇数になる場合もあった。

徳光への司会交代後の中期からは倍率が毎週ほぼ固定制になり、問題内容に応じた個々の倍率判断が全くなされなくなった。またときどきつけられていた1倍という倍率もつけられなくなっていった。

倍率発表の際の司会者の決まり文句としては、以下のものがあった。

  • 倍率ドン!!」(倍率発表の際に発する)
  • 倍率ドン! さらに倍!!」(最終問題で倍率が2倍になるときに発する。主に巨泉)
  • 倍率ドン! さらに倍してドン!!」(同上。主に徳光)

まれに「倍率ドカン!」や「倍率、せーのードン」という掛け声も聞かれた。

[編集] 点数賭け

この番組での的中時の配当は、日本における公営競技中央競馬地方競馬競輪競艇オートレース)のパリミュチュエル方式ではなく、いわゆる「n to 1」というブックメーカー方式で行われており、持ち点を賭けた時点では持ち点が減らないルールになっている。例えば3,000点を持っているチームが、3倍の解答者に500点を賭けて正解した場合の持ち点は「3,000+500×3=3,000+1,500=4,500」点となる。不正解の場合は「3,000-500=2,500」点(倍率は関係ない)となる。前述した「1倍」という倍率が存在したのはこのためである。

「全員不正解」という事態は、番組当初においては想定されておらず、初めて出現したときには、通常通り「不正解者に賭けた」こととして減点されたが、その翌週より「そもそも誰が正解しているかを当てるゲームであり、全員不正解というのは根本的にゲームが成立していない状態である」という見解(実際の競馬でいうところの「競走不成立」となった状態と同じ)に統一され、「全員不正解の場合、賭け点はすべて返す」というルールが追加された。

点数の全賭けはほとんどの場合、最終問題で行われた(全賭けで失敗し0点になると失格となりゲーム終了のため)が、第752回(1990年8月11日放送分)の6問目でゲスト解答者の汀夏子(倍率は6倍)に緑チームがそのとき持っていた3,000点全てを賭けるという珍事が発生した(汀は正解した)。

[編集] シンキングタイム(解答者の解答中)

解答者の解答中(シンキングタイム)には、フォスターの「草競馬」をアレンジした曲が流された。番組初期はエレクトーン系だったが、のちのステレオ放送化を機にフルートの音色に近いものに変わり、最終回まで継承された。

クイズの解答は、テーブルに設置されている解答用紙にマジックペンで書き、それを天井のカメラで撮ってモニター映しており、文字は白抜きで表示された。そのため、解答を書くところに手を置いたり顔が入ったりすると、モニターに手や後頭部が映ることがあった。また紙は自動で新しい紙が出て来るようで、モニターに書いた解答が横にスクロールするところが見られることもあった。

「草競馬」のBGMが流れている間は、解答の修正が認められていた。最初の解答を抹消して改めて答えを書いたり、複数の解答を羅列し最終的な答えを○で囲んで答えとすることが可能であった。このケースは特に篠沢秀夫が使用することが多かった。

[編集] 解答発表

司会者の「せーのードン!」の掛け声とともに、解答者の頭上にあるモニターに解答が表示される。正解の場合は正解した解答者のモニターの背景色が青から赤に変わり、倍率表周りのランプが点灯回転した。さらに賭けられた解答者に対しては、ファンファーレ(番組開始当初は馬の鳴き声だった)が鳴らされ、的中した出場者の得点表周りのランプも点灯回転した。賭けられなかった解答者が正解の場合、ファンファーレはない。

解答の開け方には、順番に開ける場合と一斉に開ける場合とがあり、順番も以下に示すように、場合によってまちまちだった。

第1問目
最初の問題では解答者の紹介を兼ねて1枠から順に解答を開けていった。その際、レギュラー解答者については先週の成績が「○勝×敗」という表現で司会者より発表され(年初めの放送では、前年一年間の成績と勝率〈○割△分□厘〉を発表)、過去に出場経験があるゲスト解答者については通算成績が発表された。ただし、末期の週替わりレギュラー制となってからは、テロップで前回の成績が表示された。
三択問題
三択問題では、答えが3つしか存在しないため、基本的に一斉に答えを開いていた。回答のオープン前には司会者が「○は2人、△は2人、□は1人」というように、回答の分布を発表していた。回答分布が4:1:0となった場合には「一人を除いてみんなおんなじ答え!」と発表し、解答者の不安を煽っていた。このフレーズは一般問題でもときどき発せられた。
その他の問題(一般問題)
一般問題(1問目以外)においては司会者の裁量で、大抵は誰からも指名がなくかつ間違えているだろうと思われる解答者の答えから順に開けていった(1・2・5枠のいずれかから開けることがほとんどであった。また奇を衒って、いきなり正解の解答者の解答を開けるといった演出もあった)。ただし同一解答が複数いる場合は一斉に答えを開けたこともあるが、はらと答えが同じで尚且つ正解の場合は、まずはらと答えが同じという事は告げずに解答を開けて正解、その後はらの答えも開けて正解という演出があった。

[編集] 得点と賞金

最終的に獲得した点数がそのまま1点=1円で賞金となった。最終問題に関係なく持ち点が10万点に達したか超過した場合、または0点になって失格となった場合、そのチームのみその時点でゲーム終了となり、次の問題以降は参加できなくなる。『クイズダービーベスト500』では10万点という点数をクイズダービーの合格点と定義している。

持ち点が10万点に達するか、それを超過した場合、賞金は10万円となり、10万円を超過した分は「TBSカンガルー募金」に寄贈された。これは製薬会社団体の紳士協定により、懸賞賞金が10万円までと定められていたためである。1チームでも10万点獲得チームが現れると、番組のエンディングで流れるテーマ曲の一部分がファンファーレとして鳴るとともに、出場者席の背後にある電飾および得点表周りの電飾が点灯し、天井に吊るされたくす玉が割られ、男性には白、女性には赤のダービーハットがアシスタントによってかぶせられた。くす玉割りは毎日放送アップダウンクイズ』の末期と同様、スタッフの機械操作で行われていた。なお、字幕スーパーは一切出なかった。

10万点獲得は最終問題で「最後の賭け」の結果達成するパターンが大半だったが、前述した通り、まれに最終問題に至る前に10万点獲得に至ったチームも現れた。例えば、1988年4月9日放送の奥田瑛二麻生祐未ペアは、5問目終了時点で持ち点を71,000点まで増やし、6問目で3倍の竹下景子に20,000点賭けたところ、竹下が正解したため、持ち点が131,000点となった。

大抵の回は10万点に達するチームが出たが、全チーム0点または逆に全チーム10万点となったケースも年に数回あった。最終問題であっても、確実に賞金を持ち帰るために正解率の高い(倍率の低い)解答者(主にはらたいら竹下景子)に賭けて10万点に届かなかったチームもあれば、全額を賭けずに少し点数を残したチームもあった。中には計算違いをしたり、最終問題に至るまでに0点となり失格になったチームも存在した。

[編集] セットの変遷

客席から見てスタジオの中央部に解答者席、右側に司会者席(左に出題者、右に司会者)、左側に出場者席がある。解答者席の上には番組タイトルの電飾看板がかけられていた。

オープニング時には、全解答者席の電飾が点灯し、倍率はすべて「10」が表示され、解答モニターには青バック画面に「クイズダービー」のロゴが表示された。エンディング時にも同様の演出があったが、倍率はすべて「20」となり、解答モニターのロゴのバックは赤に変化した。通常の問題で、1桁倍率がほとんどのはらや竹下に10や20が表示されるのはこの時ぐらいである。

ネームプレートと成績ボードは1989年10月21日(第712回)放送分から文字の書体がナール体に変更された。ゲストや出場者の文字形式は1990年8月4日(第751回)放送分から、出題者の文字形式は1991年4月13日(第782回)放送分から、1枠解答者の文字形式も1991年7月20日(第796回)放送分から同様に変更された。

[編集] 司会者席

司会者席の上には、解答者全員の成績が「本日のレース結果」として表示された。正解の際は当該箇所の赤いランプ(印)が点灯した。表示は10問目まで対応していたが、9問目以降は特番を除き使用しなかった。5問目終了後のCM明けにこのボードで解答者の成績を確認していたが、その際巨泉は解答者の成績が良いと「今日はみなさん真っ赤ですねえ」、逆に悪いと「今日はどうしたんでしょうか、真っ黒ですよ」などと言っていた(不正解の所は何も照明が付かず黒いため)。

番組初期は3つに席が分かれており、左からゲストオッズマン、レギュラーオッズマンの藤村俊二、司会者の大橋巨泉が座っていた。また、解答成績は司会者席と6枠解答者席の間にボード形式で立てていた。

司会者席にも解答をチェックするモニターが横に1列並んで設置されており(解答者席のものと同様に画面が青・赤バック表示のもの)、視聴者にも解答の模様を公開するための黒バックのモニター(「ただいま解答中!」)が上3つ・下2つに並んで設置されていた。

[編集] 解答者席

解答者席は実際の競馬で言うスタート地点(いわゆる「ゲート」)に見立てたものである。

解答者の後方には解答モニター(通常は「クイズダービー」のタイトルロゴが表示されるが、番組改編期の特番では「春(秋)の豪華版スペシャルクイズまるごと大集合」と出ていた)が設けてあり、通常時は青バック、正解の場合はそれが赤バックとなり、不正解の場合は青バックのままであった。当初は解答モニターを棚に飾る状態でのせていたが、解答席が6席から5席に変更された際、番組セットの壁でモニター画面の部分以外をすべてふさいだ。

解答者席の正面には倍率(オッズ)が電光表示され、賭けられた解答者の席では、賭けたチーム名が書かれたポールが自動的に立った。正解すると電飾が点滅した。

解答者席の両側にはコンパニオンの出入口が配されており、出場者の10万点獲得時と、問題に関係した図表や物品を解答者に見せる際に使われた。コンパニオンはエンドクレジットに名前が出るが、どちらのケースもない場合は姿を見せなかった。

[編集] 出場者席

出場者席のテーブルにはパネル形式で、上にその問題の賭け点、下に現在の獲得点数がそれぞれ表示される。得点表示はソラリー式(反転フラップ式。縦横方向は違うものの、『アップダウンクイズ』の賞金表示板と同じ仕組み)で、賭けた解答者が不正解の際には動作音が響いていた。1988年の『お正月だよクイズダービー』にて、優勝チームがトータル100万点を超過し表示不可能になり、巨泉がADの記したカンペを持参しての結果発表となって以来、特番のセットでは得点盤が6桁から7桁表示になっている。

解答者指名の際には、手元にある解答者名が書かれたネームプレートをポールに差し込む。番組開始当初は出場者が賭け点入力もしていたが、のちにスタッフに一任された。賭けた解答者が正解すると、出場者席の後方とテーブルの電飾が点滅した。

1976年1月3日(第1回)の番組開始から1987年9月19日(第607回)放送分まで使われていた後方の電飾は、欧米の多くの競馬場(近年は日本でも)に採用されている競走馬のをイメージしたゴール板を模したものである。出場者席の配色は左から赤・黄色・緑であった。ただし番組開始当初は色分けされておらず、後方の電飾はすべて黄色で、くす玉もなかった。

『クイズまるごと大集合』や「お正月特番」では、赤・黄・緑のほかにもう1つ青枠が登場した。解答者席にある賭けたチーム名のポールは、自動的に立つのは3チーム分(赤・黄・緑)しかないため、青枠分は出場チーム名が書かれたネームプレートを賭けられた解答者自らが答えを記入する前に手動で差し込んでいた。

出場者席の上にはロート製薬の当時の主力製品(パンシロンG、キャシロン、新パンシロン、パンシロン新胃腸薬、V・ロートクール、なみだロート、新V・ロート、新V・ロートプラス、ロートZi:メンソレータムなど)の看板が掲げられていた。これらの製品名看板はTBSチャンネルでの再放送でもそのまま表示されており、番組冒頭にはその旨の断りのテロップが出る。

[編集] 番組セットの変遷

番組のセットは7代目まで続いた。

4代目の番組セット以降は電飾にフラッシュもたかれるようになった。4代目は正面、5代目以降は番組セット全体に取り付けられた。ただし、6代目は付けられていない。

[編集] 歴代司会者・出題者

過去2回の復活特番ではいずれも小池が出演している。渡辺は司会が徳光に交代した後に就任したため、渡辺と巨泉の組み合わせは最終回(1992年12月19日)の一度だけであった。

出題者は問題の読み上げのみ担当し、賞品などを紹介することは一切なかった。

[編集] レギュラー解答者

  • 氏名(職業)<レギュラーを務めた期間>

解答者のギャラは正解数とは無関係だったため、はらたいらも篠沢秀夫も同じだった[3]。また、視聴率も解答者の成績の良し悪しにかかわらず常に安定していた。

[編集] 1枠

一発逆転枠。2枠よりは正解率は高め。主に作家・大学教授などの文化人が入る枠であった。

[編集] 2枠

大穴枠。長山まではベテラン女優枠であったが、4枠の竹下景子が長く出演したので、宮崎の時代から若手女性タレント枠に転向。

[編集] 3枠

本命枠。福地ははらのスケジュールが合わず代役として出演。秋山・加賀は番組終了まで約半年間の週替わりレギュラー。はらはこの間も最終回も含め不定期で出ていたが、竹下よりも早く番組出演を終えている。

[編集] 4枠

対抗枠。当初は女子大生枠。市毛・宮崎・原は竹下の産休代役として、それぞれ2週間ずつ務めている。このほか、1988年10月4日放送の『まるごと大集合』では秋吉久美子が務めていた。

[編集] 5枠

初期の解答者枠は6あり、6枠がゲスト枠だった。ガッツの降板後に整理されて1枠減り、ゲスト枠が5枠に改められた。

[編集] 番組レギュラー出演者の変遷

代理出演は除外とする。

期間 司会 出題 1枠 2枠 3枠 4枠 5枠
1976.1 - 7 大橋巨泉 丹羽節子 鈴木武樹 五月みどり 黒鉄ヒロシ 萩尾みどり ガッツ石松
1976.7 - 9 岸じゅんこ ゲスト解答者
1976.10 - 1977.1 竹下景子
1977.1 - 4 沢たまき はらたいら
1977.4 - 5 プリングス・ハイム
1977.5 - 9 和久峻三
1977.10 - 1978.8 篠沢秀夫 うつみ宮土理
1978.9 高峰三枝子
1978.10 - 1979.9 南田洋子
1979.10 - 1980.3 長山藍子
1980.4 - 1981.9 保田裕子
1981.10 - 1983.9 宮崎美子
1983.10 - 1984.3 斉藤慶子
1984.4 - 1985.3 きゃんひとみ
1985.4 - 1988.2 小池達子 山崎浩子
1988.2 - 7 井森美幸
1988.8 - 1990.3 北野大
1990.4 - 1991.3 徳光和夫
1991.4 - 7 渡辺真理
1991.7 - 1992.6 植草克秀
1992.7 - 12 (不特定) (不特定) (不特定) (不特定)
最終回 大橋巨泉 北野大 井森美幸 はらたいら 竹下景子 徳光和夫

[編集] レギュラー解答者のエピソード

各解答者の個性も番組の魅力であった。ここでは篠沢、はら、竹下の3名を中心に取り上げた。

[編集] 篠沢秀夫のエピソード

篠沢秀夫(通称:教授)は、毎回番組のオープニングで司会の大橋巨泉から前週の成績が発表される際に、成績が悪い(2勝以下)ときは「上品で良いですねー」とニッコリ微笑み、成績が良い(3・4勝以上)ほど「下品でダメですなー」などと嘆いていた。不正解の解答には、篠沢ならではの珍解答や迷解答が多く、特に笑い話やジョークなどの出題で意味不明のことを書いたりもしたため、巨泉に呆れられたり、竹下景子や左隣に座る2枠の女性レギュラーなどによく失笑されていた。それでも篠沢本人は「クイズになんか当たらない方が美学である」「連敗記録も連勝記録同様に難しいんですよ」と、不正解が続けば続くほどに堂々と胸を張っていた。

篠沢の正答率は3割2分7厘(平均2勝6敗-3勝5敗ペース)と、意外に歴代の2枠女性レギュラー陣(五月みどり沢たまきうつみ宮土理宮崎美子以外)よりも“下品”な成績を残している。滅多にないが難問で篠沢ひとりだけ正解したり、篠沢が解答者5名のうち最上位という出来事も発生している。最高成績は6勝2敗(第644回、1988年6月11日放送分など)で、番組初期の9問出題のころには7勝2敗という成績もあり、最高で9連勝という記録も残した。

6問目の音楽の歌詞(作詞)を当てる問題では、ときどき正解することもあったので、巨泉からは「作詞の盟主」と呼ばれたりもしていた。また娘が読んでいた少女マンガを何気なく読んでいた事があり、少女マンガの問題で正解したこともある(倍率は10倍)。そのため巨泉から一時期「マーガレットのヒデオちゃん」と呼ばれたこともあった。1979年『アップダウンクイズ』にシルエットゲストで出演した際、新聞のテレビ欄に「僕は少女マンガが好きだ」のサブタイトルが入っていた。

自身が正解を知っている問題が出題されると、正解した後にときどき「実に不愉快ですなあ」と苦笑いを浮かべることがあった。答えを書く際に答えの理由を書くことも多く、例えば数字の語呂合わせの問題が出題された際、ひとりだけ意味を併記した(それ以外の解答者は数字のみを書いたが巨泉が語呂を読んでいた)。三択問題などで正解すると、聞かれてもいないのに自慢げに解答の理由を説明することもよくあった。そのたびに巨泉は「問題ができるといろいろと言うんですよ、教授という人は!」と呆れながら語っていた。

篠沢の1枠レギュラー期間は約10年9か月で、4枠レギュラーの竹下景子、3枠レギュラーのはらたいらに次ぐ、『クイズダービー』において歴代3位となる長期間のレギュラー出演だった。1988年7月30日の放送回を最後に降板したが、その後もしばしば5枠ゲスト解答者として出演。1992年12月19日の番組最終回にも出演する予定だったが、大腸ガンで入院していたために断念、代わりに北野大が出演した。

『クイズダービー』終了後の篠沢は、2000年末の『SAMBA-TV』復刻版と、2004年5月の復元スペシャルの両方とも、長年の指定席だった1枠に座っての出演となった。そのときは2000年の2枠・久本雅美、2004年の2枠・井森美幸よりもほとんどの倍率設定が高くなっていた。成績はそれぞれ1勝7敗と1勝4敗で、5人の解答者中最下位だった。また「ひとりを除いてみんな同じ答え」となった問題で篠沢だけが不正解という現象も共に1題ずつ発生した。それでも、レギュラー出演時以上に“上品”な成績結果に、終始にこやかな笑顔を浮かべていた。

[編集] はらたいらのエピソード

時事漫画で知られるはらたいらは正解率が非常に高く、その連続正解率から「宇宙人」と呼ばれていた。正解率が高かった理由は、問題の起承転結の「結」を当てる事が職業柄慣れていた事、毎朝複数の新聞や週刊誌などを読み、そこからクイズに出てくる問題を予想していたからという(篠沢秀夫によると、「はらさんは『当てる係』という自覚があった。聞いてみたら新聞を14種類、週刊誌は『週刊朝日』から『アサヒ芸能』まで目を通していた」[4])またネタになりそうな記事を切り抜いてファイリングするが「漫画用」と「クイズダービー用」の2種類があったという。はら自身も「シャレがきつくないとダメだね」と述べたように、問題作成者の作成傾向を実に的確に読んでいたため、正答率が高かったとのちに語っている。更に答えを外した時、本当にその答えが正解なのか、百科事典で調べた事もある。トランプのマークの配置の問題で、麻雀の配置を書いたところ不正解で、すぐにトランプを買って帰り、全て覚えた事もある。それ故に、大変な予選を勝ち抜いて来た出場者の得点を、最後の問題で外して0点にした時は「本当に申し訳ない」と収録終了後、出場者に謝る事もあった。なので「宇宙人=正解が当たり前」のプレッシャーを背負いながらも「答えを当てる係」としての自覚を持っていた。しかし『クイズダービー』終了後のバラエティ番組などの出演時に「事前に解答を聞いていたのでは」「問題ははらが作っていたのでは」と聞かれることが多くなり、いちいち説明するのが面倒なので「そうですよ」と答えていたという。

正答率は7割4分8厘(平均6勝2敗ペース)、年に数回は8戦全勝を達成している。また27連勝を記録したこともある(1979年4月7日-4月28日放送分)[5]。ごくまれながら不調時には3・4勝以下になったこともあり、最低成績は8問出題時では2勝6敗、さらに番組初期の9問出題のころには2勝7敗も記録していて、初めてこの成績を挙げたときには本番終了後、本気で悔しい思いをしたそうである。最多連敗記録は「5」である(1987年11月に6・7・8問目と、翌週の1・2問目を続けて不正解だった)。

三者択一問題が苦手で(正解率は約57%)、連勝記録がストップしたのはほとんど三択だった。年に何度か3問全滅となったり、はらだけ不正解という現象も発生している。そのためか「三択問題を(3問から)2問に減らしましょうよ」と巨泉に懇願したこともあったが、結局聞いてもらえなかった。巨泉は「クイズダービーの問題の作成者は、いかにしてはらに三択で間違えさせるかに命を懸けている」とまで述べていた。

はらたいらに3000点」は、「倍率ドン!」「三択の女王」と同様に、番組終了後もこの番組を語る上での重要なキーワードの一つとなっている(嘉門達夫は『替え唄メドレー2』でデューク・エイセス「女ひとり」の替え歌ネタに使っていた)。 特に難しい問題や出場者チームの点数が少ないときに集中して指名されることから「困ったときのはら頼み」と言われることもあった。ほかには「カラオケの帝王」という異名も定着していたが、実際のはらはカラオケで歌を披露することはほとんどなく、また、作詞の問題も三択同様あまり得意ではなかった。

普段からあまり表情を顔に出さないため、出場者などから「いつもクールな」、「無表情のはら」と言われることがあった。さらには、かつて右隣に座っていた当時2枠レギュラーの山崎浩子が毎週必ず髪型を変えるのに比べ、ほとんど髪型を変えていなかったため、ある日出場者から「いつも同じヘアースタイルのはらたいらさんに、1000点」と指名されたこともあった。その言葉にはらは思わず苦笑いした。

ときどき漢字を間違えて書くことがあった。例えば「座頭市」の解答を「座頭」と書き、「これじゃ『ざとうかず』だよ」と巨泉から冷やかされたり、「税務署」を「税務」と間違え、同じく巨泉に「それは刑務所の『所』です!」と指摘されたこともあった。漢字に自信がないと思われる答えは、平仮名や片仮名で書いたケースもあった。例えば「電子レンジ」が正解の問題で「デンシレンジ」と片仮名で回答(正解と見なされた)。ほかにも「杉並区にある寺(釜寺)は、屋根に『ある物』が載っていることから、寺の通称名がついたそうです。何でしょう?」との問いに平仮名で「おかま」と解答。これも正解扱いとされたものの、巨泉には「それじゃあおすぎとピーコですよ!」と笑われていた。

2000年末に放送された『SAMBA-TV』の復刻版において、前半戦は2勝3敗の出来(1問目ははらだけ不正解)で、巨泉いわく「絶不調」。出演者は本放送当時のイメージからか「困ったときのはら頼み」を続けていたが、巨泉は「はらたいらはもう70過ぎてるんですよ!」とギャグを飛ばした(当時はらの実年齢は57歳)。だが、最終問題ではひとりだけ正解し、後半戦3連勝で結果5勝3敗の成績となった。2004年5月放送の復元スペシャルでは、苦手の三択問題で2問共に不正解。「はらさんホント三択ダメですね」と言った出場者の安めぐみに対して「そんなことないよ!」と不機嫌そうに怒鳴り、スタジオ内は思わず失笑した。それでもほかの一般・歌詞問題は3戦全勝で合計成績は3勝2敗、エンディングで巨泉ははらに対して「最後はさすがにね、正解してくれました」とコメントした。

[編集] 竹下景子のエピソード

竹下景子は当初女子大生としてのレギュラー出演だったが、その後産休や番組末期などを除いて約16年もの間、4枠の席を誰にも譲ることなく、『クイズダービー』において史上1位の出演回数を記録した。

三者択一問題では、右隣の3枠はらたいらよりも良い成績を挙げ、いつしか「三択の女王」と呼ばれるようになった。三択問題の正解率は約82%と高かったが、2004年5月にTBSテレビで放送された『もう時効だョ全員集合 史上最強! 花の芸能界オフレコトークバトル』にて、解答が「ほとんど山勘だった」ことを明かした。

正答率は6割3分2厘(平均5勝3敗ペース)だったが、週により好不調の波があった。好調時は大抵6・7勝以上しており、最高成績は8戦全勝で、年に何度かはらたいらの成績を上回って最上位となることもあった。不調時には3・4勝以下のペースが長く続きがちで、特に女優としてドラマ・映画の出演などで多忙な時期に成績不振になることが多かった。ワースト記録となる1勝7敗を初めて記録した回(1986年ごろ)では、2問目の三択しか正解できず、解答者5名のうち最下位だった。第743回・1990年6月9日放送分では、1問目から6問目まで6連敗を喫した。また、第765回・1990年11月17日放送分では、1問正解のあと7連敗し、さらに翌週の2問目まで不正解が続き、自身ワーストの9連敗を喫してしまった。

竹下の正解率は一般問題も割と高めではあったが、はらたいらに比べると遠く及ばないため、はらに直接「どうしてこんなにたくさん正解できるのですか?」と聞き、はらの驚異的な正解率の秘訣を教えてもらっていたという。それでもレギュラーになって間もないころは全然成績が良くならず、とても悔しかったため、シンキングタイムではらがマジックで答えを書く音を聞いた後に、どういう答えを書いているのかをカンニングすることもあったと、『クイズダービー』終了後のバラエティ番組などで告白している。ある日の問題で、はらが「上野」と書いたと分かった竹下は、すぐさま「上野動物園」と書いたが、はらが書いた答えは「上野駅」だった。このカンニングをした話をはじめて聞いた巨泉は驚いたという(詳しくは竹下景子#クイズダービーの出演を参照)。

普段から無表情のはらたいらとは対照的に、よく喜怒哀楽を表情に出していた。例えば、三択問題でひとりだけ正解のときは大抵、嬉しさや喜びよりも、戸惑いまたは驚きの表情を見せていた。出場者に指名されたものの不正解となり点数が減点されるときには、ほぼ毎回出場者に対して申し訳なさそうに「ごめんなさい」と謝っていた。とある最終問題で、出場全3チームに指名されたが正解できず、他の解答者が正解したために全員0点となったとき、責任を感じて思わず泣いたこともあった(収録終了後、篠沢やはらたちが自分を責め続ける竹下を慰めていたという)。逆に、最終問題に賭けられて正解したときには、「アー、ヨカッター!」と安堵の表情を見せたりもしていた。30歳を過ぎたころには、巨泉から年齢の話を出されたり、「オバサン」呼ばわりされることがあり、そのたびに「もしかして私のことですか?」と不機嫌な表情でにらんだり、「私はまだ中年じゃありません!」と怒鳴るなどした。他の解答者の珍解答に対する巨泉の突っ込みに、思わず爆笑して顔や口を抑えたり、逆に竹下自身が珍解答を巨泉に指摘されたときには、恥ずかしそうに苦笑しながらうつむいていた。 問題の解答に自信がないときには、巨泉が解答を開く前に「私の答え間違ってますよね?」と巨泉に問い質したりもしていた。

竹下が本職の女優業以外に、歌手業でも活動していたことを覚えていた巨泉は、ある日のトークで「『結婚してもいいですか』という、レコードを出した女優がいましたが」と切り出した。竹下は咳払いしながら「今やもう死語ですね」と苦笑。さらに巨泉が「そのうち『三人目産んでもいいですか』というレコードを出すという話も…」と冗談を言うと、竹下は「そんな…イヤだぁー」と呆れていた。その後、巨泉が久々に司会復帰した最終回のとある問題で、竹下が「新曲」という不正解答を書いたときにも、巨泉は「あなた、まだ新曲出していたんですか?」と問い質し、竹下が「私じゃありませんよ!」と否定すると、巨泉は「安心しました」と苦笑いしていた。

末期(1992年7月以降)では、レギュラーも含めて1枠から5枠の解答者が毎回変わっていたが、そのころには長年4枠の席に座っていた竹下が、はらたいらの指定席だった3枠の席に座ったことも何度かあった(そのときはらは番組に出演していなかった)。

2000年末『SAMBA-TV』復刻版での成績は、8問のうち得意の三択問題は3戦全勝だったが、他の一般問題は1問目だけしか正解できず、合計4勝4敗だった。特に6問目の歌詞問題(「およげ!たいやきくん」より出題)では全3チームに賭けられたものの不正解で、全てのチームを減点させ、「あぁ、ごめんなさーい!」と謝罪していた。しかし2004年5月の復元特番では、ひとりだけ全問(5問)正解を達成し、エンディングでは会場全員からの大きな拍手と、巨泉からは賞賛の言葉が贈られた。

[編集] その他の解答者のエピソード

  • 初代3枠レギュラー解答者だった黒鉄ヒロシは、解答をあきらめるときがあり「裏切り狸」と呼ばれた。黒鉄は本業の漫画家に専念したいという理由により、約1年でレギュラーを降板。正答率は6割6分2厘であった。
  • 篠沢の降板後に1枠を引き継いだ北野大は、1988年2月6日の放送で5枠ゲスト解答者として初出演したときには、6勝2敗で勝率7割5分という好成績を挙げていた。その約半年後に1枠レギュラーを務め始めたが、篠沢同様勝率は低く、特に奇怪な解答をしたときには、巨泉から名前を逆読みした「大野北〔おおの・ぺー〕さん」と呼ばれることがあった。これは巨泉だけでなくたまに出場者からも言われていた。また、ときには「きたのだいさん」と呼ばれることもあった。北野の1枠レギュラーでの通算勝率は2割7分3厘(平均2勝6敗ペース)で、篠沢よりも“上品”な成績となっている。篠沢同様、正解の際に饒舌になる傾向があったため、巨泉は「教授とか先生と言われる職業の人は、どうしてこんなに自慢したがるんですかねぇ?」と首を捻っていた。
  • 北野大の弟のビートたけしがゲスト解答者として出演した際、「欧米人にアジアで一番有名な人物は?」という問題で、兄はまじめに考えすぎて蒋介石と書いて不正解。弟は、最初ギャグで書いたたこ八郎マイケル・ホイを消して、ブルース・リーと書き直して正解、ということがあった。また、北野がレギュラーの際に放送された『クイズまるごと大集合』でたけしが司会者だったとき、兄が不正解だと弟は「あんちゃん、大学教授なんか辞めろ!」とひやかしていた。
  • 斉藤慶子の2枠レギュラー起用について、巨泉は当初猛反対した。理由は名前の読みが竹下景子と同じ「けいこ」のため、竹下を「けいこちゃん(さん)」と呼んでいる自分がやりにくくなるからというもの。起用を諦めきれないプロデューサーがついに斉藤に対し芸名を変えてもらうよう要請したが断られ、結局は巨泉が折れて「斉藤慶子」のままレギュラー出演した。
  • 山崎浩子が2枠レギュラーになって間もない頃、「強くて厚い鬼のパンツはいったい何で出来ているのでしょう?」という問題が出た時、全く分からなかった彼女は、散々考えた挙句の末「はらさんと同じ」という、余りにふざけた解答を書いた事件を起こしている。この山崎の珍解答に、左隣のはらを初めとする解答者達や会場全員は大爆笑。そのはらは正解(答えは「つらの皮」)だったので山崎は喜んだものの、勿論彼女の珍解答は正解とならなかった。その後巨泉からは「浩子のつらの皮も相当に厚いようだな!」と呆れられた、という。この事件に山崎自身も、後年エピソードで何度か語っている。
  • 井森美幸の2枠レギュラー起用の際は、井森のほかに女優の杉浦幸がレギュラー候補に挙がっていた(井森と杉浦の二人はかつて同じホリプロ所属だったが、杉浦はその後独立)。杉浦はゲスト解答者として出演した際に、当時若い女性の間で流行していた丸文字で答えを書き、巨泉の興味を引いていた。井森は連敗記録第1位を記録。特に「ひとりを除いてみんな同じ答え」の場合に井森だけ不正解というケースがたびたびあった。
  • 当時、普段アイパッチをしていたタモリが初めてサングラスをかけたのは、当番組の5枠ゲストのときだといわれている。

[編集] 出場者

出場者は一般視聴者が中心で、ときにタレント・著名人・スポーツ選手。番組開始当初は個人、後に2人一組となる。特別番組では4チームのときもあった。

初期の番組では、各チームが手元のボタン操作で解答者と賭ける点数を入力しており、司会者が話を振らない限り、各チームが言葉を発することはなかったが、のちに入力操作をスタッフに一任してからは、各チームが「いつ見ても素敵な竹下さん」などの褒め言葉や「はらさん、お願いします!」など嘆願の言葉を付け加えながら、「はらたいらさんに3,000点」や「篠沢教授に全部」などと発するようになった。

本放送時、1問目と6問目に解答者が答えを書いているときには随時「出場者募集」の告知テロップを流していた。また、5問目にはTBSの放送エリアでのみ、公開録画の告知テロップを流していた。これらは提供クレジットテロップから表示していた(VTR編集時には挿入されていない)ため、TBSチャンネルでの放送ではこれらの告知テロップの表示はない。

[編集] 出場者のエピソード

  • 1978年末、水曜劇場『ムー一族』にて足袋屋「うさぎや」の従業員役の樹木希林岸本加世子が視聴者チームとして参加し、『クイズダービー』自体が劇中劇として扱われた。
  • 一度、TBSのほか日本テレビフジテレビの各局のアナウンサーまたはキャスターが出場者になったことがあり、小林完吾桜井良子も出場した。このときフジテレビチームが最後の問題で大逆転し、司会の巨泉が「各局のカラーが出た」とコメントしていた。
  • 1986年4月にとんねるずが出場した回と、1988年10月に若山富三郎池内淳子ペアが出場した「ドラマ大会」の回で、それぞれが1問目からいきなり持ち点全部を賭けようとした。とんねるずははらたいらを指名したが、はらの1問目の正答率9割以上を見越してのものだった。一方、2時間ドラマ『妻たちの鹿鳴館』に出演した関係で出場した若山は、最初から参加意欲が全くなく不機嫌で、指名したゲスト解答者のビートたけしが不正解なら0点となりゲームが終了するので「早くスタジオから出られる」という考えからだった[6]。結局どちらも巨泉から、とんねるずは「おまえらふざけるんじゃないぞ、少しは番組のことを考えろ、外れたらなくなっちゃうじゃないか、全部賭けるのはやめなさい!!」、若山は「3000点はまずいですよ、なくなっちゃうじゃないですか!早く帰ろうと思ってるなあ!!」と叱られ、全額を賭けられなかった。それ以外の回でも1問目ではらへ一挙に2000点や2500点、中には2800点も賭けたチーム(三遊亭小圓遊桂歌丸チームもこれに該当)もあり、そのたびに巨泉は「えー!?」と吃驚仰天していた。1問目で持ち点の大半を賭けて不正解のため、あとの問題で100点ずつしか賭けられなかったチーム(月の家円鏡エバチームもこれにあたる)もあった。
  • いかりや長介がゲスト解答者で他のザ・ドリフターズのメンバー(仲本工事加藤茶志村けん)が賭ける側の回で、メンバーは1問目でいかりやを指名したが、いかりやが不正解に終わった瞬間、志村がいかりやの賭け札を床に放り投げ、会場全体が大爆笑になった。最終得点は0点で、エンディングで巨泉から「あのときいかりや長介の賭け札を捨てなければよかったのに」と言われ、再び会場が大爆笑となった。
  • 1988年の『お正月だよクイズダービー』の第1問で、ゲスト解答者の西村晃(第2代目水戸黄門)が、「毛の用心」が正解のところを「髪の用心」と解答して不正解となった。ところが、西村を指名した加藤茶・志村けんチームが、巨泉に向かって「同じじゃねーか」と猛抗議。これを受けた西村が巨泉に向かって「黄門様の言うことは絶対じゃ」と言った途端、巨泉が一転「正解にしときましょう」と言って判定を覆し、会場全体が大爆笑となった。この回の西村の総合成績(正月特番なので14問あった)は9勝5敗で、他の解答者も非常に正解率がよく、篠沢(4勝10敗)を除いて全員正解率が5割を超えていた。
  • 1989年、『クイズまるごと大集合』で、加藤茶と富田靖子の「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビチーム」が決勝に進出。巨泉から「どうして加トケンで、座らないの?」と質問された加藤は「志村は何年前かに、賭け事で我々に多大なご迷惑をかけましたので!」と複雑な表情でコメントし、1981年に志村と仲本に競馬のノミ行為が発覚し、一時期番組への出入りを禁止された件との関係を匂わせた。しかしチームが優勝を果たした後、加藤は「志村はですね、(同チームが)優勝できないと思って帰ってしまったんですよ」とコメントした。
  • 最高獲得点数は1987年6月6日放送の819,000点。7問目終了時点で39,000点を持っていた古物商のチームが、最終問題で4倍のはらたいらではなく、敢えてゲスト解答者だった20倍の関根勤に全部賭けたところ、関根が正解したため、莫大な点数を獲得した。これには巨泉もTBSカンガルー募金の寄付額を計算できなくなるほど動揺した。翌週の放送の冒頭で、改めて巨泉から「719,000円を寄付」する旨が伝えられた。なお、20万点越え、30万点越え、あるいは40万点越えを達成するチームは年に数回出現していた。例えば、土井たか子の2回目出場時、黄色のチームが最終問題でそれまで7戦全勝の土井に全額賭け、土井の正解により得点が40万点を超えた。
  • 連勝記録 1位:はらたいら27(2回)、2位:黒沢久雄24、3位:竹下景子16、4位:宮崎美子・土井たか子10、6位:篠沢秀夫9
  • 連敗記録 1位:井森美幸27(26連敗1回と23連敗2回あり)、2位:斉藤慶子24、3位:篠沢秀夫21(17連敗1回あり)、4位:長山藍子・山崎浩子20、6位:沢たまき17、7位:ジェームス三木16、8位:北野大14、9位:鈴木武樹13

[編集] 問題に関するエピソード

1回の放送で作られる問題は、問題作家15名(「チャーリー」の6名以外に外部から9名)×20問=300問にも上り、その中から最終的に8問に絞られた。単純計算する(放送回数862回を掛ける)と17年間で作成された問題数は258,600問となる[7]

[編集] 正解判定

各解答者の解答は、三択問題では要点となる語句を書けば答えと見なされていた。それ以外の一般問題では、正解に関連する解答であれば、司会者の裁量で正解とする場合もあった。巨泉が司会のころは、ずばりの解答に関連していたり、意味が合っていれば正解にすることが多く(例えば正解が「風呂」であるところを「温泉」と解答しても正解としていた)、ときには「どうしようかなあ……オマケで良いことにしてあげましょうか」と悩みながらも正解にすることもあった(このケースは竹下など女性の解答者に対してよく見られた)。

しかし、歌詞問題では「歌詞通りでなければ正解と致しません!」と司会者があらかじめ断り、たとえほとんど意味が合っていても不正解にすることになっていた。黒沢久雄がゲスト出演した回(第250回放送)で林家三平の歌った「ヨシコさん」の歌詞から出題されたとき、正解は「キスさせて」だったが、黒沢は「キスして」と答えたものの、巨泉は厳しく不正解とした。

また、正解率の高いはらたいらに対しても、特に巨泉は割と厳しめの裁定をしていた。例えば「(テレビの)リモコンスイッチ」が正解の問題で「テレビチャンネル」と書いたはらに対して、巨泉は「それは『テレビのチャンネル』とは言いません。名前が違うのでダメです」と不正解にしている(ちなみに「テレビのチャンネル」とはテレビ放送の周波数の意味を表わしている)。ほかにも「マンホールの蓋」が正解の問題のときに「マンホール」と書いたはらに対して、巨泉は「『マンホールの蓋』と『マンホール』は全くの別物です!」と指摘して不正解としていた。

[編集] “やらせ”に関して

『クイズダービー』のモチーフとなったカナダの『セレブリティ・ステークス』では、解答者にあらかじめ答えを教える場合もあるやらせ行為があったのに対して、この『クイズダービー』はやらせなしの真剣勝負だったのが相違点である。

司会者席の前にはモニターが置かれ、解答者の解答を書く様子が見えるようになっている。視聴者用にも上3つ、下2つに置かれた黒バックのモニターがあり、右下に「ただいま解答中!」と書かれてあった。ときどきこのモニターを視聴者に見せる(テレビに映す)こともあり、決してズルのない真剣勝負であることを視聴者に示していた。

1986年将棋棋士の芹沢博文が著書(書名不詳、芸能界の暴露本)で「クイズダービーの解答がレギュラー解答者にこっそり教えてある」と書き、巨泉の怒りを買う。巨泉は名誉毀損で訴えることも考えていた。同書でははらたいらも名指しで侮辱された[3]

ほかでは、番組開始当初に放送作家として携わっていた景山民夫も、著書の中で解答をこっそり教えている旨を書いていた。なかでも短編小説『トラブル・バスター』の中で、クイズ番組の解答者が教わっているという下りがあり、その解答者はマンガ家の「土佐源平」となっていた。

都市伝説として、番組末期に、はらが偶然にも次の問題の答えを書き、加賀まりこ秋山豊寛に交代したという説、1回2本撮りではらが偶然にも次週の同じ問目の答えを書き、それに慌てたスタッフが協議の上、客を全て入れ替えて撮り直しさせた説など、複数の説が存在する。

[編集] その他のエピソード

  • 前番組の『お笑い頭の体操』に巨泉と共にレギュラー出演していた月の家円鏡(現・橘家円蔵)は、巨泉がこの番組を始めるときに「俺も出演させて」と頼んだというが、「放送禁止用語」を書いてスタッフからクレームを多くつけられたことから巨泉は断ったという。
  • 徳光和夫日本テレビアナウンサー時代、当番組の司会になる13年半前の1976年10月に、郷ひろみ(のちあべ静江)や野中小百合とともに、裏番組の『オールスター親子で勝負!』の司会(「郷・徳光・野中」時代は郷の補佐だったが、「徳光・あべ・野中」時代はメイン司会だった)を担当していた。この番組は、当初『クイズダービー』が苦戦中だったため視聴率的には善戦したが、まもなく『ダービー』が人気を出したため、1978年9月に終了した。
  • 1985年ごろ、河北新報の視聴率ランキングで「クイダービー」という誤植をされ、『VOW』に掲載された。当番組内で出題された「実際にあった誤植は?(答え:水戸黄門を「水戸黄」とした)」の補足としても紹介された。
  • ごくまれに、スタッフのセット操作ミスが発生した。例えば、不正解の解答者席に正解の演出をしてしまったり、10万点に達していないチームのくす玉が割られたりした。いずれも逆の事例もあった。またスタッフ、アシスタントのミスで男性の出場者に女性用の赤いダービーハットをかぶせてしまい、巨泉以下会場全体に失笑されたこともあった。

[編集] 節目の回の詳細

[編集] 大橋巨泉司会終了回

  • 1990年3月31日放送(第734回)
  • 司会:大橋巨泉 出題:小池達子
    • 解答者
      • 1枠:北野大(成績3勝5敗。倍率 5・6・66・7・8・6・18)
      • 2枠:井森美幸(成績3勝5敗。倍率 7・7・8・79・10・7・20)
      • 3枠:はらたいら(成績5勝3敗。倍率 1・3・2322・3・4)
      • 4枠:竹下景子(成績6勝2敗。倍率 223・2・3・3・28
      • 5枠:篠沢秀夫(成績2勝6敗。倍率 6・5・7・7・10・8・7・16
    • 出場者
      • 赤チーム:ガッツ石松、萩尾みどりチーム<賞金獲得額 0円>
      • 黄チーム:斉藤慶子、山崎浩子チーム<賞金獲得額144,000円>
      • 緑チーム:黒鉄ヒロシ、長山藍子チーム<賞金獲得額 90,900円>

この回、ラジオ番組の投書を基にしたクイズが出題された。内容は「この番組での解答者に対する倍率を表す時の決め台詞『倍率ドン!!』を中学校の理科の授業で使った先生がいて、学校の中で流行っています。さて、どのような時にこの台詞を言うのでしょうか」というものだった。答えは「顕微鏡を見るときの倍率設定」で、井森、竹下の女性2名とはらの3人が正解した。井森は平仮名で「けんびきょう」、はらと竹下は「顕微鏡を覗くとき」と書いており、これについて巨泉は「顕微鏡を見るというのが普通の人で、覗くと書くとスケベな人です」とコメントした。

ガッツと萩尾の赤チームは、7問目で10万点に達する可能性もあったが、賭けた解答者(はら)が不正解だったため、最終問題前の10万点達成には至らなかった。

エンディングでは次回から司会を務める徳光和夫が登場し、巨泉に花束を贈っていた。

[編集] 徳光和夫司会初回

  • 1990年4月14日放送(第735回)
  • 司会:徳光和夫 出題:小池達子
    • 解答者
      • 1枠:北野大(成績3勝5敗。倍率6・6・6・6・9・9・7・18)
      • 2枠:井森美幸(成績2勝6敗。倍率7・7・7・7・10・10・7・20)
      • 3枠:はらたいら(成績7勝1敗。倍率312222・3・4
      • 4枠:竹下景子(成績4勝4敗。倍率2・333・4・3・2・8
      • 5枠:草野仁(成績1勝7敗。倍率6・6・5・6・8・8・6・18)
    • 出場者

[編集] 最終回

  • 1992年12月19日放送(第862回)
  • 司会:大橋巨泉 出題:渡辺真理
    • 解答者
      • 1枠:北野大(成績3勝5敗。倍率8・7・7・7・8・9・6・20)
      • 2枠:井森美幸(成績8戦全敗。倍率7・7・9・6・10・8・7・20)
      • 3枠:はらたいら(成績6勝2敗。倍率2・3・2332・3・4
      • 4枠:竹下景子(成績4勝4敗。倍率3・2・4・2・5・3・26
      • 5枠:徳光和夫(成績8戦全敗。倍率7・6・8・7・6・7・5・20)
    • 出場者
      • 赤チーム:黒鉄ヒロシ、五月みどり、ガッツ石松チーム<賞金獲得額 0円>
      • 黄チーム:うつみ宮土理、小沢昭一、長山藍子チーム<賞金獲得額 50,000円>
      • 緑チーム:山崎浩子、松崎しげる、植草克秀チーム<賞金獲得額130,000円>

出場者は過去のレギュラーと出場回数の多かったゲスト解答者の連合チーム。始めの挨拶のみを徳光が行い、その後で巨泉につなぐという流れだった。徳光が「巨泉の、クイズダービー!!」と叫び、巨泉の顔に似せたメガネをかけるというお遊び的な演出があった。

最初の問題はフリップに書き込んでもらうもので「これは、当番組の始まった昭和51年に大ヒットした曲、『およげ!たいやきくん』のキャラクターです。ところがこの絵には、特徴的なあるものが一つ欠けています。それを書き込んでください。」という出題内容で、各解答者の書いた答えは以下の通りだった。

  • 北野「
  • 井森「(お腹の)アンコの影」
  • はら(正解)「(泳ぐための)
  • 竹下「胸びれ
  • 徳光「

最終問題は「先頃、サンフランシスコに住む大学生、ニールくんが、ユニークなプロポーズをしました。彼は“愛しのレスリー・結婚しておくれ!!”と、回りくどい方法で伝えました。さていったい、何のゲームでプロポーズしたのでしょう?」というもので、各解答者の書いた答えは以下の通り。

結局、最初で最後のクイズダービー解答者席に座った徳光は、残念ながら全敗という結果だった。巨泉は全問終了後、徳光に対して「僕が今幸せだと思ったのは一度もここ(解答者席)に座ったことがないことだ」と述べた。また、最後の最後まで珍解答を出していた井森に対しては、最終問題で「もし僕がこの番組もう一度やるならば、お前は絶対レギュラーだ!」と述べた。

[編集] 復活特番

[編集] 2000年12月30日放送

SAMBA・TV#20世紀の名番組丸ごと大集合」も参照

解答者は1枠篠沢・3枠はら・4枠竹下というかつてのレギュラーメンバーに、2枠には本放送を通して初出演となる久本雅美、5枠には本放送時や『クイズまるごと大集合』にもゲストとして出演していた石坂浩二を迎えた。出場者は、当時の『ブロードキャスター』から福留功男三雲孝江の赤チーム、『渡る世間は鬼ばかり』から長山藍子・えなりかずきの黄チーム、『さんまのSUPERからくりTV』から中村玉緒セイン・カミュの緑チームがそれぞれ特別出場した。また出題は小池達子が務めた。

なお、単独提供ではなかったものの、ロート製薬も(この放送枠での)筆頭スポンサーとして名を連ねた。スタジオセットは1980年代の放送(2代目)のものが再現されたが、放送はTBSホールではなく、TBS放送センターのスタジオから行われた。また、この復活版から、倍率や得点表示がデジタル式に変更され、答えを記入するための筆記具もマジックからライトペンに変わった。

[編集] 2004年5月14日放送

ロンロバ!#もう時効だヨ全員集合 史上最強!花の芸能界オフレコトークバトル」も参照

巨泉司会・小池出題者・篠沢・はら・竹下解答者の4年前と同じメンバーに、2枠には井森美幸が久々に出演し、5枠にはロンドンブーツ1号2号の田村淳を加えての構成となった。なお、従来の『クイズダービー』では全部で8出題だったが、このときは一般2問、三択2問、歌詞1問の合計5問のみの出題という短縮バージョンでの放映となっている。エンディングで巨泉が「私の喜寿記念にまたクイズダービーやりましょう!」とコメントした。

[編集] オープニングとエンディング、提供読みの変遷

[編集] オープニング

番組の開始前には、ロート製薬のオープニングキャッチが流された。詳しくはロート製薬#オープニングキャッチを参照。

1988年10月から1989年1月にかけては、昭和天皇の病状悪化に伴い、オープニングキャッチの放送を自粛した。代わりにブルーバック画面と番組のテーマ曲をバックに「この番組はロート製薬の提供でお送りします」と提供読みが行われていた。放送素材でも該当する回にはオープニングキャッチは収録されていないため、TBSチャンネルの再放送でも同様に放送されない。

[編集] エンディング

エンディングでは番組テーマ曲をバックに、次回の予告が流された。1990年3月31日まではブルーバック静止画だった。ナレーションは当初藤田恒美が担当し、1986年4月5日からは宇野淑子が担当したが1990年3月24日放送の第733回をもってナレーションは一旦廃止された。同年4月以降は、5枠のゲスト解答者がVTRで出演し、出場チームは字幕スーパーで紹介された。また、番組末期(1991年秋ごろから)には、視聴者プレゼントのお知らせと前週のプレゼント当選者発表が追加された。この頃から再びナレーションが復活。当時出題者の渡辺真理がナレーションを務めていた。

提供読みのナレーションは当初「提供はロート製薬でございました」で藤田恒美が担当していたが、ロート製薬のコーポレートスローガンの制定に伴い、1989年6月以降は「健やかな明日のために、ロート製薬の提供でした」という固定の女性によるアナウンスとなった。

エンドカードは当初は赤地に白抜きで「クイズダービー おわり」と出ていた。1986年4月の改編以降、TBS・MBS系ゴールデンプライムタイムの全国ネット番組のエンディングにジャンクションが設けられた。エンドカードの表示とともにチャイムが鳴り、ワイプにより『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』の画面が現れ、加藤茶志村けんが掛け合いを展開した。

番組終了後には毛染めパオン(山発産業、現・シュワルツコフヘンケル)、後に森永製菓の30秒のヒッチハイクが流れていた(グリコ・森永事件で店頭から森永製菓製品が撤去されていた時期は森永乳業に差し替えられていた)。

[編集] 『クイズダービー』のクイズ形式を行っていた番組

基本的なルールは本家の『クイズダービー』と同じ。

夏休み親のための宿題ダービー
フジテレビオレたちひょうきん族』内の1コーナー。コーナー司会はラサール石井。3人の小学生が1万点を目指す。解答者は同番組の出演者3名とスタッフ1名。後に解答者の「サバイバル戦」(不正解者は退場させられる)も行われた。
クイズケーバー
テレビ朝日鶴太郎の大人によくないテレビ』内の1コーナー。同番組の司会である片岡鶴太郎が進行し、賭ける側は大人で、解答者は小学生であった。
ダービークイズ
日本テレビビートたけしの全日本お笑い研究所・北野家の出たがり日記』内の1コーナー。妻(もたいまさこ)と同番組に出場し、第1問からの持ち点の全賭けや2点賭けなどを駆使して、10万点オーバーした(相手チームの席を陣取る)ものの、結果的に出演者、スタッフとイザコザを起こしてしまう。
ほがらかファミリークイズ
テレビ朝日クイズ特番『こんなクイズがあってもいいじゃないか大賞』内の1コーナー。司会は小倉智昭西村知江子。4組のゲスト家族が10万点を目指す。解答者席には家族の1名が座るが、他の家族に賭けても構わない。小倉はルール説明のあと「『ほとんど、どっかの番組に似てるなぁ』という、感じが致しますけれども、そんなことはございません」と、カメラ目線で述べていた(オーケープロダクションだから実現したという見方もある)。
クイズ競艇ダービー
競艇の専門チャンネルであるCS放送日本レジャーチャンネル2005年度から毎月1回ペースで放送。トップ賞を獲得したチームには番組のセットをモデルにしたミニチュア模型のフルセット(参加者全員にももれなくレギュラーセット)がプレゼントされる。また10万点以上獲得しての優勝の場合には賞金10万円が贈られる。

[編集] 関連書籍

[編集] ボードゲーム

タカラ(現・タカラトミー)により当番組のボードゲーム化が行われている。

クイズダービーゲーム
ゲームの形式は実際の番組と同じく、正解者を当てて賞金を増やしていくものであり、四択(A-D)の記入された回転ドラムのついた筐体と問題カードを使用する。筐体に問題カードを差し込むと正解の際の倍率が表示され、その倍率を元に払い戻しを行うが、ドラムに記入されたマークには偏りがあり、高い倍率のマークが出る可能性は低い。
スクールパンチ『クイズダービーゲーム』
前述のポケットサイズ版。イラストで描かれた解答者の名前は伏せられ「大学教授」「女優」「漫画家」「TV女優」「ゲスト」とされているが、4枠までは当時の出演者(篠沢秀夫、南田洋子、はらたいら、竹下景子)に、「ゲスト」はさだまさしにそれぞれ顔が似ている。

[編集] スタッフ

[編集] ネット局と放送時間

この番組は、TBS以外の系列では放送されなかった。また、同じTBS系列でも山口県テレビ山口は、1987年9月までFNSに加盟しており、JNN系列マストバイ化後もJNNとFNSのクロスネット時代(FNSにも加盟していた時代)の名残りで他キー局(フジテレビ系)の番組編成の都合で放送されなかった(ただし、1時間のスペシャル版、2000年末と2004年の復活特番は放送された)。


[編集] 脚注・出典

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  1. ^ http://www.videor.co.jp/data/ratedata/junre/06quiz.htm
  2. ^ 『クイズまるごと大集合』では、それまでのクイズで獲得した点数に3000点をプラスした持ち点からのスタートだった。
  3. ^ a b 『クイズダービーベスト500』の大橋巨泉のはしがきに記載あり。
  4. ^産經新聞2006年11月21日号「キョージュの上品な人生 1」
  5. ^ 「放送批評」1984年2月号、p15。
  6. ^ なお、賭けの結果にかかわらず、収録が終わるまでは、原則としてスタジオから出ることはできない。
  7. ^ 『クイズダービーベスト500』のあとがきに記載あり。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク


TBS 土曜19時台後半
前番組 番組名 次番組
お笑い頭の体操
(1968.2.3-1975.12.27)
クイズダービー
(1976.1.3-1992.12.19)
クイズテレビずき
(1993.1.9-9.25)
他の言語